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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「継ぎ獅子」今治市野間神社  尾道みなと祭(広島県尾道市「駅前ステージ」)

2025年04月28日 | 祭を見る

日時・2025年4月26日 尾道みなと祭「姉妹都市郷土芸能披露」

 

 


四国の今治地方には世にも珍しい郷土芸能がある。

天の神に願いを聞き届けてもらうため、
天へ天へ
高く高く
獅子がニ継ぎ、三継ぎ、四継きと高みを目指す。

 

 

5月の春祭りに現在でも20~30社で継ぎ獅子が行われている。
各神社の日程表は、今治市のホームページに載っている。

 

「尾道みなと祭」には今治が姉妹都市の縁で、毎年「継ぎ獅子」を披露している。

 

 

管理人は今年、
天気がよければ5月第三日曜日の「大西の船上継ぎ獅子」を観に行く計画。
数年前から楽しみにしている。
今年こそ行けるかな?

 

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尾道みなと祭 (広島県尾道市)

2025年04月27日 | 祭を見る

日時・2025年4月26日

 

祭を見る前に、「ネモフィラの丘」に行った。

(世羅町・花夢の里)

 

 

海を渡って「尾道」に行った。

 

 

 

次に「千光寺公園」に登って、藤とツツジを見た。

 

そして「尾道みなと祭」、駅前のステージに行った。

 

 

お祭りのメインは海岸通りの「ええじゃんSANSA・がり」。

 

快晴だったが、汗が出るほどでなく、気持ちよく春の祭を楽しめた。

 

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毛利松平

2025年04月25日 | 銅像の人

場所・愛媛県大洲市大洲「大洲城」

 

大洲城の石垣の麓に大洲市民会館があり、
その市民会館の駐車場の片隅に銅像が建っている。

台座に「毛利松平像」と刻まれている。

そういえば、そういう政治家がいたなと、家に帰ってネットで調べると
↓下記のような経歴の人だった。

・・・


データベース『えひめの記憶』

毛利松平(1913~1985)

衆議院議員、第二次田中内閣環境庁長官。
大正2年7月16日、西宇和郡三机村大江(旧瀬戸町)で生まれた。
大洲中学校から慶応義塾大学法学部政治学科に進み、昭和13年に卒業した。
南満州鉄道に入社して撫順炭鉱に赴任、労務課長として大学時代からの夢であった〝大陸日本の建設〟に取り組んだが敗戦で挫折した。
帰国後、政治を志し27年10月の衆議院議員選挙に第2区から改進党公認で立候補して落選、以後28年4月、30年2月と計3回苦杯をなめた。
この間、不屈の精神とたくましい行動力で支持層を拡大、33年5月の第28回選挙で初当選して念願の衆議院議員になった。
以後、55年6月の第36回選挙まで9回連続当選した。
その間、外務政務次官、衆院大蔵委員長、自民党副幹事長、党県連会長などを歴任、
地元南予の水資源開発、南レク、道路整備などの事業推進に尽力した。
49年第二次田中内閣の環境庁長官に就任した。
豪放らい落な性格で武道をよくし、柔道七段、空手、合気道も高段者で武道館理事長、極真会会長を務めた。
58年2月25日勤続議員の表彰を受け、同年秋には勲一等瑞宝章を受章し、同年末の衆院選を機に健康上の理由で勇退、59年県功労賞を受けた。
これを記念してこの年12月出身地の瀬戸町役場前庭に胸像が建立された。
昭和60年5月24日、71歳で没した。
(『愛媛県史 人物』より)


・・・


出生地の三机は佐田岬半島のほぼ真ん中にあり、地は良湾として知られ、真珠湾攻撃の潜水艦の訓練基地となったところ。
三机にとっては大洲よりも八幡浜の方が中心地だが、八幡浜にも氏の銅像があるのだろうか。

 

 

訪問日・2025年3月31日

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中江藤樹先生

2025年04月24日 | 銅像の人

場所・愛媛県大洲市大洲「大洲城」

 

大洲城にある「中江藤樹像」。

像は、大洲城天守閣を見つめている。

 

 

