しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡市大井まちづくり協議会「大井の文化財・ミニガイド」

2023年12月31日 | 令和元年~

大井地区(笠岡市東大戸・西大戸・小平井・春日台・大井南)の第一号郷土史が、
令和5年11月吉日に発刊された。

「大井文化探訪の会」により、約7年間の調査研究、ついに刊行された。

 


表紙の写真は、
「金浦坂東東33観音・25番札所」
笠岡市東大戸助実 
地区の信仰篤く毎年当番が色鮮やかに彩色を施し
大井地区ではこの観音様だけが色鮮やかである。

 


地域の神社・小社、辻堂、常夜灯、石碑、石塔、石仏、道標、供養塔等々。
そこに刻まれた文を最大限解読し、現代語訳している。
特に地域の先祖の、信仰の厚さに対しては、会員の思いが伝わるような説明文となっている。

 

 

(東大戸・天神社)

 

(小平井・春日神社)

 

 

今後「総集編」の発刊目指して活動するそうだが、
会員には大学の先生もいないので、
郷土のにおいが充満する「総集編」を大いに期待したい!応援したい!

 

 

(西大戸の辻堂・裸堂)

 

 

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(福沢諭吉の)一万円札

2023年12月31日 | 無くなったもの

場所・日本全国
切り換わり・2024年前半(予定)
撮影日・2023.12.31(ネットから)


2024年度前半に、
1.000円札、
5.000円札、
10.000円札が、それぞれが一新されるそうだ。

 

 


1.000円は野口英世→北里柴三郎。 
5.000円は樋口一葉→津田梅子。
10.000円は福沢諭吉→渋沢栄一。

10.000円札は誕生したのが昭和33年で、人物は聖徳太子。
初めて見たの高校生になってから、
「いいものを見せてあげる」と言われて、同級生から一万円札を初めて見せてもらった。
その友人は島から下宿していて、賄い賃を含めて親からもらったばかりだったと思う。

思い出深いのは一円札。
家の近くの恵比寿神社の賽銭は一円札が多かった。(賽銭箱はなく神の前に置いていた)
しばらくしてから一円玉ができた。軽くて、金属で、新時代を感じた。
その頃は十円札もあり、十円玉もあった。
十円玉は重くてずっしり感があった。
1円玉も10円玉も過去60年以上変更がない。
1円札と10円札は半世紀前に無くなった。
一円札は二宮尊徳
10円札は人物なし、国会議事堂。
当時5円札もあったようだが、手にしたり、使った記憶がない。

 

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ガイア笠岡シーサイドモール店

2023年12月31日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市笠岡・シーサイドモール 
閉店・2023年8月20日
撮影日・2017.12.21

 

昭和40年代の日本全国の地方都市では、駅前風景がほぼ決まっていた。
バスがあり、タクシーがいて
映画看板が建ち、
自転車預り店があり、
大衆食堂があり、
そしてパチンコ店があった。
パチンコ店に入るとタバコの煙がもうもうとして、
流行歌や軍艦マーチがやかましく景気づけしていた。

その後、
パチンコ店は駅前から郊外に、大型店となって移転し、全盛期を迎えた。
近年はレジャーの多様化で客が減っているそうだが、
たしかに、管理人が駅前のパチンコ店にはいっていた当時、身近なレジャーはパチンコしかなかったようにも思える。

 

 


笠岡シーサイドモールにあったパチンコ店『ガイヤ』は閉店していた。
シーサイドモールには月に2~3度行くが、昨日(2023.12.30)閉店に初めて気が付いた。

 

 

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割烹べにす

2023年12月30日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市中央町 
閉店・2023年11月30日
撮影日・2019.8.25


"べにす”がなくなった。

”べにす”では、
たまに昼食に行ったり、
年に二回の愛好会の新年会と夏のビール会をしていた。

 

 

料理もよく、
場所もよく、
会計もやさしく、
ママさんはおだやかな人だった。

突然の閉店に、
多くの笠岡人がびっくりしたり、さみしがっていると思われる。
11月末で閉店し、お店の看板はすぐに撤去された。

 

