しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦時中の大原美術館

2015年09月30日 | 昭和20年(終戦まで)
美術館は戦争と、どのように係っていたのだろうか?
その一端の話。

以下、高梁川70号「15年戦争下の大原美術館」より転記する


戦時下の美術館

昭和16年8月17日、軍用機が本館のすぐ脇、新渓園に墜落する事件が起きる。
9月13日には、金属類保有状況申告書作成準備の為本館および有隣荘における使用ヶ所の調査が行われた。
昭和17年2月手すりを撤去したのに続き、館内各所から金属類部品が撤去されていく。リストには鹿の置物、手すり、溝蓋、棚と並ぶが、それでも足りなかったのであろう。市役所員が本館前に立つ2体のロダン作品(ヨハネ・カレーの市民)の重量等調査の為に来館する。
美術館側では、これらまで金属塊として回収されてはたまらない。除外申請書を文部省に提出するなど、なんとかそれを逃れるが、岡山県内にあった銅像で供出を免除されたのはごくわずかと伝えられる。

空襲警報発令の頻度がたかまるにつれ、美術館でも敷地内に防空壕を掘ったり、職員が宿直するようになった。空襲危惧は現実となり6月22日は水島、6月29日には岡山空襲が起きた。
水島空襲を受けてのことであろう、主要作品を安全な場所に移送・保管する、いわば作品の疎開が実行に移される。
6月25日から28日に荷造りが行われ、30日に移送が実行される。
収納先は現在の岡山市日近(足守と日応寺の間)の旧家の蔵、預かる方の気苦労も大きかったろう。その存在は秘されて、しばらくの時を経ることとなる。
疎開をさせなかった作品を展示して、客を美術館に迎えている。終戦の8月においても入館者として普通1名、学生8名、団体30名が記録されている。

終戦後
9月11日疎開させていた作品を元の位置に展示し直す。
12月1日再開館し、一般34名、学生4人が入館している。

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日本の原爆(ニ号研究とF研究)

2015年09月16日 | 昭和20年(終戦まで)
日本の原爆開発は、あまり報道されることはない。
里庄町でも仁科博士の原爆研究はタブー視されているような気がする。

あった事を隠すのは今の時代にそむいていると思うが、どうだろう。



中央公論社「昭和時代」より転記

昭和15年夏、理化学研究所の仁科芳雄が陸軍航空技術研究所の安田武雄中将に「あなたがその気なら、私のところで始めてもよい」と伝えた。翌年4月、陸軍は理化学研究所に原爆製造の基礎研究を依頼した。

昭和18年6月、陸軍航空本部の直轄事業として本格化し、仁科博士の頭文字を取って「
二号研究」と言われた。
ウラン濃縮のため高さ6mの熱拡散分離塔が東京駒込に設けられたが、成果をあげないまま春の空襲で焼失した。
ウランの入手も容易でなかった。福島県石川町で地元中学生を動員、採掘を試みたが成果はでなかった。またドイツの鉱山から潜水艦で日本に運ぶ計画もあったが、うまくいかなかった。

陸軍にやや遅れ、海軍も京都大学と連携して核研究に着手した。
湯川秀樹博士も研究チームに参加している。陸軍とは別の遠心分離法を採用したが、分離器の製造段階で挫折した。

ウランを用いた兵器製造が可能なことは雑誌「学生の科学」(昭和19年)にも掲載され国民も知っていた。
いっぽうドイツは原爆製造の可能性を検討したが、実現には至らなかった。ヒトラーの関心が薄かったとされる。

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水島の空襲を見る

2015年09月16日 | 昭和20年(終戦まで)
「高梁川」57号(平成11年12月発行)より

昭和20年6月22日は水島の三菱重工業水島航空機製作所が、米軍機により大空襲を受け壊滅した日である。空襲は午前八時半すぎから、約一時間にわたり、B29爆撃機百数十機をもって行われた。
当時私は玉島町青年学校に勤務し、宿直当番で前夜から学校に泊まっていた。
空襲警報発令と同時に、近くの円通寺山に避難し山頂展望台から直線距離にして左前方6キロ余りの工場を見下ろしながら、空襲の一部始終を望見したのである。

