しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦時の長髪

2016年05月31日 | 父の話
談・2002.4.6


戦時の長髪

(昭和17年の両親の結婚式の記念写真に、おじ=父の弟は長髪。新郎も次弟も坊主頭
時節柄、長髪への苦情・非難はなかったのだろうか?)

どうせ兵隊に行く時にゃ切らにゃあいけん。それで、その前から坊主頭にしとった。
それに、坊主はゼニがいらん。
ワシャじいちゃんにしてもらようた。

丸坊主は金がかからん。

(※時節よりも貧しさが理由のようだ)


徴兵検査、甲種・乙種の合格差

甲種は現役で兵隊へいきょうた。乙種はいきょうらなんだ。
戦争が激しゅうなると乙も行くようになった。


陸海軍の配置

(徴兵検査後の陸海軍振り分けは、どうなっていたのか?)
希望をだしょうた。
希望通りになりょうた。


内海(うちうみ)のポンプ場

(昭和29年ごろ、内海にポンプ場ができた)

大潮は水門から(水が)出る。
小潮で(特に雨が降り、小潮の時など)沼りょうた。
それでポンプを作った。
それまではポンプは無かった。沼りょうた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神辺実業の時

2016年05月31日 | 父の話

談・2002.4.6



神辺実業の時

(自転車で)茂平を出て、大門駅前を通り、「こうざき」を通り、
1時間くらいかかりょうた。みんな(城見からの進学者)自転車じゃった。

戻りしな、福山をまわって帰ることがあり三吉町でパンの売れ残りの安いのがあるんじゃ。
せえつを買うて食びょうた。食い食い戻りょうた。

(女生徒はいたのか?)
おった。
女(おなご)は女子部で校舎も違ぉた。家庭科じゃった。

(遠い人は?)
新涯の川口や府中から。


(次弟は福山工業だが、通学方法は?)
大門駅まで歩いて行きょうた。
大門から汽車。

(修学旅行、または似たような旅行はあったか?)

視察旅行があった。
日帰りで視察、篤農家の家に行きょうた。
この方では(茂平の)やっさん方へ全員で見にきょうた。
やっさんは堂面のうえで梨畑をしょうた。今はミカンじゃが。
熱心な農家へ行きょうた。

------

脚絆(きゃはん)

(茂平の農夫は畑に行く時、脚絆を履いて行っていたが、いつの頃からか誰も脚絆を巻かなくなった)

あれはのう、戦争中のものじゃ。
いざゆうときに、すぐに行動に移せる。
畑だけでなく、子供も
学校に行くにも、弟二人とも巻いて学校に行きょうた。


干しイチジク

最初は生で食べとった。売れるものでないので、乾燥するものとして植えとった。
神戸へまとめて送りょうた。
大門駅は問題があり、里庄駅までもっていきょうた。


牛小屋

三軒共同で飼うとった。
(田植えの時は)
あれでかけば、ええ田んぼになりょうた。
田植え以外は、草を刈ったり、骨がおれるばぁじゃった。
フンは肥になりょうた。たい肥にしょうた。


小学校の休日

(天長節等)学校に行って、いろいろ(謂れの)話を聞いてから帰りょうた。


祭りの日の子供

当番はお宮に出て、大きい子は旗をもって、こまい子は鉄砲をもって担いで歩きょうた。
当番以外は学校に行ってから、早う戻りょうた。


駅前の人力車

(戦後1~2年間、全国的に人力車が復活した)
おった。乗ったことはねぇけど。
(大門駅にはなしで)笠岡や福山じゃった。
乗れば気持ちがええもんらしい。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城見村会議員選挙