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鞆の浦トライアスロン

2023年12月30日 | 無くなったもの

場所・広島県福山市鞆町「せとうち福山―鞆の浦トライアスロン」大会
無くなった日時(発表日)・2023年12月22日
撮影日・2017年6月4日

 

鞆のトライアスロンが無くなるようだ。

・・・

中国新聞Web(最終更新: 2023/12/22)
鞆の浦トライアスロン、2024年以降開催せず
トンネル工事遅れ駐車場確保できず

福山トライアスロン協会(広島県福山市)は、
2024年以降、「せとうち福山―鞆の浦トライアスロン」の開催を打ち切る。

・・・

 

スタートは名勝鞆の浦の仙酔島。

仙酔島から泳いで本土へ渡る。

 

自転車でグリーンラインを登って、降りる。

 

芦田川の河川敷でバイクを置いて、ランが始まる。

 

 

 

 

芦田川大橋の下まで、河川敷を4~5回ぐるぐる回ってからゴールする。

 

 

鞆の町歩きを兼ねての応援見物は楽しかった。

コロナで中止がつづき、今度はトンネル工事がからんで中止、残念だな。

 

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明治の遠足

2023年12月30日 | 学制150年

明治20年代 

「富国強兵」をめざして、遠足、運動会、修学旅行が、訓育的性格をもって登場した。
明治後期には試験にかわって学芸会が、学習したことを人前で発表することを目標として成立した。
明治期末には、小学校で学校行事を含めた教科外活動の教育的価値が認められてきた。
このとき学校行事は、個々の行事としてではなく、まとまったものとして考えられるようになった。
文部省や地方当局は、外国に対抗できる国家・国民をつくることに懸命であった。
為政者たちは、試験、儀式、運動会、展覧会、学芸会に父兄の参集を強く呼びかけた。
父兄を学校に集め、父兄の教化をもはかった。

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 

・・・

(昭和4年の遠足)

・・・


「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行


兵式体操の隊列運動の延長ともいえる
当時の遠足とは遠足運動会でもあった。
校外の神社境内、川原、海岸、原野、公園、田などに隊列をくんで遠足し、簡単な遊戯や体操を行って帰校するのが普通であった。

学芸会 
学芸会は試験や展覧会ともことなっていた。
試験とはちがい、教科の談話・対話・朗読や唱歌の合奏あるいは理科実験などであった。
また展覧会とはちがい、学習成果を活動的に発表するものであった。
学芸会は、他の行事よりも遅れて登場した。
学芸会が遅れて成立したのは、家庭との連絡を目的とする父兄懇談会の成立、児童の自主的な表現活動の重視などと関連をもって成立したためである。

・・・


「ビジュアル版 学校の歴史」 汐文社 2012年発行

A. 遠足 修学旅行の始まり
校外に出て集団的に活動する取り組みは早くから行われていました。 
初詣・お参り、見物、登山、船遊び、卒業旅行などがそれにあたります。 
自発的な行事だったといえます。

大正時代になると、小学校でも遠足や修学旅行が行われるようになりました。
大正中ごろになると、弁当を負って遠足が行われるようになり、
6年を卒業すあるときになって修学旅行が実施されました。

・・・

 

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明治の運動会

2023年12月29日 | 学制150年

運動会は、
学芸会と異なり、明治期後半には「如何なる学校に於ても必ず挙行せられ、学校に於ける確定事業の一」となっており、
町ぐるみ・村ぐるみの「マツリ」になりつつあった。

小学校では明治19年ごろから全国的に広まった。
当時の小学校運動会は、県郡単位による連合運動会であり、体育奨励・教育誇示の運動会でもあった。
この小学校運動会では、旗綱引などの遊戯競争や徒手体操、唖鈴体操などの体操のほかに兵式体操が多く、
陸上競技、スポーツはまだあまり行われていなかった。

各地で挙行されるようになった単独の運動会は、遠足運動会であり行軍であった。
遠足や運動会は、体力の向上よりも強兵のための心身鍛練をめざしていたのである。
学芸会は、学芸奨励の目的で行われ、父兄を集め、学習した教科内容を人前で表演する行事であった。 

「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

 

(映画・阪妻の「無法松の一生」)

