しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

松尾芭蕉(伊賀上野)

2021年06月28日 | 銅像の人
場所・三重県伊賀市上野丸之内

伊賀上野は山国である。
伊賀上野駅から南には上野盆地が開け、盆地の中ほどに小高い丘が望まれる。
上野は、この丘の上に造られた小さな城下町。

この城下町に芭蕉が生まれたのは正保元年(1644)、三代将軍家光の時代にあたる。
父は中世以来土着の柘植七党の名家の一党の末流で、
苗字は許されたが帯刀は禁じられ、平百姓並みとなった。
芭蕉は幼名宗房で、上野の町に流行する俳諧に興味を示しはじめた。
俳諧の縁で家老の台所方使用人という勤め口を持つようになった。
いつの間にか上野の俳壇の代表格になった。
大都市に出て専業の俳諧師として飛躍したいと考え、郷里を棄てて大江戸に向かった。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行



(俳聖殿)



江戸に出て3~4年は無名だった。
俳号は「桃青」と改めた。
俳諧宗匠・点者として公認されたが、生計は不如意で神田上水工事の事務職を兼ねる苦労もした。
其角、杉風、嵐蘭など、後に芭蕉門の中核をなす人々が入門していたが、独立後は急に増えた。
桃青は江戸宗匠五指に入る有名人になっていた。

点者という職業に疑問を深めていた。
俳客を奪い合う生存競争、そんな俗悪な俳壇社会に対する疑問と嫌悪がいよいよ高まり、点者稼業を放棄した。
心機一転すべく、都心地から隅田川を越えた深川村に移した。
桃青は「乞食の翁」を自称した。
草庵の庭にバショウがあり、「芭蕉庵」と呼ばれるようになり、第二の俳号として「芭蕉」を用いた。
この芭蕉庵は江戸大火(八百屋お七事件)で全焼する、
このときの心境について門人其角は「無所住の心を発し」と伝えている。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行






(芭蕉像=写真の左端)


芭蕉がはじめて文学の旅に出たのは41歳の時である。
それからは小旅行、長期の旅行で旅の空となった。
芭蕉の文学は『奥の細道』の旅を境にして大きく変化した。

芭蕉は自分の志操を高く持ったが、生活的には深川の庶民街の中で名もなき人々とフランクに近所づきあいをする普通の人であったし、
彼らの生活の理解者でもあった。

しばらくの間、実家で静養をつづけた芭蕉はやがて、もっとも深く愛する門人たちの住む湖南と京都を訪れて、
再び伊賀に戻る。
強く来遊を求める便りが届きはじめ、最初に大坂にまわろうとした。
元禄7年9月9日、大坂の門人宅に着いた。
高熱、悪寒、頭痛に襲われた。
しかし、こと俳諧に関しては意欲の衰えを知らず排席に出座を繰り返した。
それも限界にきたようで10月に入ると、急を聞いた近畿各地の門人が続々と駆けつけてくる。
そんな中の10月8日深夜、芭蕉はふと眠りから覚めて、
病中吟
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
と一句を吟じ、傍らの門人に書き取らせた。
10日には郷里の兄、江戸の杉風ら主要門人や芭蕉庵の近所衆への永別の言葉を口述して支考に書き取らせた。
それからは身を清め、香を焚いて静かに臥し、12日申の刻、眠るがごとく51年の生涯を終えた。

「奥の細道を旅する」  日本交通公社  1996年発行





(芭蕉生家)

 
「奥の細道」 世界文化社 1975年発行

芭蕉の旅

和歌の西行・連歌の宗祇・俳諧の芭蕉をわが国の三大旅行詩人と呼ぶ。
けれどもこの三人の旅行を分析すると、おのずからその旅の性格を異にしていることがわかる。

すなわち西行は漂泊の旅人である。
宗祇は、風流な大名豪族に招請され、その目的地へ往復する道中であった。
芭蕉は、必ず予めスケジュールを立ててそれによって行動した。


芭蕉は岐阜の長良川の鵜飼いを見てからだろう。
魚肉を取らぬようになったので栄養失調のきざしがあったらしく、とかく不健康で、ついに浪花の宿舎で帰泉した。
旅での死は、芭蕉にとっては満足であったろう。

芭蕉は古典を、古典では味わえない俳諧文を作り上げようとした。
日記、紀行、詩歌、絵巻のすべてがそれで、どれにも成功している。
だから旅には紀行文を書くことを目的の一つにしていたのである。



撮影日・2013年6月8日


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記事明治17年 茂平堤防決壊(宮ノ崎まで浸水)の記事・記録その④

2021年06月28日 | 江戸~明治
山陽新聞に水島の決壊記事が載った。
記事を読むと140年前の、茂平の先人たちが体験した恐怖が蘇るようだ。

・・・・・・・





      2021年6月18日  山陽新聞・文化欄 「温故知災・苦難の歴史に学ぶ」
「福田新田の悲劇---高潮の猛威」堤防決壊、次々と家屋漂流



福田新田旧5ヶ村(現在倉敷市北畝、中畝、東塚、南畝、松江)は幕末に誕生し、500ヘクタールを超す新たな農地をもたらせた。
周辺の村から入植した人々は、水はけの悪い低地んがら米、綿、サトウキビ、梨などの栽培に励んだ。
だが徐々に生産が軌道に乗り始めた1884(明治17)年8月25日、悪夢のような災害に襲われる。


「雨戸は弓のようにしわり込み」、猛烈な嵐から、わら葺きの家屋を必死に守る住民たち。
日付が変わるころ、暴風の中で叫び声が聞こえた。
「堤が切れた、堤が切れた」


吹きつける暴風と台風通過に伴う気圧の低下、そして大潮と、高潮災害が起きる悪条件がいくつも重なった。
押し寄せる高波に、干拓地の西、南を囲っていた堤防が次々と決壊。
内部に海水が流れ込んだ。
住民の多くは暴風雨に耐えることに懸命だったため、潮水が屋内に浸入して、初めて事の重大さに気付いた。

「戸の隙間からドウドウと水がはいりだした。避難するところは何所もない」
追い詰められた人々は屋根の上へ逃れるよりしかなかった。
暴風の中、屋根わらに必死にしがみついたという。

高潮の猛威はさらに続く。
多くの家屋が水の勢いに押し倒され、住民を屋根上や屋内に残したまま、漂流し始めたのだ。
漂流する家同士がぶつかり、崩壊するなどの悲劇が各所で起きた。


ようやく空が白み始めたころ、
流された家々は福田新田の北、福田古新田との境にあった土手に折り重なるように漂着していた。
「青田、民家は残す所なく泥海と化し去り」
子を失った親があてもなく探し歩き、濁流の中で力尽き、妻子の手を離した者が大声で泣く姿など、
惨憺たる状況を遭難記は伝える。

1年後、当時の県令が慰霊のため「千人塚」の碑を建立している。
旧5ヶ村の住民は「千人塚奉賛会」をつくり、今も輪番で供養祭や清掃活動を行っている。






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