新聞に目を通していた時だ、突然「警戒警報!」と新町を走っていく警防団の大声にびっくりした。
(途中略)
山の高さ100mばかりの円通寺展望台八角堂に立つ。
粒江あたりから西進する黒影は、ただの一機だ。
種松山を過ぎて進路をやや南に変えた。
廃川地に沿って南下するらしい。「目標は航空機工場だったのか」。すーっと降下するや亀島山の手前で二度にわたり爆弾を投下した。
一度に7・8個か、スルスルシャーという大夕立のような音がして、次の瞬間、大地を揺るがすようなドドドーンと大爆発音続けざまに二度起こり、白煙がもうもうとあがった。
その時、突然、高射砲の音がして私はびっくりした。確か前方乙島水溜あたりの山中だ。あんな所に高射砲陣地があったのか、音は数発、それっきりだった。
逼迫感はなく、飛行機のあたりで炸裂した様子もない。
とまた、別の爆音が東の空にする。新たなB29一機が一番機同様投下し南方洋上に飛び去った。
間隔20~30秒で3番機、4番機、・・・同じコースで同じ事の繰り返しだ。しかも印で押したような正確さだ。
6~7回目の爆撃の頃、白煙の下からどっと火焔が吹き上げた。「駄目だ工場が燃えている。火の海だ!」私は思わず叫んだ。
工場は殆ど姿を消しているが亀島山はハッキリと白煙のなかに浮かんでいる。
敵機はそれを目当てにしているように一機、また一機と整然と爆撃をつづけている。
一時間に及ぶ空襲で工場は完全に燃え尽きたらしい。空襲は止んだ。敵機は姿を消した。
工場からは延々と煙が上がっている。
我が方からは、ついに、迎撃機の一機の発進もなかった。

その日の夕方、帰路連島西之浦あたりで工場を望見したら、昨日までの工場は無く鉄骨だけが空しく見えた。
知り合いの青年学校の先生に会った。
「これは内緒ですが、なんにも無くなりました。休業日で、皆が家におり人命被害が少なかったのが何よりでした。」と放心の態であった。
その日を境に水島の様子は一変した。
従業員3万人、徴用工で充満し、早朝の街を女学校生徒が日の丸の鉢巻きをしめ、各学校毎に書いたプラカードを掲げ,隊伍を組み、校歌や軍歌を高唱しつつ工場へ工場へと集合し、一機でも多く、一日でも早くと励んだ姿は消えた。

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「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」④水島空襲以降

2015年09月15日 | 昭和20年(終戦まで)
以下、高梁川56号より転記。

震洋特攻隊要員着隊

6月29日と7月7日、呉鎮守府直轄の「水中水上特攻訓練基地」となった倉敷空に震洋特攻隊に選抜された甲14期500名が宇和島空と小冨士空から着隊してきた。
しかし訓練設備が整わないため特攻訓練は何一つできないまま終戦を迎えたようだった。

抜根隊

わたしは抜根隊編成になり、22期、23期生4名を引率して岡山県吉備郡福谷村に派遣になった。
松根油とは、松の根っこのヤニから航空燃料を作ることである。
中国地方5県の松根油工場には、すべて倉敷空予科練が派遣された。
1チーム5~10人くらいで、推定1500人が投入された。
わたしは7月10日倉敷空に戻り、佐伯空で両手に爆雷をもって上陸してくる敵戦車に飛び込む訓練を受けていて終戦になり、9月1日付けで二等飛行兵曹に進級して予備役編入になった。
9月18日、800余円の退職金をもらって復員した。
なお倉敷空は8月25日解隊式が行われ、約10ヶ月の短い幕を閉じた。

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茂平の祭りほか

2015年09月13日 | 父の話
談・2003・10・4


(茂平の祭り)

御船を海に浮べる。西ん谷の山本が波止の端から飛び込んで.
浜から苫無の松原まで、下の海を行きょうた。帰りしなは上の道(土手)を通りょうた。

御船を海に浮かばすゆうことはなかった。
神輿は土手を守ってもらうゆう意味で通りょうた。
新川もそうじゃ。

神楽が無い年は、芝居やこしょうた。
婦人会や青年団や老人会がやりょうた。
すりゃあめんどくさい、それでせんようになった。

御神灯は主な通りにつくりょうた。銅山はどこどこまでと決まっとんじゃ。
前の晩にお宮に参るんで、少しでも道を明るくするゆうんでつけ取る。
各平(カクヒラ)で分かれてつくりょうた。

