しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年6月23日沖縄戦争が終結

2024年06月23日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年6月23日、牛島司令官は、「最後まで戦え」という最後の命令を出し自決した。
軍は壊滅状態で命令は届かず、守られず、無力でほぼ終結した。

牛島司令官より10日程前に戦死した、
海軍側の司令官太田中将のよく知られた電文、
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

同じ軍人であり、将官であり、ともに沖縄で戦いながら
最期の言葉は、人間として、あまりに差がある。

 

・・・

 

「ライシャワーの日本史」  文芸春秋社 1986年発行


1945年の2月から3月にかけて、アメリカ軍は多大の犠牲を払ってサイパンの北にある硫黄島を占領した。
この小島は本土空襲で被弾した米軍爆撃機搭乗員の収容場所となった。

1944年10月フィリピンのレイテ島沖に達したアメリカ軍は、1945年2月マニラを陥落した。


二手に分かれていた米軍の攻勢が4月には沖縄に集中した。
日本軍は必死に抵抗、
わずかに残った軍用機が投入され特攻作戦が展開された。
しかし物量においてははるかにまさるアメリカ軍にかなうはずはなかった。
沖縄は6月までに完全に米上陸軍の制圧するところとなった。

多くの人命が失われた。
戦死した兵士11万人のほか、
犠牲になった沖縄県民が7万5千にのぼった。
これは沖縄県民の約1/8にあたる。

・・・

 

防衛召集と第二国民兵

1942年(昭和17)年9月26日、陸軍省は陸軍防衛召集規則を発表した。
総力戦に即応して国土防衛にあたる召集をきめたものである。
内容は防空召集と警備召集の二種に分け、郷土防衛に緊急に対応するもの。
だが緊急の場合は口頭か電話でも召集出来るという規定があった。
そのため、現住地や勤務場所で応召するというシステムである。

防衛召集が唯一実戦につながったのが沖縄戦である。
その悲しい実験ともいえる沖縄戦は四段階にわたって防衛招集が発令され、
1945年には15歳以上の中学生にも適用されて過酷な戦場に投入されたのだった。
その事実は、日本の降伏がもう少し遅かったとすれば、
日本陸軍が目論んだ本土決戦の姿そのままになるはずだった。

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 

・・・

 

・・・・

 

「昭和時代」  読売新聞社 中央公論 2015年発行

 

●本土決戦前の「捨て石」

県民四人に一人が犠牲
時間稼ぎの戦場


大本営は、米軍侵攻を想定して1945 (昭和20年1月、本土決戦に備えた「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定した。
作戦 目的は、「皇土特に帝国本土」の確保だった。
小笠原諸島や沖縄本島以南の南西諸島を、作戦を遂行するための「前縁」と位置づけ、
やむを得ず米軍の上陸を許した場合は、米軍に「出血」を強要し、戦争継続の意思をくじく狙いがあった。

戦後に作られた連合国軍総司令部(GHQ)の陳述録によると、沖縄は、
「米軍に出血を強要する一持久作戦で国軍総力の大決戦は本土で遂行するのが本旨か」
と問われた元大本営陸軍部作戦課長・服部卓四郎は、
「然り」と答え、「沖縄も局部出血を強要する一要域」と語った。
つまり、軍部にとって沖縄は、「本土」ではなく、本土防衛を図るために必要な時間を作り出す戦場と扱われていた。

 

米軍は無血上陸

1945(昭和20)年3月26日、米軍は沖縄本島上陸作戦に先立って、弾薬や食糧などの物資を備蓄するため、本島西方の慶良間諸島に侵攻した。
日米両軍による沖縄戦の事実上の始まりだった。
同諸島を占領した米軍は、4月1日早朝、 沖縄本島中部の上陸予定地点をめがけ、英軍を含めて219隻の戦艦と巡洋艦から艦砲射撃を開始。
太平洋戦線では最多となる18万人を超す部隊が一斉に上陸を始めた。 
米軍の圧倒的な火力攻撃は、「鉄の暴風」と表現された。


南部撤退、惨劇招く

1945(昭和20)年5月16日、三二軍司令官の牛島満は、「まさに戦力持久は終隠せんとす」との電報を大本営に発した。
だが、持久作戦を主導してきた八原は、 
「沖縄戦の目的は本土決戦を準備するための時間稼ぎ持久することが最優先」と主張した。
結局、この意見が通り、牛島は22日、首里戦線を放棄して、南部の喜屋武半島への撤退を決定した。
撤退作戦は悲惨を極めた。
大本営は、将兵、県民を問わず、重傷者には自決用の手榴弾を配ることなどを指示した。
南部に退いた軍は約3万人で、10万を超す住民が軍と行動をともにする。
しかし一部の日本兵は、避難住民からガマと呼ばれる洞穴(壕)を取り上げた。

 


米軍はガマの頂上部に穴をあけ、石油を流し込んで残存兵を焼き殺した。
沖縄戦は6月23日、司令官の牛島ら自決し、日本軍の組織的な戦闘は終わった。
沖縄県によると、日本兵の戦死者は約94.000人に上った。
また、島内に残った約40万の県民の4人に1人が死亡した。
県民の死者のうち約6万人は南部撤退後の犠牲だった。


ただ、硫黄島に次ぐ沖縄での日本兵士たちの奮戦が、米軍の日本本土への侵攻をためらわせることになる。

大和の「一億総特攻」

沖縄戦は、空と海でも凄惨な戦いを強いられた。
米軍の沖縄侵攻に合わせ、大本営は、特攻攻撃を主体とする「天一号」作戦を発令した。 
鹿屋、知覧など九州各地の基地からは、陸海軍機が、沖縄周辺に群がる米英軍の艦船を目指して出撃した。
『特別攻撃隊』(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会編)によると、終戦までに、沖縄方面の航空特攻による戦死者は3.002人 に達した。 
学徒動員された大学生も多かった。
航空特攻に合わせ、連合艦隊は4月5日、戦艦大和と軽巡洋艦矢矧など、海軍で残存する10隻の第二艦隊に対し、
海上特攻として沖縄に突入することを命じた。
当初、勝算のない無謀な作戦に、第二艦隊司令長官の伊藤整一は首を縦に振らなかった。
だが、「一億総特攻のさきがけになっていただきたい」という、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介の説得を受け入れた。
翌6日午後、瀬戸内海を出撃した第二艦隊は、7日午前、東シナ海に進出した途端、米軍機386機による魚雷攻撃にさらされ、
大和以下の6隻は、沖縄のはるか北方で海の藻くずとなった。
「大和が残れば、無用の長物だったと言われる」という海軍幹部の情緒的な判断が、3.700人を超す将兵の命を奪った。

 


●住民保護に手抜かり
集団自決の悲劇

ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んだ住民たちが、もはや助かるすべはない、と絶望し自決する。
それも肉親同士が互いを手にかけて――そんな悲劇が沖縄戦下で相次いだ。
1945(昭和20)年4月2日、米軍の上陸地点にほど近い読谷村のチビチリガマでは83人が死亡した。
うち51人までが20歳以下の子供たち。
『読谷村史』はこう記す。
<奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。
煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。
そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった〉
具志川市の具志川城跡壕、慶良間諸島、伊江島——地上戦闘下、同様な集団自決は、 決して例外的な出来事ではなかった。
むろん、米軍の火力による猛攻の中で死んだ人々もいる。
しかし、なぜ、多くの住民たちが戦場の中に取り残されてしまったのか。


