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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

子供のおやつ

2015年11月29日 | 暮らし
おやつと言えば「ふかし芋」が一番多かった。
珍しいと言えば、カブトガニ。
美味かったのは、食用ガエル。
蜂の幼虫や雨蛙は遊びを兼ねて食っていた。


岡山県史・民族1より転記

大正の初め頃まで田舎の農家では、盆正月・祭り・婚礼・葬式・祝い事などや、町からの来客のみやげのもらい物の生菓子、饅頭が口に入るくらいだった。
食い意地盛りの子供たちは、家のまわりの柿・梨・栗・ナツメ・ビワ・グイビ・ユスラ・山ナスビ・野イチゴ・スカンポ・万太郎ミツ・松緑・ガブ(野ぶどう)・アケビなどに気を配っていた。
栗の木の虫を焼いて食べたことなど今の子供にはないだろう。

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最終・北川村合併騒動④-4 北川村長の手記(9)(10)(11)(12(13)

2015年11月29日 | 昭和31年~35年

「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。


(9)

次に来るものは議員の総選挙である。
昭和34年3月8日投票、即日開票。投票率91.9%。
笠岡派9人全員当選、矢掛派7人当選・2人落選。振り分けは笠岡派60%矢掛派40%の圧倒的勝利で終わった。

笠岡合併に反対する矢掛派は、攻撃目標を村長僕一人にしぼって手を打ち出してきた。
3月28日、僕の解職に賛否を求める投票の日が4月17日と決まった。
両陣営秘術をつくしての攻防の火ぶたが切って落とされた。

(10)

昭和34年4月17日投票が行われた。
賛成862
反対917
無効50
よって、村長の解職請求は否認された。
翌日、朝日新聞は次のような記事を載せた。
県は投票が大差でないので、矢掛合併の勧告を変える気配は見られない。
県は笠岡市に「合併は県に協力して」と働きかけをしているようである。
このような県の態度に県議会筋は批判的な態度をみせている。

(11)
昭和34年6月8日、県議会にて岡山県総務部長は「知事勧告は変えぬ」との弁明を新聞紙上でみた。
7月18日の北川村議会で笠岡市への編入合併期日を昭和35年1月1日の議案が出され8:6で可決された。
すると、新聞折り込みビラで「笠岡市合併は実現しない。無だな議決をなんのためにするのか」とあった。
矢掛町は7月30日、「全町挙げて矢掛・小田・北川3ヶ町村の合併を推進する」決議をした。
8月27日、県議会で地方課長は「北川村は激しい対立があるが、小田町・矢掛町は勧告を歓迎している」
8月31日、北川村内の矢掛合併派は矢掛・小田両町の協力を得て、220人バス3台をつらねて陳情に乗り込んだ。

(12)


昭和34年9月12日、
合併問題で県審議員が5人来村した。
川上農協中央会長、中島県議、巽RSK専務、花岡岡山市議会議長、妹尾県協議会長だ。
中島「北川村が笠岡に行く場合、小田町と共に行く事をどう思うか?」
村長「小田町と共に笠岡と合併するのは好ましい。ただし小田が矢掛にいっしょにと誘われても北川はしない」
中島「北川の笠岡合併を妨げるものは何か」
村長「二つある。一つは県の矢掛合併勧告である、もう一つは矢掛・小田の連合で物心両面から北川村への内政干渉である」
確かな筋の情報に寄れば、矢掛町は「小田だけの受け入れはしない、勧告通り小田・北川同時編入合併」と高姿勢。

(13)

昭和34年11月25日、
「村内情勢緩和の為に」村長退陣論が北川村・笠岡市から出る。
村内から第二のムシロ旗、半鐘事件を避け、円滑な村民感情のため村長辞職を決意した。




管理人記・昭和35年(1960年)4月1日に北川村は笠岡市に編入合併した。
ボタンの掛け違い、タイミングのずれなどが次々に起こり、最後は村長の辞職で落着した。
村長の手記に異議・異論の関係者もいるだろうが、早い段階で最高当事者が書き残した事は非常に意義があると思う。
これだけの事件を今、語る人もない。


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北川村合併騒動④-3 北川村長の手記(6)(7)(8)

2015年11月27日 | 昭和31年~35年
「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。



(6)

