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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

追分のタイサンボク

2025年05月30日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市追分
無くなった日・2025年5月20日頃
撮影日・2020年7月2日


(笠岡の)追分は、笠岡から井原、矢掛・高山市へと井戸時代以前から人と物がこの峠を越えていた。
井笠鉄道が敷設後も交通要所として繁栄していた。

その追分に、お庭にたいそう立派なタイサンボクのあるお宅がある。
見あげるような大きな木で、白い花が咲く頃は特に美しく優雅に咲いていた。

 

1年ほど前から広い敷地内を造作してたが、
タイサンボクが咲き始めるころ、木は伐採され、
他の木もなくなり、樹々があった部分は更地となった。(現在工事中)

 


尚、
このお宅の娘さんは高校時代の友人と結婚されたが
その結婚相手の方は大変な有名人となり、今や日本中で知らない人はいない。

 

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ホテルパシフィック東京

2025年05月30日 | 無くなったもの

場所・東京都品川区  
無くなった日・2021年10月より解体
撮影日・2018.3.10

 

高校の時の修学旅行は東京に行った。

一番強い思い出は、浅草の国際劇場でのこと。
ステージでラインダンスのような踊りのすぐ後ろから滝が流れ落ちてきた。
「あれはホントの水だ」「いや水のように見せる錯覚の仕掛けだ」とそっちで盛りあがった。


二番目はバスから見る、丘のうえに建つ「ホテルニューオータニ」。
その高さと、でかさに、さすがに東京は違うと度肝を抜かれた。

 

 

それから10年ほどして新宿に京王プラザホテル、品川にパシフィック東京が出来た。
社会人になって東京に行く時は、東京駅に着く前、必ずパシフィック東京は目に飛び込んできていた。

昨日の新聞にパシフィック東京の再開発工事の記事が載っていた。
それによると、
京浜急行とトヨタが共同で超高層ビルを建て、トヨタの本社が入居するそうだ。
リニアが出来ると品川本社と愛知県の本社が40分の距離になるそうだ。
(トヨタは飯田橋近くにも本社があるし、愛知県の本社は名古屋?豊田市?)


そういう訳で、
管理人が見てきたパシフィック東京は既に解体して、更地になっているみたいだ。

 

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~全英への道~ミズノオープン  (岡山県笠岡市鋼管町・JFE瀬戸内ゴルフ倶楽部)

2025年05月30日 | 祭を見る

日時・2025年5月29日

 


今年もミズノオープンが開幕した。(2025.5.29~6.1)
初日の試合を見に行った。

 

 

 

人気の石川遼選手。

 

 

今年一番の賞金王であり、岡山県作陽高校出身の生源寺龍憲選手。渋野日向子選手は高校の同級生。

 

 

 

コースはスコットランドのゴルフ場に似せて作られている。

現在、中四国で唯一の男子プロ開催のゴルフ場。

 

 

 

出場選手132人で、上位3人に”全英”の出場権が与えられる。

 

駐車場は笠岡ふれあい空港だが、ほぼ満車だった。

地元「倉敷」ナンバーの車は少数派で、全国からゴルフファンが集まっていた。

 

日本のゴルフは、男子は女子に比べ、近年注目度が低いと言われるが、今日は大勢のファンが笠岡に集まっていた。

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金浦祭り「おしぐらんご」  (岡山県笠岡市金浦)

2025年05月26日 | 祭を見る

日時・2025年5月25日 8:30~11:10

 

「おしぐらんご」は笠岡市指定重要民俗無形文化財。
漁師町金浦を東西に分け、その年の新造船を使って源平の白と赤の旗で、海上を500mの漕ぎ比べ。

 

 

新造船が無かった年に「おしぐらんご」は一度休止された。
その後、漁師は減る、漁場は無くなるで、そのまま途絶えてしまった。


20年ほど経て、地元の有志の皆さんにより「おしぐらんご」は復活した。
保存会の熱心な活動で伝統行事として初夏の風物詩が保たれている。

 

