しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

浦上玉堂

2021年03月23日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市北区石関町


浦上玉堂は江戸時代の画家。
元は戦国武将の浦上家の末裔、鴨方藩の武士。
妻の死後、武士をやめて漂泊の画家となった人。





「岡山の人物」 黒崎秀明著 岡山文庫 昭和46年発行

浦上玉堂

玉堂は市内石関町で生まれたという。
備中鴨方藩の藩邸があった。玉堂はその藩邸内でうぶ声を上げたわけだ。

琴は巧みに弾じていたが、画の勉強がはじまった。
37歳の春、新知行90石をもらって大目付役を仰せつかった。

それから12~13年の月日が流れ、寛政6年となる。職を辞し、
但馬城崎の出湯にて一絃琴をかなでる。
玉堂は父子3人で漂泊が続く、江戸、会津へ行く先々で何枚かの画を描き残した。

やがて京都に居を定めたが、好んで旅に出た。
心のおもむくままに画筆をふるった。
この頃から彼の画作はいよいよ円熟の度を加ええてゆくのだ。

ブルーノ・タウトは玉堂を評してこう言っている。
「私の感じに従えば、この人こそ近代日本の生んだ最大の天才である。
ゴッホに比することができるであろう」

文政3年(1820)9月、玉堂は京都で76年の生涯を終えた。




撮影日・2009年2月21日

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良寛さん

2021年03月23日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市玉島柏島  円通寺


子どもたちと「手まり」ついたり、「かくれんぼ」した良寛さん。
今も日本で愛されている。







「岡山の人物」 黒崎秀明著 岡山文庫 昭和46年発行

良寛
1758~1831

新潟県三島郡出雲崎の人。
18歳の時出家して同地の光照寺にはいる。
22歳の時備中玉島の円通寺十世の、国仙和尚が光照寺に錫杖を休めたのを機縁に、
良寛は和尚に随って玉島に来り、円通寺の住僧となった。
かくて円通寺にあること20年前後といわれるが、その詳細な消息は2、3の詩篇以外に知るよすががない。

44歳の時出雲崎に帰り、郷土に近い国上山中に一庵を設け、天保2年75歳で没している。
その作歌の数々はいつの時代にも人々に愛好され、書は年ごとに価を高くしている。











撮影日・2019年4月6日   



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菊池寛

2021年03月22日 | 銅像の人
場所・香川県高松市 中央公園
新田藤太郎 1956年

菊池寛の銅像は高松市の中心にある中央公園の、いちばんよい場所に建っている。
公園のすぐ近くに「菊池寛通り」があり、そこに代表作『父帰る』の像もある。







菊池寛

菊池寛氏は、わたしの社の初代社長である。
わたくしは、この人をはるかに尊敬していたので、文芸春秋に入社し、この人の強い影響を受けた。
菊池さんが昭和23年、急逝した時、たまたまその席に居合わせて、少数の御遺族と共に静かな臨終を見守ったのも、何か強い因縁を感じている。
若い時代に、こうした人の下で働いたということは、どのくらいしあわせであったか、このごろになって、しみじみと感じる。

「私の日常道徳」という小文がある。
大正15年に書いたものだから、先生が38歳の時の随感だが、今読んでみても実に立派である。

---私は自分より富んでいる人からは、何でも欣んで貰うことにしている。
何の遠慮もなしに、御馳走になる。
総じて私は人が物を呉れるとき、遠慮しない。
貰うものは快く貰い、やる物は快くやりたい。


〇他人に御馳走になるときは出来るだけ沢山食べる。
そんな時、まずいものをおいしいという必要はないが、おいしいものは、明らかに口に出してそう言う。
〇人といっしょに物を食べた時、相手が自分よりよっぽど収入の少ない人であるときは、少し頑張っても此方が払う。
〇自分の悪評、悪い噂などを親切に伝えてくれるのは閉口だ。
自分が知ったがため、応急手当の出来る場合はともかく、それ以外は知らぬが仏でいたい。


