しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

林 譲治

2024年06月02日 | 銅像の人

場所・高知県宿毛市桜町(市役所隣の公園)

 

林譲治さんは高知県宿毛出身の政治家。
翼賛選挙は非推薦で落選。
戦後は吉田茂さんと縁戚もあり、党役員や衆院議長を務めた。

 


【宿毛市HP】

林 譲治(はやし じょうじ)

明治22年~昭和35年(1889年~1960年)

-吉田内閣副総理-

林譲治は林有造の次男で、戦前戦後を通じて中央政界で活躍しました。
戦後、実父を宿毛にもつ吉田茂が第二次吉田内閣を組閣した際に副総理として入閣し、
世間から「宿毛内閣」と呼ばれました。

その後も衆議院議長、
自民党幹事長などを歴任し、
昭和34年には衆議院議員在職25年の永年在職議員として表彰されました。

 

 

 

訪問日・2018.10.3

 

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阪谷朗廬(さかたに ろうろ)

2024年05月10日 | 銅像の人

場所・岡山県井原市芳井町吉井

井原市を代表する偉人の一人、阪谷朗廬。
井原市の歴史に欠かせない人物。
今も多くの井原市民に敬愛されている。

・・・


【井原の文化財】 井原市教育委員会 平成12年発行


阪谷 朗廬(さかたに ろうろ)
1822年12月29日~ 1881年1月15日。

阪谷朗廬は、現在の美星町に生まれた漢学者で、
江戸で学び、現在の芳井町で塾を開いていた。
その後、興譲館に招かれ、領内の子弟の教育を行った朗廬の名声は各地に広がり、
遠くは九州地方からの入門者もあった。 
その後、広島藩、明治政府に招かれ要職を務めるとともに、
森有礼、福沢諭吉の主催する明六社に漢学者としては唯一参加した。

 

・・・

【桜渓塾】の看板

桜渓塾

嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、
青少年の人材育成のため大いに尽くしました。
桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者や漢詩仲間がやって来て賑わいました。
嘉永6年(1853)、一橋領代官所江原役所は郷校を設立して朗廬に教授を依頼しました。 
朗廬は、これに応じ郷校興譲館へ居を移しました。
その後、15年間興譲館で子弟育成に当たり多くの人材を世に出しました。

・・・

桜渓塾は、現代の井原市を代表する有名人【千鳥・ノブ】の実家とは1~2kmの距離になる。

 

訪問日・2024年4月28日

 

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姫井繁次

2024年04月17日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市茶屋町

 

今では信じられないだろうが、
家で飲む水も、工場で使う水も、昭和30年代は井戸水を使っていた。

ところが井戸を掘っても、水量が少ない地域や、塩分が多くて飲めない地域も多くあった。
水汲み仕事は大変だが、
塩分の多い地域は、それに加え水を溜める仕事があった。


都窪郡茶屋町は児島湾の新田で、塩辛い水しか湧かなかった。

姫井繁次町長は
水道を敷設すること、
高梁川の水をつかうこと、
それを大正時代に提唱し、実現させた町長さん。

英明な町長だと思う。

 

・・・

記念碑


本町は元来干拓地で適当な飲料水がないため町民は砂ごしの川水 天水を用い
後には井戸を掘ったり担い水を買いなどして飲料としたが飲料水確保の根本的な解決とならず、
伝染病やジストマ患者が続出し町民の日常生活の不安は年とともに深刻になったのである

大正中期姫井繁次氏はこの情勢に鑑み、町長に就任 上水道敷設を提唱
水道常務委員会を組織して委員諸氏ともに日夜その実現に奔走し
早島町と提携 水源を高梁川に求め上郷六か町村の協力を得て準備十年 
昭和五年一月起工四十数万円の巨費を投じ翌年十月工事を完了したのである

その後歴代関係者は熱心に維持管理に努力し中途倉敷市早島町とともに備南上水道配水組合を作り 
これより町上水道事業は独立して来たが需要の増加と施設の老朽化のため既設送配水管の整備改良を企画して 
昭和三十三年一月着工総工費七千数百万円を投じ 
昭和三十七年秋待望の大工事を完成したのである。
ここに本町上水道敷設三十周年迎えるに当り 記念碑を建て功労者各位に感謝の意を表する次第である

昭和三十七年十一月二八日 茶屋町

・・・

訪問日・2012.2.17

 

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頼山陽像

2024年04月04日 | 銅像の人

場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」

 

川中島

鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)
夜河を過わたる
曉に見る千兵の 
大牙を擁するを
遺恨なり十年 
一剣を磨き
流星光底(りゅうせいこうてい)
長蛇を逸す

 