 

今年の「おしぐらんご」は、今まで以上に活気を感じた。
小中学生は
たぶん学校教育で、地域のたいせつなものを勉強しているからだろう。
大人も
人口減の中、地域の伝統を絶やさない、知ってもらう、という意気が強まっている。

 

 

 


ほぼ毎年訪れているが、今年の「おしぐらんご」は特に元気や活気があった。

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福山ばら祭2025「ふくやま大道芸」 (広島県福山市中心部)

2025年05月23日 | 祭を見る

日時・2025年5月18日

 

福山ばら祭に併せて「ふくやま大道芸」が開催される。
この大道芸が面白い。

「ふくやま大道芸」も、福山市中心部の街角あちこちで13ヶ所で実演される。
今年は中央公園で大道芸を楽しもうと思っていた。

 

 

【中央公園南】

 

 

 

【図書館前】

 

 

 

【中央公園北】

 

【久松通南】

 

家を出る前に、財布にコインを詰めるほど準備した。
しかし・・・パフォーマーはどうも「お札を下さい」が多く、
遠慮気味な”投げ銭”となった。

 

 

コメント (3)
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福山ばら祭2025「ローズパレード」 (広島県福山市中心部)

2025年05月22日 | 祭を見る

日時・2025年5月18日


今年の福山のバラはきれいだった。
街中のすべてのバラが、福山市はじまって以来というほど奇麗に咲いた。

今年(2025年)は福山で「世界バラ会議」が開催されるので、
市は予算を、市民は協力を、もありしっかりと手入れさているのが伺われた。

 


これは「福山ばら公園」、
こんなきれいなばら公園は初めて見た。

(ばら公園)

 

・・・

「福山ばら祭」は福山の中心部で行われる。
福山駅前・駅裏、商店街、中央公園、ばら公園、緑町公園、等々。

・・・


これは中央公園のステージ。

 

・・・


主会場は緑町公園で、
午後1時ごろから「ローズパレード」が行われる。

 

 

 

やはり「YOSAKOI」が見て楽しい。

 

「備後新選組」

 

 

「備後ばらバラよさこい踊り隊」

 

「備後男組」

 

 

「支志団」

 

 

「神石踊娘隊きらきら星」

 

このあと、

「かえで」「ふくびじん」とパレードはつづいた。2025年も盛況な「ばら祭」だった。

 

 

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志々島の埋め墓

2025年05月18日 | 暮らし

両墓制

岡山県や広島県では、(おそらく他県も)
墓地の墓石は、よくみると江戸時代の享保以前のものはほとんどない。
庶民の墓は江戸後期から建てるようになったのだろう。
それ以前は風葬・鳥葬のように、奥山に棄てられたのだと思える。

棄てるから埋めるに変ったのがお墓で、人は土葬された。
笠岡市近辺では昭和60年頃まで土葬がつづいた。(伝染病以外)
火葬が普及しなかった最大の理由は多大な労力が必要だったから。
火葬場の登場と共に火葬になった。
笠岡市から土葬が無くなったのは昭和62年に「井笠広域斎場」が完成してから。
土葬が無くなってから家族(一族)墓に変っていった。

今は墓石を建てない人もいたり、犬猫に墓石を建てたり、人さまざま。

 

 



(香川県志々島)

 

日本のところどころに「両墓制」というのが残っている。
近くでは塩飽諸島の佐柳島や高見島や志々島がよく知られる。


2025年5月13日志々島を訪れた。
志々島は香川県三豊市詫間町志々島で、人口は約20人。
明治・大正時代は1.000人前後いて農漁業で栄えた島。

その当時に亡くなられた人は土葬された「埋め墓」と、
お詣りするための「詣り墓」
と二つの墓を設けていた。


これが志々島の「埋め墓」。海岸沿いにある。

 

 

 

 

詣り墓はお寺にある。
お寺は無住職の寺院でなく、今は廃寺になっている。

 

