しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「石工」の仕事

2019年02月23日 | 暮らし

「鴨方町史・民俗編」昭和60年発行、より転記。


(2019年2月21日・笠岡市北木島町)

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鴨方地方の山地は、花崗岩で形成されている。
この花崗岩を石材として切り出している丁場が、随所に見られる。
『六条院町誌』によれば、明治25年頃鴨方駅付近の山で掘り出したのが始まりといわれている。
石材の硬度は、北木島産よりは硬く、香川の庵治石よりは軟らかい。
丁場で石を切り出す人々を、山石屋と呼んでいる。
山石屋になっている人は、香川県・愛媛県・広島県・岡山県(北木島・白石島)の島々で技術を習得したり、その地方がから出稼ぎに来ている人が多い。

切り出しは、め・二番・三番・しわと呼ばれる「め」にそって、大きな石を割っていく。
製品は墓石・地形石なで、注文に応じて割っていくが、だいたいは一サヤ(一尺角)に割っていく。
しかし、げんのうで割れない荒石には、煙硝穴を掘る。
この煙硝穴を掘る時には、6分・7分・8分・一寸など大きさの異なる多くのノミを使う。

この石を基に石垣を組む石屋を、つきまえ石屋といい、石塔・墓石をつくる石屋を彫刻石屋と呼び、鴨方町にもみられる。
彫刻石屋は、自分の家を仕事場にしている。
一方、つきまえ石屋は、注文された場所が仕事場になり、石を仕上げていく。
石屋は仕事が多様なために、道具も多い。
石を割る道具と共に、ノミ・コテなどは自分の身体に応じて製作したり、修理のために鍛冶屋の道具を持っているのが特色である。

石工は危険な仕事であるため、丁場の入口には、「山の神」が祭られている。
正月・5月・9月の9日は仕事を休んで、「山の神」を祭った。


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北木島の流し雛

2019年02月23日 | 暮らし
岡山文庫「岡山の民族」昭和56年文教出版発行より転記。
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(撮影・2019年2月21日 北木島の北木中学校)


雛まつりと流し雛
旧3月3日、いまはひと月遅れの4月3日が雛瀬句である。
笠岡市北木島大浦や高島では、旧3月3日に流し雛を行う。
紙雛12人(閏年には13人)を雛檀に飾り、3日には麦藁のウツロ舟に、貝・寿司・桃の枝などとともに乗せて
加太へ帰って下さい
と、沖へ流す。
下の病にかからぬようにという淡島信仰に支えられているが、古くは、紙雛に一家の災厄を持って行ってもらうという民間信仰があったと思われる。
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石の北木島

2019年02月21日 | 暮らし
「瀬戸内諸島と海の道」山口徹編者 吉川弘文館2001年発行より転記する。

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石の島の盛衰

花崗岩地帯の瀬戸内海は、古くから石材の宝庫で会った。
近代に入っても、岡山市沖の犬島は明治期の大阪築港の石の供給地として栄えたし、国会議事堂は広島湾の倉橋島、徳山沖の黒髪島の石が使われた。
戦後に入っても、石材業は、瀬戸内の「石の島」にとって重要な収入源、雇用機会の場であった。

岡山県笠岡市沖の北木島も石の島である。
人口別では、農業1200人、石材業600人、水産業122人となっており、生産額では、鉱業1億2800万、農林業4200万、水産業300万で、石材業の比重の高さが知られる。

1960年代にはドリル・火薬・運搬重機が導入され、産出力は飛躍的に増大した。
折からの高度成長や列島改造ブームの中で需要も好調で「石の島」は活気づいた。
いかに大量の石が掘り出されたか、その跡が「石の島」にはっきりと残されている。
犬島では70mあった高台が1/3になり山の石は掘りつくされ、海面下20mの地下掘りとなった。
北木島では海面下75mまで掘りすすめられた。