お宅の応接間で、いろいろ面白いお話をうかがったが、一番印象が強いのは、敗戦後、先生が追放された直後のことである。
部屋の中は荒廃し、かつてあれほどにぎやかであった訪問客も一人もいない--そうした中で菊池さんは、
「ぼくは今度の戦争勃発を煽ったことはないが、
戦争が始まってしまえば、一国民として祖国の勝利を願い、そのように行動するのは、当然のことだし、それを今でも誇りと思っているね」

しかし、敗戦が、菊池さんに与えたショックは大きかった。
やがて文芸春秋社や大映の社長の椅子を去り、身辺の寂寥は、おおうべくもなかった。


「歴史好き」 池島信平 中公文庫 昭和58年発行







撮影日・調査中




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外苑の大楠公

2021年03月21日 | 銅像の人
場所・東京都千代田区皇居外苑

高校の修学旅行で初めて東京に行った。
二重橋前で記念写真を撮ったのは覚えているが、大楠公の銅像はまったく記憶にない。





「広瀬中佐の銅像」 もりたなるお著 新人物往来社 2002年発行

紀元は二千六百年

宮彦は去年の春に東京府立青梅農林学校を卒業して、平井尋常高等学校に代用教員として勤めた。
代用教員一年目の宮彦は担任の学級はなかった。
六年生が卒業を控えての修学旅行が2月10日と決定し、宮彦は付き添いをするのである。

「東京へ着いたらいちばん先にいくのはやっぱり宮城の二重橋なのかね」
「二重橋で宮城を遥拝することは修学旅行の原則になっているそうです。
宮城遥拝のあとは宮城前にある楠木正成の銅像を見ます」
「それからどこを回るの」
「万世橋の広瀬中佐の銅像です。
広瀬中佐の銅像の次は上野にいって西郷隆盛の銅像を見ます」
「銅像めぐりだね。西郷さんの銅像の次は誰の銅像を見るんだね」
「西郷隆盛の銅像の近くで弁当を食べて、それから動物園にいきます。
動物園を見て回ったら、帰ることになっています」

朝食を食べ終えたらラジオが”紀元二千六百年”の歌を放送した。
〽金鵄(きんし)輝く 日本の
栄ある光 身にうけて
いまこそ祝へ この朝(あした) 紀元は二千六百年
ああ一億の 胸はなる
〽歓喜あふるる この土を
しつかと我等 ふみしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと) 紀元は二千六百年
ああ肇国(ちょうこく)の 雲青し

宮彦は持ちものをもう一度点検して外へ出た。
農林学校の時の制服で戦闘帽を被った。
ゲートル巻に編み上げ靴という足ごしらえである。
外はまだ暗い。










楠木正成騎馬像

皇居を守る忠義の士
建立・1900年(明治33年)

後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕に参加した武士。
湊川の戦いで足利尊氏に敗れ果てた。
明治以降は「大楠公」と呼ばれ、忠臣の鏡とされた。
勇ましい姿のこの騎馬像は、別子銅山を開いた住友家が開抗200年記念で企画し、
宮内庁へ献納した。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行




上の写真2枚に写る人たちは、中国語の人が半数以上だった。



撮影日・2018年3月9日



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西郷四郎

2021年03月20日 | 銅像の人
場所・広島県尾道市東久保町


戊辰戦争の若松での市街戦では「白虎隊」が有名なため、その陰に隠れた感があるけれど
福島県では並んで有名なのが会津藩家老・西郷頼母の一家自刃。その数21名。
飯盛山の白虎隊より1名多い。

その西郷家の養子が、後の”姿三四郎”のモデルとなった柔術家・西郷四郎。
尾道の千光寺から浄土寺へのモデルコース脇に銅像がある。

なぜ尾道に西郷四郎の銅像が建つのだろう?
銅像の隣に説明看板が建っている。







西郷四郎先生は日本柔道界の奇才で、加納治五郎師範が講道館を創設した頃、
それを助けて日本柔道を大成した人です。
小柄な体躯でしたが、その特技「山嵐」の大業は天下無敵でありました。
小説・映画で有名な「姿三四郎」は先生がモデルでした。
大正九年に病気療養のため吉祥坊(現在は廃寺)に仮寓し養生につとめていましたが、
大正11年12月23日57才で亡くなりました。