2016年05月31日 | 父の話

談・2002.4.6

城見村会議員選挙

銅山・西ノ谷・青木・矢旗郷。
一人づつ出るようになっとる。
組で相談して決める。

矢旗は矢ノ平と旗涯地はかわりばんこ。

選挙が終わったら酒を飲ませる程度じゃ。


芋坪

芋は、食べる自家用に作って保管しょうた。
切芋は
天日で干して、唐臼で粉にして団子にしょうた。美味かった。


稲わら

藁を叩いては、
紐にして、ござを作ったりしようた。


山の段々畑

うつろの畑は道がなかった。さとるさん方の田んぼのとこまで細い道をもって降りょうた。
道ができからは小屋までもって降りるようになった。


農家の次男・三男・四男

勤め人になる。
自分でやる。(商売人)
分家は家の屋敷だけ。(田畑はなし)


夜這い

かーさんやゆきさんの時分にゃあ「よばい」がありょうたそうじゃ。


(昭和40年ごろ、ビニールのハウスが普及するころ
ハウスの建築費や設備費はすべて自己資金で行っていたのか?)

県の補助がありょうた。3割くらい。
7割の自己負担は農協で借金して、売ったお金で払ようた。


裏作

沖の田・大東田のようなぬるい田以外は撒きょうた。


ほりあげの畑

(内海に面した畑を購入し、畑の真ん中に池を掘った
池はため池でなく、海水の池だった)

畑をあげる(嵩上げ)ためじゃ。よお沼りょうた、それで(有効)土地は狭くなるが、土(どろ)を採って高うした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡山県農業普及員

2016年05月30日 | 父の話

談・2004.8.16

(父は戦前、実業学校を卒業後、岡山県農業普及員・・県職員・・をしていた。
日常の仕事はどんな内容か?)

百姓の指導じゃ。米を作ったり、麦を作ったり
作り方を指導しょうた。
農薬の作り方も、作ってやりょうた。


産婆さんへの謝礼は

(母)お金を渡しょうた。うむし(赤飯)といっしょに。


たばやし小麦屋(うどんや)

(母)おやつがない時分、
小麦をわたせばせんべいを代わりにくりょうた。うどんもくりょうた。

余った小麦は用之江の加藤の脱穀屋にもっていきょうた。
あまった穀物はちぃちっとでも買いにもきょうた。よう流行りょうた。(穀物がない時分)

盆のソーメンもたばやしに頼みょうた。


茂平のビニールハウスのはじまり

(イチゴのハウスが始まりか?・・昭和40年ごろか??)

(母)丸山に竹で始めた。
鉄パイプはなかった。
試行錯誤でした話はよく聞いていた。

イチゴは昔から相場がよかった。路地ものでも。
いわさん方の前にジャム工場があった。


ゲージ飼の餌

農協で袋で買って、三つ四つ配合してから食わしょうた。


もろ木(もろぐい)

売りに来とった。
ウチにゃあ竹田(祖父の実家)から、じいちゃんと二人で竹田に行って、山から手城までもってでて、手城からは船でもって帰りょうた。えらかった。・・・、えらかった。


ドジョウ

沖の田にドジョウの巣があった。専門家が獲りにきょうた。籠を置いて、あげたら中によおけい入っとった。
もらうこともあったが、うもぉねぇんじゃ。くさいんじゃ。

タニシの方がまだ美味い。


灰小屋

たまったら畑にもっていきょうた。
今はビニールがあるから使えん。
畑に筋を引いて撒きょうた。ようためになりょうた。


はたびらの花火見物

(笠岡の花火は)はたびら、、苫無の先でも見ようた。


子供神輿の女性

(祭りの子供の行列は男だけだったが、今は男女の参加になっている)
子供の数が減ったので女を入れるようになった。


子供の病気

(母へわが子の病気のことを聞いた。)
吉浜の上田さんへ連れていった。
流行り病をもらう、夏の麦刈りの最中ごろハシカが流行る。
(管理人がハシカになったとき)リンゴでも食べさしょう思うても物がない。
大まで買いにいきょうた。
やっと買えたおもうたら腐っとる、ゆうこともあった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇垣一成最晩年の書による碑

2016年05月29日 | 父の話
談・2004.9.5

宇垣一成書

(城見小学校の忠魂碑は宇垣一成(当時参院議員・元大将・元陸軍大臣)書だが、そのいきさつは?)

