しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

元・予科練生の話③ 大正15年生

2015年04月12日 | 昭和21年~25年
除隊して神戸に帰った。
神戸の家も街も焼けて、何もなかった。
母は茂平の実家に(空襲前から)疎開していた。
親父はフィリピンで戦死していた。

除隊の際、支給されたお金は翌年の平価切替で無一文状態になった。

母が疎開している茂平の家の片隅に住みながら
茂平の友と2人、ふかせた薩摩芋にコメを混ぜた握り飯サイズのものを作っては売りに出した。
よく売れた。

2~3ヶ月しては仕事を変えて過ごしていた。

昭和25・6年頃、
笠岡の小学校の隣にダンス教室があった。そこでボーイの仕事をしていたが、音楽や脚の動きを見て踊りを覚えた。
そのうちに客の一人から「うちに来て働かないか」と言われたのが安田工業だった。
結局定年まで安田に勤めることになった。

上記は、2015年4月11日、父の従兄弟のN氏(現在・広島市)の語り。当日は母の葬儀があった。
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元・予科練生の話② 大正15年生 

2015年04月12日 | 昭和21年~25年

天理で終戦になり復員する事になった。
上官から、
軍の関係者と分るとなにがあるかわからないので、(身の安全のため)置いていくように言われた。

それで大切にしていた軍刀始め、予科練の正式な制服などを軍に置いて、
上着を裏返しに着て、軍籍を隠した格好で兵舎から去った。

昭和30年頃、戦友会があり天理の上官は
部下に残させた刀や服をすべて着服し、ヤミへ流した事を知った。

次の戦友会には、ぜひ招待して吊仕上げをしようという話に決まったが、
招待しても会には来なかった。

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元・予科練生の話① 大正15年生

2015年04月12日 | 昭和21年~25年
城見小学校の5年の半分まで行き、父の仕事で神戸に転校した。
小学校の高等科を出て鉄道教習所にいっていたが、当時の風潮としてどうせ兵隊に行って死ぬなら歩きながら死ぬ(陸軍)のはいやで、飛行機で死にたいと予科練を受けた。
ぎりぎりで通った。
(それは成績?身体?その他?)身長がぎりぎり通った。

宝塚の航空隊に入って1人年半か2年ほどして、台湾の高尾に配置された。
そこで航空訓練を受けた。

内地に帰ることになりクジを引いて行先を決めた。
自分は天理に配属と決まった。
天理は天理教の広大な敷地を海軍が徴収して基地を造っていた。

配属で「鹿屋」に決まった人もいる。
「徳山」に決まり、人間魚雷になった人もいる。
その人たちは死に、
自分は天理で空襲を受けたが死ぬことはなかった。

人生とは”運”が左右すると思った。
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