昭和46年晩秋
西郷四郎先生50回忌追悼法要委員会










「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行


四郎は153cm、53kgほどの小兵であったが、自ら編み出した大技「山嵐」と得意とする天才肌の柔道家であった。
明治19年に開催された第二回警視庁武術大会で古流柔術の達人・照島太郎を山嵐で下し、発足間もない講道館の名を全国に知らしめた。

加納から信頼され「講道館四天王」と呼ばれた四郎だったが、明治22年突然講道館を出奔。
長崎に移り新聞創刊に参加。
日露戦争前後には大陸に渡り、活動家として辛亥革命にも関わったという。

狭い柔道界に収まることができなかった四郎は、大陸問題の活動家として後半生を過ごし、
大正11年その波乱万丈の人生を妻の郷里である尾道の寺・吉祥坊で静かに閉じたのである。








撮影日・2008年12月10日




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加賀尾 秀忍

2021年03月20日 | 銅像の人
場所・岡山県井原市東江原町 「宝蔵院」



【モンテンルパの父】

井原市の偉人の一人だが、市の扱いが小さく思える。
もっと語り継いでほしい気がする。







「歌のよこはま」 富樫啓著 有隣堂 昭和54年発行


フィリピンの教戒師・加賀尾秀忍から、一通の便りが鎌倉の渡辺はま子宅に届いた。
「モンペンルパの歌」をみんなで作ってみた。
専門家に見ていただき、直していただければ幸い---詩と楽譜があった。

戦時中は軍の慰問で中国大陸をかけめぐり、天津で終戦。10ヶ月の捕虜生活を送った。
巣鴨刑務所の戦犯の慰問を続けていた。
詩は佐伯孝夫、曲は吉田正の両氏が目を通して、吹込みが行われた。
そのレコードはモンテンルパに送られた。

国交のないフィリピンに渡辺はわたりモンテンルパにたどり着いた。
刑務所で涙にくれながら声をかぎりにうたった。
歌はラジオ電波にのり、新東宝の映画も制作された。
減刑釈放運動も活発に盛り上がった。


加賀尾秀忍は「モンテンルパの・・」の曲がはいったオルゴールをもって、キリノ大統領に手渡した。
大統領は「師は音楽でわたしの心をうった」ともらした。
1ヶ月たった昭和28年6月28日、
死刑囚は無期に減刑して巣鴨へ移送、
懲役囚は全員釈放の発表があった。

帰還船白山丸(4.351屯)が横浜港大桟橋に接岸したのは翌月7月22日の朝だった。
われるような拍手に続いて、「モンテンルパ」の大合唱。
半年後、キリノ大統領は巣鴨入りした56人を全員釈放した。









あゝモンテンルパの夜は更けて

歌唱:渡辺はま子、宇都美清


モンテンルパの 夜は更けて
つのる思いに やるせない
遠い故郷 しのびつつ
涙に曇る 月影に
優しい母の 夢を見る

 
モンテンルパに 朝が来りゃ
昇るこころの 太陽を
胸に抱いて 今日もまた
強く生きよう 倒れまい
日本の土を 踏むまでは







撮影日・2016年4月15日



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六高生

2021年03月19日 | 銅像の人
場所・岡山市中区駅元町  岡山駅前広場


岡山駅前の六高生。




日本の将来を担う若者に、ずいぶん岡山市民も好意的に、また学校を誇りに思っていたようだ。
学校は学問も行動も割と自由だった。


有名な話は、永野6兄弟の永野重雄さん(富士製鉄社長・日商会頭)
柔道部の人で、市中で巡査ともめたさい、その巡査を旭川に投げ込んだ。

しかし事件にもならず卒業して東大に進んでいる。







六高は広島市との争奪戦で設置できたが、
その後、ほぼ各県に高校(ネームスクール)が創立された。
しかし戦前では、最終学歴よりも卒業した高校を重視した社会であったようだ。





撮影日・2013年10月14日


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四高生

2021年03月19日 | 銅像の人
場所・石川県金沢市広坂  石川四高記念館

戦前の日本の最高エリートコースである、ナンバースクール→帝大。
そのナンバースクールは、だいたい同時期に設立されたのかと思っていたが、ずいぶん年度差があった。






(Wikipedia)

