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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徐州・漢口戦従軍日記

2015年02月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
昭和12年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中は全面戦争に突入した。岡山の陸軍歩兵第10連隊は徐州戦から漢口戦まで参加した。



これは初年兵が野戦手帳に書いた日記の一部である。






岡山を出発

いよいよ壮士・先輩の元に往くことにあいなる。
5月3日、来たるべき日はきた。待ちに待った出征の日は来た。
なつかしい兵舎を後にし、戦友と別れをつげ自動車にて一路駅頭に向かう。
早朝より降る雨は、僕らの出征を祝福するかのごとき。
岡山駅プラットホームを離れた。時まさに岡山駅零時16分。
歓送の音楽は万感の音、耳に満ち、ただ一筋に心はおどる。
汽車は一路山陽本線を南下しつある。
なつかしの母校(城見小学校)を眺め、小学校の歓送に感謝の涙にむせびつつ、汽車は大門駅に着く。
1時30分。御両親に最後の別れを告げ故郷を後に一路汽車は進んだ。

昭和13年5月6日



済南に着く


広漠たる地平線、遥かなる地平線を汽車は、一路大陸へ大陸へ。
には日章旗と五色がひるがえっている。
子供たちは鉄道付近にきたりて、「バンザイ」「バンザイ」と叫びつつ、僕らを歓迎してくれる。
東洋の大河・黄河の鉄橋に着く。
その鉄道は破壊されている、無事汽車は通過し、午後7時済南に着いた。
遠くのほうで銃声・砲音が聞こえる。
しかし、待ちに待った戦場へいよいよ到着したのだ。
戦跡、戦傷者の輸送、各隊のものものしい警備。
顔、みな悲壮な決心がうかがわれた。流弾が地上をかすめる。実に物騒なところだ。赤柴隊長殿の英姿を仰ぎて我らも元気を出す。

昭和13年5月15日



光山懸城に入城


雨天の中、光山懸城に入城した。
信陽攻略の要所だ。あちらこちらの家陰、木陰に、支邦軍部隊の死体がわれ等の目にはいる。思えば徐州出発以来、悪天候と戦いつつ、あの日この日も休み無く。
血の攻撃、実戦悪夢。
敵の攻撃、悪戦苦闘で、今ようやく、光山懸へ入城するのだ。
その雨につけ、照るにつけ、思うのは故郷のことだ。
友は、兄弟は如何に。
だがそのような実に恥かしい。
ただ戦闘の束の間にちらつくホンの一瞬だ。後6日で我が氏神様の祭典だ。
ありがたき神様のご加護により生き長らえていることを祈って今日を休む。

昭和13年9月25日(光山懸城内にて)



大別山越え

昨日の疲れも何時の間にやら本日も行軍。
一路漢口へ。漢口へ。
いよい一人、二人と、地上をうらうらと、さまよいつつ、倒れつつ行き進む。
色あせる顔、死人の如く。
吾等、身も心も疲れきり、ただいっしょに一歩づづ脚をすすめている様子だ。
薬物は無く、ただ死を近くに感じるのみ。今は我故郷と、現在を比す。
風に散る黄葉はひらひらと、吾がままならぬご奉公なりけり。


漢口入城(武漢三鎮陥落)

上陸以来、一路漢口へ、漢口へと血の出るような進軍行軍。
出発以来5日目に漢口城に入城できた。
揚子江が流れ政務・行政・軍事・交通・経済・外務の中心地たるや、その建物もまた雄大かつ壮大だ。
しかし高く聳える高層の上に、日章旗がひるがえる光景は実に美しい。
この日章旗をあおぎ見るとき、共に皇軍の一員として無事入城できたことは実に嬉しい。
しかし戦火なかばにして倒れ、多くの鬼と化した戦友の英霊に対して忠心より哀悼の意を表す。


昭和13年12月2日(漢口にて)
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干しイチジク

2015年02月28日 | 昭和36年~40年

高梁川流域の市町村や法人が加盟している「高梁川流域連盟」の機関誌「高梁川」の第46号に茂平の干しイチジクが掲載された。





干しイチジク


いちじくは高温な気候を好み、笠岡市茂平に古くより生食用として栽培され、葉及び果実は整腸剤としての薬効があり、品種は在来種(蓬莱柿)を栽植していた。

 明治の中期に糖度の高い西洋種ホワイトゼノアが導入され、地元の大本幸太が干菓製法を考案(完熟した生果を硫黄でむし、天日乾燥を行い果を平たくし一週間で製品となる)製菓会社へ販売していた。

