しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「トトミチ」の仲仕歌

2023年05月31日 | 民謡

「とと道」というのは、吹屋が鉱山で栄えていた頃、
瀬戸内の漁港から、鮮魚を、籠に背負って(天秤棒で担いだという説もある)、夜通し走りリレー方式で翌朝、吹屋に届けた道。
詳細は不明だが、近年埋もれた道探しで報道されることがある。

・・・


「美星町史 通説編」 美星町 昭和51年発行

「トトミチ」の仲仕歌

魚仲仕というのは、 
漁港から消費地の問屋へ魚介類をかついで運んだ人たちの俗称である。
この仲仕が魚介類の産地である西浜、尾道、鞆、笠岡、下津井方面と
消費地である成羽、吹屋、新見、高梁方面の問屋との間を中継ぎで交替しながら品物を運送していたのである。
三山は、この仲仕の通る道筋にあり、しかも生産地と消費地の中間に位置していた。

この仲仕の仕事は吹屋銅山の盛衰と比例してさかえたり、おとろえたりといわれている。
明治後期には中継ぎ場には20~30人の仲仕が出入りしていた。
細い急坂をオウコ一つに魚をかついで行き来していたのである。

仲仕の日当賃金は一般の五倍以上の賃金であったといわれる。
中継場の仲仕問屋には仲仕が寝泊まりしており、
寝ていて荷の来るのを待っている者と、早く起きて荷を取りに行く者が、くじ引きで分けて仕事をしていた。

笠岡を夜の9時に出発し、夜道を通して歩きつづけ、夜明けの四時半ごろ宇戸谷に着いていたので、威勢のいい五~六人の魚仲士たちの歌が聞こえたものである。
秋の収穫後の稼ぎ仕事としてやることが多かった。
朝の九時に吹屋の町の問屋へ着く。
さらに新見には夕方の六時ごろには到着していたのである。

仲仕が運ぶ一荷の重さは、十貫から十二貫位で鮪が大なら4本、中なら6本と、ほぼ決まっていたようである。
この魚仲仕の仕事も大正末期までで姿を消した。
それは伯備線の開通で、運搬の役が終わったからである。

・・・

仲仕歌

一、
魚仲仕はどこがようてほれた
尻の振りよろしく足軽さよ ヨーホー ヨイヨー
二、
足も軽いが お尻も黒い 
お鍋のお尻が 顔負けだ ヨーホー ヨイヨー
三、
抱いて寝ようとすりゃ くるりとまわる
娘心が まだうせぬ ヨーホー ヨイヨー
四、
娘心は うせてはおるが
私しゃ お前のかかじゃない ヨーホー ヨイヨー

 

・・・

(西浜=ようすな=笠岡市金浦)

 

 

・・・

「真備町史」

トト道に関して

 

櫛田の繁栄
大正頃、松山街道は魚売りが肩に天秤棒をかついで玉島から高梁に向けて夜中にここを通過、何十人も通るにぎやかさ。
古人は肩の力と足の力とは今日の想像以上である。
もちろん玉島から櫛田に多くの魚も来た。
当時明治・大正にかけて飲み屋や旅館が軒を並べた。

・・・・


「成羽町史」

トト道


生活に必要な日用雑貨品は、玉島から高瀬舟で運ばれていた。
この川船往来とは別に、海魚が笠岡方面から吹屋へ運ばれた。
かつて古老に聞いた話であるが、足自慢の若者が、夜半に笠岡を出て、宇土谷を経て、保木の坂から成羽へ駆け抜けた。
成羽で引き継がれた魚は、羽山街道を上って吹屋へ運ばれたという。
山の中の吹屋での最高のご馳走は海の魚、いわゆる「トト」であった。
したがって、吹屋へのこの道を「トト道」といった。
繁栄を極めた吹屋銅山の往時が偲ばれる。

 

・・・

(吹屋)

・・・

 

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田植え唄

2023年03月09日 | 民謡

農業をしていた両親は、昭和44年に最後の田植えと稲刈りをした。

それ以降、農家でありながら米を作らなくなった。

 

手植えから、機械化へ相当悩んだ・・・のでなく、いくらか悩んだようだ。

機械化するほどには田んぼを所有していなかった。

米あまり、米の自由化が叫ばれていた。

で稲作を止めた。

その田んぼは、イチゴとイチジク畑に変わった。

 

・・・

 

小学校では「田植え休み」が3日間あった。

休みはうれしいが、そのぶん夏休みが少なかった。

田植えは、子どもにとってはんぶん祭りきぶんだった。

三軒共同で田植えをし、終わったら輪番で「しろみて」をしていた。

 

