しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

占領下の中国

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)


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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行

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「占領地域の確保」

日本軍は、1938年武漢・広東作戦を実施した後、
占領地確保に重点を置いた持久戦態勢への転換を図った。
12月2日、大本営は
「占領地域を確保」し、「残存抗日勢力の制圧衰亡に勉る」にあるとし、
北支那方面軍司令官に対して、
「現に占領しある北支那地方の確保安定に任すへし」と命じた。

こうした日本軍の華北占領地確保に挑んだのは国民党の軍隊ではなく、共産党系の軍隊であった。
日中戦争開始後、中国では国民党と共産党の抗日民族統一戦線形成が実現し
(第二次国共合作)
1937年8月22日、華北方面の共産党軍すなわち紅軍は、国民革命軍第八路軍に改編された。
八路軍は日本占領地域の後方に抗日根拠地を形成する方針を取り、
日本軍支配地域を蝕むように形成されていった。

。。。。。。。

日本支配下の諸相

北平(北京)
1937年(昭和12)8月8日日本軍が北平(1938年北京と改称)に入場式をおこなった。
無血占領となった。
しかし以後日本が敗戦を迎えた45年8月までの丸8年間、北京は日本軍官の支配下に置かれ、
その下で住民は艱難辛苦を舐め尽くさねばならなかった。

軍・官憲による抗日勢力の掃討・弾圧に表れた。
八路軍兵士や抗日・反日分子として捕らえられた者には拷問を加えるのが常であったが、その行きつく先はほとんどが虐殺であった。
高官から末端まで権力にものをいわせた収賄が横行したが、
理不尽とはわかっていても袖の下で、身内の生命を救い出したり、生業を維持した。


動員
天津・済南・徐州・南京・武漢・広州等、
日本軍が都市を陥落させるたびに、北京市民は「歓呼拍手して感謝」させられた。
日本軍入城が伝わると、北京市民は動員され、慶祝会や提灯行列に参加させられた。
アジア・太平洋戦争に突入後は東南アジアの各都市が陥落するたびに同様の動員がおこなわれた。

飢餓
北京では、日本軍の封鎖により周辺地域から搬入がままならず
日本軍の穀物備蓄や、投機的な穀物買い占めや、干ばつなどで、
米は十数倍になり41年頃には店頭から姿を消した。
戦争末期には大部分がトウモロコシの皮や芯・どんぐり・もみがら・糠の類になっていった。
もはや人間の食糧とは言い難いものであった。
北京の中国人は飢餓状態、あちこちの街角に飢餓者が横たわるありさまとなった。


「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行


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皇軍兵士

2021年07月31日 | 昭和11年~15年

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戦場の兵士と戦死

兵力
1920年代にはほぼ30万人のラインで兵員数は推移した。
1935年(昭和10)には陸軍40万人、海軍10万人、計50万人の線に達した。
現役徴集は満州事変当時20歳男子の5人に1人だった。
日中戦争期の総兵力は100万~150万の規模で推移した。
アジア・太平洋戦争の末期には陸軍が640万人、海軍が186万人になった。

陸軍
アジア・太平洋戦争突入後でも、1943年までは36万までにとどまった。
壮丁に対する徴集率は50%であり、
すなわち徴兵検査を受けた二人に一人が陸軍の現役に徴集される。
大規模な兵力動員は軍隊の平均的な質を低下させることになった。
38年以降は乙種以下の合格者からも徴集なされた。
召集兵は体力的に劣り、妻子がいるケースが多く、戦意が相対的に低かった。
また若い上官に逆らい、軍紀の乱れを生むこともあった。

徴兵忌避
徴兵を忌避したい感情は庶民のなかには根強かった。
軍や兵にあこがれて入営する者がいたのも事実であるが、
やむをえず徴集される若者が多かったのである。
資産家の子息は合法的な徴兵逃れができた者。
逃亡、失踪、自らの身体毀損、作為的な体調不良がおもであった。
醤油を大量に飲むのはよく知られたが、過剰な減量や指の切断などがあった。

