しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

竜馬がゆく  (高知県高知市)

2024年06月22日 | 旅と文学

日本国内にある銅像数は、弘法大師と二宮金次郎が群を抜いて多いと思える。
お大師さんは寺院だけでなく、日本全国の街道・路傍に建っている。
金次郎さんは、ほぼ小学校に集中している。

では次に銅像が多い人は?
たぶん坂本竜馬ではないだろうか。

この人の像の特色は近年に造られた像が多い。観光地に多い。
更に言えば、
2010年NHK大河ドラマ、福山雅治主演の【龍馬伝】の放送がきっかけで、
縁の地を観光地化し、その土地に観光目的の銅像が数多く立った。

 

 

・・・

旅の場所・高知県高知市上町・坂本龍馬記念館
旅の日・2015年2月28日 
書名・竜馬がゆく
著者・司馬遼太郎   
発行・文春文庫 1998年発行

・・・

 


竜馬は、十二になっても寝小便をするくせがなおらず、近所のこどもたちから「坂本の寝小便ったれ」とからかわれた。
からかわれても竜馬は気が弱くて言いかえしもできず、すぐ泣いた。

十二のとき、ひとなみに父は学塾に入れた。
ところが、入塾するとほとんど毎日泣いて帰るし、
文字を教えられても、竜馬のあたまでは容易におぼえられない様子なのである。
ついに、ある雨の夜、師匠の楠山庄助が たずねてきて、
「あの子は、拙者には教えかねます。お手もとでお教えなされたほうが、よろしかろう」
見はなされたのである。
「えらい子ができたものじゃ。この子は、ついに坂本家の廃れ者になるか」
兄の権平もにがい顔をしていた。


(略)

--龍馬はつよい。
という評判が城下にたったのは、この正月の日根野道場における大試合からである。 
竜馬は、はじめ三人の切紙と立ちあってそれぞれ初太刀でしりぞけると、つぎに古参目録者ふたりの面と胴をとった。
試合の翌日、日根野弁治は、小栗流の目録をあたえた。 
わずか十九歳である。
異例だった。

 

 

 

(桂浜)

 

 

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「太平記」船上山行宮  (鳥取県琴浦町)   

2024年06月21日 | 旅と文学

1332年。
天皇は二人。
元弘2年で、正慶(しょうきょう)2年。
後醍醐天皇は討幕失敗で隠岐の島に流罪となった。
島から脱出し船上山に立てこもった。

 

船上山は絶壁が城塞のように続く山。
ここで後醍醐天皇は名和長年と、幕府軍と対峙した。
後醍醐天皇は約80日間ほど、船上山に滞在していた。

 

・・・

旅の場所・鳥取県東伯郡琴浦町山川・船上山
旅の日・2010年11月5日 
書名・太平記
作者・不詳
現代訳・「太平記」 森村誠一 角川書店 平成14年

・・・

 

 


人の梯子

隠岐の島前島後には、蒙古来襲以来夷狄の侵入に備えて、各島の見晴らしのよい場所に番所が設けられている。 
後醍醐配流前はもっぱら外敵の侵入に備える監視所であったのが、その後は後醍醐奪還に備えるための侍の詰め所になっている。


「其方、これより長年と名乗れ」
そのとき後醍醐は又太郎に長年という名前をたえた。

「当面の敵は隠岐の守護である。帝に島より逃げられ奉りて、 立場上黙視できまい。
必ずや兵を催し、帝を奪い取りるために押し寄せて来るであろう。
まず船上山に急げ」

一族を督励して武装をも慌しく、後醍醐を船上山に奉戴することにした。
この有事に際して、名和一族が多年蓄えた富力がものを言った。
長年は近郊の住民に、
「名和一党船上山に立て籠り、帝ご親征の旗揚げを仕る。 
我が領倉にある兵糧を一荷運ぶ者には銭五百文をあたるべし」
と触れをまわし、領内から五千の人夫を動員して、一日のうちに兵糧五千石、白布五百反を山上に運び上げた。

 

 

船上山は長年が見立てた場所だけあって、大山の主稜からら東北に矢筈山、甲ヶ山、 勝田ヶ山、船上山とつづき、
北方には豪円山、鍔抜山、東南には鳥ヶ山、擬宝珠山などの火山群を連ねている。
標高六百十六メートル。東西を勝田川と国府川の峡谷にはさまれ、
山勢険しく、守るに 易く攻めるに難い天然の要害である。

この船上山大山寺に行在宮を設け、名和の手勢百五十名が護った。 
後醍醐は大山寺に着御すると同時に、綸旨を近国武将に発して、親征軍の錦旗の下に速やかに馳せ参ずるように求めた。
「尊皇有志が駆けつけるのが早いか。隠岐の追手が攻め寄せるのが早いか」
後醍醐や長年の懸念はその一点にあった。


「よいか。これは帝のご親征の第一歩を進める戦 いである。この戦いを勝ち抜くことが、帝の都還幸の第一歩となるのだ。石にかじりついても支えよ。
最後の一兵となるまで帝を守護し奉れ」
長年は部下に悲壮な命令を下した。


二十九日、案じられたとおり隠岐の判官の追手約三千余騎が攻め寄せて来た。
名和一族だけで約二十倍の大軍を支えなければならない。


「正成殿も五百の寡勢をもって十万の大軍を支えておる。 
我らが三千の寄せ手を支えられぬはずあるべきや」
長年は部下を督励した。
ここで敗れたら、せっかくの後醍醐の脱島が水泡に帰する。

 

 

このとき勝利の女神が名和勢に微笑んだ。
寄せ手の一将、伯耆の守護代佐々木弾正左衛門が麓の本陣で采配を振っていたが、
流れ矢に右目を射抜かれ討ち死にした。
佐々木の手勢五百は主将を失って戦意が萎えた。