ヒールにかまれる(平均日に2~3匹)のが嫌いだった。みんな、そうだろうけど。

 

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

田植え唄

美星町

暑や苦しや手拭いほしや

さまの浴衣の袖ほしや

田植え時には子供がほしや

あぜに腰かけ乳のます

 

水踏み唄

倉敷市

伊勢に参る間にゃエンヤーレ

親さま拝め 親にナー越してのエンヤーレ神はない

大工さんと寝りゃ鉋を枕

左官さんと寝りゃ鏝ょ枕

・・・

 

「矢掛町史 民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

小田

田の草取り唄

あつやよえー 手拭いほしや

さまのな ゆかたのきれ ほしやよ

 

わたしゃ十五でよほ ええ田草がよ

初めよ あとになぎのこるかえ

なぎばかりよ

 

・・・

 

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

久米郡南部・御津郡北部の俚謡 石田農夫男

 

田草取りの歌

(土用の盛夏、男女が田草取りに唄った)

汗と泥とで よごれたからだ

亀のかっこで 田草取り

 

田草取る手を

一寸休ませて

腰をのしたり さすったり

・・・・・・・・・・・

 

 

 

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臼挽き唄

2023年03月09日 | 民謡

子供の頃、どこの家にも既に使用されなくなった石臼を、軒下や縁側や土間に保管していた。

小学生の時、母方の祖父母宅で、祖母が「そば粉」を作って、蕎麦を作って食べさせてくれた。

それが自分が見た、最後の臼挽きだった。

 

・・・・


「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

唐臼挽き唄

唐臼挽きは夜なべ仕事で、娘がいる家には村の若衆たちが手伝いにきた。

夜食には団子または大根飯が必ず出た。

各地

臼の軽さよ拍手のよさよ

愛てかわすな明日の夜も

わしとお前は臼ひき女

ひいて回せば子ができる

・・

粉挽き唄

石臼で屑米・麦・そば・豆など粉にしてよく食べた。

とくに団子がよく用いられた。

思い石臼をゴロリ、ゴロリと挽きながら、ゆっくりと歌うのである。

笠岡市

臼よ回え回えきりりとしゃんと

ここは道端ひとが聞く

・・・

米搗き唄

米搗きは、はね杵を踏んで精米をした。

一臼に一斗の米を入れて精米されるまでには約3.000回搗かねばならなかった。

主に、夜なべ仕事である。

米搗き唄・麦搗き唄・搗き臼唄と呼ばれる。

 

笠岡市

麦のおえんのは混ぜようのからよ

搗くにおろか(横着)があるものか

真鍋天神鼻 黒雲かかる

いわしひけとの黒雲が

・・・・

 

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

久米郡南部・御津郡北部の俚謡 石田農夫男

 

俚謡(りよう)は素朴な村人の間に、自然発生した生活の歌であり、

労働の歌でり、愛情の歌として、幕末から大正時代にかけて唄いつがれてきた。

 

籾摺り歌

(唐臼で収穫の籾を摺る時)

臼の軽さよ相手のよさよ

相手変わるな 明日の夜も

今年豊年 穂に穂が咲いて

道の小草に 金がなる

・・・

 

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庭歌

2023年03月09日 | 民謡

母の話 2005・2・5


みしろも今はいらんようになった。

稲や麦や除虫菊や。
干しつきょうた。


何回も干すとこを変ようた。
陽の照るトコと照らんトコと。

うちらでもかみざのくちはじきかげるけえ、ひどいときゃ日にさんべんぐれい向きを変ようた。

・・・


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

前庭
前庭はカドと呼んでいる。
カドには、籾など五穀を筵にひろげて干す。
筵干しとかカド干しという。
干しあがると、脱穀・調整作業をする。
カドは筵干しの場であり、
作業場・牛繋ぎ場・まき割り場・子供の遊び場である。
また、苗床・温床をつくることもあった。
昭和30年ごろから乾燥機で干すようになり、カドは庭園化して行く。

 

・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

麦打ち唄

(唐竿で叩いて実を落とす作業)

笠岡市

唐竿叩きゃすりゃお手に豆ょ七つヨー

夜は殿さに寝て話すアー

桜三月 あやめは五月

咲いて年とる梅の花

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

綿打ち唄

綿打ち弓の弦に実綿を当て、

槌で打って弦を振動させ、実綿をほぐして繰り綿にする。

 

