しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦中戦後の国民学校⑤神島内国民学校

2020年12月31日 | 城見小・他校

(神内小学校の坂道 2019.4.9) 笠岡市神島


神島内国民学校


「神島史誌」


昭和12年12月14日 南京陥落で旗行列

昭和13年10月28日 武漢陥落で旗行列

昭和14年1月10日 二宮尊徳の銅像を建つ
    4月4日 入学式 新入生=尋男19 女29 高男18 女25
    4月19日 尋5以上、金毘羅詣り

昭和15年8月 山林開墾
    10月13日 国民大会・大政翼賛・三国同盟で旗行列

昭和16年4月1日 神島内村第一国民学校と校名変更
    10月30日 神島内村実務女学校を廃止、生徒は青年学校に収容する

昭和18年9月1日 小田造船神島工場で短艇「かみしま」進水式行う
    9月9日 全児童ツベルクリン実施
    9月12日 神島内村青年学校は笠岡・今井・神島内村3ヶ村組合立で設置のため廃校となる

昭和19年5月16日 高の煉瓦工場へ奉仕
    5月17日 古江の煉瓦工場へ奉仕

昭和20年2月4~5日 松根油製造つくり奉仕
    4月18日 高等科生、東村の山林開墾に着手
    6月22日 米機空襲。機関銃弾、付近に数発落とす
    9月12日 在郷軍人会神島分会が解散式

昭和21年10月 教育勅語の廃止

昭和23年4月 6.3.3の新学制実施
    5月21日 女児に対しDDT散布
    7月15日 BCG接種

昭和24年12月16日 神島肥料従業員で内村出身者が寄付して二宮尊徳胸像再建

昭和25年4月6日 入学式、入学児は男37、女30。2学級。


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戦中戦後の国民学校④横江国民学校

2020年12月31日 | 城見小・他校

(元・横江小学校跡地 2019.12.15) 笠岡市横島

横江国民学校

「神島史誌」より


昭和14年2月12日 伊勢参宮旅行に出発。15日帰校。
    4月3日 6年生、高島宮に参拝
    7月31日 八幡巡り

昭和15年7月23日 母の会誕生

昭和16年3月8日 横江少年団(3年以上129人)
    3月12日 神島内村青年団結成に参加
    4月4日 入学式、男16、女15

昭和17年1月5日 6年生男女20名、伊勢神宮旅行、8日帰校。
        資源愛護のためドングリ収集を行い、出荷代金5円60銭を陸海軍に献金

昭和18年5月4日 4年以上の児童、笠岡町大和座でハワイマレー沖海戦映画を見学
    8月23日 4年以上勤労出動、野草刈り、堆肥の材料約二百貫
    9月6日 馬草供出
    11月27日 ヒマ繊維を採取、供出

昭和19年2月24日 女子挺身隊壮行式、本区より4名出発
    7月20日 海の記念日に片島海水浴場で少年団員、全員出席し手旗、水泳、音楽訓練

昭和20年4月4日 入学式。男15、女14.
    4月27日 5.6年生全員終日開墾
    5月5日と11日 敵飛行機、頭上通過
    5月27日 小体育会。午後、義勇隊の結成会。婦人会は竹槍訓練
    5月30日 3年生以上、前8時半より後3時まで大殿洲開墾作業を実施
    6月1日 開墾地約2畝完成。サツマ芋の植付け終わる。






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戦中戦後の国民学校③高島国民小学校

2020年12月30日 | 城見小・他校

(元・高島小学校) 2012.4.8 笠岡市高島


「学校誌~統合に寄せて~笠岡市立高島小学校」 昭和55年発行

高島国民学校


昭和11年5月 電灯が点ぜられた。ラジオの設置。
     8月 帝国大学名誉教授黒板博士神武天皇聖跡調査のため来校。
昭和13年7月 神武天皇聖跡調査のため文部省より保安課長来校。
昭和14年9月 毎月1日を興亜奉公日と定められた。
昭和15年4月 ご真影を奉戴した。
     6月 二宮金次郎の石像建設竣工、直ちに除幕式を挙行。
昭和16年4月 学生改革により「高島国民学校」と校名を変更した。
昭和19年4月 高等科を設置した。
昭和22年3月 学生改革により「国民学校」が廃止され、初等科6学年まで小学校に、
       高等科を中学校に改められた。
     4月 学生改革により「高島小学校」と校名を変更した。