●「防衛召集」で総動員
この間、沖縄県民は軍への直接的な奉仕を求められてもいた。
沖縄では再三の「防衛召集」で計2万数千人が召集され、最終的には召集対象になっていなかった16歳や、45歳以上の者までかき集められた。
1945 (昭和20年3月には、師範学校や中等学校の男子生徒たちを「志願」というかたちで集めて「鉄血勤皇隊」を組織した。
師範学校と高等女学校の女生徒たちも、女子学徒隊として「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などに編成されて看護などにあたった。
鉄血勤皇隊は約1800人のほぼ半数が亡くなったとされる。根こそぎ動員は十代の若者にさえ犠牲を強いるものだった。

・・

そんな中、住民に報いることのできなかった悔恨を胸に逝った軍人もいた。
海軍の沖縄方面根拠地隊司令官として1945年6月に戦死した大田實中将は、
最期の時を前に、悲痛な思いを込めた一通の電報を軍中央に送った。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
その言葉は、「なぜ日本人は沖縄を見捨ててしまったのか」という重い問いを今もなお突きつけている。

 

 

画像・2012.12.18

 

 

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「きけわだつみのこえ」

2023年12月09日 | 昭和20年(終戦まで)

「菊と刀」  ルース・ベネディクト  現代教養文庫  昭和42年発行

あのちっぼけな飛行機を駆りわれわれの軍艦目がけて体当り自爆をする操縦士たちは、精神の物質に対する優越をものがたる無尽蔵の教訓とされた。
これらの操縦士たちは「カミカゼ特攻隊」と名づけられた。 
「カミカゼ」というのはあの、十三世紀のジンギスカンの来寇の時に 、その輸送船を蹴散らし転覆させて日本を救った神風の意味である。

・・・

・・・

「きけわだつみのこえ」  日本戦没学生の手記  東京大学出版会 1952年発行

上原良司

慶應大學學生。昭和二十年五月十一日陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納の米國機動部隊に突入戦死。二十二歳。

遺書

生を享けてより二十數年何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。
溫き御両親の愛の下、良き兄妹の勉勵に依り、私は楽しい日を送る事ができました。
そして稍もすれば我儘になりつつあつた事もありました。 
この間御兩親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。
それが何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりません。
 空中勤務者としての私は毎日々々が死を前提としての生活を送りました。
一字一言が毎日の遺書であり遺言であつたのです。
高空に於ては、死は決して恐怖の的ではないのです。
この儘突込むで果して死ぬだらうか、否、どうしても死ぬとは思へませんでした。
そして、何か斯う突込むで見たい衝動に駆られた事もあり ました。
私は決して死を恐れては居ません。
寧ろ嬉しく感じます。
何故なれば、懐しい龍兄さんに會へると信ずるからです。
 天國に於ける再會こそ私の最も希ましき事です。
 私は明確にいへば自由主義に憧れてゐました。
日本が真に永久に続く爲には自由主義が必要であると思つたからです。
之は馬鹿な事に見えるかも知れません。
それは現在日本が全主義的な気分に包まれてゐるか らです。
併し、眞に大きな眼を開き、人間の本性を考へた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思ひます。
 戦争に於て勝敗をえんとすればその國の主義を見れば事前に於て判明すると思ひます。
 人間の本性に合つ た自然な主義を持つた國の勝戦は火を見るより明かであると思ひます。
 私の理想は空しく敗れました。
人間にとつて一国の興亡は実に重大な事でありますが、宇宙全体から考へた時は實に些細な事です。
 離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。
開かなかつたら左の引出しを開けて釘を抜いて出し下さい。
 ではくれぐれも御自愛の程を祈ります。
 大きい兄さん清子始め皆さんに宜しく、
 ではさやうなら、御機嫌良く、さらば永遠に。

                 良司
御兩親樣              

・・・

 

 

 

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終戦④”玉音放送”を聴く

2023年08月15日 | 昭和20年(終戦まで)

以前からも神国・日本ではあったが、
それがにわかに強調され、宣伝されだしたのは昭和12.13年頃から。
その当時、小学生や上級学校にいっていた少年少女が、
軍国・愛国民の中核となり、
その数年後
新聞テレビでみるように敗戦を聴いて嗚咽した。

その上の世代は敗戦で安堵したり、(不幸にも)戦線で死んでいった。

 

・・・

太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行

8月14日の夕刻から、東京中央放送局は
「明15日正午に重大な放送があるので、国民はもれなく聞くよう」
くり返した。
8月15日正午、
終戦の詔書を朗読する天皇の声は予定どおり電波にのって、全国に流れた。
この日、日本列島はおおむね快晴、暑い日であった。

 

・・・

父の話(岡山市・陸軍下士官)

ワンワンようたが、
聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。
「日本は負けん、これからじゃ!」と勇ましいのを言うのもいたがすぐ収まった。

(勇ましい事を言う人は、それが一週間つづいたのだろうか?2~3日だったのだろうか?それとも一晩寝ると収まったのだろうか?)


『決起する』といっていたのは・・若い・・兵である。(将校でも下士官でもない)
終戦で「ほっと・・した」のが・・ホンネ・・大部分なので、勇ましいことをいうのは不思議でもないがその時点で既に少数意見(というくらい敗戦の状態の現実と、厭戦気分であった)であった。
いさましいのはとても一週間はつづいていない。いってみれば一晩寝ればおしまいの『決起する』であった。

談・2000年09月16日

・・・

(父)

 

・・・

母の話(茂平・農婦)


(放送があることは「隣組・回覧版で知ったのか ?」)

回覧も何もありぁあせん。
「重大放送がある」と繰り返し、ラジオがしつきょうた。
家でラジオで聞いた。
もう戦争が負けるんじゃけえ、そりょを言うんじゃろう思うとった。

(茂平みたいな)田舎の人でも、「そりょう言うんじゃ」言ゆうてようた。
じゃけいわかっとった。
(放送の雑音と内容は)天皇陛下の言うことは今でもぐつぐつ言うて、何を言ようるんかようわからんが。

(2000年01月30日 日曜日)

・・・

おば(父の妹=満州帝国吉林市・主婦=既に棄民状態)の話

玉音放送は聞いた。
社宅の前にみんな集まって、いっしょにラジオを聞いた。
あれはほんとに天皇の声じゃった。
「おおお~」いう声だったが、わかったのは『日本が降伏した』ということ。
内容ははっきり聞き取れなかった、だがその意味(降伏・敗戦)だけは聞いてる人、みんなわかった。

談・2002・4・30


・・・

(おじ)

おじ(母の弟=安芸安浦・海軍兵=17才)の話

(戦争の情報のことは)なんにも分からん。
戦争が負けとるとは思ようならんだ。
そりゃ。
新聞を見るわけでなし、ラジオを聞くわけでなし。外のことは何んにもわからんものお。
負きょうるとは知らなんだ。
飛行機が無いんで、あんまり良ぅない・・・ゆうことは感じょうた、けど。

ラジオを聞いたのは終戦の時だけじゃ。
あの時は聞いた。あれだけは聞いた。

談・2003年3月20日
・・・

・・・

「美星町史」


終戦の刻

国民の生活は日増しに苦しくなり、疲労と飢えにあえぎながらも
「負けたら一人残らず殺される」という宣伝がされて一段と緊張を増した。

夜は遠くの方の空が真っ赤に染まり、どこかが焼けていることを感じた。
前線は玉砕の報が次々と入り、遂に昭和20年8月15日を迎えた。

丁度その日、私どもの周囲に「降伏せよ」と印刷したビラが飛んできた。
母が「戦争が終わったら電灯がつけられるかなあ」と言った。

妊産婦は栄養もとれず、特に動物蛋白源は何一つなく、
煮干しさえ一週間に一度、食べるか食べないかの生活、
胎児の順調な発育等は望むすべもない。


~ 終戦の年 細々と生まれし吾子達は からくも育ち父母となる ~

・・・・

 

