しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

井笠地方の塩田②入浜式→流下式への変換

2020年01月21日 | 暮らし
井笠地方の塩田②入浜式→流下式への変換


昭和50年ごろ、倉敷市児島小川に汚水処理場の建設工事があり、勤務先が施工していた。
その工事現場の前は海で、周囲は竹を逆さに架けた(田んぼのハゼ、大根干しに似ている)塩田跡地だった。
それが、管理人が見る山陽地方の流下式塩田の最後だった。

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下記は、「瀬戸内塩田の所有形態」 重見之雄著 大明堂 平成5年発行 より転記

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流下式塩田への変換

わが国の製塩業は、塩田で海水を濃縮する「採かん」過程と、濃縮した海水を原料に製塩を行う「せんごう」過程が結合して成り立っている。
後者の過程は専売制以降、合同せんごうの推進の強力な行政指導の結果、平釜式から真空式へと発展をとげた。
「採かん」過程は近世以来、約300年の入浜式塩田がつづき、昭和28年ごろから流下式塩田への転換がなされ始めた。


最大の問題は、
労働者の解雇である。
従来1ヘクタールあたり、常用5人・臨時3人の計8人位が必要であった。
転換後は1人か、それ以下でも済むようになった。

浜子は失業を余儀なくされたが、労働者はどのように対応したか?
第二次大戦後は新しく塩田で働く若者が少なくなって高齢化が進んでおり、人員整理の退職金も増額要求も大きな混乱はなかった。

流下式転換後の変化
労働力は、入浜当時の1/5以下で済んだ。
そのうえ、単位面積当たり3倍以上の塩生産量となった。
国産食塩の過剰を招いた。
塩田は宅地・工場に転用され、大部分は昭和46年末までに廃止されてしまった。
流下式塩田は,僅か十数年の運命であった。

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井笠地方の塩田①

2020年01月20日 | 暮らし
井笠地方の塩田①

昭和30年代の前半まで、瀬戸内海沿岸は大半が塩田で、井笠地方も大小の塩田が連なっていた。
代表例として寄島の塩田を調べた。


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下記は、「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行 より転記

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寄島塩田が盛んになった天保期では、全国の塩田の90%が入浜式で、寄島でも入浜式で製塩していた。


明治38年
専売法が実施。自由な製造・販売は終わり、製塩のみに従事することになった。

昭和13年、
片本浜に蒸気利用式丸管機を設置し、採集したかん水をパイプで送水し一括製塩することになった。

昭和31年、
枝条架式濃縮装置が完成。


管理と経営
経営は、地主・自作・小作が、おのおの浜労働者を雇った。


浜労働者
いろいろな職種・階級があり「上浜子」は最高の地位で、雇い主から現場の管理監督の権限が与えられた。
上浜子の下に「差浜子」がいて、その下に毎日の製塩労働に従事する「浜子」と呼ばれる人々がいた。
仕事のある日だけ出てくる「切夫」「寄せ子」もいた。
収穫高を左右するといわれる「沼井踏」(沼井に集積した砂を踏み固める仕事)は技術を要する仕事で上浜子が主として当たった。
また、各戸毎に釜焚きを行っていたころは「昼釜焚き」と「夜釜焚き」があって、夜釜焚で習練して一人前になった。



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魚の販路

2020年01月17日 | 暮らし
魚の販路

金浦から「トト道」という、鮮魚を吹屋まで天秤リレーした道を発掘調査や整備の新聞記事が、ここ2~3年載ることがある。
史的に、天秤道がそんなに重要なこととは思えないが、金浦の魚がどこに、どのように販売されたかは気になる。

茂平は小さな漁港だったが、獲れた魚は伏越の市場に運ばれた。
伏越の魚市場からは、どこに・どのように販売されたかは知らない。(笠岡市史に記載がない)

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下記は、「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行 より転記

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鮮魚運搬船・仲買船・漁船等によって水揚げされた漁獲物は魚市場によって流通機構にのせられた。
口伝によると、江戸末期に中安倉に魚市場が設けられたのが始まりである。
明治、県南沿岸地方では最も多くの取引高を持っていた。

取引範囲は地元の水揚げの他、東部は淡路島・下津井・塩飽諸島、西部は香川県伊吹島・広島県鞆・田島・横島・走島であり、
市は「せり買い」で行われ、毎日朝市と夜市が開かれ、仲買人の手によって市場で値がつけられた。
せり落された鮮魚は、仲買人から小売人(行商人)により近接の地域に販売された。

商圏は二種類に分けられ、
直接消費者に売る場合は「肩荷」として運ばれ、これは現在の商圏とほとんど変わらない。
一方魚小売商に卸される商圏は、遠く備北地方の新見・高梁・総社などに及び、「奥荷」と称され仲買運搬によって輸送された。
さらに鉄道の開通により樽に氷詰めされて京阪神地方にも送られるようになった。このルートは昭和に縮小されていく。
そして輸送量は増大するが販売市場は狭少となり、高い密度の個別販売が行われていくのである。
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「たで船」

2020年01月17日 | 暮らし
「たで船」


茂平港には20数隻の漁船がいた。そのすべてが木造船で、プラスチックの船が登場する前に漁師も漁港も消滅した。

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下記、「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行 より転記
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木造船