しかし1970年代の後半になると中国などからの輸入石で状況は一変する。

安い輸入石に対抗できず、石切り場はつぎつぎと姿を消す。
北木島では最盛期127ヶ所あった丁場が6ヶ所になった。
いま、島は石の加工が主となった。
加工場は島内に60ヶ所あり、年間総生産額は200億円にのぼる。
その中で北木石は1割弱である。
加工工場を本土に移転する動きも出てくる。
輸入石はまず、福山・水島・神戸などに陸揚げされ、そこからトラック便である。
北木島へは笠岡港からフェリーでやってくるが、それならばと、笠岡湾を埋め立てた工業団地などへ移転したのである。

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真鍋島の花栽培

2019年02月21日 | 昭和31年~35年
笠岡市の広報などで、笠岡駅で真鍋島の花を売る昭和30年代前半の写真をよくみる。
しかし、実際に笠岡駅のプラットホームで花売り娘を見たという人には会ったことがない。

「瀬戸内諸島と海の道」山口徹編者 吉川弘文館2001年発行より転記

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花栽培の島

岡山県笠岡市の真鍋島は、昭和20年代後半、花の島として一躍有名になったことがある。
漁業の不振から畑作が注目され、1951年から県の指導で六戸の農家が花の栽培にのりだした。
阪神地方に出荷したところ、飛ぶように売れたことから、栽培地が増え、またたくまに全島にひろがった。
しかし、真鍋島の成功はほかの地域にもすぐに波及した。
香川県の塩飽諸島、荘内半島でも花つくりが盛んになり、手強い競争相手になったのである。
海上距離が長い分、真鍋島は競争上、不利な立場にあった。
それでも、需要の拡大に支えられて、瀬戸内の島々と互して花つくりを発展させていった。

能美島(現・江田島市)では、昭和20年代後半から花つくりが盛んになった。
のちに「三高の菊」として有名になる三高地区の菊つくりは、戦後の食糧難の時代にはじまった。
広島の市場で高値をよんだことから栽培農家は全島にひろがった。
1957年は生産過剰から値崩れをおこし、種類によってはただ同然となり、その後
農家の増加・生産過剰・価格の乱高下に悩まされながらも、生産は飛躍的に伸びていった。

戦後、瀬戸内海の一部の島ではじまった花栽培は、多くの島々に普及し、競争も熾烈になった。
とはいえ、
瀬戸内海内部の競争であるかぎりは、気候は同じ、地理的条件もさほどの違いはなかった。

ところが、1980年代末から沖縄からの空輸による花が大阪や福岡を経由して広島の市場にはいってくるようになる。
彼岸の菊は、能美島ではハウスで暖房して栽培するが、沖縄では露地栽培である。
軍配は沖縄にあがった。


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後月郡芳井町の或る山村の生活

2019年02月21日 | 暮らし
義母(昭和5年12月生まれ)の話し 談・2019年2月17日

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皇紀2600年の祝い(尋常4年・分校)
記憶にない。

青年学校
国民学校と同じ敷地にあった。

国民学校の校庭
校庭に芋を植えていた。

実業学校
実業2年(昭和19年)の時、山を開墾した。
出征兵士の家に稲刈りの手伝いに行った。

毎朝の奉安殿への記憶
奉安殿があったことすら記憶にない。

終戦(実業3年)で学校が何が一番変わったか? 
急に英語がはいった。英語の塾に行く人もいたほど。
珠算が増えた。

とりこ・とりよめ
幼児で養子をし、成人して結婚するのが多いが
ウチでは結婚と同時にとりこ・とりよめで家にはいった。

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北木島の千鳥・大悟のこと他

2019年02月18日 | 暮らし

北木島に用事があり、ついでに千鳥・大悟のことなどを聞いた。行った日・2019.2.17

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イワシの群れ

北木に漁師が多かった。
イワシの大群が来ていた。
秋葉山(あきばさん)の山頂から見える。渦がするんで。
そしたら、山の上から船に向かって合図しょうた。


イワシの処理

浜へ揚ぎょうた。
ゆでて乾燥さしょうた。半乾きを食べるのが美味かった。
イリコ(出汁)にしょうた。


バックり山の航空監視塔

山頂に祠があった。それを調べに(戦後)登ったことがある。その時でも鎌を持たにゃあ登れなんだ。(枝や草を切り切り登った)
今はもう登れん。
監視塔で見張っていた人は(年齢的に)施設に入っている。