大正時代~昭和の初期には栽培者も増加し、乾燥方法も研究改良を加え、各戸に燻蒸室を作り、練炭火力と硫黄でむし、天日乾燥一週間で良質な製品が出来るようになり、栽培も盛んにとなる。

 昭和七年茂平干いちじく組合を結成、干果の協同集荷、検査、販売を行い箱詰(五〆目入)にして神戸、大阪、横浜へ協同出荷するようになる。

 昭和十三年、納屋を改良、小箱詰(二十五~三十ケ)を一箱とし、”珍菓ほしいちじく”として県内及び県外の市場へ出荷販売する。

 昭和二十年、戦中・戦後の食糧難時代には手作り自然食品として、岡山鉄道弘済会を中心に全国に販路を広げ、笠岡特産干いちじくとして広く愛用された。

 昭和二十七年、農村加工優良組合として山陽新聞社より表彰を受ける。

 昭和二十八年、農村加工推進補助事業として、国の補助をいただき、組合加工場、集荷場の新築を行った。





製造方法について







八月~十月に生果を穫り、燻蒸室に入れ、温室六十度以上硫黄でむし、一週間天日乾燥を行い、手作業で平たくする。十一月より集荷検査小箱詰を行い、翌年五月迄に笠岡特産干いちじくとして各地に出荷する。栽培面積五ヘクタール。

昭和三十五年頃より食品衛生法に依る検査がきびしくなり、干いちじくも硫黄分の含有量が検出され、組合として岡山県農業試験場、岡山工業試験場、大阪府立園芸試験場の諸先生を講師として現地において製造乾燥法の研究を重ねる。



改良研究実施方法



(1)燻蒸室を改良して温度を80度以上に上昇し、硫黄を少量して燻蒸乾燥する方法(扇風機使用)

(2)生果を砂糖水(20%)で五日間、30%で五日間、40%の砂糖水で五日間浸漬した後取り出し陰で乾燥する方法。



(3)生果を40%の砂糖水煮沸後天日乾燥する方法。

(4)その他化学薬品による方法等。



 以上いずれも乾燥方法製造方法に日数を要し、人件費、材料費が高くつき、品質でも色が紫黒色化して自然食品とは思われず、そのうえ生産コストが高く、組合として製造改良の研究を中止する。

 昭和39年このままの製造では食品衛生法に抵触した場合の対応に責任がもてないので製造販売を中止する。

 昭和40年に生食ようとして市場出荷、食品加工会社へ生果原料等として販売したが、単価が安く収支が合わないので、各自に生木を切り倒して在来種のいちじくに改植を行う。 

 以上昭和40年産より特産珍菓干いちじくは市場より姿は消え去った。


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終戦直後の岡山市③進駐軍が来た

2015年02月16日 | 昭和20年(戦後)


10月12日に先遣部隊が内山下小学校に来た。一番恐ろしい人間を迎えるのだから知事以下の心痛は一通りではなかった。


焼け残った岡山の洋館で、相当な収容力を持つのは日銀・中銀・勧銀・郵便局・電話局・清心女学校・弘西、内山下小学校だけなんだ。
つづいて23日、宇野から上陸し法界院駅へ旧48部隊兵舎へ、29日まで5000人の米軍が進駐してきた。


それは「取りこし苦労」にすぎなかった。
何ひとつ事故も起こらず、和気アイアイのうちに進駐は修了した。軍政部は郵便局の2・3階に置かれた。

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終戦直後の岡山市②中島遊郭も特別待遇

2015年02月16日 | 昭和20年(戦後)


玉音放送を聞いてから、張りつめていた「討ちてしやまん」の根性が抜け、誰もかれもボンヤリしとった。
それでも進駐軍の話で神経がしだいに高ぶってきだした。

「男は奴隷的労働を強要し、女は慰安婦に狩り出され、拒絶したら手りゅう弾の稽古台にするそうナ」という流言飛語がもことしやかに伝えられた。
県庁の「進駐軍受入本部」でも頭を悩ませ小原○○(旅館・後楽のオヤジ)が東署に呼ばれ、義勇娘子軍の組織を署長から懇々と頼まれた。小原はもちまえの侠気を出してひと肌脱ぐことになった。