倉敷市

辛い連島で綿打ちしょまにゃ

去(い)んで豊島(てしま)の石を割ろ

百日綿打ちゃ十三文

酒を一杯飲みゃてっぱらこ。

 

・・・・

 

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さなだ組みの唄

2023年03月07日 | 民謡

真田組みは、老女と子供の手仕事であったように思う。

家では祖母が真田を組んでいた。
母は一度も真田をしていない。←真田をする暇がなかった。
仲買人が大冝からと、吉浜から来ていた。
管理人が高校生になるころ、真田は無くなったような気がする。


・・・・


父の話・2000・6・17

裸麦の穂をそろようた。 先は先で取り、中は中でとりょうた。
上の細いとこと、真中辺を切る。
麦は硫黄でうむして白うして、乾燥させて、真田にしょうた。
真中は潰して真田、先のエエ部分はごぶしをなようた。

子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。
学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。
時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。

今はだれもしょうらん。
麦を植える人もおらんし、乾燥炉もねぃ。

・・・

(父の話)

よう乾燥しょうたところは(稲刈りがおわった後で、株を)はねうがして、麦を植ようた。

真田麦は裸麦を硫黄で蒸して、摘んで、さらして白ぉして、それで真田を組みょうた。

2003・5・18

・・・

 

(笠岡市立城見小学校の”真田講堂”)

小学生が組んだ真田のお金で講堂が建った。

 

・・・・


「鴨方町史」  鴨方町 昭和60年発行

副業

鴨方地方には、農閑期を利用した副業が多い。
六条院を中心にして全町に広がった麦稈真田、
小坂東を中心とした素麺、
深田を中心とした箒、
日原を中心とした天秤棒、
谷井を中心とした瓦焼き、などがあった。

麦稈真田
麦稈真田は、イギリス・アメリカなど外国へ多く輸出されていた。
市場の動向に左右された。
明治41年から大正元年にかけて、飛躍的に増加した。
この当時、瀬戸内海の島々や県北から「組子」を募集する、大規模な家もみられた。

経木を原料とする経木真田、バンコク帽体へと輸出の中心の座を譲っていった。
それに伴い、
生産も老人の小遣い稼ぎとなり、現在では麦稈真田の生産は、ほとんど行なわれていない。

 

・・・

 

「矢掛町史民俗編」  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

麦稈真田
昭和40年代になると、矢掛町内で真田組みをする人はみられなってしまった。
備中南部、ことに小田郡から浅口郡地域一帯は埼玉県春日部地方と並び
日本の麦稈真田に二大産地として有名であった。
明治20年代から農家の副業として婦女子を主体に、子どもに至るまで家内中の仕事となっていた。

麦稈は麦穂をとったあとの茎である。
麦の生産価格より収入価値が大きいので、茎の成長が素直な品種を選んで作付けした。

生産された麦稈真田は仲買人(トンビともいう)が自転車や歩いて農家を回って集め、
また、仲買の人は技術指導にもあたった。
鴨方町や寄島町の問屋・貿易商社へ出していた。

 

・・・・

 

「神島史誌」  広沢澄郎編 神島協議会 昭和60年発行 

 

真田組みは、周囲を海に囲まれた島の人たちにとって、

当時の唯一の現金収入であったようだ。

 

真田組み唄

〇夏は木の下 霜夜は炬燵 離れともない主のそば

〇死ぬりゃ夏死ぬ 子のない人は アブがお経読む 蠅が手をこする

高い森木の蝉が鳴く

〇真田組んでも 養いまする 主さケンとりゃ うちが組む

〇一夜咲いても 花は花 一夜そうても 妻は妻

たとえ草履の鼻緒でも 切れてきもちのよいものか

 

・・・・・

 

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

〇さなだくみの歌
さなだくみすりゃ長者のくらし
夏は木の下 冬やこたつ
〇さんだくんでもみょうと口やくえぬ
主がけんつみゃ うつがくむ
〇さなだくんでも夫婦は食える
ぬしがけんとりゃうちがくむ
〇さなだくむとて馬鹿にしてくれるな
さんだ異国の金をとる

 

・・・


「広島県の民謡」

真田編み歌

今から七、八十年前は手内職に類した仕事がいろいろとあった。
大崎下島の久比では麦藁をさねくり器にかけて柔らかくし、それで麦干真田の帽子を作る仕事が盛んであった。
若い娘の多くがその内職に通っていた。

 

豊田郡豊町


一と二と三と四と五がわかりゃ
おさみ先生に習やせぬ

わしが神戸の楠公さんならば
ペケの真田も売りさばく

 