 

 

志々島は瀬戸内海にある美しい小島だが、
空家も廃家になり日本の近未来を想像させる現実があった。

 

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白虎隊(自刃地)

2025年05月17日 | 銅像の人

場所・福島県会津若松市一箕町(飯盛山)

 

「白虎隊」

南鶴ヶ城を望めば砲煙颶る
痛哭涙を飲んで且彷徨す
社稷 滅びぬ我事終る
十有九士屠腹して倒る
俯仰ここに十有七年
之を画にし之を文にし世間に伝う

(佐原盛純作)

 

会津白虎隊の少年たちが、みずから命を絶ったのは、慶応4年(1868) 8月23日、
年号が「明治」と改まる十数日前のことであった。
彼らは「明治」をかたくなに拒んで死んだ。 
彼らの悲劇は、絵となり文となって、今の世に語り継がれた。


「日本史探訪21」  昭和60年  角川書店発行

・・

 

 

 

・・・

 

新政府軍の進撃は、会津側の予想をはるかに上回っていた。
石で造られた堅固な十六橋の破壊はなかなかはかどらない。
会津軍は、ついに降りしきる雨の中を、戸ノ口原まで退却しなければならなかった。

戸ノ口原で敵を迎えた会津藩も、急編成の未熟な軍勢であった。
義勇兵制度によって集められた農民・町人の応募兵、また若松市内107寺から募集された僧侶の部隊もあった。
彼らには武器も乏しく、軍事訓練の経験もなかった。

藩主容保公の護衛にあたっていた少年兵白虎隊が、急遽戸ノ口原に増援隊として派遣されたのは、22日の夕刻であった。
雨の中で一夜を明かした白虎隊は、
翌23日早朝、戦いに敗れて退却、飯盛山までたどりつき自刃した。
8月23日、夜明けとともに、新政府軍は滝沢峠を越えて、会津の城下に侵入した。

 

「日本史探訪21」  昭和60年  角川書店発行

 

・・・

 

 


訪問日・2025年4月10日

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白虎隊士・酒井峰冶

2025年05月17日 | 銅像の人

場所・福島県会津若松市一箕町「白虎隊記念館」前

 

白虎隊士中二番隊に酒井峰治という隊員がいた。
はぐれて飯盛山で自刃せず、名を隠し北海道で昭和7年まで生き抜いた。

”酒井峰治”は平成5年になって世に出た。
酒井家から書き残しが発見された。
ペットブームにも乗って愛犬との像も造られた。

白虎隊、約600人、戊辰戦争で戦死者、生存者、約半々。
生き残った”士中白虎隊員”は、居場所を亡くした。
死ぬまで居場所を否定されつづけた。薩長からも、会津からも。

 

戊辰戦争当時の”犬”は、どういう存在であったか?


犬の死体を食べ続けた柴五郎少年は父からの叱責を書き残している。

・・・

「日本史探訪21」 角川書店 昭和60年発行

武士の子たることを忘れしか。
戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。
会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。
ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ。

・・・


柴五郎は後に陸軍大将になった。
映画「北京の55日」では伊丹十三が演じた軍人。

 

 

・・・


「福島県の歴史」 小林・山田共著  山川出版社  昭和45年発行

 

若松城に危機がせまるなかで、会津藩の仙台・米沢藩にたいする工作がしんけんにおこなわれていた。
しかし、 米沢藩は9月4日官軍に降伏し、ついで14日、仙台藩がこれにつづいた。
米沢藩はひそかに若松城に使をおくり、降伏をすすめた。
松平容保は四面楚歌、孤立無援のなかで降伏を決意し、9月15日、若松の官軍本営に使をつかわし、参謀板垣に降を乞うた。
官軍がこの乞いをいれたので、9月21日、容保は開城の令を発し、9月22日の 若松開城となったのである。

 

・・・

訪問日・2025年4月10日

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白虎隊

2025年05月16日 | 銅像の人

場所・福島県会津若松市一箕町「白虎隊記念館」

 