岡山市の娘を救うため、ぜひ実現させなければならん、と本気なんだ。
素人にはむずかしい仕事だから、ひとつ中島の親方衆に話して、東中島遊郭23軒(元54軒)が合同して54人の娼妓(もとは142人)を
集めて、焼け残った電車筋北側の家を借りて8月21日から復活開業するに至った。


ところが広島から内報があり、10月23日から5000人の米軍が岡山へ進駐することが判った。
さあ大騒動だ。東遊郭の50人や60人では真拍子にあわん。

そこで東署の斡旋で食堂・カフェを糾合して娯楽施設協会が組織された。
これが主体になって慰安主体のカッフェを誕生させ、人肉市場の買い手氾濫を緩和させようとした。

まず第一に柳川筋で岡山劇場の復活に着手。曲馬団の木下○○に談判してコワ葺小屋を借り切ってダンスホールを始めることになった。
それを買って出たのが六条院生まれの浅野其という中年の男だった。
いよいよ時期切迫し、神戸の福原から連れてきたダンサー52人の健康診断と検梅をやったら、8人しか合格者がいない。
そこで津山と日比の遊郭から志願者を選抜したが、それでも間に合わんから一般から募集に決した。
「ダンサー急募」「月収500円」のポスターが街の角々に貼られて通行人の目をひいた。

赤十字病院の別館では、キャバレー・サクラというナイトクラブを開業。西川筋の旧三井物産の建物ではキャバレー・リバティが戸を開けた。
これらのダンサーは100人以上も応募してきた。ズブの素人ばかりだからダンスを教えた。
「生活の窮乏から一身を犠牲にする決心をした」と平然と語る娘さんばかりなのには驚いた。身体を張って生活と戦う女の態度には勇気凛然たるものだ。

中島遊郭の方も、両町の中央に東・61室、西31室の二階建て営業場が新築された。ここで集団生活をしながら、稼ぐことになったわけだ。

パンパンも盛んなもんだった。
この時分の岡山は、昼の日中に人が見とろうが堂々と取引している。夜は焼野が原で人通りも少ないし用心も悪いから無理はない。
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終戦直後の岡山市①進駐軍受入

2015年02月16日 | 昭和20年(戦後)



9月25日県庁内へ「進駐軍受入本部」を設け、本部長に知事がなった。
初仕事は通訳と慰安婦の募集だった。
通訳は60人くらい見つけ出したが、確実なのは40人くらいしかいない。

進駐軍に対する悪い噂が立って、市民の不安がはなはだしいので「受入心得」と称して町内会へ回覧させた。

1・軍の素質は海兵隊が不規則、ついで空軍、陸軍が善良。中国地方へは陸軍が来る予定。
1・着物はモンペがよい。
1・軍刀や戦闘帽を欲しがる。見えぬところに隠す事。
1・紛争で日本人を殺すことはない。女子に対する暴行は日本人が白痴だった。
1・女や酒を欲しがる場合は慰安所へ同行のこと。
1・女はいつも毅然たる態度であること。犯されたのは態度が悪いので誤解された。

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慰問袋の通知

2015年02月13日 | 昭和元年~10年
慰問袋の通知
「矢掛町史」より転記


炎熱焼くが如き北満の荒野に於いて、神出鬼没の匪賊と戦い、辛労に対し真に感謝の情に堪えません。
然るに近時、渡満以来一回の慰問袋も届かないとのことであります。
慰問袋(住所氏名御記入)御調製のうえ来る8月20日まで小学校へお届け下さいませ。
御内容は皆様の御随意ですが、左記の品々が最も適当だと存じます。


1・蚤取粉の如き殺虫剤
1・シャツ・サルマタの類は冬物
1・晒木綿の越中褌
1・タオル仁丹類
1・地方の絵葉書
1・小学生等の慰問文
1・腐敗の虞きものを選ぶ事


昭和7年8月
矢掛町長  桑木○○
矢掛町婦人会長  山本○○
矢掛町女子青年団長  中本○○
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家の自殺