かくて村内は、議会リコール派と村長リコール派の対立、矢掛・笠岡合併の対立・混乱のドロ仕合と報道陣注目の的となった。
この時笠岡市の平本・安藤両市議によるあっせん妥協案が出された。
昭和33年9月15日、笠岡市高砂会館で「北川村長が退職すれば笠岡合併は確約できるか」念を押した。矢掛派6人は沈黙、3日間の考慮を約して散会、その後「村長が辞めても笠岡合併は賛同できない」と、かくて高砂会談は流産した。
その考慮期間中、矢掛派は「矢掛合併強硬議決」を申し合わせ、10月22日可決した。
僕は議員、リコール代表ら7人で天野県議案内で県庁を訪れ地方課長に「本日の村議会議決はリコール等村内情勢上、当分の間保留するので了承願いたい」旨申しいれた。地方課長は「妥当性に欠ける面も見受けられるが、合併保留についての承認はできない」と語った。
翌23日、矢掛町は緊急町議会を開き「昭和34年2月1日、北川村を編入合併する」満場一致で議決した。
この日、小田町は「北川村と同時に矢掛合併」を決議した。
矢掛派議員は小田・矢掛の町長・議長と出県、地方課長と質疑応答後声明を出した。「北川村の決議は適法である。村長は執行すべきである」。
これに対し笠岡合併同盟会は“北川村議員に問う”と題する長文を各戸に配った。
「議員諸君!すみやかに矢掛合併の取り消しを行え 然らずんば自ら総辞職されよ。敢えてリコールの結果を待たれる議員諸氏ではなかろう」と。

(7)

昭和33年10月29日、村選管は代筆署名の事実調査の結果、議会リコール署名簿は有効と再確認した。矢掛派はなお不服として弁護士を代理人にして岡山地裁に提起した。
「村議会解散を問う住民投票を12月21日行う」と告示した。
これを見た矢掛派は岡山地裁に議会解散賛否の投票一時停止を申請した。地裁は判定が済むまで投票停止すると返答した。
矢掛町は「矢掛町合併は必至・・」の新聞折り込みビラで村内矢掛派を援護射撃した。
僕は議員や同盟会長と14人で県会議長に「県議会で議決は保留してほしい」旨の請願書を天野・伊藤両県議の紹介で提出した。

リコール執行停止の仮処分にショックを受けた笠岡合併派は矢掛合併派のリコール運動を起こすことを決めた。12月19日、N氏宅を本部とし昼夜兼行の署名運動は29日、村選管に提出された。
こうなっては矢掛派もじっとしておられない。30日、「村内を乱した」と村長リコール運動にとりかかった。

(8)

昭和34年1月14日、矢掛派が村長の暴行2件を告発した。
村会議長ら矢掛派8人は「村議8人の解職署名簿は代筆・強要等があるから無効である」とまたまた異議を申し立てた。2月4日却下された。
村長解職運動は904人の署名を集めた。
1月31日、岡山地裁は先に執行を一時停止していたが有効であることを確認した。
1月31日、選管は村議会解散の住民投票を昭和34年2月20日とする告示をした。
2月20日、投票結果、村議会解散を決定した。

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北川村合併騒動④-2 北川村長の手記(3)(4)(5)

2015年11月27日 | 昭和31年~35年

「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。

(3)

昭和30年3月6日の朝、笠岡市合併反対(少合併)派が北川役場に押しかけてきた。
2人でさしあった半鐘を先頭に、ムシロ旗数本を押し立てた5、60人の一隊である。
一隊は「大合併を葬れ!」「議会をつぶせ!」となだれを打って乱入した。
半鐘は僕の頭上に持ち込まれた。頭上30cm、危険千万。
連打はやむことを知らない。ムシロ旗を議員団の頭上にかぶせる。陣頭指揮をとっているのは74才の長老。窓ガラスは割れ議長や議員の手から血が流れ出した。
「村長村を売ってええことするのか」「この騒動は誰の責任か」「村長、返答せよ」など半鐘乱打、悪口雑言の限りをつくした。
警察が来て急に静かになった。酒や杓が置いてあった。
急を聞いた民衆で外庭も人出を築いている。
10時頃、小田町の議長が「小田町への了解なしに笠岡へ合併するとは情義に反するではないか」、僕は「そのことは話している」と断った。窓からは酔っぱらった人が乗り込み、僕の机に座り演説をぶった。
途中、北川村の編入合併を満場一致で可決した知らせがあった。反対派との妥協案をつくろうとしたがまとまらない。小田町長はじめ帰らず少合併派に入れ知恵している。外では大火を囲んだ人の山。深夜の2時、貧血で倒れる議員が出て議会は流会を決めた。
これが3.6事変、いわゆるムシロ旗・半鐘事件である。
検事が井笠軽鉄の一番でやってきて「現場に手をつけないでください」。