・・・

 

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山唄・柴刈り唄

2023年03月06日 | 民謡

桃太郎さんのお話で有名な、
”おじいさんは山へ柴刈りに・・・”

子どもの頃は、よく山へ行った。
松葉集め・やくべ木集め・柴刈り、その三つの記憶が混在して区別できない。
薪にしたのか肥料にしたのか牛のエサだったのかも、遠い昔となってよくわからない。

 

 

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

山唄・柴刈り唄

 

秋の彼岸になると柴刈りが始まる。

柴は牛の厩に入れられて敷き草にされ、それが厩肥になる。

また

堆肥にされたり、

そのまま切って田に入れて肥料になる。

金肥は魚肥か菜種粕ぐらいでわずかなものであり、

肥料の中心は柴(堆肥・厩肥)と人糞尿・灰であった。

 

反当り200肥は入れた方がよいとされ、五反百姓では少なくとも、

延べ20日間の柴刈りをしなければならない。

柴刈りは朝から晩までの仕事なので弁当持ちで行き、

鎌はすぐに切れなくなるので、その場で腰につり下げた砥石でとぐ。

水は無いので唾が水の代用をする。

芳井町

ヤーレー

鳥も通わぬヨー 山里なればヨー

住めば都じゃヨー のや殿ごヨー

ソリャヨイヨイ

歌え歌えとヨー せきたてられてヨー

歌は出はせぬヨー 汗が出るヨー

 

・・・


「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行


柴刈り歌


〇どうせなるなら 一夜も早く
心がわりのないうちに
〇娘島田にちょうちょがとまる 
とまりそうなものよ 花じゃもの

平川地方では早朝山に柴刈りに出かけ、
朝食の頃帰宅する。
終戦後暫くは続いていた。
旧暦六月朔日から八朔までが柴刈り時期である。
日中でも出向いていた。


・・・


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

肥料
かつては、柴草も大切な肥料で、
早朝の露のある間に刈り取り、束ねてかついで帰ったり、カゴやネコ車で運んで帰った。
これらの柴草は牛に食べさせたり、
ウシヤに入れてアラゴエに踏ませ、
あるいはオシギリで切って直接田畑に振り込むこともあった。

・・・・

 

「矢掛町史民俗編」  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

ヒタキシバ(シバクサともいう)


ヒタキシバは、単にヒタキとかシバという。
辻山や持山、アゼなどで刈った草で、
アラゴエとともにたいせつな肥料となり、
草刈り後のハエゴエ(フリゴエ)などに使った。
辻山の草刈についての細かいきまりは少ない。
一般に、田草上がりから秋の彼岸か稲刈り前ごろまで刈に行く。
トギレオーコで四把から六把ぐらい担いで帰るのが普通である。

 

・・・・

 

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白石踊り

2023年03月01日 | 民謡

「白石踊り」は笠岡市を代表する文化財であり、最大の観光資源でもあったが、
残念ながら行政が長期間、全くの無力だった。
過疎化や少子化で、踊りが絶えることを危惧してやっと行政も(守ることに)腰をあげた。
高校生や有志の市民が積極的に参加している。

そもそも「白石踊り」は、阿波の徳島の「阿波踊り」に負けない魅せる力があると、いつも思っている。
昨年はユネスコの文化遺産委に登録された。

 

・・・

 

リーフレット「おいでよ白石島」

 

白石踊

源平水島合戦で戦死した人々の霊を慰めるために始まったと伝えられる白石踊。
8月14日から16日にかけて月明かりの下、深夜まで踊ります。
一つの音頭と大太鼓の音に合わせて、
男踊・女踊・娘踊・奴踊など十数種類の異なる踊りを同時に踊ります。
一つの輪の中で混然一体となって雄壮活発・豪華絢爛に踊られる姿は、
優雅で美しくまさに幻想の世界です。

国指定重要無形民俗文化財

・・・

 

 

 


・・・・


「岡山の歌謡」 英玲二  岡山文庫  昭和45年発行

白石踊り


旧暦の7月13日から16日までは普通の盆踊り、
17日が観音踊り、
21日が大師踊り、
24日が地蔵踊り、
30日が八朔踊りといって、一夜踊りが明かされるのである。
踊りの種類は
男踊り、
女踊り、
二つ拍子、
笠踊り、
奴踊り、
扇踊り、
坊さん踊り、
など多種多様で、これが10組からに分かれ、
100人、200人の男女からなる踊り子によって宵の口から夜の白むまで、
あるいは昼過ぎまでも引き続いて踊り狂ったものであるという。