・・・

像の台座前に石碑があり、先生の人物・功績が刻まれている。それを書き写す。


近江聖人 中江藤樹先生
(1608-1648)
先生の名は原、 通称は与右衛門、 生家は近江の小川村 (滋賀県)屋敷内に大きな藤の木が生い茂り、 その下で学問を積み、 敬い集まる人々を導いたので、 藤樹先生と呼ばれ、 後の世の人々からは近江聖人と敬慕されてきた。
大洲は、先生が10歳から27歳まで過ごされた立志・感恩・勉学の地である。 
大洲の人々は、先生ゆかりの地として、その学徳を追慕し 藤樹先生の心をいつまでも継承しようと、この城山に銅像を建立した。

*教え「孝」「致良知」 「慎独」 「知行合一」など
*著書 - 「翁問答」 「鑑草」 「春風」 「捷径医筌」など

平成9年11月吉日 記  大洲藤樹会


・・・

 

 

訪問日・2025年3月31日

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中江藤樹

2025年04月24日 | 銅像の人

場所・愛媛県大洲市大洲「大洲小学校」

 

近江聖人・中江藤樹は近江の人であるが、伊予大洲の人でもある。
大洲市内には多くの立像や胸像等が建っていて、大洲市民が郷土の偉人として大切に思っていることがよくわかる。

 

 

・・・

Web【愛媛県生涯学習センター】


中江藤樹 (1608~1648)

儒学者
我が国の陽明学の始祖。

近江国高島郡小川村(現、滋賀県高島市)出身。
通称は与右衛門。
9歳のとき、米子藩主・加藤貞康の家臣であった祖父の養子となり、その翌年、藩主の領地替えに伴い喜多郡大津(現、大洲市)へ移住した。
祖父の死により家督を相続して15歳で大洲藩家臣となり、独学で朱子学(人を敬うことを忘れず行いを慎んで人格完成しようとする実践道徳)を学んだ。
27歳のとき、郷里に住む母への孝養と自身の持病とを理由に、藩士辞職を願い出るが許可されず、脱藩して近江に帰り、酒の小売業で生計を立てながら学問に専念した。
 藤樹は、朱子学の教える礼法を厳格に守ろうとしたが、やがて形式的な礼法の実践に疑問を抱くようになり、道徳的な形式よりも精神の方が重要であるとして、
「時・処・位」の具体的な条件に応じた適切な正しい行動をとること、またその状況に応じた正しい行動の在り方を自主的に判断する能力を持つことにこそ学問の目標があるとする、
自由な道徳思想を唱えた。
これは、朱子学の道徳思想を日本社会に適応させようとした藤樹独自の思想である。
後に『陽明全集』を手に入れてから「知行合一」を基とする陽明学を研究するようになり、我が国の陽明学の始祖となった。
自宅に藤の木があったことから門人に「藤樹先生」と呼ばれた。

・・・

 

 

 

訪問日・2025年3月31日

 

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檜垣俊幸

2025年04月23日 | 銅像の人

場所・愛媛県今治市通町「今治城吹揚公園」

 

 


日本の造船は「戦艦大和」などの造船技術があり、戦後は巨大タンカーや貨物船で世界一の造船国家になった。
海軍とともに歩んだ三菱や石川島や川崎が日本と世界を代表していた。

その後、巨大船を大手会社が造る事よりも、大型船を中堅企業が造る方に移行し、
小説でも、来島ドックを柴田錬三郎(シバレン)が「大将」で面白く描いた。

その後、造船大国ではなくなったが瀬戸内海地方では基幹産業として頑張っている。
特に「しまなみ」沿いには造船所のクレーンがいたるところで見える。
それらの代表が「今治造船」。

今治造船は、いまや日本最大の造船メーカー。
その今治造船の社長を長く勤め、業界発展や、地域貢献の人が「檜垣俊幸」氏。

氏は小学校を卒業してすぐ、稼業の造船所で働き始め日本一の造船会社に育てた。
氏の銅像は今治を代表する名所、今治城の、大手門の前に建っている。

 

・・・

台座の銘板に氏の功徳を称えた記述を写す。

 