4月、観光ツアーで南東北に行った。
会津若松市ではツアー行程にないが、ぜひとも白虎隊自刃地まで行きたかった。
早朝にタクシーで飯盛山に行った。

 

 

飯盛山の登り口に「白虎隊記念館」があり、館の前に隊員二人の像があった。

 

 

・・・

「福島県の歴史」 小林・山田共著  山川出版社  昭和45年発行

白虎隊

慶応4年2月22日、会津にかえった容保はただちに政務を掌握し、天明以来の長沼流の軍制をあらため、
鳥羽伏見の敗戦の経験にもとづき、軍制の洋式化を断行した。

その要点の第一は、
部隊の機動力を確保するために、部隊を年齢別に編成した点である。
すなわち、 
18歳から35歳までを朱雀隊として実戦にあたらせ、 
36歳から49歳までを青龍隊として境をまもらせ、 
50歳以上を玄武隊、
16.17歳を白虎隊として予備隊にあてた。
ちなみに、青龍・白虎・朱雀・玄武は、それ 東西南北の神を意味している。
しかし、朱雀士中隊・朱雀寄合組隊・朱雀足軽隊というように、身分・家格の階層性はきびしく維持されている。

第二は、鉄砲装備のフランス式調練である。
すでに2月ころから会津兵のフランス式調練が江戸においてはじめられ、ブロシャ人からの小銃の購入、旧幕府からの小大砲・その付 属品の借入れがおこなわれ、 
また、旧幕府の教官による フランス式調練が若松城内で日夜実施された。

第三は、 20歳から40歳までの農民志願者からなる農兵隊・猟師隊・
相撲取からなる力士隊・修験者や山代からなる修験隊・僧侶からなる奇勝隊・地方家人からなる正奇隊などが編成されたことである。
しかしながら、洋式調練は短時日には身につけることはできず、七年にわたる京都守護によって財政疲弊し、
ために洋式兵器をじゅうぶんに装備することができず、新軍制は、多年にわたる長沼流による精練に遠くおよばなかった。

このような新軍制のもとに、3月15日には、一部の部隊が若松を出発し、田島町をへて、栃木県今市方面に出動した。
この部隊は、藩境五十里、および今市周辺に駐屯した。
また、奥羽鎮撫使の到着、仙台藩の動向に応じて、三月下旬には藩境に部署をさだめて兵を配し、いよいよ守りをかためていた。


・・・

 

「歴史と人物」 昭和56年9月号  中央公論社 

日本を知った日本人 毛利敏彦

薩摩藩は戊辰戦争に6000人の大兵力を動員した。
もちろん政府軍の主力であり、鳥羽・伏見から箱館五稜郭にいたるまで、各地で戦功をたてた。
かれら兵士は、転戦を重ねるなかで旧体制の崩壊を身をもって実感した。
生死を賭した実戦の場では、諸侯はさっぱりものの役に立たなかった。
門閥重臣も頼りなかった。 
強固な身分秩序に支えられた永年の安逸な生活は、上級武士をすっかり骨抜きにし、かれらから戦闘力を失わせていた。 
天下の直参を誇った江戸のお旗本も、田舎武士のまえに弱体をさらけだした。


会津藩は武士の紀律が各段に整い民政も行き届いた天下の名藩として知られていた。
その会津藩でさえ、亡びるときには領民からそっぽをむかれてしまった。
それどころか、百姓一揆までおこされたのである。

・・・

 


じつは白虎隊は全国的な人気とはうらはらに、
福島県ではイマイチ人気度がない。

「奥羽越列藩同盟」の際は、会津藩のために福島県内の大小の藩が官軍と戦った。
そして敗北し、「白河以北一山百文」という状態になった。

もとはと言えば会津藩が原因だったにもかかわらず、
全国からは若松の白虎隊の悲劇だけが謳われた。

 

 

 

 

訪問日・2025年4月10日

 

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