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終戦③”ご聖断”

2023年08月13日 | 昭和20年(終戦まで)

1945年7月26日のポツダム宣言から、20日間を経てやっと
1945年8月15日の玉音放送に到達した。

1945年8月14日になっても、なお
海相を除いて
「死中に活を求める」と
”聖戦継続”を参謀総長、軍令部長、陸相が求めた。
最高指導者でありながら、何もみえていない人たちが、軍と国家を導いていたことを現わしている。

 

・・・・・

「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

8月13日の閣議

8月13日午前8時半過ぎから最高戦争指導会議構成員会議が開催された。
前日同様、
東郷の受諾説と阿南・梅津の再照会説が対立、途中の中断をはさんで午後3時まで続いたが結論はでなかった。
午後4時から閣議が開催されたが、
相変わらず対立が繰り返された。
しかも東郷のもとには陸軍のクーデター計画の噂が頻々と伝えられるようになっていた。
事態は一刻の猶予も許されない状況になりつつあった。
鈴木は各閣僚の意見をいつになく強く求めた。
阿南が再照会を主張、
松阪法相は受諾反対、
安倍内相は首相に一任、
なお、
安倍は聖断が最高指導者会議でなされたことは憲法上問題があるのではないかと述べた。
しかし安倍の意見に同調するものはいなかった。
受諾反対を主張する三人のうち、松阪と安倍は感情的なものであって、反対意見として採りあげるような具体性をもっていなかった。
閣議で意見の統一が図られなかった。そこで鈴木は、
天皇の意思は戦争終結にあるので自分はそれに従う、
ついては天皇に対して今日の閣議の内容を伝え再度聖断を仰ぎたいと述べ、閣議は散会した。

・・

・・

 

8月14日

バーンズ回答への返答がなく、しびれを切らしたトルーマンによって本土爆撃が再開されるなか、
二度目となる御前会議が開かれた。
8月14日10時50分過ぎから最高戦争指導会議構成員と内閣閣僚合同の御前会議が開催された。
天皇のお召しという異例の形式による御前会議に呼ばれたものは23名であった。
天皇を前にして出席者は三列に並んで着席した。
初めから天皇の意思を伝える場として設定されたものであった。
再照会説を主張する阿南・梅津・豊田に意見を開陳する機会を与えるだけにとどめ、
天皇の決断を出席者全員が承るものになった。
鈴木の指名によって梅津・豊田・阿南の順で再照会説が主張された。
それが終わると天皇は立ち上がって、
前回述べた自分の答えは軽々しく決定したものでなく今も変わりがない、
連合国の態度は好意的であると解釈する、
戦争継続は国土も民族も国体も破滅してしまう、
これ以上国民を苦しめるわけにはいかない、
反対の意見の者も私の意見に同意してほしい、
国民に呼びかけることがあればマイクの前にも立つと述べた。
天皇の発言の途中から出席者の咽び泣きがはじまり、
また天皇も涙を流した。

天皇の発言が終わると、鈴木は立ち上って、
天皇に対して至急終戦詔書案を奉呈すること、
重ねて聖断を願ったことを詫び、
御前会議は正午に終了した。
天皇の意思を全員に周知徹底させ、日本の敗北を直視する儀式であった。

・・
8月15日

宣言受諾の詔書発布と同時に、
連合国側へも正式受諾が伝えられた。
本土決戦を息巻いていた中堅幕領のほとんどは反乱に加わることはなかった。
こうして最後まで「国体護持」が争点になるなかで、
「帝国臣民」についてとくに議論はされなかった。
このことが帝国崩壊後大きな問題へとつながっていく。

 

・・・・・・・

「終戦史」  吉見直人  NHK出版 2013年発行

8月14日の二度目の聖断

参謀本部宮崎周一作戦部長の日記。
「市ヶ谷台では日夜書類焼却の為炎の揚がるのを見る、敗戦の憂状明らかなり。
最近召集未訓練の将兵の事なれど逃亡頻出す」
中村隆英東大教授、
「望みのない戦争をこれからも続けようとした陸軍省部も、天皇の意思が明らかになると、
なかば悲憤しながらも、なかば安堵したというのが、真相だったのではなかろうか」


・・

なぜ決断できなかったのか

日中戦争から数えればわずか8年の間に、日本のおもだった都市のほとんどが空襲で焦土と化し、
この国始まって以来の「敗戦」という事態に至った。

映画「日本のいちばん長い日」
映画「日本のいちばん長い日」のストーリーの中核をなすのは、陸軍省の若手将校による「クーデター騒ぎ」だった。
日本大学古川隆久教授はこのクーデター騒ぎや、海軍の「厚木事件」などについて、
「いずれも失敗に終わったのは、あまりに現実から遊離していたためとしかいいようがない」としている。
この時すでに昭和天皇は軍に継戦能力がないことを見切っていた。
あえていうならば軍はもはや頼りにならないのに口だけ達者な部下に成り下がていたのである。
なお、この「クーデター騒ぎ」のことを、我々は放送では一切とりあげなかった。
本当に重要な局面はそれよりももっと以前の段階にあった、と考えたからである。

 

・・・・・・

 

「太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行

深夜の御前会議


8月9日、宮中においてポツダム宣言受諾に関する最高戦争指導会議が開催された。
国体護持(皇室の安全保障)以外の条件を出すべき意見と、
条件を出すことは戦争終結の機会を永久に失う意見があった。
全員がポツダム宣言受諾に基本的に賛成しつつも、紛糾を重ねていた折もおり、二度目の原爆が長崎に投下された。
会議は決せず、23時御前会議が開かれた。
以前会議はまとまらず午前2時、聖断によって決することになった。
天皇は外相案に同意するむねを述べた。
次の段階として外務省の手にゆだねられた。
外務省は連合軍将兵に早く知らせる必要があるとし、
同盟通信および日本放送協会の同意を得て、10日夜、
ひそかに海外に向け放送せしめた。

この海外向け放送は、発信後2時間足らずで、まず米国の反響を得、数時間後には全世界に波及したことが認められた。

 

聖断くだる

8月12日、午前0時45分頃、
外務省、同盟通信、陸海軍の受信所は、米国の回答を傍受した。
その中で「連合軍最高司令官の制限のおとに置かれる」箇所が、ふたたび波紋を投げかける。
午後3時の閣議で、「国体問題が不安である、再照会すべきである」との意見に、
鈴木首相が動揺を示し、外相が苦境にたった。

8月13日午前9時から、
首相官邸地下壕で最高戦争指導会議が開かれた。
午後より閣議が開かれた。いづれも結論はでなかった。
8月14日午前10時50分から、
宮中の防空壕内で御前会議がはじまった。
参謀総長、軍令部長、陸相が、
「国体護持の再照会、要求を受け容れないときは継戦し、死中に活を求める」
と言上した。
その後で天皇の発言があった。
ここに戦争終結は確定したのである。