おもいで
昭和21年度卒業生 Y男

昭和16年4月、男は黒土・高須・王泊から12人。女は1人、差出から1人。
計14人が国民学校1年生として入学した。

まもなく大東亜戦争がはじまり、先輩たちはどんどん戦地へ召集され、残されたものは、婦人と老人ばかり。
毎朝早く起こされ、先輩たちと神社参拝をし、武運長久を祈り、
冬は乾布摩擦をし、ズボン一枚でわっしょいわっしょいと走って帰った。
靴はなく素足か草履履きであった。
ならった歌は軍歌ばかり。
芋ほりをし、麦蒔きをし、麦刈りをして農繁期には学校は休みになり、お手伝いをしたものだった。
4.5年頃には開墾もどんどんやらされ、少しでも農産物をとみんなと一生けんめいだった。
そのため、野山から草刈り競争、堆肥をつくり、ドングリを広い、校庭で炭を焼き、防空壕堀りをし、ヒマシ油作り、思えば労働の連続だった。
百町の畑、末子の開墾畑、米子はことの他空しゅうの最中の開墾だった。
一列で下校中B29の飛来は、幼心にも戦争のきびしさを肌身に感じつつ精いっぱい働いたようだ。


複式授業だったので予復習はいつも夜学へ行ったものだ。
だれかが教えてくれた。
また、教育勅語を暗記させられたり、複式授業だから上級生の勉強も知らず知らずのうちに覚えた。
当時は正教員も少なく、代用教員が教えたりしており、質問をして困らせたこともあった。

学芸会や運動会、校庭での肉弾戦などさまざま楽しい思い出です。
5.6年生の頃は、全校生徒70名もいたと思う。そのころは本当に楽しかった。

当時は先生方は島に泊まって共に生活しておられた。
土曜日になると、神島まで船で送っていたものです。
4年生の頃から2.3人で櫓を漕いで、先輩に潮の流れを教えてもらって、風が吹いても平気で送っていったものです。
これも当時の生きた教育ではなかっただろうか。

5年生の8月15日に終戦。
6年生の時、私は進学を志し必死で勉強した。
でも本は焼かれ或いは墨で黒く塗られ、当時の恩師K先生の指導は大変だったと思う。
受験を目指して勉強している時、学校は6.3.3制になり、私たちは、この年から義務教育の新制中学で、神島外中学校に行くことになった。










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戦中戦後の国民学校②吉田国民学校

2020年12月30日 | 城見小・他校

(元・吉田小学校尾坂分校 2019.11.23) 笠岡市尾坂

吉田国民学校

「吉田小学校百年史」 平成12年発行より



昭和16年 学生改革、吉田国民学校と改称する 吉田国民学校尾坂分教場と改称する
昭和22年 新吉中学校創立に伴って高等科を廃止し、吉田小学校と改称する 吉田小学校尾坂分校と改称す
     ミルク給食を開始する


小学校の思い出 S子(昭和20年卒業)

昭和14年、私は尾坂分教場へ入学しました。
1.2.3年生全員50人が、1つの教室で1人の先生に受け持ってもらいました。
複複式学級です。
3年になると、1.2年生の勉強を半分聞きながら勉強をしました。

2年生の時、紀元2600年の式典がありました。この時の写真が1枚あります。
小学校の6年間で写真はこれ1枚だけです。

昭和16年小学校が吉田国民学校になりました。そして戦争がはじまりました。
当時電気製品は電球一個家の中にあっただけでなにもありません。

戦争が始まったのはラジオのある家におとなが集まって聞きました。
しばらくしてラジオを買いました。

そのうち尾坂から若いお父さんやお兄さんが戦争に出ていくようになりました。
私たちは氏神様にお参りして兵隊さんの武運をお祈りして関戸の切れ滝というところまで送っていきました。

服も食べる物も不足しそのうち配給になりました。
親が夜なべして藁草履を作っていくれて、それをはいて学校に行きました。

4年生になると本校に通います。
その頃になると吉田村から戦争に行った人が戦死され私たちは吉田駅から道へ並んでお迎えしました。
若い看護婦さんが戦死されてきれいな写真が遺骨とともに帰ってこられたときは涙がでました。
校庭で戦死者のお葬式を吉田中の人が集まってしました村葬といいました。

6年生の頃になると、この学校にもお友達が次々に疎開してきました。
都会からこられたお友達はきれいでよく勉強できて輝いてみえました。

昭和20年3月吉田国民学校を卒業しました。
修学旅行も卒業写真もありません。



”ロクな教師でなくてすみません” M子(元教員)