・・・

「ビジュアル版 学校の歴史」 汐文社 2012年発行

A. 運動会の始まり

日本で最初の運動会は、 1874(明治7)年に海軍兵学寮で行われました。
小学校で運動会が始まるのは1880年代半ばからです。
1886(明治19)年に小学校令が出され、 体操が小学校の正式な教科になると運動会は全国的に広がっていきました。 
この時期の運動会は競争的な種目は少なくて 遊戯的なものが中心でした。

1907(明治40)年に義務教育年限が4年から6年になると各小学校の児童生徒が急増し、 
学校の整備もはかられ、 体操場の設置も義務づけられました。

運動会は、春の小運動会、秋の大運動会と二回実施されるようになりました。
秋の大運動会は盛大で地域の行事としておも行われるようになりました。

・・・

 

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祖母さんの学歴

2023年12月28日 | 学制150年

一代(かずよ)祖母さんは、管理人の祖母。父の母。
明治28年9月7日、岡山県小田郡城見村茂平に生まれた。
農家の4人姉妹の次女だったが、
長女が家を出たために養子をもらい家を継いだ。

長女が家を出た原因は、
どうしても”女学校に行きたい”、
そのために金持ちの養女となって家を出た。

 

・・・

一代祖母さん(明治28年~昭和52年)

・・・


祖母との会話で、学校や教育の話が出たことがない。
祖母の姉が命がけとも思える気持ちで、女学校に進学したのを比べると勉強に関心がなかったようだ。

祖母は実の娘(管理人のおば)からも、
「おばあさんは女学校に行かしてくれなんだ」と恨み節を何度も何度も聞いたことがある。


当時の農家の現状からみて、祖母の学歴は下記ではないかと思える。

 

明治34年 尋常1年

明治35年 尋常2年 (※明治35.4 笠岡町立笠岡女学校開校)

明治36年 尋常3年

明治37年 尋常4年

(ココまで☝)
(最大ココ☟まで)

明治38年 高等1年

明治39年 高等2年

・・・

明治6~7年、飛鳥小学校ができた。
明治11年、用之江・大冝・茂平の3校が一つになり用之江小学ができた。
明治19年、用之江小学校と改め濱川に校舎を建て5月11日開校した。
明治20年、尋常用之江小学校と改めた。
明治22年、城見村となる。
明治26年、城見尋常小学校と改めた。
大正3年、用之江空の下(今の所)に校舎を建てた。
大正5年、城見尋常高等小学校と改めた。
昭和5年、城見小学校講堂を新築する。(真田講堂)

「城見のあゆみ」 城見まちづくり協議会 2017年発行
  

 

・・・

祖母が入学したのは、

「城見尋常小学校」で、

場所は用之江濱川に校舎があったようだ。(それは何処だろう?)

 

父と管理人は、同じ校舎で、同じ6年間を通学している。

・・・

 

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祖父さんの学歴

2023年12月28日 | 学制150年

・一(しゅいち)祖父さんは、管理人の祖父。父の父。

珍名で、名前は”しゅいち”、文字は“・一”。
昭和32.33年頃、山陽新聞の珍名欄で記事になったことがある。
その時、人里から離れた山の桃畑にいて(自分も父も祖父も)、
そこへ山陽新聞の記者が取材に来た。
(山の中まで歩いてくること)あれにはびっくりした。

珍しい字なので、本人は村人の前でも「てんいち」「ちょぼいち」「しゅいち」と適宜に使い分けていた。
晩年は長寿であることと、酒好きであることとで”長老”と呼ばれ気分を良くし
訪れた人から、おちょこに酒を注いでもらうのを最高の楽しみにしていた。(と思った)

祖父は、明治26年12月2日生まれ。
広島県深安郡下竹田村に農家の四男として生まれた。
大正6年1月養子婚姻。
平成4年に亡くなったが、その年の笠岡市民広報の長寿番付では
笠岡市内6番目で、男性では2番に位置した。


祖父は管理人には、自分の子どもや青年の時の話をしなかったが
姉には「ABCを習った」のを自慢したことがあるようだ。
そのことから思考すると祖父の学歴は下記と思われる。