千鳥・大悟の少年時代

島で演芸会をしとった、今はカラオケだけじゃけど。
その頃、およねーずの「麦畑」など歌うとった。
「おもしろい」「 ひょうきん」で島では有名じゃった。
あそこ(大浦の諏訪神社方面)に長いこと住んどった。
生れたのは親が丸岩じゃったんで、そうじゃが
(小中学生の大半は)大浦におった。


千鳥・大悟のお父さん

今は、お父さんは大忙しじゃ。
ファンがしゃっちゅうきょうる。
お父さんは(大浦港は無論)フェリー乗り場まで迎えにいきょうる。
(家まで連れてきて)お茶を出して、
(ウドンとかでなく)ご馳走をだしょうる。
ファンが大勢来ることがわかっとる時は、近所の人に作る応援を頼んどる。


千鳥・大悟の帰省

大悟は島に、年に一回か二回、盆・正月にスケジュールの都合で日にちは前後するが帰ってきょうる。
船の中では写真を撮りまくらりょうる。
誰かが(大悟だと)気付いたら、それが始まる。
入れ替わり立ち替わり、撮られる。
島の人や、そうでない人もいっしょくた。
帰った時は一泊して帰る。(日帰りとか、二泊とかはない)
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茂平の店

2019年02月07日 | 父の話
談・2005.1.15


かんさん方。
あきらさん方の東側。食べるものを置とった。
ちくわやこ買うて食びょうた。

今りょうやんの家。
飴やパンを置いとった。
子供が菓子や鉄砲玉を買いにいきょうた。
ええもんはねえ。
りょうやんはウチの前に住んどったが、その店が止めたんで、そこへ引っ越していった。

番屋
豆腐はスミにしょうた。
その後で番屋が豆腐をはじめた。
いわさん方にも、親が豆腐をこしらようた。
吉本ははなえるのは遅かった。







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小三の春⑯講堂で見る「オテナの塔」

2019年02月06日 | 城見小・他校
年に2回ほど、笠岡の映画館が来て学校の講堂で映画を見せてくれていた。
講堂に暗幕を張って暗くした。
暗幕の隙間から光が入り、講堂が真っ暗になることはななかった。
そのため、スクリーンは薄くなるのが不満だったが、授業を受けるよりは映画の方が楽なので文句を言う人はいなかった。

授業の代わりの映画なので、面白い映画はなかった。
「野口英世」「路傍の石」「次郎物語」、暗い物語だった。
「にあんちゃん」や「キクとイサム」などもあった。がまんして見た。

一度だけチャンバラ映画を上映した。
しかも「新諸国物語」、笛吹童子や紅孔雀や七つの誓と一連の人気映画で、「オテナの塔」。
主演は若手スターの中村扇雀(現在の坂田藤十郎)。

上映前から生徒たちは期待が大きく、「オテナの塔」の題名でもめた。
映画は「お寺の塔」という意見で、
「塔があるのはお寺に決まっている」という訳で、「オテナという日本語はない」と。

管理人はどちらでもよかった。チャンバラであればなんでもいい。刀を振り回してくれれば楽しい。それだけだった。

映画はお寺の屋根の上で対決するシーンがあった。
やっぱり”お寺の塔”だったのかな?とも思った。



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小三の春⑮日の丸をもって天皇陛下を迎える

2019年02月06日 | 城見小・他校
ある日の授業で、小さな箸のような棒を一本と、白紙が先生から支給された。
生徒は机の蓋を上げてクレヨンを出した。
先生の指示は・・・♪白地に赤く 日の丸染めて・・・国旗の小旗を作る事だった。
国旗は天皇陛下をお迎えするのが目的と言う。
その旗をもって全学年の生徒が校庭に集まり、校長先生の挨拶後、学校から列を組んで山陽本線を渡った。
線路の土手に一年生から六年生の生徒が横に長く並んだ。