今治市名誉市民 桧垣俊幸翁 

桧垣俊幸氏は昭和3年、造船業を営む父正一、母ハルヨの三男として小浦町に生まれた、
幼少よりの夢、船造りを志いて14歳で今治造船株式会社に入社、造船業に身を投じられました
来全霊を傾注し、不暁不屈精神で「船造り一筋」に歩まれ、建造量日本一の「今治造船グループ」を築き上げられました。
この間、社団法人日本造船工業会副会長、今治商工会議所会頭など業界団体の要職を歴任され、
永年に亙り造船海運業の発展並びに県勢・市勢の進展、地域経済・商工業の振興に尽力されました。
時に、平成6年に開催された今治城築城・開町四百年祭では、請われて実行委員会会長に就任され、
藤堂高虎公の銅像建立、今治城鉄御門の再建等、余人をもって成し得なかったであろう数々の大事業を完遂されました。
また、今治市と越智郡11町村の合併に際して、委員として難題解決に尽力され、他に類を見ない海事産業が集結する「海事都市今治」の誕生に貢献されました。

83歳を迎え、愈々ご壮健で尽きることのない船造りの夢を追い求める氏の偉業を顕彰すると共に、
「海事都市今治」の限りない繁栄を願いこの像を建立いたします。

平成23年4月吉日
社団法人日本造船工業会 会長 元山登雄 

・・・

 

 

訪問日・2025年3月31日

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兵馬俑

2025年04月23日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市真備町櫛田・エヴァホールまび

 

真備の櫛田の国道486号線(旧山陽道)を歩いていると、「兵馬俑」が見えた。

葬儀場の駐車場の国道側に立っている。

 

今から20年ほど前、観光旅行で西安に行き本物の「兵馬俑」を見たことがある。
秦帝国や秦始皇帝の巨大さをまざまざとみせつけられ、それを実感したのをよく覚えている。


当時、兵馬俑を見つけた井戸掘り翁がお元気で(・・・今もかな?)
兵馬俑の入り口のイスに座り、ニコニコ笑って観光客を歓迎していた。
翁は本を買った人にはサインして握手しながら手渡ししていた。

 

 

でもなぜ真備の葬儀場に兵馬俑があるのだろう?

 

 

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竹のまち真備船穂商工まつり (岡山県倉敷市真備町・マービーふれあいセンター)

2025年04月23日 | 祭を見る

日時・2025年4月20日

 

マービーふれあいセンターに行った。

今日の午前9時15分から、「竹のまち真備船穂商工まつり」がある。

 

 

商工祭を春に開催と言えば、「桜」か「GW」がほぼ決まりだが、なぜ4月の第三日曜日かといえば

「タケノコ」がいちばん旬の頃だから。

 

真備(まび)町はタケノコの産地として近隣に知られている。

 

 

タコノコの”大特売”以外にも地元の物産展や飲食店でにぎやか。

ステージでは踊ったり演奏したり歌ったり、のんびりで、適当な空間があり楽しめたお祭りだった。

 

尚、この祭りに行ったのは初めてだった。

 

 

 

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今年最後の花見に行く (がいせん桜~美甘宿場桜) 2025.4.17

2025年04月18日 | 令和元年~

まず、大山(だいせん)と桜。

 

 

 

次に、新庄村の「がいせん桜」。満開。

 

 

 

その次に、「美甘(みかも)宿場桜」。満開の散り始め。

 

 

 

 

最後に、「湯原温泉」の砂湯に入ってから笠岡に帰った。

 

いい桜、いい湯だった。満足!

 

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松尾芭蕉

2025年04月17日 | 銅像の人

場所・福島県西白河郡西郷村字道南東(新白河駅前)

 


奥州には奥州三関があったが、芭蕉が目ざしたのは「白河の関」。
奥州へ入り、白河の関を踏んだ芭蕉は感激したが、その場で一句浮かばなかった。

曾良の句が【奥の細道】に記されている。

 

卯の花を かざしに関の 晴着かな 曾良

 

 

 

芭蕉翁が須賀川で発句したのが、

風流の 初やおくの 田植歌


曾良の句も、芭蕉の句も、情景がいきいきと(自分勝手な風景ではあるが)想い浮かぶ。

 

 

 

訪問日・2025年4月8日

 

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