(10月1日から第一日曜日に変わった事)

用之江と茂平は親類関係が多い。同じ日にすると呼べん、大人も子供も呼ばれりゃ嬉しん。

(注連縄を編む)

当番組がみんなでてやりょうた。そうせにゃあ大きゅうて出来まあ。
昔からようしょうた人でないとわからん。
それでときさんやまあさんが指導してくりょうた。


阿浜(あばはま)

皿山は皿のようなものばっかし作りょうた。
それで皿山ようた。
皿はすり鉢ど。
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「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」③水島空襲の時

2015年09月13日 | 昭和20年(終戦まで)
空襲警報は東京も岡山も広島も無く、攻撃を受けた。
水島にもなかったようだ。当日は日曜日で戦死者は少なかったが、三菱航空機工場は壊滅した。
昭和20年6月22日午前8時すぎ、110機のB29により工場爆撃を受けた。

以下、高梁川56号より転記。

この時の様子を王島山砲台で砲長を務めたK22期の話を紹介する。

聞きなれたB29の爆音が聞こえてきた。
東の方からまっすぐ進行してくるB29の大編隊が目に入った。
空襲だ!
と叫んだがとっさにどうしていいか分からない。5門の高射砲は上を向いたままだ。
「射てぇ!」
先任下士官が号令をかけたが、砲の操作もとっさにできない。

先頭機の機腹から黒いものがぱらぱらと数個落ちた。
一発が倉敷空の兵舎を直撃した。一瞬、兵舎が空中へ吹っ飛ぶのが見えた。
すぐに爆発音と爆風が襲ってきた。

そのとき、きーーーんという爆音が聞こえグラマン戦闘機が1機、山頂よりずっと低い線から砲台めがけて撃ちあげてくる。
夢中で「射て、射てぇ!」と叫びながら高射砲を発射した。だが次の瞬間にはブラマン機銃がばりばりばりと砲台陣地をないで走った。
みんなわっと物陰や壕に飛び込んだ。もう一度来たら逃れようがない。だが敵機はそのまま飛び去った。

小型機は動きが早いから高射砲では照準できない。

グラマンがいなくなったので水島空襲中のB29めがけて発射したが、残念無念届かない。

B29のはるか下のほうで爆煙の花を開くだけだ。
射ちかた止めにして総員退避になった。
王島山山頂から見ると三菱工場からは黒煙が天に立ちのぼり、附属滑走路では出来たばかりの一式攻撃機数機が炎に包まれていた。

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「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」②

2015年09月12日 | 昭和20年(終戦まで)

以下、高梁川56号より転記。

「水島軍都」に対する空襲が必至の見込みとなったので、周辺地区に高射砲陣地及び20mm機銃陣地を配置する事になった。
呉鎮守府からきた砲術科要員の指導のもと急ピッチで防空陣地構築が進められた。
6月1日、予科練教育が正式に中止になると300~400人がこの水島防空隊に編入された。

編成は次の通りである。

王島砲台(王島山山頂) 8インチ砲 5門
中畝砲台 12.7インチ高角砲 3基
連島砲台(箆取山) 8インチ砲 5門
玉島砲台(狐島) 12.7インチ高角砲 3基
機銃座(倉敷空内) 飛行機搭載用20mm機銃 10基
機銃座(三菱滑走路ふきん) 飛行機搭載用20mm機銃 基数不明

また定員分隊では「農耕班」を結成して自給自足体制を備えていく事もしている。
隊内の未整地で食用に牛を飼い、野菜や稲を植え、竹竿をたててカボチャをならせ、甘藷やともろこしも植えた。

残留予科練の陸戦隊は三菱航空機製作所の雑作業や、掩体壕の構築、物資の疎開、工場の移転手伝い、塩田開発、男子のいない農家への手伝い、といった隊外作業に派遣されていた。

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「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」①

2015年09月12日 | 昭和20年(終戦まで)
倉敷予科練と言えば終戦間近に出来て、敗戦と共に解消された。その期間があまりに短期間であり、ローカル放送・新聞・誌に載ることも極々稀となっている。