。。。。
”皇軍”兵士
基本的には初年兵と二年兵が半々ずつで、30名ほどを標準として編成され、
下士官一名が班長としてついた。
兵は同室で起居を共にし、平時ならば二年間兵営で訓練を受けることになるが、
戦時の場合は入営後数週間の基礎訓練を受けた後出征し、
出征先で数か月訓練を積んでから前線へ送られるというケースもでてきた。
・・・
日露戦争後軍を家族・家庭になぞらえる考えが強調されはじめた。
そこでは家族間の相互扶助や愛情という側面ではなく、
「愛の鞭」としての懲罰が私的制裁の形で横行した。
私的制裁は建前では禁止されていたが、実質的に容認されていた。
ビンタ、殴打、対向ビンタ、「うぐいすの谷わたり」、「せみ」などがポピュラーにおこなわれていた。
・・・
満州事変初期には荒木貞夫中将を中心とする「皇道派」が陸軍の主導権を握り、
非合理的な精神主義が用兵思想や軍人教育において強調されていった。
この流れの上で「皇軍意識の徹底」を図るためには、デモクラシー的思想は有害であるとの観点から上申権は削除され、
兵士の「異議申し立て」の権利は剥奪され、『退却』と『降伏』は絶対の忌語となった。
皇軍精神の行きついた先が41年に東条英機陸相により布達された「生きて虜囚の辱めを受けず」と述べる「戦陣訓」であった。
。。。。。

慰問袋
慰問袋はたいがいはくじ引きで取り分を決めた。
「まず第一番の楽しみがこのくじ引きである。
いよいよ我が物と決まった袋を開ける時の気持ちが又なんともいえないよろこびに胸がふくらんでくる。
本当に胸がドキドキしてくるものである」と回想している。
「一通の手紙、粗末な慰問品、それはつまらないのであったかもしれないが、
士官たちの月並みな訓話など比べ物にならない、はげまし力づける心の糧となった」
・・・・


。。。

捕虜
15年戦争期に日本軍が大量の捕虜を出した最初の戦闘は39年のノモンハン事件であった。
日本側は約1.000人の捕虜をだし、停戦協定後捕虜交換で帰ってきた。
関東軍は将兵に対する捜査を実施した。
軍事情報が漏洩したのではないか、また処刑されたり、自決を強要されたりすることが少なくなかった。
自軍の将兵が捕虜となることを認めず、
中国人捕虜を虐殺する方針をとった日本軍と対照的に、
中国軍では日本軍捕虜を人道的に扱う方針をとった。


「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行



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行軍と食糧

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)


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行軍

二年、三年といった出征期間のうち、
実際の銃撃戦などの交戦状態にあった期間はそう長くはなかった。
まして、前線ではなくて、おもに後方にあった輜重部隊などは交戦の機会はより少なかった。
来る日も来る日も行軍の日々を体験した兵士は少なくなかった。
正規の装備は25~30Kgほど、時には食糧などにより50㎏ほどにも膨らむことがあった。
兵はその装備を担いで、列をなして延々と徒歩で行軍した。
予想される敵との交戦地域を目標として、1日30キロ前後を進むことはざらであった。
敵襲の恐れがあれば、夜行軍となることもある。
暗黒の世界を疲労や睡魔と闘いながらひたすら歩くのである。
気象や地形の悪条件が加われば、そのつらさは並大抵ではなかった。
雨がつづけば、道は、道と呼べないただのぬかるみになる。
。。。

食糧事情

兵士にとって行軍は基本的には過酷なものであった。
それに輪をかけたのが、食糧事情の悪さであった。
日本軍が「現地調達」主義を取り、十分な補給体制をとらなかったことについてはすでに多くの指摘がある。
日中戦争以後は前線の日本兵は飢餓戦場をさまよいながら戦争をしていたともいえよう。
補給態勢がおそまつなため食糧難に陥った兵士は「現地調達」によって活路を開こうとした。
しかし日常的に可能なわけでない。
農作物を取りたい放題の時期の農村を行軍しているのでもなければ、
食糧は人家・集落にたどり着けねば手にはいらない。すでに日本軍の略奪を経験した村では、物資も人も避難していた。
略奪を厳禁する部隊もあったが、その場合でも軍票で購入する形式がとられた。
実質的な略奪と異ならなかった。
・・・
水と食事
兵士は水筒に水を入れて行軍を開始するが、大切に飲んでもせいぜい数日しかもたない。
喉が渇ききった兵士は、川やクリーク、道端の水たまり、民家の桶に遺された水。
運よく収穫期の水田地帯にでもいれば主食は取り放題であっても、副食はやはり乏しかった。時折姿を見せる野犬は貴重な副食となった。
野菜もえられず、馬用の餌まで手を出さざるをえないこともあった。
・・・