隠岐の判官佐々木清高はわずかな手勢を引き連れて命からがら隠岐へ逃げ帰ったが、
島民から愛想づかしをされて、追放され、風と潮流に任せて敦賀へ漂着した。
その後間もなく六波羅滅亡とほぼ時を同じくして、近江国番場の辻堂において自ら腹を切って死んだ。

この合戦の勝敗は、朝幕の潮流を分ける重要な分水嶺となった。
幕府は後醍醐脱走の報告を受けても、
その主力精鋭軍を千早城に釘づけにされているために、船上山に援軍を送る余力がなかった。

幕府軍が船上山において一敗地にまみれると知るや、後醍醐脱走後の成り行きを凝っと見守っていた各地の日和見勢力が、草木も吹き靡くように後醍醐へ靡いた。


本来北条の勢力であった出雲の守護塩冶高貞が後醍醐の膝下に馳せ参ずると、
出雲、伯耆、因幡三か国のおよそ弓矢に携わる武士という武士はこぞって駆けつけて来た。


さらには石見、安芸、備後、備中、備前、また 遠くは四国、九州の有志が我先にと船上山に参陣して、
その勢力はたちまち張れ上がった。
名和長年は一党の命運を懸けた賭けに勝ったのである。 
後醍醐隠岐より船上山へ還幸の報知は全国へ飛んだ。 
後醍醐は船上山大山寺に第一橋頭堡を築くと、西国、九州の有志に討幕の詔勅を発した。
後醍醐の隠岐よりの還幸は各地の反幕勢力に火をつけ、たちまちその火勢を強めながら燃え拡がっていった。

 

 

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「太閤記」高松城水攻め  (岡山県岡山市)

2024年06月21日 | 旅と文学

高松城水攻め⇒本能寺の変⇒城主・清水宗治湖上で切腹⇒中国大返し⇒山崎の戦い
戦国時代最大の連続した出来事であり、歴史上も重大な事件。

史書に、小説に、映画に、テレビに、ゲームに、漫画に、絵本に、・・・頻繁に
登場するが、歌はない。


高松城主・清水宗治は為政についての資料は何も残ってないが
辞世の句、一句で今も名を高松の苔に残している。


~浮き世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して~

 

・・・
旅の場所・岡山県岡山市高松・高松城跡
旅の日・2023年7月16日
書名・「太閤記」
原作者・小瀬甫庵
現代訳・「古典文学全集・13太閤記」 ポプラ社 昭和40年発行  

・・・

 

高松城水攻め

 

年があけると信長は、甲州へ兵を進め、家康と力を合わせて、武田をほろぼしました。
武田勝頼は、三月十一日に天目山で家族の者と自殺してしまいました。

いっぽう、秀吉も今年こそ毛利を降参させてしまおうと、中国攻撃にとりかかり、三月十五日に姫路を
出発して岡山へ寄り、宇喜多の兵力と合わせて三万八千の軍兵をひきいて、備中へ攻めこみました。


城将 清水宗治がてごわい敵であることを知っていましたので、秀吉は、蜂須賀彦右衛門と黒田官兵
御を使者にして、降参するようにすすめたのですが、なんとしても承知しません。
力攻めにすればもちろん味方にもたくさん死傷者がでます。
竜王山の本陣から高松城をながめていた秀吉は、黒田官兵衛を呼びました。
「官兵衛。この城をひぼしにするにはどうしたらいいだろう。」
「城のうしろは立田山・つつみ山 竜王山にかこまれ、前は泥田ですから、こっちから攻めていっては
けが人がたくさんでます。
兵力をすこしも傷つけずに城を落とすのは水でしょう。」


「わしもそう思っていたのだ。城兵は五千人ほどいる。あれがひと足も外へ出られぬようにしておけば、
城内の食糧はたちまち食いつくしてしまうにちがいない。
いまは梅雨どきで川の水はぐんぐんふえている。あれをしめきろう。」
秀吉は、七八人の供をつれただけで、門前村から蛙が鼻まで四キロほどを、ゆっくりと馬を進めました。
そのうしろにところどころ目じるしの旗をたてました。
「いまのところへ今夜じゅうに塀をつくれ。
 一町(約一〇九メートル)ごとにやぐらをつくれ。」

 
蜂須賀彦右衛門は、すぐに人夫を狩り集めて工事にかかり、ひと晩のうちに塀とやぐらをたてました。 
やぐらには鉄砲組と槍組をのぼらせ、やすみなく城にむかって矢を射こみ鉄砲をうちかけましたので、
城兵もしきりにやぐらめがけてうってきました。
そのあいだに塀の外では人夫たちが、土や石をはこんで土手をつくりました。
土手づくりには兵士たちも総動員されましたから、わずか三日で四キロの土手ができあがりました。

いよいよ川をしめきるときがきました。
ちょうど運よく雨が降りだして、川の水がどんどんふえてきました。
黒田官兵衛は、二千人の兵士を川岸へ集めました。
土をつめた俵を何千俵もつくり、千人ばかりの人夫を待機させました。
「さあ、軍勢はみんないちどに川へはいって、川上へむかって押していけ。」
とともに二千人の武者が、どっと川へ飛びこみ、えいっえいっと武者声をあげては手を組み合い、
びったりとかたまりあって川をのぼりはじめたので、川の流れは人の群れにせかれてとまってしまいました。
「それぇ、土のうをぶちこめ。」
声の下から川の中へ土のうがいちどに投げこまれましたので、たちまち川の水はせきとめられ、
みるみるうちに城下の町や村や田畑を水の底へしずめていきました。