大のやっさんが頼んだ。
大尉で復員した。
それなりの地位の人でないと頼めんし、金も(その系統で頼むと)そんなに要らん。
やっさんは、なんでもよう世話をする人じゃったが早ぅ死んだ。


薄荷(母の話)

仲買人がいた。小川さん。
武徳さんの自転車置き場があったへん。
大きな釜がありょうた。
(用之江で無くなった後)絞るのは吉田のひでさん方ようた。
薄荷は二番が出る。


除虫菊(母の話)

学校の下の加藤さん。
干たのを買いにきょうた。けっこうにひたのはええ値で買ぅてくりょうた。
花は三べん切る。乾かしたら買いにきょうた。
除虫菊はええ相場がしょうた。
穀物はなんでもしょうた。ササゲや小豆やゴマ。
米でも残ったら売りょうた。米は買うこともできょうた。
有田の松浦でも買いにきょうた、売りに行きょうた。
今はああゆう商売しょうる人はおらん。


カドで干す(母の話)

稲はハゼだけでは、ええように干んのじゃ。
ほれでハゼの後で庭に2~3日干しょうた。その後で脱穀するとおいしいコメになりょうた。
ムシロは爺さんが長屋で自分で編みょうた。

機織り(母の話)

賀山(実家のこと)にゃあ、もう棄ててないかもしれんが
ええ機織があった。ぎったんぎったん踏んで反物ができる。
それで縞の着物ができょうた。
糸は買ようた。
着物から織ったそれで学校に着ていきょうた。

綿(わた)(母の話)

綿は寄ったりしょうた。(綿糸でなく)綿打ち屋へ出した後は、毎年ふとんを打ち変ようた。
用之江のさかえさん方へ綿打にもっていきょうた。近までもっていきょうた。
今は軽い化繊品。
綿打ち屋はいらんようになってしもうた。


なるのおばさん(母の話)

あるのおばさんは草履(藁草履)を編みょうた。
編んでは人に配りょうた。
自分でも「ゾーリがいちばん好きじゃ」ゆうて、どこへ行くにも草履を履いて行きょうた。

(或るとき、いっしょに行ったことがあり)「こっからはええのを履いて行かんと失礼になる」と、途中で履き替えていったことがある。いっつも予備をもっとった。

草履を作っちゃあ、「みんなにもろうてもらう」
うちにも何足ゆうてもろた。記念に一つ残しとる。


ハミ(母の話)

(ハミが出ることある)堂面や新涯の畑に行く時にゃあ一升瓶をもって行きょうた。
一人じゃったら鍬で殺すしかないが、二人おったら捕まようた。

いっかい、冬に石垣を直しょうたら7匹でてきたことがある。
今は安うなった。
2~3年前、一升瓶で農協へ出す人がいて、札をみたら一匹500円じゃった。


芋坪

芋は副食・おやつ、
家の下に芋坪、芽が出る春までもつ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔の生活

2016年05月29日 | 父の話

談・2005・5・22

砥石
包丁を研ぐ、鎌を研ぐ。


酒を飲む
(宴では)ビールはない、夏でも燗にしょうた。そのほうが美味い。


ゲシの草刈り

ほっとけば(下の田んぼ、畑)の陰になる。そのところは成長せん。
刈って、それが木の元へやれば肥料になる。
牛の餌にもしていた。


家の餅投げ

“しん“は棟梁が投げることが多い。
四方に角餅、酒は札を投げる。


石垣

何年もかけて作っとる。
家の石垣は(崩れたらだめなので)職人が指導するが、
畑や田んぼは、わしらでもできる。(農家の人がする)