戦争栄養失調症
徐州会戦に参加した兵士のなかから、下痢症状が長くつづいたあげくに死亡するケースが多発した。
関東軍の軍医らが病理検査や解剖などを重ね、死亡原因の特定に務めた。
見解はアメーバ赤痢が原因とするものと、実質的な餓死であるとするものに分かれたが、
「戦争栄養失調症」という新たな病名が付けられた。
中国戦線においてもかなりの餓死者が出ていたのである。
大陸打通作戦に参加した軍医は、回想する。
「当時栄養失調と呼んだ病気の中のあるものは重症脚気であり、また全身の機能の衰えであった。
それらの原因が、肉体的な激しい労働と偏った食糧、その絶対量の不足によったものは言うまでもない」
中国の南部ではマラリアに感染する兵士も多かった。
兵にキネーネという特効薬が配られているが、十分な量ではなかった。

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行
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日中戦争の泥沼化

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
日中戦争の泥沼化

徐州

1938年春、華北と華中の結節点ともいえる要衝、江蘇省徐州に中国軍50~60万人が集結した。
その殲滅を企図した大本営は、大規模な包囲殲滅戦である徐州作の実施を4月7日に命令した。
しかし日本軍(6個師団余り約20万人)は中国軍をほとんど補促することができず、
5月19日に徐州を占領しただけに終わった。

大本営は武漢攻略作戦に着手した。
当時武漢は中国軍主力の拠点であり、国民政府・党の機関も存在していたため、
その攻略が戦争終結に結びつくと期待されたのである。
また国民政府の遷都先である重慶は、武漢からさらに1.000キロほど揚子江をさかのぼったところにあった。
重慶を攻撃するためには航空機による爆撃しかなく、
そのためにも武漢の攻撃は必要とされたのである。
また7月末には武漢に加えて軍需物資の入口となっている広東省を攻略する方針を決定した。
30万人の兵力を投入して8月22日に発動された武漢作戦は、
10月26日の武漢攻略により幕を閉じた。
武漢を攻略したものの、中国軍主力は退却しており目的は果たせなかった。
10月12日、広東では上陸作戦が実施された。
日本国内では武漢や広東の陥落が華々しく報じられたが、日本の軍事動員力は限界に達しつつあった。
もはや前線への補給もままならない状態で戦線が拡大していったのである。



「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行

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重慶爆撃

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)


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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行


重慶爆撃

1938年(昭和13)12月25日、
日本軍は首都重慶にたいする爆撃命令を発した。
目標には「重慶市街」「「中央公園」が掲げられ、軍事目標主義から逸脱した爆撃が意図されていた。
重慶爆撃は都市恐怖爆撃、あるいは敵国民の抗戦意思破壊という、まったく新しい航空戦力運用の思想を開示するものだった。
第一期の重慶爆撃は1938年12月26日から39年10月7日まで30数次にわたって実施され、39年だけの被害者数は死者4.000~5.000人前後に及んだ。
第二期の重慶爆撃は、
40年5月~8月、日数32日に及んだ。
焼夷弾1.000発が投下された6月28日昼の爆撃では「市内、阿修羅の巷と化し全市火炎に覆われた」。
40年の重慶の空爆被害は、死者4.149人、負傷者5.411人とされる。
・・・
日本政府は「重慶政府は将に壊滅に陥らんとするに至り」との認識を持った。
・・・・
日本の対中爆撃に対する国際的批判が高まるなか、
日本の国際法学者は自国の立場を擁護する論陣を張った。
立作太郎は、日本軍は軍事目標を爆撃している。
都市は高射砲を備えていれば「事実上の防守状態」となり、攻撃は合法状態であると日本軍を正当化した。

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戦死と遺骨と靖国神社

2021年07月31日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)