高松城をすくうために、毛利輝元も腕を組んでいたわけではありません。
小早川隆影・吉川元春が三万の軍勢をひきいてかけつけました。
高松から二十四キロほどはなれたところに陣取ったのです。
秀吉は、一万の兵を川の岸に集めて敵の進撃をくいとめました。
川の水がふえていて、毛利勢も渡ることはできません。
日差山・岩崎山には吉川勢・小早川勢の旗のぼりが林のように立っていましたが、さっぱり動かない
水はどんどんとふえてきて、城はとうとう水の中につかってしまいました。


五千人からの人ですから小舟ではこびだすことはたいへんですし、そんなことは実行不可能でした。 
そのままにしておけば、鳥取城の二の難です。
小早川隆景は、便を城将清水完治におくり、
『助けたいのだが、どうにもならないから降参して城内の兵士を助けろ。』
との手紙をわたしました。 
官兵衛は、すぐに、安国寺恵と会って講和をすすめました。
四日の朝、宗治が切腹するというので、小舟に酒やさかなを乗せて贈りました。
宗治は、小舟に乗って蛙が鼻へこぎよせ、秀吉の陣屋の下で見事に腹を切って死にました。
宗治のりっぱな最期をみとどけて、秀吉は、講和の約束の書類に署名をしました。

 

 

・・・

 

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「太平記」桜井の別れ   (大阪府桜井宿跡)

2024年06月20日 | 旅と文学

昭和20年、終戦と共に、日本は平和日本となり
「軍神」は日本から消滅した。

その日から80年、令和の日本で軍神の名さえ忘れ去られようとしている。
日露戦争・旅順港の広瀬中佐、
昭和7年上海事変の爆弾三勇士、
真珠湾攻撃の九軍人、など。
なかでも、国民的英雄として扱われたのが”大楠公”こと、楠木正成。


大楠公は”戦の神”であり、現人”神”の忠臣で、
神が重なり戦前では最高・最大の軍神だった。

庶民がつくり上げた神でなく、国家がつくり上げた神で、
学校教育で児童が学んだのが特色な神。
天皇(南朝)の為に一族は無私な心で、天皇を助け、命を投げ打つ。

戦前の笠岡男子小には「楠公父子」、笠岡女子小には「楠公母子」の銅像があった。
(今はない)
東京の皇居外苑には、戦前からの「大楠公」像が今も残る。
そこに銅像の説明はあるが、楠木正成の説明はない。
(楠公よりも住友が大切なのか?)
説明板がないと、現代人は楠木正成・正行を知らない。
唱歌で習わないし、国史はなし。
楠公父子を知る機会がない。

・・・

 

「大阪府の歴史」 藤本篤  山川出版社 昭和44年発行

―桜井の訣別―

父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
未だ若けれ諸ともに 御供仕えん死出の旅

「自分は死ぬが、父に代わって天皇様を助け最後まで守りつくすように」と、
よくよく分かるように悟され・・・

南北朝の時代の争乱は、摂河泉の争奪戦ともいわれている。
九州で勢いを盛り返した尊氏、弟の義直は海陸呼応して東上してきた。
くいとめるため出陣した楠木正成は、途中、
桜井の駅(三島郡島本町)において、嫡子正行を河内におくりかえすとき、
最後の教訓をあたえた。

ときに正行は10歳であったという。
この話は「太平記」にのせられたもので、太平洋戦争の敗戦前までは、
小学校の教科書にもとりあげられ、歌にもうたわれて有名であった。

しかし、明治時代の学者から、つくりばなしではないかといわれていた。
その理由は、当時正行は左衛門少尉の官職をもち、成人に達していたはずであること、
このころ正行の書いたものをみると、とても10歳くらいの少年の文字とは思えないこと、等々である。

 

・・・

旅の場所・大阪府三島郡島本町桜井  桜井駅跡史跡公園
旅の日・2021年11月4日 
書名・太平記
作者・不詳
現代訳・「太平記」 森村誠一 角川書店 平成14年

・・・

 

 

桜井の訣別

この日五月二十一日、正成一行は摂津国島上郡桜井の宿において宿営した。
当時の都へ上る交通の要衝で、戦乱の都度兵火に見舞われている地域である。 
桜井のすぐ東で桂川、 宇治川、木津川の三川が合流し淀川となる。
対岸には石清水八幡宮がある。


まだ陽は高かったが、 正成は桜井の宿で兵馬を停め宿営を命じた。
馬上悠然と揺られて来た正成は、常とまったく変わらぬ表情であったが、深く心に期するものがあった。
生きてふたたび帰らぬ戦さという正成の決意は、彼に従う約一千の将兵に伝わっている。
このとき正成は四十三歳、楠木一族の命運を懸けて、後醍醐を支持して蜂起したが、
ついに決して勝てぬ戦いへ一族を導いてしまった。
その責任を正成はいまひしひしと感じている。

 

「今宵はこの地にてゆっくりと兵馬を休めよう。
お主たちも充分に休め」
正成は家臣に言った。
兵士専門の娼婦もいて明日なき兵士にこの世の名残りの歓を尽くさせる。 
正成が桜井の駅に兵馬を休めたのは、生きて帰る当てのない軍旅の将兵にせめてこの世の最後の名残りを惜しませたかったからである。
正成はここで気前よく兵士たちに軍費を分けてやった。
兵士は歓声を上げ酒や女に群がった。

 

宴が果てて家臣たちがそれぞれの寝所へ引き取った後、その場に正成と正行二人が残された。
「正行、これへまいれ」
正成の手がつと伸びて、正行の肩に置かれた。 
「そなた、何歳に相なる」
と正成が問うた。
「十二歳でございます」
「おお、そうじゃったのう。 顔をよく見せよ。」