2015年02月13日 | 平成元年~平成31年
中公新書から転記する。
中公新書「暮らしの世相史」--中央公論社


1983年に刊行された「生活財生態学」によると日本の平均的家庭での「神棚」の所有率は14%、「仏壇」は25%だった。
その10年後1993年の追跡調査では神棚10%、仏壇21%と衰退をしめしている。

その理由として、
「祖先崇拝」のイデオロギーがなくなってきた事情があり、
「祭祀」の責任者が少なくなってしまったという事情がある。


柳田国男のいう「家の自殺」はすでに大量発生しはじめていて、将来にわたり加速されてゆくことにまちがいあるまい。


ふりかえってみれば、有史以来、日本列島では数百億の人間が生まれ、そして死んでいった。
ついこのあいだまで日本では鳥葬、林葬などがごくふつうで、
人間の死体は谷や山林に捨てられていた。


今ある墓はせいぜい二世紀ほどむかしのものが大部分だし、いまつくられた墓だってあと100年もすれば無縁化する運命にある。


「家永続の願い」などは、ここ一世紀たらずの幻想だったのであろう。
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寡黙の伝統

2015年02月13日 | 昭和21年~25年
中公新書から転記する。

中公新書「暮らしの世相史」--中央公論社



寡黙の伝統


むかし日本人は寡黙であった。しずかであった。

そのことは国立国語研究所が昭和24年から25年にわたって福島県白川村、山形県鶴岡市でおこなった言語生活調査からもあきらかである。

この調査によると、鶴岡市の場合、一人の店主が一日に話す「自立語」(単語)の数は2891語であった。
これをラジオ「小沢昭一的こころ」で時間分析して当てはめると、平均してわずか10分足らずだった。

そればかりか「はい」「うん」「今日はいい天気ですね」という発話が半分だった。
この程度しか口をひらいていなかった、というのが半世紀前の日本人の言語生活だった。


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もんぺ①中国新聞「戦時の制服・おしゃれの自由なかった」

2015年02月12日 | 昭和16年~19年

今日の中国新聞に表題の記事が一ページ載っている。
当時の実態とはかけ離れたように感じたので、資料として書き残しておく。

後日、調査後管理人記事のもんぺ②を書きたいと思う。


すべて「被害」意識で語る中国新聞は、戦後70年を経て、いっそうあやうい感じがする。








以下は中国新聞記事(2015.2.12)より。


太平洋戦争中、女性の衣料の定番は「もんぺ」でした。
物資を節約し、国民の心を束ねる狙いもあったでしょう。

昭和17年頃から女子学生はそれまでの制服のスカートをもんぺにはき替えて登校したそうです。
機能的で動かしやすかったのは確かでしょう。
でもそれは自由を制限された戦時の「制服」でした。

当時は多くの場合、すべて手縫いで母親が一人で作っていたと聞きました(中3女子生徒)

安田女子大講師談・昭和17年厚生省の公示でもんぺ着用が促され、お仕着せだった。
戦意高揚の「決戦服」とも呼ばれ、内心はカッコ悪い、着たくないと思っても周囲から異端の目で見られる。自由が制限された時代の制服でした。

ファッション学校校長談・(原爆投下時・女学校4年)救護を手伝いましたが誰が誰だかわかりません。
役だったのがもんぺでした。腰の名札の住所氏名が判断材料になりました。
まさかこんな感じでもんぺが・・・涙が出る悲しい思い出です。

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慰安婦からオンリーさんへ

2015年02月12日 | 昭和20年(戦後)


以下は「昭和史9占領下の日本」の記事。




昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
聞こえはいいが、ようするに占領軍兵士に慰安婦を供給するものだった。

アメリカの要請ではなく、日本政府のきもいりで出来たもの。
東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。

「日本の新女性を求む」という広告を出したところ多数の女性が応募し大森で店開きした。

彼女たちは「特別女子挺身隊」と呼ばれ一般婦女子を守る防波堤となった。
ショートタイム100円、泊り300円。
兵士たちは100円札を握りしめ開店前から行列ができた。

しかし巷には売春婦があふれ性病が蔓延した。
このことから米軍司令部は「いかなる場所であっても売春行為をするところに出入り禁止」を警察庁に伝達し(昭和21年3月)、RAAは機能を失った。

RAAの女性の多くは街に転落し、なじみ客から部屋・家を与えられたオンリーさんも現れた。
基地周辺には、こうしたスイートホームが建ち並んだ。

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