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戦死と遺骨

中国戦線での兵士の戦死は、どのように遺族にもたらされ、その後その死はどのように扱われていったのであろうか。

徐州南方約200キロの正陽関攻略戦で、1938年6月9日神奈川県出身の伍長が戦死した。
4日後の13日、家族に弔電が舞い込んだ。
同じ日「壮烈なる戦死を遂げた」という電報が届いた。

15日、新聞に戦死が報じられた。
6月16日付けで、小隊長が戦士に至る経緯を3.000字余りでしたため父母あて送っている。

6月20日付けで部隊長が1.000字足らずで同様の手紙を送った。
7月12日付けで戦死通告が父あてに発せられた。
これは戦死の場所と時刻、死因が記された事務的なものである。

8月5日工兵隊で慰霊祭をして、その日遺族のもとに帰り地元の駅では住民たちに出迎えられた。

8月29日、地元の村で葬儀が営まれた。
葬儀委員長は村長で、村の在郷軍人会、青年団、郡・県の各界からも参列あり、小学児童も含めて500名を超える参列者であった。
陸軍大臣・参謀総長・教育総監からの弔電もあった。

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行



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招魂式

靖国神社による戦死者の招魂式が催された。
1941年3月、Sの遺族のもとに
靖国神社臨時大祭委員長・海軍大将永野修身名で案内がもたらされた。
招魂式は4月23日午後7時30分から
臨時大祭は4月24日から28日まで
参拝できる範囲は、
「妻子、相続人、父母、祖父母」など「血縁の近きもの」から2名まで。
英霊は14.976柱、参列した遺族は3万余り。
遺族の居住地は、沖縄県、朝鮮、台湾、関東州、「満州国」、および外地まで及んだ。

列車、連絡船など運賃は無料。
参拝遺族には明治神宮絵画館、上野公園の博物館・動物園などの無料参観券が送られた。
歌舞伎座・明治座・新橋演舞場・東京宝塚劇場などでは「慰安会」、
4月29日からは靖国神社境内で昼間は相撲、夜間は活動写真が催された。
金品は、各家庭に15円。陸海軍省から記念品。
宿泊料補助として一人当たり21円、車賃5円、パンや弁当や写真や絵ハガキも贈呈。
代々木練兵場での天皇行幸の観閲式には「特別の場所」が用意された。

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行



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刺突訓練

2021年07月31日 | 昭和11年~15年



刺突訓練




藤田茂中将は、戦後、中国でのBC級戦犯裁判のなかで、新兵教育について
「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である」
「即ち度胸試しである」
「銃殺より刺殺が効果的である」
と将校に指示したとある。
ここでいう「刺殺」とは「刺突(しとつ)」と呼ばれたもので、
銃剣を構えて木などに縛り付けた人間に突進し、刺し殺すことである。
新兵に度胸をつけるために「教育」としておこなわれたのである。
15年戦争期には戦地で日本軍により一般的におこなわれていた。

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中国人ゲリラ二名はすでに四時間近い拷問でボロボロの状態であった。
拷問にかけた以上は殺してしまう、というのは当たり前になっていた。
三十代の補充兵に突くことを命じた。
「突けっ」の号令に補充兵は叫び声を上げながら突進し、銃剣を突き出した。
しかし銃剣は空を切るばかりであった。
「ちゃんと突かんか」という怒声に、補充兵は体ごとぶつかるように銃剣を突き刺した。
二度、三度と・・・。
補充兵はその後、呆然とそこに立ちつくしていた。

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  2008年発行


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南京大虐殺

2021年07月31日 | 昭和11年~15年

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南京大虐殺

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館  20087年発行



南京大虐殺

1937年(昭和12)12月、
日本軍が南京に接近しはじめると、多くの住民が市外に避難を開始する一方、
上海方面からは敗走兵や難民がぞくぞくと南京に流れ込み始めた。
この南京防衛に中国軍は約10万余の兵力を配置し、兵以外の軍関係者を含めると総勢15万人に上った。
南京事変当時105万~115万人の軍民がいた。
12月10日、東側と南側から南京城総攻撃が開始された。
12月11日夕方、中国軍は壊滅状態に陥った。
12月13日、日本軍は南京城に入城するとともに掃討線を開始した。
軍が直面したのは戦意を喪失して集団で投降してくる大量の中国兵であった。
日本軍、第16師団では、
「だいたい捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くること」とされ、
中国兵の降伏を受け入れずに「処置せよ」との師団令が出された。
捕虜として遇することなく虐殺せよとの命令が、
師団・旅団・聯隊レベルから発せられ、それが実行されていったのである。
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掃蕩戦