常々威厳に充ちている父の面が、今夜は穏やかに優しい。
「そなた、明朝この地より河内へ帰れ」
正成が突然言った。
「なに故でございますか。私も父上のお供をいたします」
「それはならぬ。そなたにはわしの留守の間河内と母者や弟たちを守ってもらわなければならぬ」
「正行は楠木家の嫡男。 父上と共に死にとうございます」
「そなたはまだ十二歳じゃ。軽々に死を口にしてはならぬ。
楠木家の嫡男であればなおさら、父の代わりに河内と母者や弟たちを守らなければならぬ」

この度の出陣は万に一つの生還も期せぬ死刑場への道である。
正行には父の愛情がわかった。

「正成が討ち死にすれば、天下は足利のものとなろう。だが一時の命を助からんために多年の忠節を失い、節を屈して足利に降ってはならぬ。
金剛山に立て籠り、一族門葉ただ一人となっても戦え。 
それがそなたが父から引き継ぐべき楠木家の道じや。
決してあきらめてはならぬ。それこそそなたの第一の孝養と心得よ」

正行の頬がいつの間にか濡れている。
正行にとって正成は父としてよりは一族の長の象徴であった。
常に威厳に溢れ、厳然としていた。 
又は嫡男としての正行を特に厳しく薫陶した。
正行には常に一族の統領として振舞った。

「わかりました。正行は河内へ帰ります」
「おお、聞き分けてくれたか。それでこそ我が子じゃ」
「父上」
「はは、死ぬと決まったわけではない。また生きて河内で会おうぞ」
親子は手を取り合った。


桜井の宿に別れを告げた行く者と帰る者は、二度と会うことはなかった。

 

 

 

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陸奥爆沈  (山口県周防大島「陸奥記念館」)

2024年06月19日 | 旅と文学

昭和18年1月7日、戦艦陸奥が柱島沖で突然爆発して沈没した。

乗員1.474人、うち助かった人353人。
艦内にいた人は全員死亡、甲板にいた皿洗いなどの新兵が助かった。
助かった人は別れながらも、南洋の戦場へ飛ばされた。

事件は徹底的に隠されたので、
死んだ人にも、しばらく給金が送金された。
死んだ人は、その後に別の場所で死んだことになったのだろう。

陸奥爆沈の原因はわかっていない。
内部調査であり、調査書等はもとからないのだろう。
あったとしても、敗戦後、まっさきに焼却処分しているはず。
可能性が高いと言われるのが作者の言う人為爆発説。

 

吉村昭は、軍の密閉した体質をとことん・・・
それを、いつものようにたんたんと・・書いている。

・・・

旅の場所・山口県大島郡周防大島町東和・陸奥公園「陸奥記念館」 
旅の日・2013年4月25日 
書名・「陸奥爆沈」 
著者・吉村昭 新潮文庫 昭和54年発行

・・・

 

 

「陸奥爆沈」 吉村昭 

 

昭和四十四年四月三日早朝、私は、農業専門月刊誌の編集次長山泉進氏と防予汽船の小さな定期船で岩国港をはなれた。
私は、前々日の午後東京から全日空の中型旅客機で広島空港に降り、タクシーで岩国市に入った。
私の仕事は、岩国市の紹介紀行文を書くことで、山泉氏がカメラマンを兼ねて同行してきてくれたのである。


「桂島に行ってみませんか」
と、山泉氏に言われた時、私は当惑した。
桂島という地名は、私も熟知している。
その島の近くの海面は、戦時中内地での連合艦隊最大の根拠地で、柱島泊地と称され多くの艦艇が集結した。 
その広大な海面の周辺には、多くの島が点在していて艦艇の望見されることを防ぎ、海面もおだやかで投錨地としての条件をそなえていた。
艦の修理・改造・諸試験にすぐれた設備と能力をもつ呉海軍工廠や弾薬、糧食その他を補給する呉軍需部も近く、
その上大燃料庫ともいうべき徳山要港からの重油の供給を受けられるという利点にも恵まれていた。

 


昭和十八年六月八日正午頃、
柱島泊地の旗艦ブイに繋留中の戦艦「陸奥」(基準排水量三九、〇五○トン)は、大爆発を起して艦体を分断しまたたく間に沈没した。


夜になると、軍艦が爆発して沈没したらしいという噂が各戸につたわった。
そしてそれを裏づけるように、翌朝島の周囲の海面一緒におびただしい重油が流れてきて、海軍のハンモックや兵の衣類なども岸に漂着するようになった。
島は、騒然となった。


そのうちに、住民たちの間にさまざまな話がひそかに流れるようになった。 
柱島の近くの無人島に小舟で貝をとりにいった或る少年は、波打ちぎわに横たわった水兵の死体を見て恐しくなっ逃げ帰った。
また桂島の南端にある洲で、死体にガソリンをかけて焼いているのを遠くから目撃したという話も伝ってきた。

呉鎮守府から警備隊員が乗りこんできて、島の住民を厳重に監視するようになり、住民たちを 一種の恐慌状態におとし入れた。
島から岩国港まで通う定期船が桟橋につくと、張りこんでいた私服が乗ってきた住民に近づいてきて、
「大きな軍艦が沈んだそうだね」
と、なに気ない口調で声をかける。
「そうらしい」
と答えた者は、一人の例外もなくそのまま憲兵隊に連行された。
また爆沈海面に近い大島でも、
「軍艦が沈んだらしい」
と、口にした者多数が連行された。