(4)

それから2週間を経過した昭和30年3月20日、「合併問題を三木知事に一任」することになった。
4月30日、任期満了による村議選があった。
その結果少合併派が伸びて大合併派7人、少合併派7人、中立2人で両派五分五分になった。
この村議会に対して倉敷地方事務所の次長は「県は一任を受けているのであるが自主的に解決してほしい」と要望した。この言は中立2人の争奪戦に拍車をかけることになった。
翌昭和31年8月7日、4者会談が県地方課長のあっせんによって開かれた。
県・笠岡市・北川村・小田町が笠岡市役所に召集され村長・議長・副議長が出席した。
小田町の町長・議長が「いちおう小田・北川の合併を行ったうえ、笠岡市へ合併する」と主張。
僕は「小田・北川は同時に笠岡へ合併」と主張。
笠岡市は「同時合併の場合、北川は受け入れる。小田は意向があれば善処する」
地方課長は「同時合併が好ましいが、二段合併が不可とは言わない」
僕は小田町の誠意を疑った、4者会談は結局不調に終わった。
翌9月2日、村民大会が開催され村内の対立は激しさを増すばかりであった。
その10日後、任期満了による村長選があった。
僕は笠岡合併期成同盟会の推薦で、笠岡合併を一枚看板にして立候補した。
1.050:857票で僕の再当選と決まった。
昭和32年2月8日、県地方課長から呼び出しがあり「小田町と北川村の合併では、規模弱小であるから断念し、笠岡市または矢掛町との合併を推進するように」と。
同年3月31日、県地方課主事が来村し県知事からの合併勧告書が手交された。
待望していたものだった。ところが開いて唖然「北川村は矢掛町と合併を行うよう」と記されているではないか。
翌4月1日、緊急村会議を招集し勧告書を朗読した。
次の日、
村長・議員ら15人が北川駅に集合、
村民240人が貸し切りバス、矢掛町合併勧告拒否の陳情に行く。紹介者は伊藤・天野県議。

笠岡市議会は「実情を無視した不当措置である」と岡山県市議長会に決議案提出し県知事の勧告を抗議してくれた。
いっぽう村内の小田合併派は、あっさりと矢掛合併に横滑りした。
その間、中立議員の2名は笠岡・矢掛となり村議会は8名8名の五角となった。
5月5日議会全員が「村長の自発的退陣を勧告する」という意向でK議員から報告された。僕は「自発的退陣はしない、不信任なら善処する」と答えた。
村長退陣できなかった責任をとってK議員が辞職し、笠岡派7人となり均衡が破れた。

(5)
知事の勧告、議員団の劣勢で、じっとしておれなくなった。
二つの具体案を得た。
一つは自治庁への陳情。
一つは村議会解散である。
伊藤県議の案内で自治省を訪ねたのは昭和33年7月19日であった。二度目の陳情であり
村内の関係住民の多数の意向に反し、県当局が矢掛町合併勧告を出したことを説明した。
局長・課長は、勧告は命令ではなく盲従すべきでない。
村議会は険悪な空気のうちに進み「笠岡市または矢掛町との合併を内定し、昭和32年10月1日に合併する」と決めた。
笠岡合併同盟は8月26日から、夜に日をついでの議会リコール運動をすすめた。
矢掛派は「合併勧告あるのみ」の声明書を新聞折り込みで村内各戸に配った。更に矢掛派議員のみでリコール成立以前に合法議決をすることが密約された。
これに対抗し9月1日、議員・リコール派・婦人会ら90人が県庁におしかけ総務部長・地方課長と対談した。その結果を新聞折り込みで公表し矢掛派の声明を反撃した。
9月8日、村議会リコールの署名簿が出された。署名人1.049人で法定の1/3をオーバーした過半数である。
この議会リコールに対し矢掛派は村長リコールを打ち出した。「県知事から指示された矢掛町との勧告を無視し、いたずらに合併を紛糾させた」というもの。
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児童の生命

2015年11月27日 | 昭和20年(終戦まで)
学校で事故や事件が発生した場合、
教員が真っ先に行動するのは“児童の安全確保”であるが、・・・・・ある時代にはそれよりもっと大切なものがあった。

福山・岡山はじめ空襲は夜が多かったが、もし日中の授業中に遭遇していたら
校長先生は児童や教員を投げ捨てて一人、奉安殿に向かったのだろうか?(後述を素直に読めば、どうもそのようだ)