ママカリ

ママカリやツナシが群れでえっと獲れたらぬか漬にしょうた。
(煮たり焼いたりせず)生で、ドフだけだして。甕にいりょうた。
保存食じゃ。

数が少ない時は、素醤油で2~3日食びょうた。




冬は山に行って薪をそろようた。
割木もなんぼでも要りょうた。


家の新築の木材

(昭和35年のこと)
通し柱を賀山のから切ってもらって、自動車に積んで帰った。
職人が木を切って、皮をむぐまでする。
木は賀山(母の実家)と新山(母の弟)からもろうた。


瓦屋

用之江の同級生が瓦をしとった、兄貴も親父もしとった。


北川薬師

薬師へ歩いて連れでいく。遠ぇけえ、えらいばあじゃった。
(裸祭りは?)知らん。


山のこと

山の食べるもの・・山のほとりに食べるもんは生えるが、山の中には生えん。
わらび、ぜんまい。
(山ではないが)ヨモギ、焚いて、臼へ入れてヨモギ餅。昔の年寄りは入れる量をよおしっとるが(もち米とヨモギの混ぜ具合)。
カシワの葉っぱ
(山際の道の)ちぎって戻りょうた。柏餅

シイタケの菌は買ようた。


「なだ」、
石場で潮がかぶらんところ、そこの権利。おおいわさん等がもっとった。


麦は
小麦は粉にするため。うどんと替えるため。


麦踏み、
いうほど、ええ麦に育つことはなかった。


(水田でなく)茂平には、山の畑に麦を植えとった。山はササゲも植えとった。


葉タバコ、
麦の間にタバコを植えてとった。麦の陰になりタバコにええ。茂平にはタバコは少なかった。
骨が折れる仕事じゃ。


夏の盛りの仕事(夏の暑い盛りは、果物の盛りでもあった)
飯は食わずに畑に採りにいって、家に戻ってから(急いで食べ)集荷の準備をする。


村祭り
茂平は用之江より大に親類の人が多い。祭りの日は行き来しとった。


(茂平の山に鉄砲撃の人が来ていた、撃ち落としたキジやウサギは売っていたのだろうか?)仲間で食べとったんじゃ。売りゃあへん。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珍果・干しイチジク

2016年05月28日 | 父の話
談・2005.2.27

赤トーガキも白トーガキも同時に採れる。
白トーガキは西浜(ようすな)の人が買いに来て生食ように売っとったが、2~3年で止めた。
朝は赤を採り、晩に白を採る。

ほぼろから、はねうつして、まっすぐに並べなおして燻蒸(うむす)。

銅山や西ノ谷の人が多かった。

蒸し方、干し方は研究しょうた。それで統一するようにしようた。

美味いもんじゃあなかったが、珍しいんで(いつ時でも、少量)買う人はいた。

(廃止まで)作る家じゃったけえ作ってきたが、そんなにええ相場の年はなかった。
止めたときはほっとした。

うむし小屋は1軒に一つあったが、要らんようになったらみなころがした。邪魔になるだけ。
今ぁ残ってるもんはなかろう。

白トーガキ畑は赤トーガキ畑に変わっていった。


(母)

嫁にはじめて来たとき、(昭和17年)5月じゃったが倉庫にまだ干しイチジクが残とった。
食べてみたら美味かった。あの味はわすれられん。
あの時分には、ほんまにおいしかった。一つ食べても値打ちがあるようじゃった。

練炭がなかなか火が付かん。消し炭をちょっと入れ、堅炭(かたずみ)を起こす。
堅炭を起こしてから練炭を燃やしょうた。
練炭は途中で消したらいけんので、(消えない程度に)火が付くのを確認して(うむし小屋に)入りょうた。

(イチジクは毎日採れるので)毎日そうしょうた。
外へ干して雨が降りそうなら、長屋のよくちに棚をして、そこへ仕舞ようた。
毎晩長屋の前にしまう、そうせんと雨が心配で寝らりゃあへん。
ビニールができたら(段積して)外に置くようになった。