呉警備隊は、まず陸奥爆沈の事実を一般にさとられぬ方法として、漂着死体やそれに準ずる浮物の収容につとめることになった。
ただちに警備隊二ヶ中隊が編成され、漂着物の流れる可能性のある島々や諸島水道等に急派した。
「ところが、ニヶ中隊を編成したものの、なんの目的で任務につかせるのか説明するわけにはゆきません。
しかし、それでは趣旨が徹底しないし、全くあの時は困りました。
小隊長以上には 『陸奥』のことを話す必要があるだろうという意見を述べる者もいて、その是非で大激論を交しました。
結局、小隊長以上を呼んで、決して他言はするなと厳しく念を押して『陸奥』のことを話し、出発させたのです」
山岡氏は、苦笑した。
しかし、警備隊二ヶ中隊といえば四五〇名にも達するので、行動の目的をさとらせぬための配慮もはらった。
ニヶ中隊は細かく分けられ、小グループずつ出発させた。しかも、陸上での移動は目立つので、呉から舟にのせて任地に赴かせた。


焼骨には、石油、重油、木材が使用されたが、殊に木材は多くを必要とし、柱島や他の島々で 買い求めると爆沈の事実をかきつけられるおそれもあるので、
呉軍需部からひそかに団平船で運ばせた。

「陸奥」乗組の生存者は、「扶桑」「長門」の艦内で監禁同様の処置を受け、「長門」「扶桑」乗員 との私語も禁じられた。
かれらの所属は失われていた。
集合時には、「『陸奥』乗員、集れ」と命じられていたが、「扶桑」では「第二十四分隊」 と呼称されるようになった。
かれらは、死体収容と焼骨作業に従事するだけで、その作業中も絶えずきびしい監視を受けていた。

負傷者は呉海軍病院の隔離病棟に収容され、外部との接触を遮断された。
また負傷者に接する看護兵、看護婦もごく少数の者にかぎられ、かれらも病棟外に出ることを禁止された。
さらに機密保持の完全を期して、負傷者たちはひそかに内火艇に乗せられ呉港外の海軍のみで使用している三ツ子島の隔離病棟に移され、そこで約二ヶ月間軟禁状態におかれた。
むろんかれらには、「陸奥」に関することを口外せぬよう厳しい命令があたえられていた。

一般人に対する処置としては、「陸奥」 爆沈時に、近くで漁をしていた一隻の漁船がいたことが確認された。 
哨戒艇はその漁師をとらえ連行した。
漁師は、濃霧の中で大爆発音をきき黒煙を眼にしただけだと述べたが、大事をとって付近の島に軟禁した。
海軍では、その漁師に酒食を提供し金銭まで支給した。

 


陸奥爆沈の報を受けた日本海軍中枢部は、初め敵潜水艦による雷撃の公算大という柱島泊地かのに緊張したが、
やがてその疑いも薄らぐと新たな不安におそわれた。


海軍省は、海軍艦政本部に対し至急に事故原因を調査するよう命じた。 
爆沈原因は三式弾の自然発火だという専門家たちのほとんど断定的とも思える判定が下された。
日本海軍を一種の恐慌状態におとし入れた。
日本の主力艦にはすべて三式弾が搭載されていて、専門家たちの判定が正しければ、それらの艦も「陸奥」と同じような爆沈事故をおこす危険にさらされていることになる。
それは、日本海軍にとって一刻の猶予も許されぬ憂慮すべき事態であった。


死体となって発見された野〇三等水兵が、なんらかの目的でドアをこじあけ火薬を持ち出し、火を点じた。
火薬は爆発し野〇三等水兵は窒息死した。
野〇三等水兵の身辺が徹底的に洗われた
日常生活に於てもその日の行動からみても火薬庫放火の疑いは深まるばかりだった。
その目的は、火薬庫爆発による自殺と判断されざるを得なかった。

 

・・・

昭和46年頃、戦艦陸奥が引き上げ揚げられることがニュースになった。
深田サルベージが大型海上クレーンで船体を何カ所・部分を引き上げた。
陸奥引上は、あれは何が目的だったのだろう?
その頃、つづいて戦艦大和も引き上げる、ことも話題になっていたような気がする。

 

身内の話だが、当時義兄が中国財務局に勤務していて、
「本省の偉い人が読む」陸奥引上儀式のあいさつ文の原稿をつくった。
テレビを見ながら「あれはワシが書いた」と満足そうに義兄は言っていた。

・・・

 

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「今昔物語」美人に会った話  (京都府伏見稲荷)

2024年06月18日 | 旅と文学

今昔物語には面白い話が多いが、
「美人に会った話」もおもしろい。

生活感がまるでなく、いつも恋や、歌を詠んで暮らしていたのだろうか?

 

・・・

旅の場所・京都府京都市伏見区「伏見稲荷大社」 
旅の日・2014年9月9日 
書名・今昔物語
原作者・不明
現代訳・「今昔物語 宇治拾遺物語」  世界文化社 1975年発行

・・・

 

今昔物語・ 古山高麗雄


稲荷詣に行き美人に会った話

二月の初牛(はつうま)の日は、古来、上下を問わず京中の人々が、稲荷神社に、参詣して、人出で賑わうのである。


近衛府の舎人どもも、稲荷神社に参詣に出かけた。
中の社の近くまで来ると、参詣に来る人、参詣をおえて帰る人が行き交う中に、えも言えず美しく着飾った女に出会った。
舎人たちは、みだらな戯言を言ったり、あるいは、身を屈めて、女の顔をのぞきこんだりす

重方は元来、好色である。
舎人たちの一行の中で、この女に格別執心したのが、好色の重方である。
重方は女に近づいて、口説き始めた。 
「家にお帰りになれば、ちゃんとした奥方がお待ちになっていらっしゃいましょうに。
行きずりの戯れ心でおっしゃることを真に受けてはおかしうございます」
と女は、可愛らしい声を出す。

 

 

「私は、それはまあ、つまらぬ妻がいさる。
顔は猿のようでな、心は物売女なみの女でして、ま、離婚しようとは思っているのですが、 
当座、綻びを縫ってくれる者がいないのでは、なにかと不便で、ずるずるになっていますが、
しかし、気に入った女性にめぐりあったら、乗りかえようと本気で考えているわけで。」

「本気でおっしゃっているのですか。 戯言をおっしゃっ ているのではございませんか」


「この御社の神もお聞きあれ。 参謡の甲斐あって、あなたのような方を神様が賜わったのではありませんか。
そう思うと胸がいっぱい、うれしくてなりません。
ところであなたは、ひとり身でしょうか。
また、どちらにお住まいですかな」

「行きずりのお方の言葉を真に受けるとは、私も愚かな女でございます。さ、お出かけくだされ。私も失礼いたします」
と言って、女は歩きだした。


重方は、手を合わせて額に当て、烏帽子を女の胸につけるほどに頭を下げて、
「神様、お助けください。そんな殺生な。 つれないことを言ってくださるな。
このまま、あなたの所へ参ります。 
妻の所にはもう二度ともどりませんぞ」

重方は、そう言って、口説いたのであった。
その重方を、烏帽子の上から、女はむずとつかんで、顔をバシンと、山も響くばかりに打った。

重方は、びっくりして、
「これは、なんとなさる」
と言って、女の顔を見上げると、
なんと、これは、妻はないか。

妻に謀られたわけであった。

 

 

 

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彼のオートバイ、彼女の島  (岡山県白石島)

2024年06月17日 | 旅と文学

この本のおわり、作者の「あとがき」がいい。

ついでに書いておこう。
瀬戸内海のどのあたりでもいいから、ほんのすこし船でいくだけで、いまの日本がどれだけひどい状態にあるかを、全身の痛みのようなかたちで感じとることができる。
おなじテーマで、ぼくはまたひとつ、長い小説を書こうとしている。
コオやミーヨと、どのくらいおもむきがちがってくるか、楽しみだ。
著者

「彼のオートバイ、彼女の島」 片岡義男 角川書店 昭和52年発行

・・・・

片岡義男氏が瀬戸内海の島々の状況を憂い嘆いたのはもう47年も前のことだ。
今の瀬戸内海では、島を一周しても人の声が聞こえない島が多い。
洗濯ものが庭先に干してあるから住んでいる。
テレビの音が聴こえるので住んでいる。
猫がいるから人も住んでいる。
それが現状だ。

島から島へお嫁に行く「瀬戸の花嫁」はおそらく、
広い瀬戸内海でも年間一組もないだろう。
島の人口が減ると、選出議員も当然減ってくるし、政治力も少なくなる。
架橋工事はほぼ無くなった。

白石島は本土から近く、名のとおり白石で美しい島。
「白石踊り」はユネスコ遺産にも登録された。
恵まれた環境にあるが、海水浴はレジャーとしてすたれ、島民の高齢化はすすむ。

 

 

・・・

旅の場所・岡山県笠岡市白石島 
旅の日・2023年2月25日 
書名・彼のオートバイ、彼女の島
著者・片岡義男
発行・角川書店 昭和55年発行

・・・

 

 

彼女の島

「瀬戸内海へ来ない?」 「いきたい」
「八月のね、十四日から十六日まで、盆踊りなの。今年は休みをとって帰ろうと思う」
「どこだって?」
彼女は、島の名前を教えてくれた。
「なに県だい」
「岡山」
「笠岡って、あるでしょ。海ぞい。福山の、ちょっと倉敷より」
「そこから、オートバイなら、フェリー。四十分くらいよ」
「来る?」
「計画をつくる」
「そうね。フェリーは一日に一本よ」

 

 

笠岡の、国道2号線からすぐの、小さな港からフェリーに乗った。
車は一台もいず、大きなオートバイはぼくのカワサキだけ。
ほかに、島の人だろう、ホンダのベンリイのおじさんがいた。
おばさん 女子高生それに、島へ泊まりがけで海水浴にいく人たちで、フェリーは、なんとなく満員の感じがあった。
白く塗った、小さなフェリーだ。

 

 

快晴だ。
笠岡から、美代子の待つ島へ、第五喜久丸というフェリーが、むかっている。
ぼくは、カワサキといっしょに、そのフェリーに乗っている。
うれしい。陽が強い。
とても暑い。
陽のなかに、上半身は裸で、ぼくは立ちつくした。海や空をながめた。
照りつける陽が、ぼくの肌を焼く。


港は、丸い入江のようだ。 
その入口の両側から、防波堤がのびている。
片方の防波堤の突端には、
濃いえんじ色の煉瓦でつくった、小さな夢のような灯台が立っている。
フェリーは、汽笛を、みじかく一 度、鳴らした。
港の奥にも、山のつらなりが見える。
港のまわりを、古風な民家が、まばらにとりまいている。
灯台のコンクリートの台座に、誰か人がいる。
若い女のこだ。フェリーを見ている。
紫色のタンクトップ、片手で髪をかきあげ、もういっぽうの手を、フェリーにむかって振っている。
陽焼けした顔で、にこにこと笑っている。脚が、まぶしい。
彼女が、両手を頭のうえで、振りまわす。
「コオ!」

 

「いいとこだね」
「気に入った?」
「とても」
「よかった。私も、久しぶりなのよ。でも、ぜんぜん、かわってない」
ゆるやかな坂道をのぼっていった。
その坂道の突き当たりに、美代子の家があった。
石を積みあげた塀の中に、どっしりと建っている。大きな二階建てだ。
黒いかわらに、壁の板も、黒く塗ってある。
門を入ると、きれいな中庭だ。
庭の奥には畑が広がり、そのさらにむこうには、樹が何本もあり、
「すごい家だな」
と、ぼくは、思ったままを言った。

 

 


「家にあがって」 「うん」
ここも、澄んだ空気いっぱいに、わけもなく悲しくなるほどの、セミしぐれだ。
濡れ縁の半分を、腸に焼けた三枚のすだれがふさいでいた。
障子をあけると、座敷だ。 
「弟は大阪。両親だけなの。夕方には帰ってくるわ」
夢のような日々だった。
日々と言っても、三日間だけど。
ミーヨがつくってくれた朝食を、彼女の両親と、いっしょに食べる。
ついでだけど、この三日間で、ぼくは美代子のことをミーヨと呼ぶようになってしまった。
もはや、 ぼくにとって、彼女は、ミーヨ以外ではありえないのだ。

 

 

朝食がおわったら、さっそく、海だ。
ぼくは、夏の海にうえていた。
昼すぎまで、海にいる。泳いだり、砂浜に寝そべって陽に焼いたり、満潮のときは沖の岩山へ泳いでいき、瀬戸内海をひっきりなしに往き来する船をながめたり。
昼すぎに、ミーヨの自宅に帰る。
彼女が昼食をこしらえてくれる。母親と三人で食べる。
父親は、島の反対側にあるという石切り場に弁当を持って働きにいってしまっている。

 

 

・・・

この「彼のオートバイ、彼女の島」は昭和61年映画化された。
残念ながら、映画の
”彼女の島”は、
白石島でなく、岩子島が舞台となった。

監督が尾道映画の大林宣彦さんという理由もあろうが、
大勢のロケ部隊を連れて、効果的に近隣で映像ロケをするとしたら
架橋の岩子島の方が離島の白石島より条件が勝っている。仕方ない。

・・・

 

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「東海道中膝栗毛」小田原  (神奈川県小田原)

2024年06月16日 | 旅と文学

弥次さん・喜多さんの話はおもしろい。
子どもから大人まで楽しめる。

江戸時代に、発売とともに売り切れ・大人気だっというのもうなずける。
江戸時代でも現代でも楽しめる話。

この本の最大の参考書は、歌川広重の「東海道五十三次」。
広重の絵画を見ながら、弥次喜多を読むと、楽しさが倍増し、
なんとなくあの時代がわかったような気になる。


小田原では、
宿場の女中に色気をだし、風呂でやらかし、読者を安心(?)させる。

 

 

・・・

旅の場所・神奈川県小田原市
旅の日・2015年7月8日
書名・東海道中膝栗毛
原作者・十返舎一九
現代訳・「東海道中膝栗毛」 世界文化社 1976年発行

・・・

 

小田原 


宿引「あなたがたは、お泊りでございますか」
弥次「貴様のところは奇麗か」
宿引「さようでございます。この間建て直しました新宅でございます」
弥次「女はいくたりある」
宿引「三人でございます」 
弥次「器量は」
宿引「ずいぶんと美しゅうございます」

 

 

やがて宿に着くと、亭主は先に駆け出して入りながら、
「サァお泊りだよ。おさん。お湯をとってあげろ」 「お早いお着きでございます」
早速、茶を二つ持ってきた。
弥次郎それを横眼でチラリとながめ、喜多八に小声で、
「見なよ。まんざらでもねえな」
喜多 「今夜はあいつをやっちゃお」
弥次「ふてことをぬかせ。おれがやるんだ」


喜多 「おっと、じゃ入るぜ」
と、待ち兼ねたように裸になり、一目散に湯殿へかけこみ、いきなり風呂に片足つっこみ、
喜多「アツ、、、、、弥次さん弥次さん、たいへんだ、
ちょっときてくんな」
弥次 「馬鹿め、風呂に入るのに、べつに作法があるものか。まずそとで金玉をよく洗って」

下駄でかたかたと足踏みするものだから、ついに釜の底を踏みぬいてベタリと尻餅をついてしまった。
湯はみな流れてシュー
喜多 「うわー、助けてくれ」
主「どうなさいました」
喜多 「イヤもう命に別条はねえが、釜の底がぬけてアイ」
亭主「こりゃ、又どうして底がぬけました」
喜多 「つい下駄で、ガタガタとやったもんだから」
亭主「イヤァおまいは途方もないお人だ。すい風呂に入るの にわざわざ下駄をはくという事があるものでございますか。しょうがない人だ」
喜多「いや、わっちも初めは裸足ではいってみたが、あんまり熱いもので」
亭主「いや、にがにがしいことだ」
弥次郎も気の毒になって、仲裁に入り、釜の修繕代に二朱銀一つ払うことで、ようやく事がおさまった。 

 

 

・・・

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「新選組始末記」島原の角屋  (京都市島原)

2024年06月15日 | 旅と文学

「新選組始末記」は、作者・子母澤寛の取材の熱意と汗が伝わってくる作品だ。
新選組と、その関係者への取材は、人間の寿命があり時間が限られる。
大正末から昭和初期、日夜を惜しんでぎりぎり間に合ったと思える。
この作品のおかげでその後、多くの新選組の作品が生まれた。

 


・・・

旅の場所・京都市下京区(島原大門・角屋)
旅の日・2020年1月30日                
書名・「新選組始末記」
著者・子母澤寛
発行・中公文庫  昭和52年発行

・・・

 

 

島原の角屋

守護職会津侯、直々のお預りというので、京の町奉行与力同心も、新選組のする事については、 
良きにつけ、悪しきにつけ、見て見ぬふりをしているので、
その勢力が強くなるに従って、芹沢鴨は、性来の乱暴狼藉をはじめて来る。
世上これを「壬生浪士」といったが、蔭口には誰も「浪士」とは言わずただ「壬生浪壬生浪」といった。

