しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

阿部山の開墾 鴨方町史・笠岡市史より

2016年06月29日 | 昭和16年~19年

阿部山に接していたのは浅口郡鴨方町、小田郡中川村・北川村・新山村・吉田村の2郡4村。
鴨方町史にある移住戸数50、移住者数150人という数字は、増反による自宅からの通いとしか理解できないが、ほうんとうに家族が入植したものだろうか???
笠岡市史による入植者は戦後の開拓者と思える。


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鴨方町史より転記

日中戦争以後、わが国の食糧不足は深刻となり、政府は供出、配給の制をとり、全面的統制管理に乗り出した。
昭和17年阿部山で大規模な開墾が始まり移住者が続々と入植した。地元観生高女(現鴨方高)をはじめ岡山1中、高梁中、矢掛中なども動員されて、山頂の荒地に開墾を挑んだ。

開拓事務所より戦線慰問文
既にご承知の通り移住者戸数50、150余名の鍬の戦士は意気高らかに、絞る汗に感激と誇りを満喫しています。
既開墾地50余町歩、作付中は葉煙草5町を筆頭に、小麦、馬鈴薯、甘藷、除虫菊、蕎麦、果樹、・・・実に百数十種に及ぶ盛況です。
去る3月末配電工事が完成、電灯の恩恵を受けて文化都市にも劣りません。
益々皇国農民に徹するべく念願して止まぬものです。
昭和18年8月

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笠岡市史4巻より転記する

戦中戦後食糧危機対策のため各地で山地・河川敷などの開墾・開拓が行われた。
北川村30町歩は阿部山開拓地である。
標高330~350m。
昭和17年から入植が始まり、昭和22年ごろまでに12戸入植する(一戸は矢掛町)。
平成14年現在5戸が定住、そのうち3戸が農業を行っている(牛肥育、花木と水田、花木)。

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矢掛町史

記載はない。

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労研饅頭(ろうけんまんとう)倉敷市史6

2016年06月29日 | 昭和元年~10年
戦前戦後、愛された食料品「ろうまん」。
以下、「倉敷市史6・資料編」より転記する。


大原孫三郎が労働理想主義を具体化するため「倉敷労働科学研究所」を設立した。
大正14年、集団栄養を取り上げ、紡績労働者の所要カロリー決定による給食炊事の献立改善に寄与した。労研饅頭の開発もこの研究の産物であった。
労研饅頭は主食代用品としての栄養価値がきわめて高く、日本人に親しみのある一種の「蒸しパン」で蛋白質・脂質・含水炭素が高かった。

昭和6年、
時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)の一環として労研饅頭普及運動が始まった。
食糧問題解決の国家事業として指定組合を通じて行われた。
昭和11年時の指定組合員は、北海道から九州まで24市2郡3町に及んでいた。
岡山県内では倉敷市・岡山市・津山市・林野町・和気郡・笠岡町に指定組合員がいた。

倉敷市で開発された労研饅頭(ろうまん)は、愛媛県松山市でも普及し今日まで製造販売を続けている。
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「ろーまん(労研饅頭)を買う」話

2016年06月28日 | 昭和11年~15年
母の話・2015.1.1(母はこの年、2月に倒れ、3月に亡くなった)

「こまつや」が(井原)女学校のすぐ前にある。
蒸しパンのようなもんじゃ。
黒い豆がはいっとる。
袋の中へ四つはいっとる。
昼になると「早ぅ買いに行かんとなくなる」
弁当をもってこん人は、みんな買いにいきょうた。

学校の中でも売りょたかもしれん。
ええ味がしょうた。

「ろうけんまんとう」、「ろうけん」「ろーまん」ようた。
5円じゃった。
(井原女)学校の前にも、興譲館の前にもあった。
戦後にもあった。
代(よ)がようなったら無くなった。

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学校に弁当を温める機械がある。
昼前になるといろいろな匂い、(おかずが熱して)くさいかざがしてきょうた。
1年から5年まで、下から1年がいれていた。
下が熱過ぎてにおう。


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井原実業がなかった。

(西江原小を6年で卒業した女子の場合)
井原技芸が多かった。みな歩いて行きょうた。一番奥にあった。向井町にあった。
高等小学校
女学校はお金がかかるので少なかった。6人ほど行った。今でいう特殊学級のような人でも入りょうた。(女学校の同級生は)全部で60人くらいじゃった。

卒業して4~5年して実業ができた。


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青い目をしたお人形

2016年06月28日 | 昭和元年~10年
貧しい日本人が「お人形」を見るのは絵本の中で、という時代が昭和30年ごろまでつづいた。それまでの日本の子供は、町のおもちゃ屋のウインドウで本物の人形を見るのが精いっぱい。
大正の終わりから昭和の始めに、アメリカから「青い目の人形」が贈られた。
野口雨情の歌でも有名な日米親善の人形が全国の学校に配られた。

父や母の時代と重なるので聞いてみたが、両親とも見た事はないという。



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井原市史(資料編)から転記する。

「青い目をしたお人形歓迎会」
昭和2年5月10日 中備時報

後月郡教育会の主催にて、来る11.12日井原小学校付属幼稚園に於いて開催することになった。
お人形の数は二百余もありて、園内に陳列し一大異彩を放つ筈である。

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管理人の思い込みで、贈られたのはすべて小学校と思っていたが
井原では幼稚園、他県では女学校にも配られている。

配布数は、およそ12.000体
岡山県には、238体、うち現存3体。


戦時中は
「青い目をした人形 憎い敵だ 許さんぞ」(毎日新聞)と
児童の前で竹やりで射抜かれ、処分された人形も多い。

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記事明治17年 茂平堤防決壊(宮ノの崎まで浸水)の記事・記録その③

2016年06月28日 | 江戸~明治
「岡山県史」より転記。

1884(明治17)の大津波
8月25日夜半から26日未明にかけて台風が襲来したため起こった災害である。
折からの満潮と重なり、高潮により堤防が決壊し、海水が広範囲にわたり流入し、未曽有の大惨事になったのである。
『山陽新報』は、
小田郡笠岡村は其の災を被る尤も甚だしく、海岸に添える人家80余戸尽く破壊し、港中にある三百余艘及び港外に停泊する者皆市中に打ち上げられ、市中の高処と雖も尽く海水に浸され、中の町筋は市中の中央なれとも、座板より水の高きこと数尺に及べり、人民は家具も何も捨て置て其の身のみ脱れ出て、山上へ我も我もと逃げ登れり
と報じている。



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「福山市史・上下巻」記述なし。

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「倉敷市史」記述なし。

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明治17年 茂平堤防決壊(宮ノの崎まで浸水)の記事・記録その②

2016年06月28日 | 江戸~明治
「寄島町史」より転記。

明治17年8月の高潮。
8月25日の夜、岡山県南部を襲った暴風雨は高潮を伴い激波は堤防を崩し、海岸を越えて陸地に襲いかかり、居宅の流失するものも多く、深夜殊に暴風猛雨の間に襲ったためおびただしい溺死者を出した。「岡山県の歴史」によると県全体では流失戸数2.217戸、死者不明655人、廃荒田畑は2.427町歩で、被害の最も大きかったのは水島灘沿岸であった。

本町では8月25日午前11時頃から空が曇り、豪雨が襲い、耳をつんざく雷も加わり、東から吹きたる暴風に怒涛は堤防を乗り越えた。人々は必死になって防御に努めたので、昼間は幸いに何事もなかったが、夜半になって猛雨が西からきて奔涛激波がついに塩田の堤防数か所を崩し、潮流一時に襲来するに及んでたちまち人家を浸した。老幼男女は悲鳴をあげて避難し、家財は顧みる暇がなかった。
被害は、死者4、負傷8、流家39、破壊家13、破損家194、破損船63、流失船7、・・・・。
「寄島町沿革史」によると、路傍に泣き砂上に伏臥するもの数百名、目も当てられぬ惨状であった。大浦神社の東馬場裏に大船が上がり、駐在所の屋根に小舟が打上げられていた。
・・・・その後、漸次冷気に向かい一層の餞寒を憂え、窮民一同が郡役場へ救いを求めに行こうとしたので、斉藤戸長がこれを制し、郡長あてに伺書を提出した。


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笠岡高校時代

2016年06月27日 | 暮らし
笠岡高校時代

姉の話・2002.1.5


笠岡高校時代

高校の時に行った映画館。
大和座、汽車がとおる。
セントラルは・・・記憶ない。
中央劇場は行ったことある。
和信のとこも。
金星劇場はいったことはない。
(学校)推薦しか行かなかった。
娯楽は映画しかなかった。

喫茶店は跨線橋あったとこ、(珈琲園のことか?)一回くらい入ったことがある。

三洋旅館のへんにラーメン屋があった。
“さいとう”じゃなあ。よう行とった。

(ふうまんは?)行ってない。

本屋は栗尾、池田。

進学先は
男は半分くらい進学。

女はあんまりいってない。
(親元を)離れて行くゆう人はおらんかった。
看護婦さんになる学校に行く人や短大が多かった。
県短、就実、尾短・・・。

城見小卒に限定すると
男女とも
男は笠商から進学した。

学校の記憶
笠高のトイレ。きたない

先生は
嘉永、斉藤、石部、三上先生

体操はブルマー。
太い脚でしょうたら上から笠商の男がぴーぴーと口を鳴らしょうた。

下着はスリップ、しみーず。
ブラジャーはしてる人としない人がいた。
ブラジャーはするしないを気にしてなかった。
町の人は「こんなの知らんのん」いわれた。町の人は店にいくことがあるあから。見ることがあるあから知ってる。
(自分は)どうするもんか、どうやってつけるるんか、・・知ったのは20才くらい。

お化粧・おしゃれ
清潔に、ふけをしないように。埃をとるとか、よごれをとる。スカートの線をつけるとか。手をきれいに。
ニキビがでなかったらええんじゃがなぁ。

(制服以外の着るものは?)
どこに出るもの制服以外はない

カップルは?
目立つ人はなかったが、知らんだけかも。家庭科から「好きじゃ」ゆうてる人もいた・・・ような。


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金浦中学時代

2016年06月27日 | 暮らし
金浦中学時代

姉の話・2002.1.5

金浦中学の就職クラスは、
6クラスで2クラス。

高校の進学先は
笠高、笠商。
私立は、
女は淳和、
男の子は盈進。工業は山陽高(さんこう)。

他に女性は、門田(もんでん)増川。
ノートルダム清心高の人もいた。
男性は金光学園、誠之館、付属。

集団就職
なし。近場にばらばら。福山近辺で遠いのが岡山。

金浦中学校のホリさん(堀口先生)
ようちょこちょこめんどうみようった。
あの先生以外はおぼえておらん。

金浦は“町”
金浦病院もあるし、塾もあるし。

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高校の体操時間

2016年06月26日 | 暮らし
姉の話・2003.11.7

高校の体操時間

(生理の日は体操授業を休んでいたのか?)

休んでない。
私は休んでない。
休んでないけど、たいへんじゃったね昔は。
道具がなかったけんねぇ。
今のようにいい脱脂綿じゃないから、自分でハサミで切る。
毎日ちゃんと切って、たたんで、テッシュがないんで・・・・。
男の子が「おまえは生理じゃろが」言う。。。。
隠しとっても見る男の子がおるん。
はじまる時はよけいわかる。

今のように薄くないから、授業も(そこへ気を使い)たいへんじゃった。
アンネナプキンはまだ無かった。20才くらいからいいのができた。

中学も高校もたいへんじゃった。
困ったよ。。。
誰もおしえてもくれないし。。。
どうしょうか思ようた。。。

28日型じゃったんで、少し経つと次のことを思ようた。

(そこで話は飛んで)
おばあさん(祖母)は脱脂綿じゃなかった。
布じゃった。


定時制高校への進学者

いない。しらない。
夜間の大学はいたけど。


(学生アルバイトはどうだったのか?)

家庭教師や天満屋に行ってる人が多かった。
県庁(の出先)の人もいた。

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茂平の吉備焼

2016年06月25日 | 父の話

談・2003.10.4

茂平の吉備焼

茂平の山から土を取りょうた。取った後こすんじゃ。
今はこしらえたええドロ、すぐに使えるドロを送ってもらようる。買ようる。
窯を焚く木も茂平の木を取って使ようた。
昔は「皿山(さらやま)」ようたけど、ほんとに皿みたいなもんばっかし作りょうた。
正式には阿浜(あばはま)じゃ。


茂平の御神燈

銅山はどこどこ、ゆうて茂平中灯をつけることになっとる。
晩にお宮に参(めえ)る人のために。
八幡様のお祭りに参るために道を明るうしとります、参ってください。ゆうことで付けとる。
主な通りにつけとる。ローソク一本でヒラで分かれて灯をつきょうた。


茂平の祭りは10月1日から10月第一日曜に変わった。(城見はなぜ同一の日に統一しなかったのか?)

(強いて言えば)大冝と用之江は親類関係が少ない。
茂平と用之江、茂平と大冝は親類関係が多い。
ひてぃ(一日)になったら、お互いにこれまあ。


しめ縄

当番が編む。
銅山なら、みんなでてやりょうた。
大けえから、
藁をたくってあわせて
左官のときさんや、まあさんが指導してくりょうた。
したことがねえ人はわからん。
はずして裏を見て、(あたらしのができたら)焼きょうた。

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