頼山陽の”川中島”は小学生の時に知っていた。
漫画で知った。
「赤胴鈴之助」で知った。
赤胴鈴之助の師匠、お玉が池の「千葉道場」の千葉周作が吟じていた。



べんせい しゅくしゅ

 

 

千光寺公園のポンポン岩の前に銅像と説明看板がある。それを記す。

 

頓山陽


広島県竹原市の人、「日本外史」 「日政記」などを著わし、
明治維新の大業成就に寄与したところは大なるものがあった。
尾道には文雅の友も多く、度々来遊したが、
この詩は、文政十二年、千光寺山に登ったときの作である。

磐石坐す可く松拠る可し
松翠缺くる処海光露わる
六年重ねて来たる千光寺
山紫水明指顏に在り
萬瓦半ば暗くして帆影斜なり
相傳う残杯未だ傾け去らず
首を回らして苦に諸少年に嘱す
記取せよ先生嘗て酔いし処と

 

 

竹原市・竹原市観光協会

頼 山陽(らい さんよう)
安永9年12月27日(1781年1月21日)大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人です。
幼名は久太郎(ひさたろう)。
主な作品に『日本外史』があり、幕末の、日本史上のベストセラー作品です。
「頼 惟清」は山陽の祖父で、紺屋を営んでいた家が今も残っています。
父「頼 春水」が幼少期にここ竹原で暮らしており、山陽も何度か訪れ詩を残している。

 

 

撮影日・2024年4月1日

 

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田能村竹田像

2024年04月04日 | 銅像の人

場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」

 

田能村竹田先生は、
滝廉太郎や広瀬中佐で有名な九州竹田の人。
岡藩の藩医で画家。
尾道と、どういう関係があるのかは不明。

 

・・・


(Wikipedia)

田能村竹田
たのむら ちくでん


田能村竹田は、江戸時代後期の南画家。 
幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。
名は孝憲。字は君彜。通称は行蔵。
別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。
生年月日 1777年7月14日
死亡日 1835年10月20日

 ・・・

文化庁「文化遺産オンライン」

田能村竹田は岡藩々医田能村碵庵の次男であつて、兄の跡を継いで藩医を勤め、
又藩学由学館の司業となり豊後国志の編纂、豊後風土記の校訂に預つて功があつた。
職を退いてからは、専ら詩画等の研鑚に心を潜めてよく一生面を開き高雅な作品を遺した。

・・・・

 

撮影日・2024年4月1日

 

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妹尾正雄像

2024年04月04日 | 銅像の人

場所・広島県尾道市西土堂町「千光寺公園」

 

千光寺公園の美術館下、三春滝桜の近くに銅像が建っている。画家のようだ。

 

「妹尾正雄像」であり、像にその人の説明が書かれてあった。

それを転記する。

 

「妹尾正雄像」

美術教育に打ち込むかたわら風景を題材に
する油画を描き続け独自の境地をきりひらいた

1912年12月20日 福山市御幸町に生まれる
1933年 広島県師範学校卒
1934年 独立美術協会展初入選・尾道美術協会創設に関わる
1949年 広島県美術展創設に関わり審査員となる
1953年 広島県高等学校美術研究会を創設し 20年間理事長
1955年 独立美術協会会員
1992年 広島文化賞・独立美術協会功労賞受賞
1994年 紺綬褒章
1996年7月14日西久保町の自宅にて死去

 

 

 

撮影日・2024年4月1日

 

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豊臣秀吉公

2024年03月25日 | 銅像の人

場所・大阪府大阪市中央区大阪城「大坂城公園」大阪城豊國神社

 

太閤秀吉は、その前半部分は極めて魅力的な人物として知られ、
天下取りの後は、
下り坂を転げるように落ちて、そして死んだ。
大人物であることは論を待たないが、
信長と家康に比べると一段落ちるように感じられる。

 

 

 

    「歴史読本」 ’81-9号 新人物往来社

秀吉天下人の条件 山本七平


  近代における「日本の治」を完成させた秀吉

 

簡単にいえば秀吉の行き方は天下の人びとを、あらゆる意味において「安堵させる」ことであった。
そしてそれが天皇、公卿、大名、武士、農民等々、すべての人の階級を超えた潜在的欲望であったがゆえに、
順風満帆のような形で 「天下人」となることができた。

しかし、彼には信長のような独創性があったわけでなくその政策は基本的には信長のそれであった。
ただ、彼は信長の独創的な人間にありがちな独善的な面が、その独創性の現実への施政の面で大きなマイナスとなっていることを見抜いていた。
ここにその成功の原因があったであろう。
ただ、秀吉はそれらを経験則で学んだだけである。
いわば「世間という広大な書物」から実地に即して読みとったわけで、
その「世間」が存在しない別の世界では「秀吉方式」はまったく無効であった。
彼は明らかに朝鮮と日本との区別がつかず、
朝鮮出兵島津征伐と同じように考え、相手を圧倒した上で「本領安堵」をしてやれば、朝鮮が自分の味方となって、
その御恩返しに対明国戦の先鋒をつとめてくれるに違いないと信じていた。