一高 第一高等学校 1886年(明治19年) 東京都
二高 第二高等学校 1887年(明治20年) 仙台市
三高 第三高等学校 1886年(明治19年) 京都市
四高 第四高等学校 1887年(明治20年) 金沢市
五高 第五高等学校 1887年(明治20年) 熊本市
六高 第六高等学校 1900年(明治33年) 岡山市
七高 第七高等学校 1901年(明治34年) 鹿児島市
八高 第八高等学校 1908年(明治41年) 名古屋市

北海道にはない、
福岡にないが九州には2校ある。







「石川県の歴史」 山川出版社 2000年 発行

明治20年の四高(第四高等中学校)創設は、県民に誇りを植えつける大きな契機となった。
前年公布された「中学校令」による高等中学校の設立は、全国でわずか五校にすぎなかったからである。
この背景には、専門学校および医学部がすでに設置されていたことを前提として、前田家の寄附も含め、
県をあげての猛烈な誘致運動があった。
そうして文部大臣森有礼の臨席を得て、10月開校式が盛大に祝われた。
なお、25年には広坂通りに赤煉瓦の本館・校舎も建設され、以後「学都」金沢のシンボルとなった。
(「四高八十年」)





撮影日・2016年2月2日



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貫一お宮

2021年03月19日 | 銅像の人
場所・静岡県熱海市   
制作・館野弘青
設置・昭和51年


貫一お宮之像

明治30年から新聞に連載された尾崎紅葉作「金色夜叉」の主人公。
演劇・映画・流行歌にとりあげられ大ヒットとなった。
追いかけて許しを乞うお宮を貫一がけりとばす熱海での場面が有名。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




森繁久彌が元気なころ、「金色夜叉」をテレビで歌っていた。


〽熱海の海岸 散歩する
貫一お宮の 二人連れ
共に歩むも 今日限り
共に語るも 今日限り



JR熱海駅で降りて、坂道を下って海岸線までいくと、そこに像は建っていた。





この像には衝撃を受けた。
暴力そのものだ。

今でいう、DVなんてものではない。
下駄で座った女性を強打している。
文学作品を銅像にしたというイメージが飛んでいった。



男性の怒りを像で表現した、というならいくらかわかる。
しかし、数少ない明治のエリート高校生がこうゆう犯罪のような暴行はしない。
歌詞のように気持ちにとどめる。







〽宮さん必ず 来年の
今月今夜 この月は
僕の涙で くもらして
見せるよ男子 意気地

〽ダイヤモンドに 目がくれて
乗ってはならぬ 玉の輿
人は身持が 第一よ
お金はこの世の まわり物




まあびっくりした銅像だった。






撮影日・2015年7月8日



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昭和18年、国民学校の卒業旅行

2021年03月18日 | 昭和16年~19年
義母は国民学校を昭和18円3月に卒業した。
当時は修学旅行でなく、卒業前に行くので”卒業旅行”と呼ばれた(と思う)。


義母は岡山県後月郡(しつきぐん)芳井町の芳井国民学校の生徒だった。
6年生は昭和17年4月~昭和18年3月、
戦争の真っ只中。
果たして卒業旅行はあったのだろうか?
あるとすれば日帰りか?
行先はどこだろう?
尾道?岡山?







義母の話・2021.3.14

他の学校では、行かない、やめた、という話はよく聞いていた。
うちの学校では校長先生が旅行について熱心で伊勢神宮に行った。一泊した。

(五十鈴)川の水が冷たかったことだけをよく覚えている。

学校には夜に帰ってきた。

(義母は分校の出身で)
友達のお兄さんが学校まで迎えに来ていた。
それで3人一緒に村まで帰った。
村の入り口に、自分の親と友達の親が迎えに来ていた。
そこからは賑やかに家まで帰ったが、着いたのは深夜だった。


旅行に参加したのは1/3くらい。
うちは親が、学校行事は無理をしてでも不自由のないようにしてくれていた。




昭和18年の卒業旅行が伊勢神宮とは驚いた。
義母本人が驚いていた。
それにしても参加率1/3程度でよく卒業旅行が成立したものだ。今なら大問題だ。







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