以下、
「笠岡市史3巻」より転記する。

皇国民の育成を目的をする国民学校では、御真影や教育勅語を保管する奉安殿が鉄筋コンクリートなど燃えにくい構造でできていた。
昭和20年6月、笠岡町女子国民学校の訓導であった女子教員の回想を記述しておく。

「ある日の深夜、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。急いで学校にかけつけてみると、校長先生がいつでも御真影を袋に入れて持ち出せるように待機しているのを見て御真影や勅語の大切さ、身をもって守ろうとする校長先生の姿に胸のつぶれるような思いがいたしました」

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笠岡紡績の設立・発展

2015年11月27日 | 江戸~明治
以下、「笠岡市史・3巻」より転記する。

殖産興業の中心となったのが綿糸紡績工場の育成である。
幕末・維新期に綿作の展開をみていた県南の地には岡山紡績会社をはじめ、次つぎに工場が設立され、明治29年にはその数9社に達した。

笠岡紡績は明治28年にドブソン製紡績機9984錘、従業員700名をもって開業した。
発起人は18人、株主は204人。後月郡・小田郡・浅口郡・岡山市。(持ち分は岡山市が41%)


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笠岡の製糸

2015年11月26日 | 江戸~明治
ツアー会社の北関東方面のコースに遠路、群馬県富岡市の「富岡製糸場」見物が多い。
富岡製糸工場は代表的な工場であり、2014年世界遺産になり、保存状態も良好のようで無理もないとは思うが、ひとつ気になることもある。

製糸工場は群馬県富岡にあっただけではない、日本全国どの町にもあった。笠岡にもあった。
そして原料となる繭は、明治から昭和初期まで、どこの田舎にも桑畑があり、養蚕農家があった。

(富岡まで行くより)かつてあった、わが町の製糸と養蚕を知り偲ぶ方がより重要なことではないかと思う。富岡はその次でいい。

・・・・・・・・・・・・・・・・

以下、「笠岡市史・3巻」より転記する。

笠岡の製糸

現在笠岡市役所分庁舎が建てられている所は、明治5年笠岡製糸場が建設された歴史的場所である。その製糸場は士族授産事業として作られたものである。

小田県権令矢野光儀は殖産興業を図るため「蚕事の儀は御国産第一の業」として養蚕を奨励し、製糸の有望性に着目し、県の士族授産の方策として製糸場の設立を考えた。

明治5年小田県は福山士族の子女を製糸練習、男を器械公作練習として4人東京に派遣、スイス人に蚕糸製造を習得させた。

県為替方の島田組に命じ製糸場を設けさせた。
島田組は政府から融資を受け、小田県庁の東方に土地を購入し洋風建物の笠岡製糸場を建設することになった。

翌明治7年4月、開業式を盛大に行い60名を収容し事業を開始した。

華々しく新築開業した笠岡製糸場の、その後の経営は不振であり、明治7年12月島田組倒産により事業は停止されてしまった。

明治9年9月、笠岡村や深津村の人ら11名が笠岡製糸場の土地、建物、器械を1500円で払い下げを受け蚕糸製造を再開した。
事業再開後は、繭が安く・輸出価格が高い年は利益が出た。
明治13年「山陽製糸社」を創設し、山陽地方の製糸業を連合して生糸を改良し、輸出することを図った。これによって笠岡製糸場の名声が高まり、広島・愛媛ほかから製糸工女の伝習を受けるため、入社するものが数十名に及び、製糸業の改良に実績を上げている。

大正時代、
賃金は年9回払い、平均10円80銭で地方としては一流であった。
就業時間はだいたい12時間、朝6時半から夕方6時半。8時頃までの夜業は普通。休業日は年間40日、祭り・盆・正月にまとめてとる。男子職員にはほとんど休みはなかった。
大正7年、工女による5日間のストライキあり。
大正9年、糸況が悪化。大正11年に井原の「中備製糸株式会社」と合併、その笠岡工場となった。

昭和7年、
解散し笠岡に一時代を飾った山陽製糸は歴史を閉じた。

中国情勢の変化、アメリカを中心とする輸出の低迷と糸価が暴落。人造綿糸(レーヨン)の出現が引き金になったものと考えられる。
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北川村合併騒動④-1 北川村長の手記(1)(2)