そして10分か15分くらいして天皇陛下が乗った汽車が来た。

真っ黒い蒸気機関車は、普段の列車と違い黒光りがしていた。
正面には特急列車の燕か、何かのプレートが付けられていた。
そのプレートには日の丸が二本取り付けられ、神聖さがあった。
ごおお~っ、という轟音とともに吐き出される黒煙は、いつもの汽車のように真っ黒でなく白さも感じた。

前から見えて、後ろが見えなくなるまで30秒くらいだっただろうか?
汽車は、最高スピードで城見小生徒を無視するかのように通り過ぎて行った。
あっけなく行事は終わった。

これが果たして天皇陛下への“歓迎”とか“送迎”とか呼べるものだろうか?
当時子供心に思った事を、今でもそう思い出している。
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北木島の生活④北木島海水浴場ほか

2019年02月06日 | 昭和31年~35年
北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。
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楠は石の地区、
石船の人もおった。

(北木島・楠 2018.10.25)

楠のフグ養殖
(問)楠の北側の海にパイルが並んでいるが、あれは何?
楠のフグ養殖。
初代の村長が始めた。
ワシも夏休みにアルバイトで餌を蒔きにいきょうた。
金網で柵をして、フグのほんまもんがいっぱいおったんよ。
チヌもおったが、フグの毒素で死んでしもうた。
3年か4年かで止めた。

小学校の遠足
笠岡でサーカスがある時出て来たことがある。
他には・・・・、
弁当持って本土へ渡ったゆう記憶はないなあ。

(笠岡へ行くことは?)
歯医者じゃなあ。
内科と眼科は島にあった、歯医者だけはなかった。

小学校も中学校も弁当を持っていってない。
昼になると家に走って帰って食びょうた。

(先生は?)
学校の中へ寮があった、そこへ泊まりょうた。
(地元の)島からの先生は代用教員じゃった。


高校への通学
6時半の船に乗ったら8時前に(笠岡港へ)着きょうた。
船で通ようたが、何人かは寄宿しようた。
大浦の人は、笠高の人も、商業の人も、淳和の人も、工業の人も船で通うた。
工業の人は瀬戸の渡しで降りょうた。
豊浦と金風呂は通学船がなかった。
豊浦や金風呂からの女性は千草寮におった。


北木島の海水浴場

下浦
昭和35~36年からはじまった。
それまではなかった。大浦が(砂が無くなり)止めてから始まった。

水の浦
交通の便が悪いから人はいかない。道が無い。

大浦
流しびなのところ。
砂がなくなって、するもんがおらんようになった。
それで下浦にかわった。

楠(海水浴兼キャンプ場)
キャンプ中の人に悪さをする地元の人がいた。
それで廃れた。
それに加えて松林の松が枯れた。
両側が海で綺麗なところじゃったが。
いっときは岡山会館が国民宿舎を造るようた。
今だに土地をもっとる。

北木島の経木流し・臨海学校
府中の奥の上下の人が200~300人で海水浴に来ょうた。
経木流しをしながら。
学校の臨海学校も来ょうた。(白石でなく)大浦で。
天野屋とか、しまず、たまや、いせや、みなとや、・・おおかた10軒あった。
木造三階建てが二棟ならんどった。
金風呂や大浦にはなかったんじゃ。


土葬・火葬

30~40前、大雨で土砂が崩れ、(墓から)土左衛門が出て来た。
それから火葬しょうやあゆうことになった。
昭和47.8年か50年頃まで土葬じゃった。
それまでは、結核で死んだ人が縦(島)で火葬しょうた。



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