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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徳川家康 (しかみ像)

2021年06月10日 | 銅像の人
場所・愛知県岡崎市   岡崎城

有名な「しかみ像」(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』)を石像化したもの、岡崎城にある。






三方ヶ原の合戦

武田信玄は元亀3年(1572)10月、風林火山の軍旗をひるがえして、ついに天下統一の戦旅に立った。
目指すは京都。そこから天下に号令しようというのである。
従うは歴戦の騎馬軍団3万。
その戦国最強ともいうべき軍の行手に第一番に立ちふさがったのは、浜松に居城をもつ青年武将徳川家康だった。

戦いの非は戦う前に明白だったが、家康は決然、1万余の兵をもってこれを浜松城北方の三方ヶ原に迎撃した。
12月22日夕刻、戦闘は開始されたが、しょせんは信玄の敵ではなかった。
家康も死を覚悟したほどの大敗北の末、命からがら浜松城に逃げ帰った。

家康側の死者1千余、
死者は頭を武田側に向けて倒れている者はすべてうつむきになっており、
浜松城の方を向いて倒れている者はすべて仰向けになっていたという。

文芸春秋デラックス「戦国日本合戦譚」8月号   文芸春秋  昭和49年発行







撮影日・2014年10月10日


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家康公・竹千代像ベンチ (岡崎)

2021年06月10日 | 銅像の人
場所・愛知県岡崎市康生町  岡崎公園


家康は、天文11年(1542)、三河の土豪・松平氏の宗家8代目目に当たる岡崎城主・松平広忠の長男として生まれた。
信長は8歳
秀吉は5歳
であった。
母は三河刈谷城主・水野忠政の娘で於大(おだい)といった。
家康3歳の時、於大の父・忠政が病死。その子信元が跡を継ぐ。この信元が西の隣国・織田信秀と友好関係を結んだ。
於大を離縁し、実家に追い返した。
なさけない話だが、それほど今川と松平には力関係に差があった。

はるか後年、今度は自分も信長に脅されて妻と長男を棄てるのである。

「家康に訊け」  加藤廣 新潮社 2019年発行




岡崎市公式サイト「岡崎公園」

家康公・竹千代像ベンチ
徳川家康公はここ岡崎で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。
このベンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。
家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じて下さい。









「家康 最後の勝利者」 土橋治重 成美堂  昭和57年発行


岡崎城

岡崎城主になった元康には、これからどのように動くか、新しいプランが要求された。
義元を討ち取った信長にどれほどの力があるのか、また
氏真は父の復讐戦に出陣してくるかどうかが問題だった。

桶狭間合戦のとき、岡崎城へ引き揚げるようにすすめた、刈谷城主の水野信元が使者を送ってきた。
和議や同盟の話だった。
元康はおもな家人たちにも話し、信長と攻守同盟を結んだ。
そして、元康がこの締結に大きな期待をかけ、誠意をもっていることを示すために、
尾張の信長を訪問したのは、一年置いた永禄5年正月11日のことだった。
21歳の元康と29歳の信長がこのように会った。


突然の一向一揆

元康は家康と改名した。
今川と縁を切った以上、義元にあやかった「元」は必要がなかった。

信徒にとっては領主や豪族よりも、死後は極楽浄土への道を教えてくれる僧侶のほうが、存在価値が大きかった。
一揆は三河国全部にひろがり、あちこちで合戦が行われた。
家人の大半は家康の命令に服さなくなった。
合戦は、相手に勝って死傷者を多く出させては困るのである。
合戦は次第に家康側に有利になってきた。
相手の講和条件をすべて賛成し、和議は決まった。
一揆側についた家人たちを許したのは、家臣団の力を減じなかったことであり、雨降って地固まることになった。


駿河に侵入

この年(永禄10年=1567)の暮れ、甲斐の武田信玄が大兵をひきいて駿河に侵入したのをきっかけに、
武田、徳川の今川領の争奪戦が始まった。
信玄は家康に「大井川を境に東は武田、西は徳川で」と申込みがあった。
徳川氏は遠江の大半を領地に加えることによって、ほぼ60万石の大大名になったが、
岡崎城では西に片寄りすぎた。
浜松城に本拠を移すことにした。