南京戦に参加した日本軍約20万将兵は、1937年12月13日以降掃討戦に血眼になり、
投降兵を虐殺する一方、敗残兵や「便衣隊」を捜し出しては虐殺した。
「兵隊に違いない者ばかり」を選び出した。
一般民から兵隊を選び出す根拠は何であったのだろうか。
「靴ずれのある者、
面タコのある者、
きわめて姿勢の良い者、
目つきの鋭い者」を客観的な証拠もないまま「便衣隊」として選びだした。
『抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよ』と、
軍司令官・松井大将からの命令を実行した。

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幕府山の捕虜虐殺

最大規模の集団虐殺が幕府山の中国兵1万数千人の虐殺である。
1937年12月14日、
南京城から北へ4㌔離れた幕府山要塞での戦闘で、1万数年人の捕虜とした。
山田少将の日記には、
「捕虜の始末に困り、学校の収容せし14.777名を得たり」
本部より
「皆殺せ」の指示を受けた。
12月16日より捕虜の虐殺が開始された。
12月18日までに一人残らず銃殺された。
死体は12月18日と19日で片づけられた。
石油をかけて焼いたが、おそらく基本的には揚子江へ遺棄される方法がとられたであろう。
50m間隔で30丁の機関銃を据え付け、捕虜めがけて乱射したという。
約1時間一斉射撃が続いたという証言もある。

・・・
下関(かかん)の虐殺

12月13日、南京の郊外・下関、
揚子江に2万の人々があふれていた。
小舟や筏で逃れようとする中国兵目がけて日本軍は容赦なく機銃掃射を浴びせた。
川面には民間人、子供の死体が浮かんだ。 
下関の状況を目撃した第六師団の小隊長は、
「ほとんどが民間人に間違いないと思われた」と後に回想している。

・・
組織的殺戮以外にも、日本軍兵士による略奪・放火・強姦が南京のいたるところで繰り広げられた。
強姦した後には、犯罪発覚を防ぐため、女性を殺害するのが通例であった。

日本軍が南京総攻撃を開始してからの約2ヶ月間に南京城内外で虐殺された中国兵捕虜・敗残兵などと一般住民の犠牲者数は、
「10数万以上、それも20万人近いかそれ以上」と推計されている。
中国側では公式的な見解では、被害者数30万人とされている。


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三軒屋(広島県福山市千田町)の雨傘

2021年07月25日 | 昭和で無くなったり・変わったもの(生活・暮らし・産業)
小学生の時は、
”傘”といえば番傘、竹と油紙で作った傘。手に持つと重いことと、豪快な雨音がしていた。
洋傘は”コウモリ”と呼んでいた。

学校の備品として生徒全員に雨傘が備えてあったが、その傘は千田(せんだ)で作っていたとは知らなかった。


・・・・・・・

「千田学区地域誌」  千田学区町内会連合会  2008年発行

三軒家の雨傘

三軒屋の雨傘製造は、今を去る二百数十年くらい前からあり、
その後、次第に増え、大正から昭和にかけては住み込み職人を置いている店もあり、
下請けを入れると実に14~15軒にも及んでいました。
販路も広く、県外にも広げて年間の生産量は三万数千本にも達していました。

各地から見習いに来て、三軒屋で修業し地方に帰り、独立営業する人も数多く見られました。
裏山や田んぼの小溝などに傘を干し、遠くから見ると一面に花が咲いているようで実に壮観でした。




9月になると、青い渋柿を買って、唐臼でついて柿渋を作ります。
油は主にエゴマの油・桐油で、戦後油が不足すると松根油を少し混ぜていました。
糊はワラビ粉を炊き柿渋を混ぜて作ります。
紙は芦品郡阿字村等から買っていました。