昭和7年4月から昭和21年3月まで勤務することなりました。
勤務していた当時は、満州事変が終わり、満州国の誕生。
5.15事件。
昭和12年支邦事変の勃発、国家総動員法の制定、隣組の制度化。
昭和16年大東亜戦争勃発。
軍事色一色の中での学校教育だったと思います。

先生と生徒は上下関係が厳然とし、終身という教科がしつけ・モラルが厳しく、
また操行という特別の人物採点基準があり、正直さ、真面目さなど生徒の生活態度を評価したものでした。
悪いことをする者にげんこつは当たり前のことでした。

私は6年の女子組を度々担当しましたが、きまって悩みの種は進学問題で、
笠女・淳和・鴨女などへ配分すること。
受験できない人の父兄と相談すること。教育として一番つらい苦い思い出です。









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戦中・戦後の国民学校①豊浦分校

2020年12月29日 | 城見小・他校

(元豊浦分校跡地)笠岡市北木島町豊浦


「北木小学校豊浦分校百年史」


北木国民学校豊浦分校

元職員 M男(昭和13~17まで勤務)

昭和13年9月、時あたかも日支事変勃発の翌年で、日本全体が戦争態勢になりつつあった年です。
5ヶ月間の死戦を越えての厳しい軍隊生活を終え、聖なる教壇に情熱ある若き教師として豊浦分校へ赴任したのであった。

校舎は、浜近くの小さな土手に面し、枇杷の木があり、片方は八幡様と小道一つ隔てていた。
校舎も窓枠は腐り、冬の授業は寒い季節風との戦であった。
10分間の休憩は楽しいひと時出であった。教師も生徒も輪をつくり大火鉢に枯葉を燃して暖をとったものです。
その間にいろいろな会話が生まれ、これが自然な教育かとも思ったものです。

春から秋にかけては、授業中も渚に打つ波の音、鳩の声、虫の音、のどかさがあって離島ならではの感もしばしばでした。

授業は二人の教師が各々二学級を持つ複式授業、
児童は純朴であり父兄側も協力的であった。


大潮の時は潮干狩り、陸釣り、沖釣り、漁火、砂浜での遊び、山登り、木の実取り、秋の貝ほり・・・。

村も戦火の拡大につれて応召者も多く石材の生産も減少し、
壮年、青年が一人、二人と減り親兄弟を亡くす家庭も増え、学徒動員、女子挺身隊の軍需工場に狩りだされ、召集兵の送還、送迎が忙しく、
学校教育も戦時色が強く、奉安殿の建設、二宮尊徳の勤勉力行、愛国戦士の崇拝となり、
音楽も、軍歌、愛国が巷にあふれ、のどかな平和教育はどこにもなかった。
通学もモンペ姿、困難耐乏の時代であった。




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阿部山の開墾

2020年12月29日 | 城見小・他校
阿部山の開墾


阿部山の開墾は、当時岡山県農業普及員をしていた父も作業指導で行っていた。

現在の浅口市・小田郡矢掛町・笠岡市の中等学校(観生女学校・生石女学校・金光中学・笠岡商業・笠岡女学校・淳和女学校)、
および一部の国民学校高等科。
それに当地の青年団が交替で出向いていたようだ。

父も交替で阿部山に出向いていた。新山に自転車を置いて、歩いて登っていたそうだ。

阿部山は高い山で、標高350~400mあり、開墾場所に行きつくだけで相当スタミナを消耗する。
笠岡女学校の生徒の話にあるように、2時間半かけて登り、開墾作業が40分というのもわかる。


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「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行

1941年(昭和16)阿部山開墾地鍬入式が横溝岡山県知事により行われる。
1942年(昭和17)阿部山の開墾始まる。


開拓事務所よりの戦線慰問文

伝説と史話に富んだ阿部山は今すべてを昔話として雨の日も風の日も開拓即食糧増産の敢闘が続けらていまうs。
ご承知の通り移住者戸数50、一百余名の鍬の戦士は意気高らかに振り絞る汗に唯一の感激と誇りを満喫しているのでごじます。
作付けは、葉煙草を筆頭に、小麦、馬鈴薯、甘藷、除虫菊、裸麦、果樹、百数十に及ぶの盛況にございます。
馬鈴薯の如きは処女地にて、反当り五百貫を超える収穫でございます。
去る3月末配電工事が完成、電力と電灯の恩恵を受けて文化都市にも劣らぬ動力の響きと煌々たる光が前途を祝福するかの如き輝いております。
天は努力する者に常に栄冠を與え給うの真理を体得して、益々皇国農民に徹すべく念願して止まぬものでございます。