撮影日・2014年10月10日



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徳川家康(竹千代)

2021年06月10日 | 銅像の人
場所・静岡県静岡市 JR静岡駅構内

徳川家康

岡崎城主松平広忠の子に生まれたが、6歳で織田、8歳で今川の人質となり、
その間に父が横死し、領国は今川の軍政下におかれて、小国の悲哀をつぶさに味わった。
桶狭間合戦に今川義元が討たれ、19歳にして岡崎に戻ったのである。

「教養人の日本史3」 脇田修  脇田修 昭和42年発行







「日本史探訪12」角川書店編 角川文庫  昭和58年発行 

徳川家康

≪天文11年(1542)徳川家康は、三河の国、岡崎城内に産声をあげた。
隣国尾張に生まれた織田信長に遅れること8年、秀吉よりは5年遅い誕生である。
祖先は松平郷の小さな豪族であったが、
家康の祖父清康の代には岡崎城に移り、三河一国を手に入れる勢力となった。
しかし東は今川、西は織田という東西二つの強力な勢力にはさまれ、苦しい立場にたたされていた≫


山岡荘八
家康は、実に運がよい人だと言われるんですが、
ぼくは、このくらい運の悪い人はなかったと思うんです。
お祖父さんは14歳の時に殺されていますし、
お父さんは26歳で殺されている。
母親とは1年半しかしっしょにいられないし、
こして今度は満4歳で、人質に出される、非常に運の悪い人で、
ていていの人なら、そのどこかでまいるところです。

山岡
とにかく織田と今川の取りっこですよ。
岡崎の大将ぐらいでは、どうにもならんのです。その両方の機嫌をうまくしなければ、生きていらない。



≪祖父は部下に殺され、父はまだ若く、今川義元の援助を受け、幼い家康を人質として差し出し、
かろうじて松平の家名を保つありさまであった。
さらに広忠の急死によって、主のいない三河は、まったくの保護領となり、
三河家家臣団の苦闘と忍従の生活が始まる≫


≪16歳で、今川家の重臣の娘と結婚した。
築山殿で、家康より八ツ年上であったという≫


山岡
家康はほんとうの戦争孤児だったと思うんです。







「日本史人物列伝」  奈良本辰也  徳間文庫  1988年発行

徳川家康

松平家家臣団は、家康が人質になっていた10年余というものを扶持米もなく百姓同然の姿で追い使われていたのだった。
『三河物語』は大久保彦左衛門の思い出話など綴ったものだが、
それによると、その領地から上がる年貢はすべて駿府へ運ばれて、米一粒も家臣たちには与えられなかったという。
そればかりか、生活に困った家臣たちが田畑にでて手作りすると、それにも年貢をかけて取る始末だったという。
これもひとえに、君の安全を願ってのことであった。

人々を安心させる律義さ
家康は、人々を安心させるものを持っていた。
何事にも心を込めて、これを行うという風が見えたのである。





撮影日・2014年10月9日


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源義経対平知盛像

2021年06月10日 | 銅像の人
場所・山口県下関市みもすそ川町   みもすそ川公園
建立・2004年(平成16年)


敗戦を悟った平知盛が、碇の綱を体に巻きつけて入水しようとする「碇潜」(いかりかずき)と、
敵の攻撃を華麗にかわす義経の「八艘飛び」のシーン。

宙に舞う義経の甲冑や、怒れる知盛の表情など、見どころ満載な銅像である。

「日本の銅像完全名鑑」







 
平知盛


見るべきほどのことは見つ

午後3時、関門海峡の潮の流れが変わった。
朝のうち、平家方有利のちに展開していた戦いは、これを境に一変する。
潮に乗って疾風のように寄せる源氏の白旗。
今や平家の敗色は明らかであった。