終戦の「詔書」起案のための会議が午後1時からはじまった。
陸相は字句の訂正一ヶ所申し入れただけで、その後は陸軍省内部の一部将校の懇願にも二度と動ずる色を見せなかった。
午後10時ごろ、案の決定をみた。
御名と御璽を請い、閣僚全員の副署ののち、午後11時詔書は発布された。

・・・

 


玉音放送で、アメリカや中国は戦闘状態を自ら納めた。
ソ連は停戦の契約でない理由で、日本領土への侵攻を止めなかった。

 

・・・

   つづく・終戦④玉音放送を聴く

 

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終戦②”国体護持”

2023年08月13日 | 昭和20年(終戦まで)

”国体護持”をつきつめれば、天皇制維持を意味する。
さらにつきつめると、最悪の場合、天皇・皇后の生命を保障する。

昭和天皇は自らの地位や命よりも、日本民族の継続を思った。

 

・・・

「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行


ソ連参戦によってポツダム宣言の受諾は一刻の猶予も残されていないことを悟ったが、
それでもまだ一週間も要したのである。

8月9日、午後11時50分からの皇居地下壕の御前会議

宣言受諾か本土決戦かは三対三で真っ二つに割れ、残る鈴木の去就が注目されたが、
鈴木は自らの意見を述べないまま立ち上がり、天皇の前に進み出て聖断を仰いだ。
天皇は、
「計画に実行が伴わない」として本土決戦論を退け、ポツダム宣言受諾に賛成すると発言した。
時はすでに8月10日午前2時20分であった。
会議が終わると鈴木は早速、首相官邸に引き返して閣議を再開、
午前4時にポツダム宣言受諾を日本政府として正式に決定した。
スイス、スエーデンに第一電を発し、
国内では絶対秘密、
10日夜、海外に対して放送した。

8月12日

米国ではポツダム宣言受諾をめぐる一連の動きがすでに漏れ始め、
戦争終結を喜ぶ声が日増しに高まっていった。
8月12日午後3時の臨時閣議で、東郷はバーンズ回答の妥当性を述べ宣言受諾を主張した。
阿南が、天皇が連合国最高司令官の権限に従属すること、
日本政府の最終的形態が日本国民の意思に委ねられていることに反対、
回答に不満なので米国へ再照会をし、あわせて武装解除と保障占領についても付け加えるべきと発言した。
この日の午前8時半、海津と豊田が参内し、すでに天皇に反対意見を述べていた。
さらに別の閣僚からも武装解除の強制に反対する意見が出た。
鈴木までも国体護持の確認が曖昧であり、武装解除の強制も忍びがたいから米国へ再照会の上、もし聞きいれられないなら戦争継続やむなしと発言したとされる。
結局、閣議の雰囲気が不利と見た東郷は翌日に継続審議でその場を切り抜けた。

・・・

一刻も猶予がないにもかかわらず、堂々巡りの議論が行われたことに憤懣やるかたない東郷は、木戸内大臣に面会し、木戸から説得するよう尽力を求めた。
木戸は午後9時半、鈴木と面会し、宣言受諾断行を求めた。
鈴木は同感であると語ったため、東郷らの不安はひとまず解決された。
このときの閣議における鈴木の「豹変」は、鈴木の優柔不断ぶりを示すものとして批判する研究もある。
もともと政治基盤のないまま首相になった鈴木は、内閣でも宮中でも孤独であった。

臨時閣議で回答受諾か否かが議論されている最中、
もう一つ別の動きが宮中であった。
8月12日午後3時20分から皇族らが宮中に招かれ、
昭和天皇は、参内した
高松宮・三笠宮・賀陽宮・久邇宮・梨本宮・閑院宮・浅香宮・東久邇宮・竹田宮
に対して、
ポツダム宣言受諾の意思を伝えた。
最年長の梨本宮以下、各皇族からは天皇の決定に従うことを誓った。
皇族会議といわれているが、実際には皇族以外の人物も列席していた。
それがイウンとイゴンという二人の朝鮮王朝の末裔であった。
「王族」と「公族」の地位を与えられていた。
「うけたまわりました」と答えるのみであったとされる。

・・・

「日本海軍の終戦工作」  纐纈厚  中公新書  1996年発行

「聖断」論の登場

近衛は陸軍改革も戦争終結も、結局は天皇の「聖断」によるしか可能性が困難なことを自覚しており、その線で天皇の説得を試みていた。
この「聖断」の要請は、以後近衛ら宮中グループの強く望むところとなり、
しばらくは紆余曲折を経ながらも周知の通り、
最終的には「聖断」により陸軍主戦派の戦争継続論を退け、
「国体護持」の一点のみが戦争終結の条件とされていく。

・・・・・


「一億玉砕道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

「国体護持」とは何か

「国体の護持」を最終目標にきりかえて、日本は敗色の濃い戦争を継続した。
陸軍は、昭和19年秋からひそかに「最悪事態の研究」をし、まとめた。
最悪の事態とし、
米兵の日本本土駐兵。
陸海軍の武装解除。
天皇制廃止。
日本男子の海外への奴隷的移住などが列挙されている。

早期和平派の指導層でも国体護持は共通した目標だった。
高松宮は「戦争終結は簡単である、国体の護持だけである」と述べている。
海軍の高木惣吉少将は昭和20年5月にまとめた「研究対策」の中で、
和戦いずれになっても「皇位の神聖と国体の護持を眼目」とするを第一にあげている。

しかし軍部、なかでも陸軍は、国体護持ができるかどうか、もっとも悲観的だった。
昭和20年3月梅津美治朗参謀総長が参内して、「米国は国体変革を狙っているから、最後まで抗戦する外ない」と上奏した。
これが陸軍の代表的な考えだった。その考えが本土決戦・徹底抗戦論を最後まで強硬に主張することにつながっていったのである。

・・・・

          つづく・終戦③”ご聖断”

 

 

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終戦①”無条件降伏”(ポツダム宣言)

2023年08月12日 | 昭和20年(終戦まで)

第二次大戦の日本軍の作戦失敗、惨劇といえば、「インパール作戦」がまず挙げられる。
しかし、
日本の態勢を決したフィリピン「レイテ島の戦い」の方が、より悲惨度や規模が大きい。
作戦の始まりからして大本営発表の戦果を鵜呑みし戦況を誤り、陸海軍の将兵の多くの戦死者、初の特攻隊を生んだ。
軍指導者が、正常な頭であったなら、この時に戦争は負けて終わっていた。
ここで終戦していたならば、沖縄・硫黄島・原爆はなかった。千島列島も占守島まで日本のままだった。

づるづると昭和20年8月まで、外地では負け戦をつづけ、内地では空襲で都市は焼かれ放題となった。
その結果、国家指導者は”一億総玉砕”して、死なばもろとも、国民を道連れにして死のうとした。
世界の近代史上、ここまで国民を軽視した国家は・・・ない。

 

 

・・・

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

ポツダム宣言の成立

7月17日から三国首脳会談がポツダムで開催された。
米国・バーンズ国務長官はアメリカ世論を懸念して天皇制の存続を明記することに反対した。
その代わり「日本国民は自らの政治形態を選択する自由を与えられる」と修正した。
すでに16日原爆実験が成功した報告がトルーマンに届けられていた。


・・・

「スイス諜報網の日米終戦工作」  有馬哲夫 新潮選書  2015年発行

7月26日ポツダム宣言が発出され、
8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、同じ9日にソ連が満州侵攻を開始した。
注目すべきは、この未曽有の危機にあっても戦争指導者と天皇は、即座に降伏を決断してないことだ。
彼らは国体護持と天皇制存置を譲れない条件と考えていた。