「高梁川56号」に「わたしは倉敷航空隊の予科練だった」という記事があるので転載させてもらう。
しばしばいわれる「予科練」でなく「どかれん」の実態であったろう。

以下、高梁川56号。

倉敷海軍航空隊は、昭和19年11月1日に岡山県児島郡福田村松江に開隊された。
兵員は、
飛行予科練習生 21期 500名
飛行予科練習生 22期 500名
航空隊要員(一般兵員) 700名。※管理人記・予科練生は乙種。

当時、倉敷郊外の水島地区には三菱水島航空機製作所を中心として、「水島軍都整備計画」という壮大な計画が海軍の手で進められていた。

急ごしらえの航空隊はいかにも貧相だった。練兵場(飛行場)はバラストを敷き詰めただけで、これが新設の航空隊なのかとすっかり気落ちしてしまった。

昭和20年3月、学生・練習生の空中教育は一時中止となった。これにより予科練教育は事実上終わりとなった。

翌日から王島山に防空壕を掘ることとなった。
4月になって松山航空隊から2600名が転属入隊し倉敷空の予科練は4500名になった。
山林開墾隊、防空陣地構築隊などのほか、農作業手伝い、軍需工場の構内作業手伝い、工場疎開手伝いなどにも駆りだされた。

6月1日予科練教育は正式に中止となった。
全国数万の予科練生は練度によって、次のような本土決戦配置につくこととなった。

回天特攻隊
こう龍特攻隊
海龍特攻隊
震洋特攻隊
伏龍特攻隊
水際特攻隊
陸戦隊
防空隊
陣地構築隊
雑作業隊

いままで各期ごとになっていた分隊編成が解かれ全期混成の戦闘編成になった。
わたしは抜根隊になり、チーフとして4名を引率して吉備高原の奥深い山村に松根油工場の手伝い作業員として派遣された。
その後、7月15日佐伯空配置になり水際特攻の訓練を受けていて終戦となった。

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福山空襲・登記簿の焼失

2015年09月09日 | 昭和20年(終戦まで)
戦争中不足したのは食料や兵器でけでなく紙も不足した。
現在残っている役場の書類は年月よりも紙質が悪い。
それでも残っているだけで貴重だ。

終戦直後、国家や風評により故意に焼失させた文書。
空襲で焼失した文書。その他。



「福山市多治米町誌」より、空襲により無くした戸籍簿の話。


福山市の戸籍簿は古野上町県土木主張所に疎開していたが、8月8日の空襲で炎上、宿直員などの努力で、わずかながら五ヶ町の戸籍簿と戸籍見出帳を持ち出した。
このため焼失を免れた戸籍見出帳を頼りに、市民資料提供や関係市町村の協力により、その後10年近い歳月を費やして一万三千世帯の戸籍を再製した。


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大津野飛行場の歴史

2015年09月09日 | 昭和21年~25年
昭和30年代の頃だが、祖母はよく「津之下の飛行場ができたら茂平も町になる言わりょうた」と話していた。
結果は大津野も茂平も町になることはなかった。
なぜそうゆう流言があったのだろう?
思うに、国家によい事であり、地域も恩恵が大である、すすんで協力せよ(土地の提供・工事へ労働供出)という事ではないかと勝手に推測する。


大門町誌「大津野のあゆみ」より

昭和18年福山高等航空機乗員養成所開所。飛行機が到着。618名入所。
福山海軍航空隊所属員数・・・士官121、兵員1.889、事務員24、雇員378、合計2.412人。
当時の大津野村人口約3.000人。
昭和20年4/18福山で最初の空襲警戒警報発令、以後終戦まで93回、空襲警報28回。

8/15終戦。

福山海軍航空隊も敗戦とともに解散し、代って昭和21年3月英連邦軍オーストラリア歩兵隊65大隊240名が進駐した。
航空隊跡地はGHQが塩田化することに決定したが、航空隊兵舎は駐留軍宿舎に転用された。
後に米軍も駐留したが、進駐の期間は3年間であった。

昭和24年6月進駐軍跡地に広島大学水畜産学部が設置され、練習船「豊潮丸」が大津野湾沖に係留された。
昭和25年警察予備隊の第823救急隊が駐屯した。広島大学と同居することになった。
水畜産学部はキャンパスが狭くなり、後に市内御幸町へ広大な敷地を求めて移転した。
広大移転後、昭和28年自衛隊病院が開設され、牛の首もそのころには広大な敷地ができあがっていたが、やや閑散とする状態となっていた。

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