しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

松平春嶽

2021年06月15日 | 銅像の人
場所・福井県 福井市 宝永3丁目
製造・2007年(平成19年)

"幕末四賢侯"として有名な越前のお殿様、松平慶永(春嶽)。




「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行

松平春嶽

当時もっとも優秀な大名の一人であった松平春嶽。
越前福井藩主であった春嶽は、かつて一橋慶喜を将軍にしようと動いたが、
大老井伊直弼の反撃にあって隠居に追い込まれた。
しかし、
直弼が桜田門の変によって暗殺されたおとで息を吹き返し、この年、幕府の政治総裁職という新しい職に就いた。
ちなみにこの時、一橋慶喜は将軍後見職となっている。
いわば幕閣では将軍家茂、慶喜に次ぐナンバー3ともいえた。


この春嶽という人は、幕末四賢侯、つまり四人の名君の一人に数えられるほど優秀な人物であった。
もともとは攘夷論者であったが、多くの人々の意見を聞くうちに、その考えを改めた。

そして、熊本藩士の横井小楠を政治顧問に迎えた。







【福井県観光連盟】

明君誕生
1828(文政11)年、春嶽は徳川御三卿である田安家三代斉匡の六男として江戸に生まれました。
11歳で越前松平家の養子となり、藩主に就任。
1843(天保14)年、16歳の時に初入国すると当時90万両もの負債を抱え疲弊していた藩政の立て直しに着手。
遠く熊本から横井小楠を政治顧問として招き、藩医の橋本左内や下級武士であった由利公正(当時は光岡八郎)などを登用して改革を進めました。

混乱する幕政の中で
1853(嘉永6)年、黒船来航。国内が動揺する中で春嶽は早くから開国論を主張し、薩摩や土佐など雄藩の大名とともに国政にも積極的に参画するようになります。
しかし、当時幕府が直面していた将軍継嗣問題に当たって、大老の井伊直弼らと対立。
政争に敗れ隠居謹慎の処罰を受けることとなります。

再び国政の表舞台へ
しかし1860(万延元)年、「桜田門外の変」で井伊大老が暗殺されると、春嶽も罪を許され、
新設された政治総裁職、いわば総理大臣の地位へと一気に駆け上がります。
春嶽は京都守護職を設置し会津藩主・松平容保をその任に充てたほか、皇女和宮の降嫁、将軍・徳川家茂の上洛など、公武合体政策を推進しました。

新生日本のために
明治維新政府の中でも要職を歴任しましたが、1870(明治3)年に一切の官職を辞して晩年は文筆活動に専念。
そして1890(明治23)年、激動の時代の最前線で奮闘を続けた偉大なリーダーは、63歳で静かにこの世を去ったのです。





撮影日・2015年8月3日  


コメント
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