・・・

「スイス諜報網の日米終戦工作」  有馬哲夫 新潮選書  2015年発行

無条件降伏とは

グルー(国務次官・元駐日大使)はなんとしても日本に降伏して欲しかった。
いろいろ手を回して7月21日付で『ワシントン・ポスト』に、
「無条件降伏」という記事を掲載させた。

無条件降伏
1・議論することなく条件を受け入れること。
2・降伏のあと、日本が得られる条件については、
大西洋憲章、カイロ宣言、蒋介石の1944年演説、1945.5.8のトルーマン大統領の声明、ジャクソン判事の戦争犯罪者に関する声明に明記している。
3・大西洋憲章には勝者だけなく敗者にも一定の恩恵を与えることを保証している。
4・アメリカの軍法は、敗戦国を完全に軍事的管理のもとに置いてたとしても、
征服や占領によって敗戦国の主権を侵害しないことを明記している。

この記事の目的と意図は明確だ。
つまり日本人、とりわけ鈴木首相に対し、無条件降伏とはなにかを理解させることだ。
領土に関していえば、アメリカ自身は領土を得ることはないが、
次の領土はカイロ宣言により、日本からしかるべき人民に返還されるとしていた。
1・日本が1914年以降に取得した島嶼の放棄。
2・満州・台湾など清国から取得した領土の中国に対する返還。
3・朝鮮人民は隷属状態から解放され独立自立する。

グルーが日本側に伝えたかったことは、無条件降伏は無条件ではないということだ。
日本の上層部、とりわけ天皇、鈴木総理、東郷外相はトルーマン政権は、最終的には天皇制在置を認めると信じた。
とういうよりそれに賭けるしかないと思ったのだ。


・・・

「近代戦争史第四編大東亜戦争」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行

ポツダム宣言

国務次官グルーは、日本の早期降伏を促す為立憲君主制として天皇制保持を明言すべきであると論じた。
米軍の莫大な犠牲を避け、ソ連の参戦前に対日戦を終了さすことが、その狙いであった。
しかしハーンズ国務長官は、アメリカの世論は天皇制温存を受け入れないだろう、と反対した。
トルーマン大統領は天皇制の問題には触れないことを指示した。


・・・


「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行


揺れるポツダム宣言
米国政府内では、ポツダム会談以前、
駐日大使であったグルー国務次官が、
天皇の地位を保障して早期に終戦を図るべきだと進言していた。
スティムソン陸軍長官も同調していた。
だが、
米国の世論は天皇の戦争責任を求める声が強く、米国政府の方針は決まらないままポツダム宣言まで持ち越された。
ポツダム宣言の原案を起草したグルーは、戦後の米ソ対立を予見しソ連の影響力を押させておく必要を痛感していた。
そのためには日本を一刻でも早く降伏させソ連の極東への影響力を極力阻止しようとしていた。
知日家でもあった彼は、日本に降伏を受けれさせるには、天皇の地位を保全その一点にかかっていることを熟知していたが、
バーンズ国務長官は、天皇の地位を保障することに強い拒否感を持っていた。
バーンズは重鎮である前任のハルにアドバイスを求めた。
ハルは天皇の地位の保障を明記することには明確に反対した。

ポツダム会談では、
米国単独で対日戦を終結できると確信したトルーマンにとって、
ソ連の参戦は無用の助太刀でしかなくなっていた。
さらに、天皇の地位についても日本側へ譲歩する必要もなくなったと判断、
7月24日案をチャーチルと蒋介石に回付、両者の同意を得たうえで公表へと進めた。
宣言にソ連を加えることをあえてしなかった。
ソ連との間で対日戦について具体的な協議をする必要性を感じなくなっていたのである。
このことが、のちに大きな齟齬を生むことになる。

原爆開発の成功と、
ソ連の共同声明参加を明かにすれば、
日本は降伏の意思を表明した可能性は高かった。
トルーマンは日本の名誉ある降伏を認めず、米国単独で日本にとどめを刺すことに固執した。
(ポツダム会談中に英国総選挙があり、予想に反し、保守党は敗れた)

スターリンの対日参戦計画
米国の原爆使用によって日本が降伏してヤルタの密約が画餅に帰する前に、
対日参戦を急がねばならなくなった。
ソ連にとって幸運だったのは、この時期、日本が連合国との和平交渉の仲介をソ連に依頼していたことであった。
日本はソ連を唯一の頼みの綱として和平実現の可能性に期待をつないでいた。
むろんソ連は仲介する気などまったくなく、むしろ対日参戦の機会を狙っていた。
ソ連のしたたかなところは、仲介を拒絶するわけでなし、かといって仲介の姿勢を示すわけでもない、曖昧な態度を取り続けることで日本側に淡い期待を持ち続けさせ、対日参戦まで戦争をできるだけ長びかせることにあった。

日本陸軍
米軍を迎え撃つ本土決戦に、ソ連は静観して欲しいという期待感の蔓延で、
軍事的破局に直面した現実とソ連参戦という不気味な予兆の中で、
陸軍のエリート官僚たちから冷静な思考が完全に失われていた
とりわけ、ポツダム宣言にソ連が加わってないと
スターリンの焦りを生んでいることなど予測にもできず、
ソ連は仲介する意思をまだ持っているとまったく逆の判断ミスを犯してしまったのである。

・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

7月26日
米英中三か国の名で、ポツダム宣言が発表された。
天皇制についてはふれられず、政体については
「日本国民が自由に意思にもとづいて平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されしだい、連合軍の占領軍は日本から撤退する」
というように、抽象的に述べられただけだった。

日本にとっては、
とくに天皇制について明示されされてないこと。
ソビエトの名が宣言国に含まれてないことが、大きな不安と無用の期待をいだかせる結果となった。
しばらく様子をみるということで、陸軍も外務省に同意した。
ところが28日午後の記者会見でポツダム宣言で問われた鈴木首相は、
「政府としては重大な価値があるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進するのみである」
と発言した。
鈴木首相の発言は、ポツダム宣言に対する日本政府の拒絶回答と受け取られた。
これで日本はいっきに、破滅への坂道を転げ落ちていくことになる。

ソビエトは、ポツダム宣言が相談なく発表されたことに不満をいだいていた。
アメリカの言い分は、ソビエトはまだ日ソ中立条約を維持しており参戦していないからだ。


・・・


「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

連合国の対応

米国政府は日本の回答に困惑した。
日本政府の通告は、
無条件降伏を求めた宣言を受諾したものなのか、
それとも拒否しているのか明瞭ではなかったからである。
トルーマンは「こんな大きなただし書き」がついた回答文を無条件降伏とみなせるのか、判断に迷っていた。
バーンズは国務省で回答文の草案を起草することになった。
「日本政府の形態は、ポツダム宣言にしたがい日本国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす」
バーンズ案に対しソ連から「連合国最高司令長官は」一人ではなく複数とすることを要求してきた。
日ソ戦をもう少し長引かせたいソ連にとって、戦争の早期終結は都合の悪いことことだった。
日本占領に対して強い発言権を握って相応の権益を確実に手に入れたかったのである。
しかし、このソ連の要求は米国の強硬な拒否にあって撤回された。
バーンズ回答は11日付で、スイス経由で日本政府へ伝えられた。
トルーマンは、それと同時に連合国最高司令官にダグラス・マッカーサーを任命、
日本占領からソ連を排除して米国単独で行う決意を固めた。