2015年11月26日 | 昭和31年~35年

笠岡市図書館が保管する「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。



(1)
昭和27年9月、新山小学校の校長を止め村長選に立候補した。
9月25日選挙で圧勝した。


(2)
僕が初めて町村合併の構想を持ち出したのは昭和28年の正月の、吉田・新山・北川・小田・中川の5ヶ町村による“中部ブロック”の構想であろう。
当時小田郡中部農業改良普及所が役場と農協の中間にあった。僕が会長をしていた、年始の会合で5ヶ町村案を出したところ「似たもの夫婦だ」「適正規模だ」「善は急げだ」と、町村長、農業委員長全員が賛成してくれた。
僕は4月30日の村議会に「5ヶ町村合併案」を出して、全会一致の賛成をみた。

ところが新山・吉田に異変が起こった。
8月29日の朝、「笠岡市合併内定したから了承願いたい」と両村長から申し出である。
村議を総動員して炎天下、麦刈り田植えもほったらかしで新山・吉田の村長・村議を戸別に訪問し口説きまわったのは、今は水のアワとなった。

残る3ヶ町村合併案を強く主張したのは小田町だった。
村議会では熱はなかったが、反対意見もなかった。
僕は中川村の動向が案ぜられるので単身村長を訪ねた。すると「結局、矢掛へまとまるべきだと考えている」と。
しかし小田町は是が非でも3ヶ町村合併をすると、町長・議長を先頭に婦人部会まで動員して中川村に押し入り、朝となく夜となく巡回し3ヶ町村合併を呼びかけた。
昭和29年2月21日、中川村長・議長が来訪し「矢掛町と合併内定した」との挨拶に接した。

小田町との合併は、せっかく合併しても規模弱小である。
昭和30年2月21日、村議会は12:4の多数決で昭和30年4月1日笠岡市へ編入合併することを決定した。
笠岡市との合併協定は成立し3月6日午前9時を期して同時に合併議決をすることになった。
僕は前夜合併派12人と役場の宿直室にジャコ寝し、一同円座して朝食をとっていると半鐘の音が聞こえる。
表に出ると煙は見えない。そこへ書記がせき込んで駆けつけてきた。
「町長さん!火事ではありません。
少合併派が役場へ押しかけてくる合図だそうです」と。
僕は宿直室の大合併派議員にこの事を告げ、矢掛警察署へ電話した。

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北川村合併騒動③笠岡市史

2015年11月26日 | 昭和31年~35年
笠岡市史によれば合併が遅れたのは北川村長の責任ともとれる記述になっている。

以下、
「笠岡市史第4巻」より転記する。


北川村は吉田・新山・中川・小田の5ヶ町村の合併を主唱し、関係町村と協議を重ねたが新山、吉田が昭和28年9月笠岡市との合併を議決10月合併した。
小田町は北川、中川の3ヶ町村の合併を唱えた。5ヶ町村の合併案が崩れた北川村も同調した。
中川村が昭和29年5月矢掛町となった。
昭和30年、大島村を合併した笠岡市は北は小田川という自然境界を市域とする大笠岡市気分が醸成された。昭和30年3月合併の議決がされた。

北川村は小田郡の中央部に位置する関係上、南の笠岡市へ合併を希望する村民と北の矢掛町へ希望する村民があった。
昭和30年2月、県の指導斡旋により大多数の村民は念願して村議会において議決するまで至ったが、なお賛否拮抗して村内は対立を続けていた。
昭和34年3月の村議会選挙後は特にこの期待は大きくなり、このときにあたり、円満合併ができるよう村長が退職し、村内の合併反対感情は大幅に緩和され、昭和35年に北川村を編入合併した。
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北川村合併騒動②小田町の事情

2015年11月24日 | 昭和31年~35年
北川村の騒動は小田町と共同歩調をとることの問題でもあった。
小田町が7年遅れて矢掛町へ合併したいきさつは、載っていない。


以下、
「矢掛町史」より転記する。

小田後月地方事務所の指導により北部の矢掛・美川・小田・川面・中川・山田・北川の8ヶ町村の合併構造をもとに最初の協議会が開催されたのは昭和28年9月1日であった。
次いで9月9日小田町が欠席した7ヶ町村で協議会をおこない昭和29年度初めに合併の目標で意見が一致した。
その後、小田・北川から独自の構想があるから賛成できない旨通知があり、6ヶ町村で合併することになった。
以来5回にわたり交渉委員会が開かれ29年5月1日をもって合併する運びとなった。
阿部山は地区全員が希望して鴨方町に編入した。
小田町は36年1月15日新矢掛町に編入合併し現在の矢掛町が誕生したのである。


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