一世を風靡した三軒屋の雨傘も時代の変遷と、戦後大量の安い洋傘が普及するにつれ、
昭和30年代後半にその姿を消してしまいました。

千田村で農業以外の生産で、主力産業であった三軒屋の姿を永く後世に伝えたいものです。




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北木島「大浦監視硝」

2021年07月25日 | 昭和16年~19年
10年ほど前、北木港の待合所で元バックリ山の監視硝に勤務していた人の話を聞いた。
その時、女性3人ほどいて次のような話だった。

全員青年学校、北木と真鍋の女性がバックリ山を登っていた。
若いので苦も無く、楽しいばかり。

楽しいばかりというのは、ほぼ同年齢の人が玉野の造船所などに行き、それに比べると恵まれているという面が大きい。

なお邑久の監視硝は全員男性、
現笠岡市では表にバックリ山が載らず、小丸が載っている。どんな事情があるのだろう。


「笠岡市史3巻」 笠岡市 ぎょうせい 平成8年発行

空襲が激しくなり、岡山県でも約20か所の山頂に「防空監視硝」が設置し、
笠岡地区内では北木島村大浦のバックリ山の山頂に「大浦監視硝」が設けられ、
瓦ぶきの屋根にガラス張りの窓、部屋には事務所と奥には休憩室が用意されていた。
この監視硝では北木島村の大浦・豊浦・金風呂の各地区と真鍋島村・白石島村の女子青年団が5班に分かれて毎日交代で24時間体制による敵機の監視が続けられた。
「敵機発見」の言葉は部屋に備えた電話で、村役場→県庁の監視隊本部→中部軍幹部司令部へと伝えられ、
管内情報によって警報が発令される仕組みになっていた。



「北木を語る」 元気ユニオンin北木 平成8年発行

1945(昭和20)
大浦防空監視哨設置
本土空襲に備えて、バックリ山の山頂に設けられた。
監視には、北木島大浦・豊浦・金風呂・真鍋島村・白石島村の女子青年団員が動員された。
5班に分かれ24時間体制で監視に当たる。
県下20ヶ所笠岡地区唯一の監視哨で、敵機発見の情報は、北木村役場経由で直ちに中部軍区司令部に送られました。



・・・・・



「勝央町誌」 勝央町  山陽新聞社 昭和59年発行

防空監視硝

勝間田町平(現在の工場公園内スポーツ公園付近)に防空監視硝が常設されていた。
昭和16年12月16日「防空監視隊令」が制定され、ここに防空監視硝が設けられたもので、
勝間田青年学校の生徒が硝員となり二交代で毎日24時間硝舎の屋上に設けられた監視硝で空をにらんだ。
硝舎と警察には直通電話が敷設されていた。
監視硝建設費、演習費は町村が年々補助した。





・・・・・


「奥津町史」  奥津町  ぎょうせい 平成17年発行

奥津防空監視硝

「岡山県史」に「その設置数については県内で20か所ともいわれているが正確な数は不明である」と述べている。
しかし、昭和16年の防空計画では22ヶ所の監視硝が新設されているところをみると、
その数は数十か所にのぼるのではなかろうか。

監視硝長及副硝長
主として青年学校指導員及び在郷軍人にして指導能力良好なる者

監視硝員
青年団、青年学校生徒及び之に類するもの。長期間服務し得る者。
聴力・視力・体力に優れた人物。
年齢は15歳以上、班編成は5~7班。総員は60人である。

勤務は午後5時から24時間勤務。
一班7名で、班長は総括
2名は立硝、1名通信士、3名仮眠、一時間で交替した。
青年学校生は非番時には登校した。
慰問者はしばしばあった。
炊事はレンガ作りのかまど、飲料水は下の谷川まで降りて天秤で日に二度運搬した。
仮眠用ふとんは不衛生でノミが多く安眠を妨げた。

爆音を聞くと肉眼で確認し、飛行方向・高度を判断し、
さらに双眼鏡で確認して大声で通信士に連絡する。
通信室には警察電話があり、津山警察署と奥津駐在所で同時に受信された。

昭和16年度計画岡山県防空監視硝表(井笠地域)
7・笠岡監視硝  小田郡笠岡町小丸山頂
8・井原監視硝 後月郡西江原町大字寺戸字青陰(青陰城跡)
9・矢掛監視硝 小田郡矢掛町大字矢掛蛸ノ山
計22ヶ所






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