・・・

 

          つづく終戦②国体護持

 

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昭和20年、食べる物がない④学校農園

2023年08月10日 | 昭和20年(終戦まで)

文部省はついに、学校のグラウンドを掘り返して農場にするよう命じた。

・・・

 

(昭和19年頃、広島県福山市旭国民学校)

義兄の写真、この後、義兄は岡山県陶山国民学校に縁故疎開した。

 

・・・・・・

「岡山教育史」

「青少年学徒食糧、飼料増産運動」
昭和16年2月、文部省は各道府県に対し「青少年学徒食糧、飼料増産運動」通達を出し、
「1年を通して30日以内の日数は授業を廃し、国策に協力せしめる」作業にあてることとした。
その日数は授業時間とみなすこととなった。
作業は軍人家族留守宅を含めて農村では米麦増産の作業全般に協力した。
このような集団作業を進める組織が、学校報国団の結成である。

戦争末期の食糧増産運動
最初、生産的意義よりも教育的意義が強調されていたが、
しだいに労働力不足を補うようになってきた。
食糧不足は深刻となり、
学校も総力をげて増産運動に取り組むこととなった。
昭和17年10月31日付で岡山県は、
植物油の増産が急務として児童生徒による樹実の採集出荷の努力を要請している。
椿の実をはじめとして、
トチ、ナラ、クヌギ、アベマキ、ブナ、カシ、シイ、カシワ類等の植物いっさいにわたっており、
農山村の児童が中心になって採集に努力した。
発送先は小田郡神島外村神島人造肥料株式会社神島工場となっていた。
昭和19年10月5日付、岡山県は堆肥確保のため草刈り動員の文書を出した。
これは肥料事情の悪化に伴い、
自給肥料、特に堆肥の増産確保が緊急の要務となり、政府が呼びかけたものであるが、
国民学校は少年団、中等学校は報国団の運動として展開した。
岡山県の目標量は5.223貫となっていたが、
農村の採草地をさけて採集する注意があったので、いっそう困難であった。
初等科の児童は、この動員の対象にはならなかったが、
食糧増産は至上命令であったので、
乾草刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、麦刈り作業など、児童でできることは積極的に協力奉仕した。
都市部の学校でも、
学習園は全部食糧園にきりかえ、運動場の周辺も掘り起こして畑にした。
そこに、
いもや豆やヒマを栽培した。
中高学年の児童はバケツを手に、馬糞を拾い集めて歩く風景もよくみられた。
学校の肥料にした。

 

 

昭和19年3月、
「時局は愈々逼迫し主要食糧の供給確保が決勝の一大要件たる現状に鑑み更に、
河川堤防及び法面学校校庭一切を挙げて最大限度に利用し食糧自給態勢の確立に積極的寄与を為さしむることと相成り」として
岡山県は次の事項を指示している。

1
学校に於いて利用の対象とする土地
(イ)体操場(運動場)は支障のない限り利用を図ること。
(ロ)校地に耕作し得る余地あるものは地用を図る。

栽培作物
甘藷、馬鈴薯、大豆、蕎麦、玉蜀黍、栗、ほか

種苗の確保
原則として昨年収穫の種子を活用すること

学徒の勤労協力
学校行事に支障なき限り協力すること


昭和19年11月7日
「校地の高度利用に関する件」を指示し、
校地を高度に田園化することを至急実施されたいとして、次の事項を命じている。

田園化すべき面積
其の外を田園化する

中学校・青年学校
体操教練に必要なる最低面積
国民学校
初等科総数一人当たり0.8坪、高等科1坪。

観賞植物等は、食料農作物に転換すること。
至急作付けを行うこと。

 

・・・

「鴨方町史」より転記
ヒマの栽培

その他
各学校では、児童等に桑の皮はぎをして供出さす。

学童をして、航空機用油に、松やにの採集をして供出さす。

20年8月15日、筆者は学童を連れて、この作業のために、学校近くの山中に出向いており、知らせにより急きょ帰校して玉音を聞いた。


・・・・

 

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会 

学校農園
前年から始まった空地利用の食糧増産は、県下の中等・青年・国民学校700余校の校庭に及び、学校農園と呼ばれた。

中等学校・青年学校は教練・体操用に必要な最低面積を残し、
国民学校は一人当たり0.8坪分を残し、すべて掘り返され畑になった。
甘藷、ジャガイモを栽培した。
玉島高女では馬糞拾いに精出した。

 

・・・


「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行

肥料確保
戦争末期の食糧増産運動 

国民学校は少年団、中等学校は報国団の運動として展開した。

初等科の児童は対象にならなかったが、それぞれ生産活動に協力した。
乾燥刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、
児童の力でできることは協力奉仕した。

児童がバケツを掲げて町に出て、馬糞を拾い集める風景もよく見られた。学校で肥料にした。

 


・・・

大門町誌「大津野のあゆみ」より

昭和20年3月になると、国民学校初等科を除き、
高等科から大学まですべての授業を4月1日から1年間、原則として停止し、学徒は根こそぎ動員されることとなった。
そして大津野国民学校の高等科の児童は、
連日近くの工場や軍需物資・食料などの輸送、山野の畑地開墾作業等に動員された。

初等科の児童も運動場を耕して、
さつまいもの栽培、いもの葉柄摘み、松根堀り、樹(松)脂採取、田植え、麦刈りや稲刈りなど、勤労作業に動員された。

・・・・・

 

 

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昭和20年8月9日、ソ連軍の日本侵攻②すべての領域が崩壊していった

2023年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

ソ連の侵攻は、天皇始め重臣たちの終戦決意を決定的なものとした。
「泥棒を見て縄をなう」、それさえも出来ない大日本帝国の末路だった。

 

 

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

「精鋭関東軍」の現実
急激に増強されるソ連軍に対し、誰の目にも日本側の劣勢は明らかであった。
日本は敗北を予感し、ゆえに、参戦そのものがないことを願ったのである。

おおよそ、
兵員で2.5倍、
火砲で30倍、
戦車・飛行機で26倍というようにソビエト軍が圧倒的に優勢であった。
関東軍の大部分は45年に入ってからの新設であり、
素質・装備・訓練なだあらゆる点でレベルは落ちていた。
第二五師団参謀の主任は語る。
「もう兵器がないんですよ。
砲隊はありましたが砲がないんです。そんな状態でしたね。
人間の数はそろえられますわ。
在満召集でね。開拓団なんてどんどん召集されたわけですよ。
でもね兵器がなければ訓練もできませんよ」
精鋭関東軍はというのは、「精鋭」に程遠いのが実態だった。

・・・

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行
8月9日未明、
170万のソビエト軍は、
モンゴル人民共和国南部国境から
沿海州地方
樺太国境
に至る全戦線でいっせいに攻撃を開始し、国境を越えた。
モスクワ放送によってソビエトの参戦を知った大本営は、
9日、
「関東軍は主作戦を対ソ作戦に指向し皇土朝鮮を保持する」
と命令。
関東軍は全戦線で敗退を重ね、満州国はいっきょに崩壊した。

関東軍に置き去りにされた民間人は、ソビエト軍の猛攻撃
の下を逃げまどい、
飢えと寒さ、
そして病いが襲う逃避行のなかで20万人余りが犠牲となった。
ソビエト参戦の報に、日本国内は騒然となった。
それにさらに追い打ちをかけるかのように、9日午前11時過ぎ、長崎に、広島に次ぐ二発目の原爆が投下された。