新中納言知盛の卿、小舟に乗って御所の御船に参り、
「世のな中、今はかうと見えて候。
見苦しからむ物ども、みな海へ入れさせたまへ」とて、
艫(ともへ)に走り回り、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。
女房たち、
「中納言殿、戦はいかにやいかに」と口々に問ひたまえば、
「珍しき東男をこそ、御覧ぜられ候はむずらめ」とて、からからと笑ひたまえば、
「何でふのただいまの戯れぞや」とて、声々にをめき叫びたまひけり。

・・・

新中納言、
「見るべきほどのことは見つ、今は自害せむ」とて、(略)
中納言に鎧二領着せ奉り、がわ身も鎧二領着て、手を取り組んで、海へぞ入りにける。



『平家物語』巻11 先帝身投


宇治橋の合戦で、『平家物語』にはなばなしく登場した平知盛の事績は、壇ノ浦までまずか5年間にすぎない。
源平興亡の5年間を激しく生き抜いた知盛、
そして「見るべきほどのことは見つ」と叫び、関門のうず潮にのみこまれていった知盛、
この時、新中納言知盛、34歳であった。







平家滅亡

一ノ谷、屋島と、源氏に敗れた平家は、本州の最西端長門へ本拠を移した。
文治元年(1185)3月23日、長門の満珠島、干珠島の周辺は、源氏の水軍で埋まっていた。

平家は正面から戦いをいどむべく、本拠地彦島を捨てて、全船団を田ノ浦へと進めた。
源氏の軍までわずか4kmである。
安徳天皇、建礼門院はじめ、一門の女房たちが乗った唐船も、戦場へと向かった。
平家のこの戦いにかける覚悟が知られる。

『平家物語』によれば、平家随一の武将能登守教経は,数多の敵を射落とし、
義経をあと一歩まで追いつめたが逃がし、今は最後と、
源氏の兵を小わきに身を海に躍らせた。

教経に先だち、清盛の妻二位尼も、これまでと、
幼い帝を抱いて身を投じる。
建礼門院も、わが子の最後を見て海中へ。
そして多くの女房、武将が次々と海中に沈んでいった。
清盛の四男知盛は、すべての戦況を見定めたのち、鎧二領を重石がわりに、海に沈んだ。
ながて主を失った舟ばかりが、波に漂い、流れていったという。


平家滅亡のあとも、源氏の落ち武者狩りはきびしかった。
それとともに、平家ゆかりの人々は山深く散っていった。
今も平家を名のる土地は多い。


「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫  昭和59年発行 










「日本史探訪6」角川書店編 角川文庫  昭和59年発行 
司馬遼太郎

源義経


司馬
義経というのは、まったく史上まれにみる軍事的天才です。
たとえば、
馬に乗った人間--つまり騎兵を騎兵として使った、世界史上、最初の人物といっていいですね。



壇ノ浦
源平両軍は壇ノ浦に集結し、最後の決戦に臨む。
『吾妻鏡』では源氏840余艘、平家500余艘。
『平家物語』は、源氏3.000余艘、平家1.000余艘に唐船少々としている。
戦闘開始は午前6時、平家側から。
午前8時半ごろ潮は東に流れ始めた。
午前11時半過ぎ、潮はもっとも早くなった。
源氏は追われる身となって後退の一途をたどる。
もはや勝敗は決するかに思われたが、
潮の流れは逆流をはじめたのである。
午後3時半ごろであった。≫


司馬
それまでの、普通、偉い人というのは階級や官位が高いことだったんです。
ところがそのときの義経というのは、官位はなしでしょ。源九郎というだけです。
それがある朝、目がさめれば、源義経というのは京都じゅうの子供まで知っているというような状態になる。


「おごれる人も久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、
ひとへに風の前の塵に同じ。」
『平家物語』


司馬
義経は、ついには頼朝に追われ、奥州で最期を遂げるわけですが、
この悲劇というのは、結局、義経みずからが招いた罪だということも言えますね。




撮影日・2015年2月20日



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