しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

上野彦馬

2021年06月23日 | 銅像の人
場所・長崎県長崎市銀屋町


長崎名所のひとつ、眼鏡橋のたもと近く銅像が立っている。


右の人は坂本龍馬で、写真機を挟み、左の人が上野彦馬。
日本初の写真家だった人。
横浜で有名な下岡蓮杖と同時期の人。




(Wikipedia)

上野彦馬

幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。
号は季渓。家紋は桔梗の二引。

生涯
天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれる。
広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医を教官とする医学伝習所の中に新設された
舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。
同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。
その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。

同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。
日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。
同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。

維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、
明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、
同年に開催された第1回内国勧業博覧会で受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。

一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク、上海、香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、
明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。










撮影日・2012年5月9日


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中岡慎太郎(室戸)

2021年06月23日 | 銅像の人
場所・高知県室戸市    (室戸岬)
制作・本山白雲
設置・昭和10年




中岡慎太郎
1838~1867
土佐安芸郡の生まれ。
万延2年土佐勤王党に加盟。
元治元年(1864)金門の変の政変後、脱藩して長崎へ逃れ、倒幕を呼びかける。
坂本龍馬とともに薩長連合に尽力。
慶応3年(1867)京都で海援隊を組織して高知藩を倒幕へ導く。
近江屋で龍馬とともに刺客に襲われ2日後に死亡した。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行







(Wikipedia)
没年 1867年12月12日(29歳没)
没地 日本の旗 京都
活動 倒幕運動
藩 土佐藩脱藩
所属 陸援隊
受賞 贈正四位
廟 京都霊山護国神社(霊山墓地)

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日(新暦・1838年5月6日) - 慶応3年11月17日(新暦・1867年12月12日))は、
日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎(福五郎とも)、光次、のち慎太郎。
号は遠山・迂山など。変名は石川清之助(誠之助)など。
坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。
贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。








【室戸市役所】

中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。
慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。
この時慎太郎は30才。

この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられました。
室戸岬の先端近くに太平洋を見据えるように建っています。



撮影日・2012年4月4日
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高杉晋作

2021年06月23日 | 銅像の人
場所・山口県下関市長府
制作・1972年(昭和47年)

長府の街並みは萩に似て歴史があり、町歩きが楽しい。




幕末長州藩士。
1864年(元治元年)12月、功山寺で高杉晋作が、力士隊・遊撃隊らわずか80人程度で挙した瞬間を表した像。
桃型の兜を顎に掛け小具足に身を固めた騎馬像。

「日本の銅像完全名鑑」 広斉堂出版  2013年発行





高杉晋作
天馬空を行く、一代の風雲児


「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(しゅうもくがいぜん)、敢えて正規するものなし」
生死を賭して戦かった伊藤博文の表現。

徳川300年の世に、最初に反撃の口火を切ったのも彼である。
一代の風雲児とも革命児ともいえる。

高杉家のひとり息子晋作が、新しい人間に生まれ変わっていくのは吉田松陰との巡い会いだ。

21歳の時松陰が伝馬町で斬られた。
その年に結婚した。

文久2年(1862)上海へ行く。 
文久3年(1863)8月18日の政変。
元治元年(1864)6月池田屋事件、7月蛤御門の変(金門の変)、8月四か国艦隊の下関攻撃。
講和の交渉役に命ぜられる。
第二次長州征伐の軍を、自ら先頭に立って打ち破っていく。
その途中に病に倒れた。
慶応3年4月14日、29歳だった。


「日本史人物列伝」  奈良本辰也  徳間文庫  1988年発行







「歴史と小説」 司馬遼太郎   集英社文庫  昭和54年発行

幕末の事

なにをくよくよ川側柳
 水の流れを見て暮らす


という唄をつくった長州人高杉晋作ほど飲んで遊んだ男もなかったであろう。
高杉にとって、酒、革命、女は、彼の血が要求している等価値のものであった。
かれは乱世に生まれて英雄となった。

高杉は藩庁から三千両の洋行費をせしめ、子分の伊藤俊輔(博文)をつれて下関まで出かけた。
金がある。つい遊んだ。
芸者末社を総揚げにして連日連夜の大さわぎとなった。
豪遊が藩庁に聞こえ、同志の野村靖之助が、わしの諌止をきいてくれねば腹を切る、といった。
「立派に切れ、おれが介錯してやる」
野村は退散、手がつけられなかった。
さらに長崎に行った。
長崎でも飲み、ついに洋行費は一文もなくなった。
が、英国が長州を応援する意思があることを知った。
この事が高杉に別な思考方法を与えた。
倒幕の可能なことを知った。


金の工面がついたころ、高杉は長崎でオテントサマ号という軍艦を、藩にもことわらず、勝手に買い込んだ。
幕府の第二次長州征伐のとき、丙寅丸と改称して大島郡の沖合で幕府軍艦と戦い、さらに小倉城攻撃に威力を発揮し、
ついで鳥羽・伏見の戦いの後討幕軍の海上輸送に大いに役立った。
がそのときは高杉は病死していた。
累年の奔走、戦闘、酒、女がたたったのである。
この男は風邪一つひかぬ壮健な体をもっていたが、不養生が過ぎた。
父の小弥太が「遺言はあるか」と問うと別にありません、といい
料紙と筆をとって辞世の歌を書きはじめた。

 面白きことも無き世を
  面白く、・・・・・・・・・

とまで書いたが、あとは体力がつきた。筆を落とした。
直後に絶命している。








「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

高杉晋作

奇兵隊は当時としては斬新なものでした。
農民、あるいは一般の町民、そうゆうものまで軍隊に編成していくというのは、
新しい発想をもっている。

上海に行って長髪族の乱(太平天国の乱)を見、
また西洋人がわがもの顔でふるまっているのを見、
うかうかしてると日本は大変なことになると思った。

高杉というのはとにかく弟子を養成するのがうまかった。
山県なんかを養成しているのですね。
奇兵隊の戦法が、第二長州征伐の時山県によって成功しています。






撮影日・ 2015年2月20日




コメント (1)
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