底引漁船はFRPを素材として建造されるようになり昭和49年第一号が誕生した。
その後、漁船のFRPは急速に進んだ。

元来、木造船は十年の寿命というのが定説である。
船底部分から腐食が進み、やがて浮揚力が減少するとともに、浸水防止が不可能になるから、少しでも船を長持ちさせるため、いわゆる「たで船」という作業を欠かすことができなかった。

この作業は、まず、
満潮時に「りん木」と呼ぶ角材、もしくは丸材を前後に一本ずつ船底に挿入して固定する。
「りん木」によって、船が下駄をはいた状態になり、地面から30cmほど持ち上がる。引き潮に合わせて船の上棚、かじきを洗い、フジツボ、カキなどの付着生物をくわでかき落とす。
完全に潮が引いてから船底の下一面に、除虫菊の茎や麦わら、または乾燥した雑草を敷いて火を放つ。
火熱によって船体の除湿と、船底に巣食う虫を殺すのが目的である。
そのあと、かじきへペンキを塗り、次の満潮を待って「りん木」をはずす。

木造船の保全には漁業者の大きな労苦が払われていたのである。
FRP船では「たで船」の労力は軽減された。

しかし、
焼却処分時の有毒ガス、
放置されたまま、が問題化されている。



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自由、寛容、正義を説いた勝者②蒋介石

2020年01月09日 | 昭和20年(戦後)
中国では。

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「日本帝国の最後」太平洋戦争研究会編 2003年発行 新人物往来社、より転記。

報復を禁じた蒋介石の放送。

日本政府がポツダム宣言の受諾を条件つきながら連合国に申し入れたのは8月10日のことである。
中国大陸ではひとしおの喜びと感慨を持って迎えられた。
重慶はむろんのこと、各地は爆竹とドラの音と民衆の雄叫びでわきかえった。
8年にわたる抗日戦が勝利に終わったのであるから当然だった。
蒋介石が放送した、その要旨は、
「われわれはけっして報復を企図してはならない。
ことに敵国の人民に侮辱を加えてはならない。・・・
もしも暴行をもって敵の従来の暴行にこたえ、侮辱をもって彼らの誤った優越感にこたえるならば、恨みに報いるに恨みをもってすることとなり、永久に終止することなく、われわれ仁義の軍の目的ではない」
マッカーサーよりも早く、蒋介石は寛容の精神を訴えたのだった。



いっぽう、関東軍はソ連極東軍司令官に降伏、停戦協定を結んだ。
しかし、この協定はほとんど実行されず、ソレン軍は勝手に各地で武装解除を始め、協定にはもちろんなかった将兵のシベリア移送を強行した。



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自由、寛容、正義を説いた勝者①マッカーサー

2020年01月09日 | 昭和20年(終戦まで)
ミズーリ号の調印式。

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「日本帝国の最後」太平洋戦争研究会編 2003年発行 新人物往来社

自由、寛容、正義を説いた勝者

ミズーリ号での降伏調印式に、喜び勇んで参加したものは、敗者の中には無論いなかった。
が、その沈鬱なる雰囲気に包まれた日本全権団に、一条の光明を与えたのが、調印式前に行われた、予定外のマッカーサーのスピーチだった。
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ここに我々主要参戦国が参集して、平和克服の目的とする厳粛なる協定を締結しようとしている。
我々は相互不信、悪意、また憎悪の念を抱いてここに集まったわけではない。
むしろ戦勝国と敗戦国とを問わず、人類のより高き威厳に到達せんことを祈念するものである。
すなわち、自由、寛容、正義に対する念願の実現を志す世界が出現することを期待する。
これが私の熱烈なる希望であって、かつまた、全人類の希望である。
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と述べ、日本全権の調印が始まった。
加瀬(俊一)は、重光が上奏する報告書に、日本が勝っていたら、敗者をこれほど寛大に遇し得ただろうかと記した。
天皇は嘆息してうなずいたという。



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赤痢、焼け跡に猛威をふるう

2020年01月09日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年、食べもの・着るもの・住む場所、すべてが不足した夏。
伝染病が流行った。

父の話・2000年10月08日
「城見村の施設としてあった隔離所はウチでもおばあちゃんが一時はいっていた。
赤痢や疫痢になった人は普通家で看病していたが隔離するよううるさく指導され、連れて行くようになった。
軍隊にいるとき家に(一時)帰宅する場合”家に伝染病のひとはいない”ことを確認してからでないと帰れなかった。
看護婦・・といっても見習いにけのはえた程度の・・・もその際は常駐していて医者は適時にきて帰っていた。」





下記は福山空襲直後(=終戦前後)の広島県深安郡引野村の郷土史本。

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「戦争の中の子供たち」福山市引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行より転記する。

赤痢、焼け跡に猛威をふるう

空襲の4~5日後から赤痢を訴えるものが続出し、患者は谷地池の上手にあった隔離病舎に収容された。
戦災をこうむった被災家族は二重の悲しみを受けることとなった。

隔離病舎に収容された患者の看病は、ほとんど家族の者に任された。
十数名に一人くらいの看護人の数では手が回らない。
家族の健康な者が病舎に寝泊まりし、患者の食事から便の処理一切をの世話にあたった。
当時、医薬品は極度に不足しており、家族は八方に手を尽くした。

夏の暑さに加え、戦災による疲労、さらに食糧難のための栄養不足も多くの命が失われる要因になった。
体力がない子供や老人は、発病後2~3日で息絶えた。

当時でも赤痢に有効な薬はあった。
戦争が医療環境を悪くし、救える命を奪ったと言える。


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