 

明治32年 尋常1年

明治33年 尋常2年

明治34年 尋常3年

明治35年 尋常4年

明治36年 高等1年

明治37年 高等2年

(おそらく、ココまでの6年間 ☝)

(下記は可能性がある☟ 最大8年間)

明治38年 高等3年

明治39年 高等4年

・・・


「学校の歴史 第2巻 小学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

就学率

明治32年 59.6%

明治33年 67.8%

明治34年 74.2%

明治35年 78.4%

 

・・・

「ビジュアル版 学校の歴史」 汐文社 2012年発行

A. ふろしきで通学
明治のころ、大部分の子どもたちは、ふろしきに本を包み、背中に背負って学校に行きました。 
明治の終わりころから男子用のズック製のかばんが出てきましたが、女子はふろしき包みのようでした。 
ズックは麻や木綿の繊維を太くよった糸で織った布地で丈夫でした。 

・・・

 

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明治33年義務教育4年

2023年12月28日 | 学制150年

昭和30年代の城見に、
文盲の人たちは何人もいた。

その当時の城見小学校では「運動会」と「学芸会」のプログラムを全家庭に配布していた。
校長先生は全児童の前で、
「読めない方もおられるので、読むのを頼まれたら、必ず読んであげること」
と訓辞していた。

小学生が在学していない家に配って歩いていたが、
上級生からの言い伝えで、どの家がその人であるか知っていた。

すぐ近所のおばあさんも、文盲の人だった。
そのおばあさんは母に、
「子どもの時、マンの悪いことが重なっておきた」と話していたそうだ。

ほとんどの家庭が貧しかった時代に、さらに「マンが悪い」ことがあった家庭の子どもが、
不幸にも満足に学校に行けなかった。
そういう気の毒なおじいさん・おばあさんであることは、子ども心に自然と認識していた。

・・・

 ・・・


「学校の歴史第2巻小学校の歴史」  仲新 第一法規出版 昭和54年発行

明治33年小学校令が大幅に改正された。
尋常小学校はこれを四年に統一し、三年制を認めないこととした。
高等小学校は従来通り二年、三年または四年とした。
この改正によって義務教育は四年となり、全国民に共通な四年の基礎教育の課程が成立したのである。

さらに二年制の高等小学校をなるべく尋常小学校に併置することを奨励し、近い将来、義務教育年限を六年に延長することに備えることとした

義務教育については、「学制」以来徴収されていた授業料を尋常小学校では徴収しないことを原則とし、
さらに就学の始期及び終期を学年と関連づけて明確にするとともに、
義務教育と児童労働の関係についても、学齢児童を雇備する者は雇傭によって就学を妨げることはできないこととした。
小学校の学年・学期についても、
学年は4月1日に始まり翌年3月31日に終わり、
小学校の4月の一斉入学、
進級・卒業も一斉に行うと法制化した。
学級編制については、小学校の規模を12学級以下に制限し、
また1学級定員も尋常小学校で70人以下、
高等小学校では60人以下と定めるなど小学校の形態を整備したのである。
明治の日露戦争後小学校教育は著しく発展拡充し、就学率も急速に上昇した。 

尋常科・高等科併置の小学校は、明治33年から40年までの間に二倍を越える増加を示した。
こうした小学校の設置状況を基盤に、明治40年、尋常小学校を六年制に延長した。

 

・・・

 「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行

A. 第1期 (最初)の国定教科書

最初の国定教科書は 1904(明治37)年から5年間使用されました。
そのなかの「尋常小学読本 巻一」 を見てみましょう。
いすの絵にイの字、木の枝にエの字、すずめにスの字、石にシの字が書かれているページから始まっています。
ですからこの教科書は「イエスシ読本」と呼ばれました。どうしてこんな学習からはじまったのでしょうか。 
この時期は日本が統一国家づくりを急いでいた頃でした。
しかし、地方は方言が中心で標準語が確立していなかったためにコミュニケーションが難しい状態でした。 
そこで教育をとおして方言を標準語に統一することをめざしました。
方言では「イ」と「エ」と「ス」の区別がつきにくかったためこうした学習が求められました。

・・・

 

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