しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

池田勇人

2021年06月03日 | 銅像の人
場所・広島県広島市中区上八丁堀




戦後の首相の中でも、もっとも庶民性や信頼感があるように見える首相だった。
人気度も高かった、または野党からも敵が少ない政治家だった。

国内が安定し、経済成長いっぽんの内閣だったが、いい時代に首相をつとめ、
最期は東京オリンピックの成功を見ながら政界を去った。
幸運な人生の人であり、国民も経済成長の恩恵を受けた。







池田勇人

忠海中学→5高→京都帝大→大蔵省→大蔵省事務次官(昭和22年)→衆院議員(昭和24~)。

昭和24年吉田内閣の蔵相に抜擢された。
「中小企業の一部倒産もやむをえない」(昭和25年)
「貧乏人は麦を食え」(昭和25年)と発言。

昭和29年自由党幹事長。
昭和31年、蔵相。
昭和34年、通産相。
昭和35年、5月安保騒動。
昭和35年、首相。
昭和35年9月、
「所得倍増計画」が閣議決定。

月給を2倍にする。
農業人口を農村から都市に移す。
農業の近代化で、農村部も所得倍増。
骨子は、年平均7.296%の成長をつづければ10年間で所得は2倍になる。

政府の積極的な経済政策は、すでに軌道に乗っていた日本経済の高度成長をいっそう加速させ、
昭和48年にオイルショックが起こるまで年平均10%以上の成長を持続させた。

池田の政治路線は経済中心主義を貫くことであった。
憲法問題、イデオロギーがらみの問題はきわめて慎重にあつかった。
「寛容と忍耐」と呼んだ。

・・・・

経済中心主義の政治路線とは、
要するに経済的利益の配分によって国民の支持を調達することであった。
利益配分の手法は保守政党の主要な集票手段となったのである。
選挙民への直接的な利益還元によって、
あるいは直接的な便宜の供与(就職の斡旋、結婚の仲人、入学の世話)によって
票を集めることが普通になってゆく、
そのための組織が政治家の個人後援会に他ならない。
後援会組織は、昭和33年選挙ぐらいから目立つようになったといわれるが、
1960年代に急速に拡大していくのであった。

・・・・

昭和39年
7月10日、辛うじて3選。
8月末、喉頭ガンで入院。
10月10日、東京オリンピック開会式出席。
10月25日、退陣を表明。
昭和40年
8月13日、ガンのため66歳で世を去る。


池田は庶民感覚にあふれた政治家であり、
その庶民性において民主主義のリーダーとしての適性を備えていたといえよう。
1950年代の池田は度重なる放言で有名であり、ときには閣僚の地位を失った。
しかし、その放言も庶民蔑視によるよりは、庶民としてのホンネを口走ったとみることができるように思われる。


「実録首相列伝」 学習研究社  2003年発行







撮影日・2013年5月3日

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山県有朋

2021年06月03日 | 銅像の人
場所・山口県萩市  萩・中央公園
制作・北村西望
設置・1920年参謀本部(東京)  1992年現在地に移設


山県有朋  

天保9年(1838)~大正11年(1922)
もと長州藩士。
西南戦争を鎮定。
明治の軍制の確立に努める。
22年、31年首相。
長州軍閥の長老として強大な実力をふるった。
その像も東京の参謀本部にあったが、撤去され上野に放置、
昭和37年に北村西望のアトリエ近くの井の頭自然文化園に建立されたが、
平成4年出身地である萩市に移設された。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行







「首相列伝」  学習研究社  2003年発行

山県は、槍持ち中間の子に生まれ、幼少のころの夢が槍術師範になることだったから、
さして期待されなかった。
しかし、山県の85年の生涯は、不思議と強運に恵まれた。

四国連合艦隊との戦闘では、水をくもうと腰をかがめた時、一弾がはずれた。
高杉の騎兵隊で、勝利を得ることができた。
維新後政商との汚い関係が明らかになる直前、相手が自殺した。
木戸孝允が病死した。
大村益次郎が暗殺、前原一誠が引退、で短時日のうちにナンバーワンになった。


山県は黒田清輝のあと、明治22年12月に首相となり、明治24年4月まで在任した。
この間第一回の総選挙、ついで第一回の議会が開かれた。
最大の政治テーマは条約改正だった。成果はなかった。

明治31年11月に第二次内閣を組織し、明治33年10月まで在任。
陸海軍の大臣は大将か中将に限るという官制を作って、軍部の気に入らない内閣を倒閣できる道を開いた。








宮中某重大事件


大正8年12月議会に天皇の出席がなく、天皇の病は重いことがわかった。
国民の間にもさまざまな噂が流れた。
国民の関心と期待は皇太子裕仁親王にむけられた。
その皇太子妃には、すでに久邇宮良子女王が内定していた。

世上にまた暗いうわさが流れた。
これは「宮中某重大事件」といわれ、
良子女王の母方に色盲の系統があるので、
天皇家の神聖を護るためには婚約を破棄すべしとの運動が、
長州閥の元老、枢密院議長山県有朋を中心に進められた。
宮相が「何ら変更なし」と発表して辞任、
山県はこの事件でかつてない政治的打撃を受けた。

「教養人の日本史5」  藤井松一  現代教養文庫  昭和42年発行




撮影日・2011年10月26日




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大内弘世騎馬像

2021年06月03日 | 銅像の人
場所・山口県山口市
制作・作者不詳
設置・昭和55年




大内弘世

?~1380
南北朝時代の武将
周防の豪族出身、正平18年(1380)ごろ、幕府と和し、周防・長門両国守護となる。
私貿易で巨富を得たらしく、将軍近臣以下に銭貨や唐物を与えたという。
本拠を大内村から山口に移し、山口発展の基礎を築いた。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






(ニコニコ大百科)
大内弘世(?~1380)とは
南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
1358年には隣国長門に侵攻し、北朝守護の厚東義武を九州に追い落として制圧したのである。
幕府は大内弘世に周防だけでなく長門守護職も認め、1363年に彼を恭順させることに成功したのである。
同年には山名時氏も幕府に帰順し、西国が幕府の勢力圏へと再び変じたのである。
こうして周防・長門をおさめた大内氏であった。が、幕府から距離を置くようになる。
息子である大内義弘とは、親子関係にしこりを残したまま大内弘世は亡くなった。



撮影日・2014.年7月12日

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紙本栄一先生像

2021年06月03日 | 銅像の人
場所・山口県山口市 (瑠璃光寺五重塔前)


先生は、「居合道の神様」と呼ばれた人。






(Wikipedia)

紙本 栄一
かみもと えいいち
1903年(明治36年)~ 1995年(平成7年)
日本の武道家。段位は居合道範士九段、剣道範士八段、銃剣道教士七段。
居合の流派は夢想神伝流。
「剣居一体」を唱え、全日本剣道連盟居合の制定に尽力した。
受賞 勲五等双光旭日章








撮影日・2014年7月12日


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