(雨は)カビがくる。
カビがきたら捨てたりしょうた。
燻蒸したのを日に何回も裏返しょうた。
天日で干して、日に二度(にへん)はなんでもしょうた。
場所も変えんと、ええように干んのじゃ。
力がいりょうた。
今頃なら扇風機で乾燥しょうたろう。

一週間ほど日和なら(次の工程の)もむのを始みょうた。

箱へ入れて保管しとると、真っ白い粉がつく。ええ粉が付くんじゃ。

正月ごろから2月3月まで出荷しょうた。

(茂平の出荷所で)りょうやんの奥さんやこ4~5人で(選別等級)分けて、箱詰めしょうた。その頃がさかりじゃった。

いつの頃から贅沢になってきて食べんようになった。(売れなくなった)美味うないゆうて。
ひとりでに「硫黄が危ない」ゆう声もしだして止めた。

あれがのうなったら、ほんまにくつろいだようじゃった。

ウチにゃ白を植えとったんで作りょうたが
赤トーガキの方が昔から相場で売りょうた。
赤はむしって、出荷するだけで金になる。

作者・この「のうなったら」の意味は、
①干しイチジクの季節が過ぎたら②干しイチジクの廃止
の二つのうち、②の廃止(昭和41.42年ごろ)を指すと思えた。
そのころ、日本の産業構造も、生活も大変動が始まっていた。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪のおじ・おばの話② 2016.1.19

2016年05月28日 | 父の話
おじは大正の最後の日に産まれたが戸籍上、昭和2年1月2日生まれ。
終戦過ぎ頃まで茂平で暮らした。
おばは昭和5年、神島内浦の生まれ。
社会人となってからは大阪が主で、定年後は高槻市に住んでいる。
2016年1月19日、久し振りに帰郷したので昔話を聞いた。

城見尋常小学校の時(昭和8年4月1日~昭和14年3月31日)
笠岡商業学校の時(昭和14年4月1日~昭和19年3月31日)

--------



出征兵士の見送り

(学校から)
旗をもって線路際で送るのはしょっちゅうじゃった。
支那事変からは、
毎日のように送った。


八幡さんのとんど

何年に一度かはお宮で火を焚いた。龍王(りおう)さんの雨ごい。


(弘化3年生まれ、超長寿の)ゆくばあさんのこと

(日常生活は?)

縁側で、毎日ひなたぼっこをしながら真田を編みょうた。
週に一回、一反なんぼゆうて買いに来とった。

(ばあさんの編んだ真田は)穴だらけで、「もうやめい、ワシャ恥ずかしい」ゆうてようた。
それでも買ぉてくれるから。死ぬるまで真田を組んどった。

それで、朝起きたら、死んどった。晩は元気で。

(祖父の)利三郎おじいさんは一ケ月ほど寝込んでから死んだ。
(曾祖母の)ゆくばさんは、98まで病気もなかった。

小学校の1.2年の担任の女の先生が、年一回の家庭訪問をしてきたら、次の日に教室でワシのところのおばあさん(曽祖母)の話をして恥ずかしかった。おばあさんがこう言った、ああ言ったゆうて。
自分のところから嫁に行っとるので気にしとるし、おばあさんは自分の出所でなつかしいんで話しとった。相手が先生なんでほめちぎって話したことを、教室で話すのでこもうなって聞きょうた。

嫁に来たとき、用之江から提灯行列で来た時のことを話しょうた。何度でも話し、それを繰り返して話す、「止めてくれ」ゆうまで話しょうた。何度もそうゆうことがあった。ぐるぐるぐるぐる、何度でも言ようた。


脇差のこと

家に脇差があった。
(ゆくばあさんの夫で、天保11年生まれの曽祖父の)
富次郎じいさんは臆病もん言わりょうた。それは
用之江から夜中に帰るときは、刀を抜いてから峠を越しょうたゆうことじゃった。


(小学校の遠足の行き先は?)

