しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陸軍特攻兵 (知覧)

2021年06月20日 | 銅像の人
場所・鹿児島県南九州市知覧


管理人は終戦から27年経った、昭和47年5月から丸1年間、大隅半島の鹿屋市に住んでいた。
本土最大の特攻基地があった鹿屋市で”特攻”、”特攻兵”に思いをすることはあったが、特攻が話題になることはほとんどなかった。

薩摩半島の知覧は陸軍の特攻基地があったのも知っていたが、紅茶や金峯山、たまに武家屋敷や薩南工業が話題になる程度だった。
知覧の特攻が話題になることはなかった。


それがいつからか、それとも、いつの間にか
紅茶や武家屋敷の知覧は、
”特攻の町”知覧になった。






「知覧の」の誕生  柏書房 2015年発行

報道班員として鹿屋に来た川端康成。

「私は特攻隊員を忘れることができない。
あなたはこんなところへ来てはいけないといふ隊員、早く帰った方がいいといふ隊員もいた。
飛行場は連日爆撃されて、ほとんど無抵抗だったが、防空壕にいれば安全だった。
沖縄戦も見込みがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰った。
特攻隊については、一行も報道は書かなかった。」


「話さなかった」のは、川端だけではない。
戦後約70年間、特攻隊員との接触体験を胸の内に秘めてきた市民もいるという。
特攻基地での勤務経験の公言を固く禁じられていたという。







いろんな小説やTVドラマで知覧が登場し、そのどれもが少年兵や青年兵が死を覚悟して飛び立つまでのすじになっている。
知覧での一夜か二夜のお話で、その前後が抜けている。

知覧の前のこと
国を挙げての”お国のため”プロパガンダ。
入隊すれば、少年兵を塀で囲み、皇国・神国の教育を叩き込む。
少年兵は、自分の”死”こそが国家を護り、家族を守ることになると信じる。特攻兵になる。


知覧の後のこと
飛行訓練時間が少ないため飛び立つのが精いっぱい、特攻機も訓練機およびそのレベルの機、重い爆弾かかえてよろよろ飛行、
それに対して敵の米軍は戦闘機が待つ、艦からは前方が見えないほどの射撃を受ける、vt信管付き。
日本の特攻機が急降下して敵艦体当りは、はっきり言って、沖縄戦ではほぼありえなかったであろう。


知覧での一夜の出来事の話や特攻記念館の展示品を見て感動して泣くのは個人の自由だが、それは趣味や観光であって、
歴史の勉強にもならないし、
ましてや国政や国防についても、少しも参考になるものではない。



撮影日・2013年8月9日


コメント
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