場所・福島県会津若松市一箕町「白虎隊記念館」
4月、観光ツアーで南東北に行った。
会津若松市ではツアー行程にないが、ぜひとも白虎隊自刃地まで行きたかった。
早朝にタクシーで飯盛山に行った。
飯盛山の登り口に「白虎隊記念館」があり、館の前に隊員二人の像があった。

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「福島県の歴史」 小林・山田共著 山川出版社 昭和45年発行
白虎隊
慶応4年2月22日、会津にかえった容保はただちに政務を掌握し、天明以来の長沼流の軍制をあらため、
鳥羽伏見の敗戦の経験にもとづき、軍制の洋式化を断行した。
その要点の第一は、
部隊の機動力を確保するために、部隊を年齢別に編成した点である。
すなわち、
18歳から35歳までを朱雀隊として実戦にあたらせ、
36歳から49歳までを青龍隊として境をまもらせ、
50歳以上を玄武隊、
16.17歳を白虎隊として予備隊にあてた。
ちなみに、青龍・白虎・朱雀・玄武は、それ 東西南北の神を意味している。
しかし、朱雀士中隊・朱雀寄合組隊・朱雀足軽隊というように、身分・家格の階層性はきびしく維持されている。
第二は、鉄砲装備のフランス式調練である。
すでに2月ころから会津兵のフランス式調練が江戸においてはじめられ、ブロシャ人からの小銃の購入、旧幕府からの小大砲・その付 属品の借入れがおこなわれ、
また、旧幕府の教官による フランス式調練が若松城内で日夜実施された。
第三は、 20歳から40歳までの農民志願者からなる農兵隊・猟師隊・
相撲取からなる力士隊・修験者や山代からなる修験隊・僧侶からなる奇勝隊・地方家人からなる正奇隊などが編成されたことである。
しかしながら、洋式調練は短時日には身につけることはできず、七年にわたる京都守護によって財政疲弊し、
ために洋式兵器をじゅうぶんに装備することができず、新軍制は、多年にわたる長沼流による精練に遠くおよばなかった。
このような新軍制のもとに、3月15日には、一部の部隊が若松を出発し、田島町をへて、栃木県今市方面に出動した。
この部隊は、藩境五十里、および今市周辺に駐屯した。
また、奥羽鎮撫使の到着、仙台藩の動向に応じて、三月下旬には藩境に部署をさだめて兵を配し、いよいよ守りをかためていた。
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「歴史と人物」 昭和56年9月号 中央公論社
日本を知った日本人 毛利敏彦
薩摩藩は戊辰戦争に6000人の大兵力を動員した。
もちろん政府軍の主力であり、鳥羽・伏見から箱館五稜郭にいたるまで、各地で戦功をたてた。
かれら兵士は、転戦を重ねるなかで旧体制の崩壊を身をもって実感した。
生死を賭した実戦の場では、諸侯はさっぱりものの役に立たなかった。
門閥重臣も頼りなかった。
強固な身分秩序に支えられた永年の安逸な生活は、上級武士をすっかり骨抜きにし、かれらから戦闘力を失わせていた。
天下の直参を誇った江戸のお旗本も、田舎武士のまえに弱体をさらけだした。
会津藩は武士の紀律が各段に整い民政も行き届いた天下の名藩として知られていた。
その会津藩でさえ、亡びるときには領民からそっぽをむかれてしまった。
それどころか、百姓一揆までおこされたのである。
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じつは白虎隊は全国的な人気とはうらはらに、
福島県ではイマイチ人気度がない。
「奥羽越列藩同盟」の際は、会津藩のために福島県内の大小の藩が官軍と戦った。
そして敗北し、「白河以北一山百文」という状態になった。
もとはと言えば会津藩が原因だったにもかかわらず、
全国からは若松の白虎隊の悲劇だけが謳われた。

訪問日・2025年4月10日