大見山に日の丸弁当もって行とった。

(小学校の同級生の)六月さんのこと

いっしょに福山工業の応用化学を受けた。
戦争があり、新しくできた科で人気があった。7人に一人か、5人に一人しか合格せんいわりょうた。
二人とも落ちて、六月さんは金中に行って、ワシは笠商へ行った。
六月さんは(金中から)陸軍士官学校に行って、(終戦で)ぱーになり、姫高に行った。

「ワシの息子は大臣にするんだ」、という話は聞いた。親父が直接言うとった。小学校の頃じゃった。

兄の武徳さんは「高文」(こうぶん)試験を通って、県の課長になった。村の映画をしてまわりょうた。学校は苦学で、選挙は親父の意志じゃろう。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔の暮らし

2016年05月27日 | 父の話
父と母の話     2005.4~2005.5.22(3回ぶん)



塩不足
-----------------
戦後、といっても特に終戦直後の頃
塩の不足は多くの本で記されている。
-----------------

(父)茂平は海に近く、よおけい要るものでもないし・・・
塩が足らんということはなかった。



パチンコ
-----------------

戦後日本に出来たものの代表の一つにパチンコがある。
-----------------

(父)
だいしょうしたことはあるが、損するばっかしじゃけい、しゃあへん。あほーらしい。金が無けりゃあできゃあへん。



新茶

(母)一番茶は・・・(生活に余裕はなく)お茶を飲むどころじゃあねぇ。貰えば飲むゆうことぐれいじゃ。
(父)うつろのゲシに植えとった。
(母)2~3年作っただけじゃ。


麦刈り

(母)水落の畑は全部麦を植えとった。刈るのは稲と一緒、水が無ぇのが違うくらい。鋸鎌で刈りょうた。
船で運びょうた。

刈って、こいで、家に持って帰り、筵に引いて、乾かしてかあ「からさお」で実を叩きょうた。
発動機が出来たからは、発動機でしょうた。

藁は畑で干しょうた。真田にするのは慎重に干しょうた。痛んで汚うならんように、骨が折りょうた。もって帰って硫黄で燻蒸(くんじょう)しょうた。それを真田に組みょうた。


小麦粉

おおげの粉屋に頼んだり、伏越にだしょうた。隣に毎日伏越に魚を売りにいくので、それに頼みょうた。


煤掃き(大掃除)

(母)大騒動じゃった。
畳をあげて、年一回しょうた。
長屋にはダニが湧いたこともある。


井戸掃除

(母)昔から決まっとった。七夕祭りの日。


ところてん

拾いにいきょうた。浜にころげておるのを拾ようた。
洗うて干せば、食べるほどある。


菖蒲の節句

(母)ひさっさんがぜっぴ持ってきてくりょうた。「風呂へ入れぇ」ゆうて。
本菖蒲があった。
節句が来りゃあ、懇意なウチヘ配りょうた。

おしぐらんごもありょうた。


はったいこ

粉ひきやがありょうた。大に、松建の隣に。

うどんは大のよしこさんかた。

そのころ
綿引屋が流行りょうた。


馬肉

(父)正月に馬の肉を持ってきょうた。
うまかった。

(母)祭りと正月にゃあ自転車で積んで馬の肉を売りにもってきょうた。


味噌汁の出し

イリコと昆布の他に何を使っていたか?

(母)それだけじゃ。
今は味も元の「出しの元」を使う人が増えとる。

 

中等野球

(高校野球を見ながら)神辺実業にも野球部はあった。道具が(じゅうぶんに)なかったが、打ったり、走ったりしょうた。



タバコをおぼえたのは?