芹沢はひどく大酒で、酔ってくると、段々むずかしい顔になり、誰彼の見境いもなくなるのである。
言わば、酒乱だが、何しろ腕が出来る上に、底の知れない腕力があり、さあ一旦暴れ出したとなると、その取鎮めに骨が折れる。
酔わない時には、ざっくばらんな如何にも豪傑らしいいい気質の人物であった。

この文久三年の六月末に、水口藩の公用方が、会津の藩邸へ出かけた時の雑談に、うっかり新選組の乱暴を話したというので、
芹沢は、永倉新八、原田左之助、井上源三郎、武田観柳の四人を、水口藩邸にねじ込ませ、公用人を生捕りにしようと騒ぎ立てたが、
二条通りに直心影流の道場を開いている戸田栄之助という剣客が、その間に入って口を利き、漸く芹沢を納得させて、
隊士一同を、島原の角屋に招待した事がある。

その酒席で、角屋の取扱いに気に入らぬ事があるといって、芹沢は、例の尽忠報国の大鉄扇を振り廻して、
膳椀から瀬戸物一切、手当り次第に打壊し、その上、二階の階段の欄干を引抜いて、これをもって帳場へ下り、酒樽を打割り、
更らに流し場へ行って、料理の器物という器物、殆んど一つ残さず滅茶滅茶にして終った。
家内の者は、忽ち逃げ去ったので、別に負傷者はなかったが、芹沢はそれ位では満足せず、遂に隊名を以って、
「角屋徳右衛門不埒の所為あるにつき七日間謹慎申付ける」旨を言渡した。
この角屋処分の一件には、島原廊内が慄え上った。

 

 

 

だんだら染の制服羽織

勇士はぞくぞく集まったが、貧乏世帯には困り果てて、局長筆頭の芹沢が、
自から、山南敬助、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 平山五郎、野口健司、平間重助の七人を引つれて、大阪へ出かけ、
鴻池善右衛門へ談じ込んで、金子二百両を借りて来た。

すぐに、松原通りの大丸呉服店を呼びつけて、麻の羽織、紋付の単衣、小倉の袴、ことに羽織は、公式の場合着用するものだからといって、
浅黄地の袖へ、だんだら染を染抜いて、一寸、義士の討入に着たようなものを、隊士全部の寸法をとらせて、注文した。
この羽織は、それから永く、新選組の制服になった。
ああ、よかった、と一同喜んだが、これをきいた会津侯は、少しびっくりした。
幕府が立つか倒れるかの、高等政策に、日も夜も足らぬ忙しさをつづけて、遂いうっかりしていたが、
これは如何にも浪士を預っている当方の手落ちだというので、すぐに、藩の公用人から芹沢を呼出して、 
「商人どもから金子を借用したとあっては、如何にも肥後守の不明という事になる。金子二百両は、当家から支出するから、
早速返済致すよう。今後は当方に於ても注意はするが、不足の事については、その都度公用方まで申出るがよろしかろう」
と申渡した。

 

・・・

 

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「平家物語」奈良炎上  (奈良県奈良市)

2024年06月14日 | 旅と文学

1180年東大寺の伽藍が焼け、奈良の大仏は首から落ちた。
清盛の命による平家の「南都焼き討ち」だが、
その後、重源による東大寺復興や、
「歌舞伎十八番」勧進帳もよく知られている。


大仏はその後、1567年に松永秀久によって二度目の落首。
現在の大仏様は、頭部が江戸時代、腹部が鎌倉時代、下部が奈良時代のもののようだ。

 

・・・

旅の場所・奈良県奈良市・奈良公園
旅の日・2021年11月5日               
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」古川日出男 河出書房新社 2016年発行

・・・

 

 


奈良炎上

「よし、南都も攻めてしまえ!」
大将軍には頭の中将平重衡、副将軍には中宮の亮平通盛、すなわち入道清盛公の子息と甥でございます。
この二人がつごう四万余騎を率いまして、奈良へ向かって出発しました。

邀え撃たんとする興福寺の大衆は、老人もいれば若いのもいる、そうした年のほどなど区別せずに七千余人が兜の緒を締め、
奈良坂と般若寺の二カ所の道に堀を作ります。
道を掘り切って断ってしまい、また搔楯をしつらえまして、
それから逆茂木を並べて待ち構えます。

平家方はと申せば、四万余騎のその軍勢を二手に分け、奈良坂と般若寺の二カ所の城郭に押し寄せて、どっと鬨の声をあげました。
官軍は馬、駆けまわり駆けまわり、もちろん弓矢も擁する。
興福寺の大衆をあそこに追い、ここに追いつめ、ああ、そこにいる限りの者全部が討たれます。
無間地獄といった炎の底の罪人どもの発する声も、これには過ぎまいと思われた一大叫喚なのでございました。

ああ。 興福寺は藤原氏代々の氏寺です。 
東金堂にましますのは仏法伝来と同時に我が国に渡ってきた最初の釈迦の像ですし、
西金堂にましますのは自然にこの世に湧いて出た観世音像でございます。
それから九輪が空に輝く二基の塔がございます。いえ、ございました。
この日、この夜に、一切はたちまち煙となったのです。
なんたる悲しさ。 

東大寺には大仏像がましました。
常在不滅で、実報と寂光の二土に通じる生身の御仏に象られあそばされて、聖武天皇がご自身で磨きたてられた、金銅十六丈の盧遮那仏が。
お首は焼け落ちて大地にある。
お身体はと申せば鎔け崩れて、ただ山のよう。
なんたる、ああ。

 

 

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