観生高等女学校

昭和17年阿部山で大規模な開墾が始まり移住者が続々と入植した。
地元観生高女をはじめ岡山一中、高梁中、矢掛中、なども動員されて、山頂の荒地に開墾を挑んだ。

観生高女・学徒隊の阿部山勤労作業記録
昭和17.7.31 阿部山開拓勤労奉仕作業
昭和18.4.23 全職員生徒阿部山勤労奉仕作業
昭和18.8.21 阿部山奉仕作業
昭和20.4.21 阿部山開墾作業(全員)




鴨方西国民学校



高等科男子開墾






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「創立90周年記念誌」から

笠岡商業学校






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「もっと勉強したかった」---講演「水島航空機製作所へ学徒動員された女学生」
「岡山の記憶第18号」 岡山.15年戦争資料センター 2016年発行より転記


笠岡高等女学校


勤労奉仕は、わが家が人手不足でも出征されているお家に行きました。
開墾作業もしました。
阿部山というところに、2時間半かかって山の上まで行って、40分開墾してまた学校に戻ってくる。


 
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学徒動員③笠岡男子国民学校・笠岡女子国民学校ほか

2020年12月29日 | 城見小・他校
国民学校の”学徒動員”は高等科に限定され、
期間も短かったようだが、・・・1~2日では邪魔になるだけ。どうだったのだろう。


「百年史」にも、下記の記述のみ。詳細はよくわからない。


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「笠岡小学校百年史」 昭和48年発行より

笠岡男子・女子国民学校



女子も男子と同様に軍需工場に動員された。





昭和19年11.27 動員学徒の壮行式(女子校)
昭和20年6.15 学徒出動(女子校・高等科2年)
    6.28 学徒出動(男子校・高等科2年) 大塚工場へ入所式
    7.23 学徒出動(報国鉄工所)(女子校高等科1年)



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「笠岡市史・3巻」より

19年11月 神島外国民学校・高等科 女子2年 安田工業(淳和=学校工場)

20年1月 金浦国民学校・高等科 2年 小田造船

20年4月 吉田国民学校・高等科 2年 安田工業(淳和=学校工場)

20年4月 北川国民学校・高等科 2年 安田工業(淳和=学校工場)

20年6月 笠岡女子国民学校・高等科 2年 大塚工場

20年6月 笠岡男子国民学校・高等科 2年 大塚工場



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学徒動員②笠岡高等女学校

2020年12月28日 | 城見小・他校
「もっと勉強したかった」---講演「水島航空機製作所へ学徒動員された女学生」
「岡山の記憶第18号」 岡山.15年戦争資料センター 2016年発行より転記



昭和4年に笠岡町に生まれました。
小学校5年生の時に、紀元2600年、ああ一億はの歌で児童生徒の総決起集会が笠岡商業学校でありました。
昭和17年4月に、憧れの地元の高等女学校に入学しました。

入学した時の一番の希望は英語が習えるということでした。
ところが2年もたたんあいだに英語が廃止になったんです。

音楽は「うみゆかば」
体育は武道、薙刀。教練、号令とか行進、分隊競争。

強行軍、リュックサックの中に2~3キロの砂袋を入れ20~30㎞、今井村大井村を回ってくる。
夏休み薬草、ゲンノショウマとかドクダミの葉っぱを採って、洗って、乾かせて、くくり9月1日に学校へもっていく。

勤労奉仕は、わが家が人手不足でも出征されているお家に行きました。
開墾作業もしました。阿部山というところに、2時間半かかって山の上まで行って、40分開墾してまた学校に戻ってくる。

先輩が日赤の看護学校に入って戦地に送り出されることになって、私たちは駅まで送りに行って手旗を振って、男の人が兵隊に行くのと同じように看護婦さんが紺色の服着てかばんをさげて、窓から乗り出している。

放課後は千人針作り。

先生は、あら、あの先生いなくなったな、兵隊にとられるんです。
残った先生は、兵隊で言えば丙種。銃後を守る男の先生はそうゆう状態でした。

動員令がかかったのが3年生の10月。
それから10ヶ月三菱水島航空機製作所に入所しました。
先輩の4年生、5年生はちがう場所で仕事をしていたようで、3年の私は1分隊10何人ボール盤に配属されました。
夜勤と交代です。
同じ仕事の人と話したことが一遍もありません。もう専ら仕事です。