ここにその限界があったであろう。
しかし、いずれにせよ、近代における統一された日本すなわち「日本の治」を完成したのは彼であり、
家康はそれ を継承したにすぎない。
その方式は現代にも通ずる面があり、その点で彼は、あらゆる面から研究されてよい人物であり、
常に一種の人気 があるのも不思議ではない。

 

 

 

 

 

撮影日・2024.3.23

 

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金田一耕助さん

2024年02月26日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市真備町岡田「大池ふるさと公園」

 

今では金田一耕助さんと言えば、日本全国知らぬ人もいないくらい有名だが、
あれは1976年(昭和51年)の角川映画「犬神家の一族」が宣伝費をかけてブームを作ってから。

 

 

 


それまでの「金田一さん」と言えば耕助さんでなく、三省堂の国語辞書で有名な金田一「京助」さん。
しかも、
当時は野球の金田正一(かねやん)投手が活躍していて、「金田一京助」博士は
「金田一 京助」ではなくて「金田 一京助」であると子供たちは信じていた。


吉備郡真備町岡田は横溝正史が疎開し、そこで名探偵・金田一耕助さんを執筆した。
横溝が疎開した岡田はその後、倉敷市のベッドタウン化して変貌が極まり、
同行した妻は、かつて岡田で働いていたのだが、何一つ思い出せなかった。

 

 

今はかつての面影を探すように「金田一耕助の小路」が整備されている。

 

撮影日・2024.2.25

 

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星島二郎

2024年02月11日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市下津井吹上


星島二郎先生は岡山県内有数の大庄屋に生まれ、
東京帝大を卒業後法曹界はいり、その後政治家へ転じた。

戦前~戦中~戦後、およそ46年間衆議院議員を努めた。
その間、
昭和17年の”翼賛選挙”を非推薦で当選した。
昭和26年の”サンフランシス条約”で、日本の独立に立ち会った。
昭和33年に”衆議院議長”に就任した。
その風貌は”賢人”そのものだった。(風格ある顔写真の選挙ポスターが人気で、盗難するニュースもあった)

 

「ライシャワーの日本史」  エドウィン・O・ライシャワー 文芸春秋  1986年発行


1951年9月8日、平和条約がサンフランシスコで調印された。

48ヶ国が対日平和条約に署名したが、
日本に隣する二つの大国、中華人民共和国とソ連は、これに参加しなかった。
中国に次ぐ多数の人口をかかえるインドもまた、講和会議に欠席した。


平和条約によって、日本はこれらの地域の領土権をすべて放棄した。 
したがって平和条約は、日本の領土が本州、九州、四国、北海道の主要四島と、これに付属する島嶼に限られることを追認したことになる。
しかし平和条約は、どこの国の帰属とすべきか、それを特定しなかった。

また、いくつかの基本的な問題についても、明記しなかった。
たとえば賠償問題だが、 論議のないままに、あいまいな状態で残された。
朝鮮戦争が勃発してアメリカ地上軍の大部分が日本から朝鮮半島に移動した結果、
七万五千人の警察予備隊が創設された。
これはいわば、陸軍の卵のような性格のものであった。 

 

 

撮影日・2024.1.31

 

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鈴木三重吉文学碑

2024年02月10日 | 銅像の人

場所・広島市中区大手町(元安川左岸)

児童文学『赤い鳥』で有名な鈴木三重吉。
先生は広島市の原爆ドームの東隣の地(現・エディオン本店の場所)に生まれ、東京帝大を卒業後教育者となり、
夏目漱石の門下生として小説も書いていたが、後に児童文学に転向した。

銅像は広島県御調(みつぎ)出身の圓鍔勝三さんの作。

 

・・・

鈴木三重吉

(Wikipedia)

鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月29日 - 1936年〈昭和11年〉6月27日)は、広島県広島市出身の小説家、児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。

・・・

児童雑誌「赤い鳥」105年 名作を世に 業績しのぶ

毎日新聞Web
2023.7.31
児童雑誌「赤い鳥」105年 名作を世に 業績しのぶ 
「赤い鳥」は1918年7月創刊。
明治期以降の教訓的なおとぎ話とは異なり、芸術的価値の高い作品を子どもに紹介しようと、
三重吉は当時の一流の作家に声をかけてオリジナルの童話を寄せてもらった。
創刊号には、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を掲載。
新美南吉の「ごんぎつね」など「赤い鳥」が発掘して世に送り出した名作も数多くある。

・・・

撮影日・2016.3.31

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