軍部は最後まで本土決戦遂行を主張したが、二度にわたる「聖断」を経て、14日夜、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。

 


・・・

「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行


ソ連の対日宣戦布告

広島に原爆が投下された情報は8月7日午前、モスクワに届いた。
戦争の果実は力でもぎ取らねば確実に味わうことができないことを熟知していたスターリンは、
その日の午後、対日軍事作戦の発動を極東ソ連軍に指令した。
8月8日、ソ連の回答を待ち続けた佐藤のもとにクレムリンに来るようモロトフから連絡があった。
佐藤に対し、モロトフは
「世界平和を求めたポツダム宣言を拒否した日本は、平和の敵であるとの理由により、
翌9日から戦争状態にはいること」を一方的に伝えた。
しかも、この
ソ連の参戦と、
ポツダム宣言への参加は、
米英中の了解のないまま行われた押しかけ参戦であった。

8月9日
朝鮮半島や満州国は多少の空襲があった程度で、ほとんど被害を被っていなかった。
そこに、突然ソ連軍が進攻し、地上戦が開始された。
こうして大日本帝国すべての領域が戦禍にまきこまれながら崩壊していく。
日本の指導層が受けた衝撃は計りしれないものがあった。
木戸は同じ日に二度天皇に拝謁したが、長崎の原爆投下は日記に一切記していない。
他の政治指導者の日記にも長崎の原爆投下は意外と少なく、

ソ連参戦一色に塗りつぶされている。
それほどソ連参戦の衝撃は大きかったのである。


・・・・・・

ここまで無残というか惨めな敗走はない。
こんなことになるなら、
4年前、ドイツに呼応して東西からロシアを攻めた方がよかった。
といいたくもなるが、それは後からなら、なんとでも言える話。

 

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昭和20年8月9日、ソ連軍の日本侵攻①日本のはかない望み

2023年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

日ソ中立条約は、
ソ連は、ドイツと日本の東西で戦争したくない。
日本は、アメリカとソ連の南北で戦争したくない。
という打算だけで条約締結した。

それから4年後、
ソ連は西の戦争が終わった。
日本は南の戦争で敗北状態、戦意も武器もなかった。そもそも、食べ物すらなかった。
そこへソ連が進攻した。

 

・・・

「日本歴史21 近代8」 岩波講座  1977年発行

大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討を始めた。
中国戦線を放棄するか、満州をも放棄して本土決戦に専念するか、結局は東南部の山岳にたてこもることになった。
いずれにせよソ連の参戦は、日本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという認識では一致していたのである。


・・・

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

ソ連

ロゾフスキー外務次官は1945年1月10日、モロトフに
「太平洋戦争はかなり早い時期に集結するだろう。だからその時までに我々は、
自由な手を持っていなければならない。つまり、我々は、
1945年4月13日までに中立条約の破棄通告を行わなければならない」
ところ現実には、
2月のヤルタ会談で「ドイツ降伏後2~3ヶ月以内で参戦する」密約が取り決められた。
もはや日ソ中立条約の期限満了などは問題にされなくなった。

・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


陸軍武官補佐官の浅井中佐は
4月19日にモスクワを発ちシベリア鉄道経由で帰国の途についた。
本人の話
「いやもう驚いたですよ。
ウラルを越してから、びっしりです。
駅ごとにずーと軍用列車が並んでいた。
兵隊が乗ったのとか、戦車を積んだのとか、飛行機を積んだのとか。
それはもう、アッというようなものだった」
浅井中佐は4月26日満州に入り、参謀次長川辺虎四郎中将あてに打電した。
「シベリア鉄道の軍事輸送は1日12~15列車に及び、開戦前夜を思わしめるものあり。
ソ連の対日参戦は今や不可避と判断される」


・・・

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


ソビエトの対日参戦準備
6月27日
ソビエト軍最高司令部が対日戦略の基本構造を決定した。
三方面から満州内陸部に侵攻し、奉天、長春、ハルビン、吉林などの中心都市を占領するというもので8月20日~25日と予定した。
すでに前年12月1日からソビエト軍最高司令部は、極東への兵器、弾薬、燃料、食糧などの輸送を開始していたが、
4月の日ソ中立条約不延長通告後、
シベリア鉄道の輸送力が大幅に引き上げられるとともに、物資の輸送が本格化した。
その情報はモスクワの日本大使館にも伝えられて、ソ連の対日参戦が切迫しているという不安を掻き立てていた。
当時の一等書記官の証言
「毎日1万の兵隊が極東に動いているというのだよ。
こうなればもう戦争は明らかですよ。
我々の計算では、まあ3ヶ月はかかるだろうと思った。
我々は8月の初め一週間か10日ぐらいの間に戦争が起こるだろうと、本省に電報したんですよ。
で、その通りになっちゃった。
誰もそれを読む人はいなかったという話ですけどね」


・・・

 


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

1945年7月5日「対露作戦計画」が決定された。
いよいよとなったら、新京を頂点とし鴨緑江を底辺とする三角形の地域に陣地を築き、
長期持久戦に持ち込もうとするものだった。
構想は1月で、極秘に準備が進められていった。
満州から朝鮮北部に居住していた約180万の日本人にも、この計画は知らされなかった。
したがって、8月にソビエトが侵攻してきたときには
住民の期待を裏切り、軍隊の方が住民より先に移動していて、
「棄民」といわれるような事態が生じる結果となった。


・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班 角川書店  1994年発行

日本

8月6日、モロトフがモスクワに帰ったきたことを知った佐藤は、さっそく会見を申し出た。
翌日、モロトフは8日午後8時(日本時間9日午前2時)に会見する旨伝えてきた。
しばらくして8日午後5時(日本時間8日午後11時)に改めた。
その変更が、日本時間を考慮してなされたことに、佐藤がきづくはずもなかった。

日本の戦争指導者たちは、藁をもつかむ思いでモロトフとの会見結果を待った。
モスクワの佐藤大使も
「なんとしても近衛特使の派遣を承認させたい」と意気込み、
指定時刻にクレムリンに入った。
8日約束の時間にクレムリンを訪れた佐藤は、近衛特使に関する回答がなされると思っていた。
だが佐藤を迎えたモロトフは、佐藤の口を封じるように、一方的に言い放った。
「ソ連政府はあす、すなわち8月9日から日本と戦争状態に入る」
日本への宣戦布告であった。
これによって、ソ連の仲介による日本側のはかない望みは絶たれた。


・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

ソ連参戦
昭和20年7月10日の最高戦争指導者会議で、天皇の親書を携えた特使(近衛文麿元首相)をソ連に派遣し、ソ連に連合国との間に和平の仲介を依頼することを決定していた。
しかしソ連は回答を与えず、引き延ばしをはかった。
そしてポツダム宣言が終わったあと8月7日になってようやく、モロトフ外相は、
翌8日に中ソ大使佐藤尚武と会見すると伝えた。
日本の戦争指導者たちは藁をもつかむ思いでモロトフとの会見結果を待った。
佐藤大使も「なんとしても、近衛特使の派遣を承認させたい」と意気込み、
指定時間にクレムリンにはいった。
だが、佐藤を迎えたモロトフは、佐藤の口を封じるように、一方的に言い放った。
「ソ連政府はあす、すなわち8月9日から日本と戦争状態に入る」
開戦の通告であった。
日本側のはかない望みは耐たれた。
蜃気楼にも似た「幻想」だったのである。

・・・

 