寮生活ではひもじい思いをしました。
さらさらの雑炊です。

3時に終わって、4時に寮へ着いて、順番に風呂待ちして、ご飯食べて、次の朝6時前に起きて、夜になれば寝るだけ。
新聞もなし、ラジオもなし、
付き添いの先生は30分でも教えてくれりゃよかったのにと思ましたよ。

玉音放送は聞いたけど、養成工が「負けたゆうことじゃ」と教えてくれました。
歓声も涙もなく、ほけーとたたずんでいました。

9月初め学校が始まり、3学期になると今までの穴埋めの特訓でした。
4年生で京都女子大を受験してみたら通った。

戦後の2~3年食べ物がなく困った。
父がコメ袋を寮へ送ってくれるが、駅員が抜いとるんです。
お金にも、食べ物にも困った。

家は爆撃も受けてないし、兵隊にもとられていません。
何の被害も被害も受けていませんが、
女学校の時の戦時教育は・・・・(※管理人記・抗議したいような、納得できない記憶になっている)。




(写真は「笠岡高校七十年史」)




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学徒動員①生石高等女学校

2020年12月28日 | 城見小・他校
学徒動員①生石(おんじ)高等女学校

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【学徒動員】とは
ブリタニカ国際大百科事典


第2次世界大戦中に中等学校以上の学生が軍需産業や食糧増産に動員されたことをいう。
1938年から文部省は中等学校以上の学校に対して集団的勤労作業の実施を指令し,
41年には学校報国隊を組織して勤労動員が行われた。
43年に「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議で決定され,本格的に学徒動員が実施された。
44年には動員はさらに強化され,「学徒勤労令」が公布された。
45年の春には国民学校初等科以外の授業は原則として停止され,全学徒は決戦体制に総動員された。


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「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行

1941年(昭和16)学徒の動員が行われる。
1944年になると緊急学徒動労動員要綱が決定され、動員は年間4ケ月継続とされた。
「国民学校令戦時特例」で就学義務を12歳まで引き下げ、次いで
「学徒動員実施要項」を国議で決定。
1945年(昭和20)「決戦教育措置要綱」で国民学校を除き、4月より授業1年間停止とされた。
そして「戦時教育令」により全学校に学徒隊が編成された。





生石高女四年 A子

頭に白鉢巻をしっかりとしめたもんぺ姿の女学生、
それは、当時4年生だったわたしたちの姿でした。
わたしたちは、最も大事な最後の学年を、倉敷の万寿航空機製作所へと動員されて行きました。
そこでは、航空機の補助翼、水平翼、尾翼等を作っており、それらを水島に運んでは、完全な飛行機に組み立てていたのです。

「ばりばりばり」どんなに大きな声を出しても、隣の人に通じないような騒音の中で、ジェラルミンの板に電気ドリルで穴を
あけては、びょうを入れ、リヤーハンマーで打ちつぶして接合していくのです。
わたしたちは、全寮生活を余儀なくされ、ときどき母が面会に持ってきてくれる物を楽しみに--といっても菓子などあろうはずはなく、「はったい粉」を大事に食べていたものでした。

二交替制のころ、冬の寒い朝、暗いうちに氷を割って顔を洗い、渡り廊下の雪を踏みながら工場へ急いだこと、夜9時ごろ、仕事を終えて冷えきった体ですすった一杯のおかゆのあたたかさ・・・・。
戦争の激化とともに学校教育はまったくあるべき姿を変え、家庭が社会が崩壊していった。







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「県民の森」公園センター

2020年12月27日 | 無くなったもの
場所・広島県庄原市西城町油木 「県民の森」公園センター
無くなった日時・2020年8月1日(休館)
撮影日・2019.10.31


比嘉山の登山ルートの多彩さと整備状況は、西日本一のファミリー登山の山と思っていた。
その中心にあり、スタート地点でありゴール地点でもあるのが”公園センター”。





体力や時間がない人は、公園センター周辺を散歩するだけでも
春の若葉の山、秋の紅葉、冬の雪遊びが満足できる場所だった。


その県民の森・公園センターが休館することになった。







ホテルのほかに浴場や登山用品・土産店もあって比婆山に来た人はみんな、一度は入ってから帰っていた。
さみしいものだと思っていたら、
お隣の山、吾妻山にある休暇村も2020年度で営業を止めるのが決まった。(涙)








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