タバコは兵隊へ行ってから吸うようになった。
(無償支給だったのか?)
ただじゃあねぇ、安いんじゃ。兵隊のタバコは。


男性は柔道か剣道が必修科目

神辺実業には柔道の先生と、剣道の先生がおった。(別の先生)

夏休みや冬には特に練習した。ワシは剣道をやりょうた。水泳もやらさりょうた。
突かれて休憩室で休んだことがある。


戦前の共産党員

田舎ではいない。町のことじゃ。


戦前のオリンピックの話題

(たとえばベルリン五輪。前畑ガンバレの実況放送とかニュースを聞いたり、話題にすることはなかったか?)

ねかった。


パーマネント止めましょう

(そのそもだが、田舎の女性がパーマネントをしていたか?)

しょうらなんだ。


ラジオで聞くもの、また流行歌は?

廣澤虎造の浪曲。

歌は映画と、いっぱい飲み屋で蓄音機から聞いとった。他には(歌を)聞けるところはなかった。


女優・岡田嘉子

(昭和12年、樺太から逃避行)
田舎は関係ねぇ。


八紘一宇

学校や団体が言う・・あいさつ・・、一般が会話で話すんじゃあなぇ。


もんぺ

(資料では昭和16年から流行る)
戦争になってから、(くるぶしのとこ)くくってはくようにうなった。




(母)けんさん方に分けてもらいに行きょうた。(昭和31・2年ごろまでと思える)
よおけい(の人が)、けんさんかたへいきょうた。

卵は高かった。


トマト

トマトは共同で苗まで作りょうた。
臭いでうもうなかった。
くさいけぇ、子供はよう食えなんだ。
(母)
形は今といっしょじゃが、(品種改良で)中は変わってしもうとる。


梨の予防

(母)
雨が降りそうな言えば予防。
おおそうどうじゃった。

水を汲んで、押し車で、畑の(の麓までいって)タゴヘ薬を希釈(とぐ)で、
一人が噴霧器を押して、一人が噴射機をかけるんじゃが、ろくに全部にかかるゆうことはなかった。

うつろの山でブドウと梨にはおうじょうしょうた。

20世紀ゆう梨は、直ぐに虫がくる。雨が降ったら来るようた。
20世紀は骨が折りょうた。


石鹸

(母)
固形だけ。手でこすって洗ようた。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂平散策マップ

2016年05月21日 | 平成元年~平成31年
郷土史の本に地区のマップを添付することになり、載せる候補地を選んだ。
候補地は追加・抹消や訂正ありの予定。

------------
北から南にABCと三分割した。
------------
A図
http://kasaoka.yu-yake.com/11/16/05/0528/100.html

①大見山
②蒼続の四ツ堂
③道路改修記念・大本源次郎功労碑
④地神(青木)
⑤社稷(旗涯地)
⑥鳥飛小学校跡
⑦地神(西ノ谷)
⑧地神(矢ノ平)

------------

B図
http://kasaoka.yu-yake.com/11/16/05/0528/101.html

①新堤(しんどて)
②社稷(銅山西)
③夜燈さん
④恵比寿神社
⑤観音堂(千手観音)
⑥八幡神社
⑦御船さん
⑧宮山古墳石棺跡
⑨平和記念碑
⑩塩崎神社
⑪稲荷神社
⑫茂平港跡
⑬茂平港改修工事記念碑
⑭荒神社
⑮茂平88ヶ所霊場址
⑯吉原新田干拓堤防跡
⑰ポンプ場跡
⑱龍王(りおう)さん
⑲とんまんどて
⑳社稷(銅山東)
㉑砂川改修記念碑
㉒いわぐろ山城跡
㉓果樹の国繁
㉔坂里古墳跡地

------------

C図
http://kasaoka.yu-yake.com/11/16/05/0528/102.html

①高丸城跡
②吉備焼(阿浜)
③小迫新開跡地
④苫無海岸(白砂青松地)跡地
⑤笠岡湾干拓茂平生産法人入植地

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする