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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

8月9日、ソ連は日本に侵攻してきた

2025年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

日本史でもっともみじめな出来事といえば、
昭和20年8月9日、午前0時のソ連の侵攻だろう。

ソ連が日ソ条約を無視して、日本に攻めてくるという情報は四方八方からありながら
「それはないだろう」「あってほしくない」と念仏を唱える程度の対応しかできなかった。
念仏に効力はなくソ連は侵攻、満州の邦人は、80年前の今日、棄民となり、生と死の間をさまよった。
管理人の従兄も、その時に命を落とした。

 


・・・

昭和16年、日本は
日米戦争に勝てる見込みがないのをわかっていながら開戦した。
それから後は、冷静に戦争や世界を判断できない指導者がいっそう国家を動かした。
最後には「一億総玉砕」、
赤んぼから老人まで、みんないっしょに死んでくれ。
国は無くなる。
無責任にもほどががある日本の最高指導者たちだった。


・・・


明治維新以来、
日本の最大の仮想敵国はロシアだった。
今も日本に残る戦争遺跡の多くが対ロシアの遺跡であることも、それを物語る。

 

ソ連が日本に侵攻したのは、過去の「シベリア出兵」が大きな要因といわれている。
当時ロシア帝国で革命が起き、内戦状態となった。
そのどさくさに日本はつけこんでシベリア中部に中立国、シベリア東部に親日国を建国するのを企んだ。
その事をソ連は恨んでいた。


・・・


昭和16年にドイツとソ連が開戦、ドイツの連戦連勝時
「バスに乗り遅れるな」と、日本はドイツと共に、ソ連を東西から攻めることが大議論となった。
ソ連が最も恐れた事態だが、日本は北進よりも南進を選んだ。
もし日本がソ連を攻めていたら、その後の世界史も変っていただろうが、
とにかく
ドイツは落胆し、ソ連は助かった。

・・・

まあ日露や日ソの歴史は、両国どっちもどっちだ。

 

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8月8日夜、福山城は燃え上がる

2025年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

茂平が被害を受けたわけではないが、
有史以来、茂平の人々がこれほど驚いたことはない出来事があった。


一家に電球は一つ、
その一つの電球さえ消灯や、灯りの漏れを強制された暗闇の茂平が、
真昼間のように明るくなったのが、
昭和20年8月8日の夜。


福山の空襲で茂平の人たちは、夜が明るくなることもあることを知り、
もはや戦争が完全な負け戦であることも知った。


・・・


管理人の姉は、昭和18年生まれだが
もの心が着く頃、米軍の空襲警報多発時期と重なった。

「飛行機を見ると、飛行機の音を聞くと、
○○ちゃん(姉)は怖いと泣いていた」
と、親類が集まった席で長く言われていた。


・・・


義兄(姉の夫)は福山の人だが、
縁故疎開で(岡山県小田郡)陶山国民学校に通っていた。

福山が炎上しているのを「震えながら見ていた」というが、
おそらく義兄の人生で一番恐怖の時間だったと思われる。

 

・・・

 

昭和20年8月8日、福山城天守閣は米軍の空襲により崩れ落ちた。


当時の
福山城は学校があった(県女)
岡山城も学校があった(一中)
姫路城には師団があった(陸軍10師団)


学校があったお城が焼けて、軍があったお城が無傷で残った。

 

・・・

 

昭和18、19年春ごろ。

義兄のアルバムより。福山城天守閣。

 

 

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井原まつり☆まんてん (岡山県井原市井原駅前)

2025年08月05日 | 祭を見る

日時・2025年8月2日

いつ頃から始まったイベントか知らないが、
たぶんコロナ禍が過ぎてだろうから井原の新しいイベント。


その間に小田川で開催していた「井原花火」は中止されてしまったようだ。
残念なことだ。
大玉・小玉、川の音・風、川に映る花火、山からこだまして二度響く音、・・・いい花火大会だった。

 

・・・

 

「井原まつり☆まんてん」に初めて見物に行った。
雲ひとつない晴天の真夏日、
午後4時に始まり、
午後8時30分花火が終わって、イベントは終了。

 

 


井原駅前にステージがあり、
駅前広場に食べ物やフリーマーケットや金魚釣りのような露店が並んでにぎやか。


総踊りは、駅前から平木眼科交差点までを1時間半の間、周回しながら踊りつづけた。

 

 


イベント自体は、どこの町でもみられる”夏祭り”と比べ大きな特色はない。
しかし花火大会は・・・
やはり、
水に映らない花火は、そうとう見栄えが劣る。

 

 

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広電広島駅

2025年08月04日 | 無くなったもの

場所・広島県広島市南区松原町・広島駅前 
無くなった日・2025年8月2日 (JR広島駅2Fへ移転)
撮影日・2023年6月10日 

 

 

岡山市の路面電車の岡電は岡山駅前電停を、現在移転工事中。
2026年度末に完成予定。
完成後は現在の岡山駅前より信号二つ渡っての「駅前」から、ほんとの駅前に移転される。


いっぽう広島市の路面電車広電は、現在の、ほんとの駅前から、2025年8月3日に駅中(JR広島駅ビル2F)に移転された。

岡山と広島の都市力は路面電車一つ取っても、街の差がありすぎる。

 

 


・・・


「駅中」へ乗り入れとともに「駅前から直進」が大きな変更。


今までは駅前から「前に」行かず、「左に」進んだ。
今回路線変更で、駅から直進になった。
これはずいぶんスッキリする。


新線は「駅前大橋ルート」と呼ばれ、
広島駅~駅前大橋~稲荷町~比治山の1.1km。

 

なお、2026年度末には広島循環路線も開通する。

新聞によれば、新路線は猿猴川で一気に坂道を上る電車の姿が「かっこいい」んだそうだ。


・・・

(駅前大橋)

 

 

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大阪天神祭・船渡御 (大阪市中央区八軒家~天満橋手前)

2025年08月01日 | 祭を見る

月日・2025年7月25日

 

「どんどこ船」は天神祭の船渡御の華。

 

 

 

船がすれ違う時は、漕ぐのを中断して”大阪締め”と呼ばれる手締め。

 

 

 

大川を挟んで、手前が中央区八軒家で向こう岸は北区南天満公園。
公園には露店が川に沿って並び、岸にはもうすぐ篝火が灯る。

 

 

・・・

 

「日本の祭り」 菅田正昭 実業之日本社  2007年発行


大阪府
天神祭り


開催地/大阪市北区・大阪天満宮 
開催日/7月24日~25日

 

天満宮の社域は少彦名命の社が祀られた地で、天暦2年(948)に京都の北野天満宮を勧請し、
2年後の6月1日より天神祭りがはじまったとされる。

太宰府で死んだ菅原道真の霊は「天満大自在天神」とされて天神と呼ばれ、
その霊を鎮める祭りで、大阪人の生活に深く密着したものである。

初期の祭事は大川より神鉾を流して、流れ着いた場所に祭場を設け、その祭場で禊払いを行なったものであった。 
これが鉾流神事のもととなり、その祭場に船で奉迎したことが船渡御の起源となったとされる。


安土桃山時代に豊臣秀吉より催太鼓を拝領し、江戸時代から日本三大祭の一つと呼ばれている。
維新の騒乱、本社営繕やコレラの流行、明治天皇の崩御や日中戦争、第二次世界大戦などで中止されたこともある。


25日は天満宮境内で神輿や鳳輦、地車が賑やかに囃し立て、王朝装束の3.000人が鉾流し橋までの陸渡御が行なわれる。
夕刻からは鳳輦船などの船渡御がはじまる。
100隻余りの大船団が堂島川を経て都島橋まで上っていく。

船のかがり火、川の両岸での花火、川の中央の舞台船では神楽など繰り広げられ、
行宮祭では安倍保名や関羽などの人形が迎え、水の都大阪の夏を華麗に彩る。

 

・・・

 

 

 

 

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大阪天神祭・陸渡御 (大阪市中央区中之島・大阪市役所北側)

2025年07月30日 | 祭を見る

日時・2025年7月25日 午前4時50分~(市役所北側)

 

”日本三大祭”というのがあるそうだ。

神田祭(東京都)
祇園祭(京都府)
天神祭(大阪府)


初めて大阪の日本三大祭の「天神祭」を見に行った。
この日は猛暑日で、見物よりも熱中症にならないことの方に気がいった。

天神祭の「陸渡御」は午後3時半に天満宮を出発する。
大阪市役所前が午後5時予定。

午後4時40分に市役所前で待っていると、
5分も待たないうちに堂島川を渡る「陸渡御」が見えてきた。

 

 

 

 

陸渡御の行列は長く、総勢3.000人。
1時間以上つづいた。

 

 

 

 

市役所東の大阪中央公会堂前。

 

つづく(天神祭り・船渡御)

 

 

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五代友厚

2025年07月30日 | 銅像の人

場所・大阪市中央区北浜・大阪証券取引所


五代友厚は大阪経済に尽力した大人物である、
とそこまでは言えるが、それ以上はよく知らないので大商の人物紹介を転記する。

 

 

・・・


【大阪商工会議所HP】


五代友厚


大阪商工会議所ビル前に、初代会頭五代友厚の銅像が建っている。
この五代の人物と業績を知る人は、今日大阪でもごく少ない。
五代こそは大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人である。
五代友厚は、1836年2月(天保6年12月)鹿児島に生まれ、
幼少よりその才ゆえに藩主より才助の名を賜った。
青年となり、長崎海軍伝習所でオランダ海軍士官より航海、砲術、測量、数学などを学び、
勝海舟、グラバーなど様々な人たちと藩を超えての交友を得た。
後に、欧州に留学。神戸事件、堺事件と続く外国人殺傷事件の解決に奔走し、
明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。
欧州留学して外 国事情にあかるいことから、明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。
これが大阪とかかわる第一歩であった。
五代はまもなく官を辞し、民間に投じ、大阪の退勢ばん回に努力した。
五代が自ら起こした事業、設立に関与した会社の主なものは 別記のとおりである。
東の渋沢栄一と並び称される五代が49才の若さで亡くなったことは、
大阪にとってまことに不幸であった。
遺言で大阪の土となった。墓は阿倍野斉場にある。
当時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだ。

(参考:「大阪商工会議所100年の歩み」)

・・・

 

 

 

撮影日・2025年7月25日

 

 

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関市長

2025年07月29日 | 銅像の人

場所・大阪市中央区中之島「中之島公園」

 

大都会の大阪ともなると、その市長は歴史に残る著名人も多い。


中でも関市長は今でもマスメディアに取り上げられることがある。
大正~昭和の約20年間市政を担当したそうだ。

大阪地下鉄建設の最大功労者だそうだ。
戦後、息子さんも大阪市長になった。

 

 

 


銅像の横に顕彰碑が建つ、その碑文を写す。

・・・


関市長顕彰碑


わが大阪が今日の大をなし得たのは 
長い歴史に培われた自由の精神と古い伝統に養われた実践力行の美風によるものでありますが
また市民とこれを代表する市会の博士に対する信頼が市政の運営に不動の基盤を築いたことを忘れてはなりません 
大阪市民がその最も必要とする時期において学徳ともに優れた関市長を得たことは われわれの喜びとして
永久に銘記すべきであろうと思います

故大阪市長関一博士遺徳顕彰会
建立 昭和31年 6月

 

・・・

 

 

 

撮影日・2025年7月25日

 

 

 

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池上四郎市長

2025年07月28日 | 銅像の人

場所・大阪市天王寺区茶臼山「天王寺動物園」

 


この市長さんは、近代都市大阪にとって大恩人だそうだ。

御堂筋や地下鉄の都市計画の他に教育、築港・・等々。

 


管理人が一番気になるのは会津藩の武家出身、
戊辰戦争とその後の斗南藩の開拓を経験している。

白河以北一山百文と言れ、中でも会津藩は冷遇されてきた。
そういう状況下で高官にまでなったのは、
才能や努力や人間性が並外れて高かった人なのだろう。

 

・・・


池上四郎 (大阪市長)

(Wikipedia)

池上 四郎

生誕 1857年5月11日
陸奥国会津現(現福島県会津若松市)
死没 1929年4月4日(71歳没)
東京府
出身校 藩校日新館
職業 朝鮮総督府政務総監
大阪市長
テンプレートを表示
池上 四郎(いけがみ しろう、1857年5月11日〈安政4年4月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月4日)は、日本の警察官僚、政治家。
第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監。

生涯
1857年、陸奥国耶麻郡(現・福島県会津若松市)で生まれた。
11歳のときに戊辰戦争を経験する。兄の友次郎は、鳥羽・伏見の戦いの正月五日の戦で戦死。
父・武輔は井深宅右衛門の第二遊撃隊の組頭として越後小千谷で新政府軍と戦い、負傷する(北越戦争)。

開城後は再興を許された斗南藩へ父母に連れられ一家六人で移住し、開拓農民として辛苦の生活を体験する。
1877年、池上は警視局一等巡査として採用された。
1880年、石川県警部となり、1882年、石川県警察部第一部長に進んだ。

1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて、肝付兼行の後任として大阪市長に就任した。

 

 

天王寺公園内にある像

財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港などの建設などの都市基盤を整備し、
近代都市への脱皮を図ると同時に、以下の政策を実行および計画を実施して、大大阪時代初期まで大阪市政を担った。
池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。
1923年には大阪電灯株式会社より事業を買収し、電灯供給事業を市営化した。
同年9月1日に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。
御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は、池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現し、
後任の関市政時代に大大阪時代の全盛期を迎えることとなった。
また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。

1935年、大大阪時代を実現させた池上の功績を称え、大阪市民の手によって銅像が建立された。
この銅像は太平洋戦争最中の1942年、金属供出により撤去されたが、戦後の1959年6月に市政70周年を記念して再建された。

・・・

 

 

撮影日・2025年7月25日

 

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天六事件 

2025年07月26日 | 【史跡】を訪ねる

場所・大阪府大阪市北区「天神橋筋六丁目交差点」
訪問日・2025年7月25日

 

昭和8年といえば、15年戦争が始まって2年目。
当時の市民にとっては「巡査」が威張る代表だったが、
戦争を背景に軍が市民生活を騒がせるようになった。


それを代表するのが大阪市の天神橋筋六丁目交差点で起きた「天六事件」。
そもそも事件でも、なんでもないものが
威張りたい、頭は下げたくないものどうしが、意地の張り合いをして
天皇まで騒動が伝わった。

この年日本は国際連盟を芝居じみた風にして脱退。
いよいよ軍も国民も発狂の兆しが見え始めた年となった。

 

 

 


(Wikipedia)

ゴーストップ事件は、1933年(昭和8年)に大阪府大阪市北区の天六交叉点で起きた陸軍兵と巡査の喧嘩、
およびそれに端を発する陸軍と警察の大規模な対立。
別名は天六ゴーストップ事件、天六事件、進止事件。
満洲事変後の中国大陸における戦争中に起こったこの事件は、軍部が法律を超えて動き、
政軍関係がきかなくなるきっかけの一つとなった。


事件の経過

1933年(昭和8年)6月17日午前11時40分ごろ、大阪市北区の天神橋筋6丁目交叉点で、慰労休日に外出した陸軍第4師団歩兵第8連隊第6中隊の一等兵(22歳)が、
市電を目がけて赤信号を無視して交差点を横断した。
交通整理中であった大阪府警察部曽根崎警察署交通係の巡査(25歳)はメガホンで注意し、天六派出所まで連行した。
その際一等兵が「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と抗弁し抵抗したため、派出所内で殴り合いの喧嘩となり、
一等兵は鼓膜損傷全治3週間、巡査は全治1週間の怪我を負った。

憲兵隊は「公衆の面前で軍服着用の帝国軍人を侮辱したのは断じて許せぬ」として曽根崎署に対して抗議した。
上層部に直接報告が伝わって事件が大きくなった。
最終的には昭和天皇にまで達することとなった。

 
6月22日、第4師団参謀長の大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」と声明し、
警察に謝罪を要求した。 
それに対して大阪府警察部長も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と発言した。
6月24日の第4師団長と大阪府知事の会見も決裂した。


巡査には私服の憲兵が、一等兵には私服の刑事が尾行し、泥仕合となった。
新聞をはじめとするマスメディアはこれを「軍部と警察の正面衝突」などと大きく報じた。
この騒ぎは大阪市民を沸かせ、大阪の寄席で漫才の題材にもなった。

事件の処理に追われていた署長は過労で倒れ入院し、その10日後、腎臓結石で急死した。
事件目撃者の一人が、憲兵と警察の度重なる厳しい事情聴取に耐え切れず、国鉄吹田操車場内で自殺、轢死体となって発見された。


終結

天皇が心配していることを知った陸軍は恐懼し、事件発生から5ヶ月目にして急速に和解が成立した。
11月18日、参謀長と大阪府警察部長が共同声明書を発表し、
11月20日に当事者の巡査と一等兵が互いに詫びたあと握手して幕を引いた。


 

 

・・・

天六事件の2ヶ月前、福山でも似たような事件が起こっている。

・・・

 

「福山市史・上」 福山市 昭和58年発行

軍警抗争事件

昭和8年(1933)4月14日、軍の横暴ぶりを示す象徴的な事件が起こった。 
事件そのものはきわめて単純で、午前1時20分ころ市内のカフェーで福山連隊の中尉が暴行事件を起こし、
これを鎮めようとした巡査二人と衝突、かけつけた応援の巡査とともにようやくこれをとり押さえ、
憲兵隊に引き渡したというものである。
ところが憲兵隊長は、「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」と逆ねじをくわせ、
 第五師団の安岡参謀長も「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」と迫った。
結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。

非は明らかに暴行した中尉にあったにもかかわらず、政治問題化し、結局連隊側の完勝に帰したのであり、
軍の横暴ぶりを端的に示した事件といえる。 
連隊長は地方都市では「小大名的存在であった」だけに、時流にのった横暴事件が徐々に目だつようになっていった。

・・・

 

 

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