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昭和20年、ソ連への和平依頼

2023年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

終戦間際の日ソ交渉ほど、みじめな外交交渉はない。
「溺れる者は藁をも摑む」を、国家が実行した。
ここまできても、なお
「死中に活を求める」案すら出せず、ソ連にすりよるだけで、最後に侵攻された。

 

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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


「対ソ静謐(せいひつ)」

「一億玉砕」本土決戦
太平洋の島々での戦いではことごとく敗戦を重ね、もはや日本の敗戦は必至とも見えるこの時期、軍部はどのような心づもりで本土決戦をのぞもうとしていたのか。
対外政略の唯一の目標としてあげられたのが「対ソ静謐(せいひつ)の保持」であった。
アメリア軍を迎え撃って本土決戦を行うためには、北方のソビエトとの安定が絶対条件であった。
唯一絶対の条件であった。
1943年11月、
テヘランで開かれた米英ソ首脳会談で、改めてソビエトの対日参戦は確認された。
12月15日、スターリンはハリマン大使に対日参戦の政治的条件として
「千島列島と南サハリンはロシアに返還されるべきだ」と述べ、
さらに旅順・大連、満州鉄道・中東鉄道、外モンゴルの承認を要求した。

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最高戦争指導会議(5月11日)

東郷は世界情勢を説明しつつ、激しく反論する。
「もはやソビエトを軍事的・経済的に利用しえる余地はない。
日本が手をこまねいてる間にカイロ宣言、テヘラン会談、さらにヤルタ会談となったのだ。
好意ある態度を誘致するとかいっても手遅れである」
鈴木首相の提案で、
ソ連の参戦防止、
好意的中立、
戦争終結に仲介させる。
とくに戦争の終結がはじめて正式に検討されたという点で重大な意味を持つ。
5月14日にも開催され、
まずソビエトに提供すべき代償について話し合われ、次のような代償提供を覚悟することで意見の一致をみた。

 


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「終戦史」  吉見直人  NHK出版 2013年発行

東郷の謎

東郷が当時推し進めようとした対ソ工作は、戦後「幻想の対ソ工作」などとも称されてきた。
なぜ、すでにヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連に対して甘い期待を抱き、
米英への和平仲介を頼むなどという理解に苦しむ外交交渉をやったのか。
当時外務省政務局第一課長だった曽祢益も戦後、
「泥棒に警察官を頼むようなもの」と回想している。
天皇の意向
そもそもモスクワに特使を派遣する案は、東条内閣、小磯内閣と
繰り返しソ連に申し入れ、いずれも拒絶されている。
この時(7月12日)、昭和天皇は戦争終結を急いでいた。
アメリカは、東京の東郷外相とモスクワの佐藤大使の往復電報をすべて傍受、解読していた。

 

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「スイス諜報網の日米終戦工作」  有馬哲夫 新潮選書  2015年発行

1945年5月14日、最高戦争指導会議は、ソ連を仲介として終戦交渉を行うことを決定していた。
この時、交戦国である英米が、日本が受け入れられる条件を示していたなら、この段階で戦争は終わっていた可能性がある。
その条件とは国体護持と天皇制存置だった。


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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

ソ連外交への甘い期待

1945年1月の時点では、ソ連は4月までに中立条約破棄を通告することは決めていたが、
中立条約の無視・対日参戦については、結論を出すに至っていなかった。
ところが現実には、2月のヤルタ会談で「ドイツ降伏後、2~3ケ月で対日参戦する」という密約が取り決められた。
戦局の予想外の進展である。
ソビエト軍の大攻勢で独ソ戦が予想より早く帰趨が明らかになり、対日参戦にできると考えられた。
また、
太平洋の米軍の進撃状況から、一年もたてばもうソビエトの参戦は必要としなくなるという判断があった。


戦後を見据えていたソビエト

駐日ソビエト大使・マリクは1944年7月21日にモロトフに報告書を提出している。
マリク大使は
日本の無条件降伏後、米英が日本に対して取ろうとしている措置に無関心であってはならない。
とくに、ソビエトの極東地域に隣接していて現在日本の支配下にある地域
(満州、朝鮮、対馬、千島列島)
が、日本から他の大国に手に渡ることを決して許してはならない。

同じ頃、
「絶対国防圏」を突破された日本は、ソビエトの中立条約尊守を希望するだけにとどまらず、・・・・

再開された広田・マリク会談
6月24日、
しばらくぶりに広田・マリク会談が再開された。
広田は、
和平を望む日本に対しソビエトが好意的態度をとるかどうか?
その場合、どの程度の代償を日本に要求してくるのか?
感触をつかもうとした。
しかし議論はまったく噛み合わなかった。

6月29日
広田は日本からの具体的提案を用意した。
日ソ間の永続的親善関係を樹立し、東亜の恒久的平和維持に協力することとし、
日ソ不侵略の協定を締結する。
この条件として、次の三点をあげていた。
一、満州国の中立化(日本軍の撤兵)
二、ソビエトから石油を供与してもらえる場合は、ソビエト水域での漁業権放棄
三、そのほか、ソビエトの希望する諸条件について論議する用意がある
広田は、これを早くモスクワに伝えてほしいと述べた。
マリクは「考慮する」とだけ述べた。
実際、日本の提案は、検討にも値しないようなものだった。

 

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ソビエトと米英の協力関係に楔を打ち込み、
ソビエトを枢軸国に取り込むという現実離れした構想を本気になって推進しようとしていた。
ご都合主義にはしった日本の外交が、いかにお粗末なものであったかを実感せずにはいられない。

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ソビエトへの和平仲介依頼

6月29日の広田・マリク会談で、日本側からいちおうの具体的提案を提起したにもかかわらず、マリクからの返答はなかった。
モスクワの佐藤大使のもとに7月13日、緊急電報が届いた。
「(ポツダムの)三か国会談開催前にソビエト側に戦争終結に関する大御心を伝え置くこと」
日本政府は、はじめて戦争の終結に関して、ソビエト政府に申し入れるよう命じたのである。
天皇の親書を携えた近衛文麿を特使として派遣したい旨をモロトフに直接申し入れよというものだった。
日本への回答はまたもや遅れる。
佐藤は7月15日東郷外相へ、
「無条件」という条件はつけない無条件降伏を主張し、
同時に、
近衛の交渉次第で無条件降伏でない講和が可能だと考えるような「幻想」は打ち砕こうとしたのである。

 

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7月17日佐藤大使の親展が届いた。
それは、事実上の特使受けれの拒否の回答だった。
「ソビエト政府にとって特派使節の使命がいずれにあるやも不明瞭であります」
天皇の威光がソビエトに届くはずもなかった。


7月20日、
佐藤は東郷外相に最後の意見電報を打電した。


「敵の絶対優勢なる爆撃砲火のもと、すでに交戦力を失いたる将兵および国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救わるべくもあらず。
7千万の民草枯れて上御一人ご安泰なるをうべきや。
すでに互角の立場にあらずして無益に死地につかんとする幾十万の人命をつなぎ、
もって国家滅亡の一歩手前においてこれを食い止め7千万同胞を塗炭の苦より救い、
民俗の生存を保持せんことをのみ念願す」


日本国内ではまだ誰も言い出せなかったことを、佐藤は意を決して、モスクワから政府に訴えかけようとした。
「祖国の興亡この一電にかかるとさえ思われ、書き終えて机に伏す。涙滂沱なり」
と日記に記している。

7月25日、
再度佐藤は特使派遣の仲介を申し入れた。

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