くどきには
賽の川原、
石童丸(上下)、
七回忌、
坊主落とし、
和唐内、
奈須の与市、
山田の露、
梅づくし(梶原の箙の梅)、
お半長兵衛、
戎屋の爪六、
揚巻助六、
お梅伝次、
丹波与作、
お夏清十郎、
おさん茂兵衛がある。

この踊りは特色ある郷土芸術として岡山県指定の無形文化財になっている。
岡山県民の大きな誇りであるが、歌詞の中に少しも郷土的においがないのは残念だと思う。

 

・・・・

 

白石踊 
那須与一

 

その名触れたる下野国
那須与一が誉れの次第
形(なり)は小兵に御座候へど
積もるその歳十九歳なり
矢をば一手に名を万天に
のぼせ給いしところは何処
四国讃岐の屋島の磯で
源氏平家の御戦いに
平家方より沖なる船に
的に扇を立てたる時に
九郎判官この由御覧
那須与一を御前に召され
与一御前にに相詰めければ
時に判官宣(のたま)うようは
沖に立てたるあの扇をば
矢頃遠くと射落として
敵や味方に見物させよ

 

・・・

(白石港 2023.2.25  笠岡市白石島)

 

 

 

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糸引き唄

2023年03月01日 | 民謡

綿花を近年よく見る。
趣味で家庭菜園で栽培し、白い綿を観賞したり、それを手芸に使ったり、
そして糸車で糸を紡いだりしている。

明治頃までの農家は、
畑で綿花を栽培する。収穫する。
糸を紡ぐ。
機織りで布にする。
着物に編む。
紺屋に出す以外は、そのすべてを自作していた。

 

・・・・

「岡山県史 民俗1」 岡山県 昭和58年発行

糸引き車で(糸車)で撚りをかけながら糸に引いた。
右手で車を回し、左手でシノから糸を引きだし撚りをかけて糸にした。
夜なべでアンドンの下で毎夜糸引きをしたものという。
手引きは普通は太くて不揃いだった。
織るとゴツゴツした厚地の手織り木綿になった。
糸引きは根気のいる仕事で夜なべは眠いから娘たちは糸車とシノを持ち
娘宿に集まって糸紡ぎ唄を歌って糸引きをした。

 

 

・・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

製糸唄

機織りは昭和初期までは、どの家でもやっていた。

糸車を使って綿の繊維から糸を引きだして、よりを掛けて糸を作った。

若い娘たちは一カ所に集まっていっしょに糸取りをした。

その方が楽しいし、能率があがり、技能も上達した。

 

勝央町

七つ八から糸取り習うて

今じゃ糸屋の嫁となる

くるりくるりと回れや座繰り

早くたまれよ枠の糸

 

・・・

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

久米郡南部・御津郡北部の俚謡 石田農夫男

 

俚謡(りよう)は素朴な村人の間に、自然発生した生活の歌であり、

労働の歌でり、愛情の歌として、幕末から大正時代にかけて唄いつがれてきた。

 

糸紡ぎ歌

(春秋の農繁期を除いて、毎夜婦人は糸車をブンブンと廻しつづけて糸を紡ぎ、布を織っていた)

好きな殿御が 門に来て立てりゃ

糸も車も 手につかぬ

わしが鳥なりゃ あの家の屋根に

焦れ鳴き声 聞かせたや

・・・・

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行


糸引き歌

綿から木綿糸をつむぐ時の歌である。

昔は山村・農村・漁村では、布は自分の家で織ったものであるから、
その布の材料である糸も、やはり自宅で綿からつむいだものである。
細長く伸ばした綿を左手に持ち、
右で糸車を廻して、
綿を糸に撚りつつツムに巻きとる。
この糸引きの仕事は、すべて女性が受け持った。
姑も嫁も小姑も、糸車をびゅーんびゅーんと廻しながら糸を作った。

豊田郡・賀茂郡・山県郡・安芸郡

これのお背戸にゃ いつ来てみても
車三挺の 音がする

車三挺の 音がせでなろか
嫁に 姑に 小姑よ

 

・・・

 

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機織り唄

2023年02月28日 | 民謡

「明治30年代の生まれなら機織りの経験者」なら、祖母は機織りをしていたことになる。

父が「家に保管していた」と話していたが、その道具は祖母や曾祖母が使っていたものだろう。

 

・・・

機織り

「岡山県史 民俗1」 岡山県 昭和58年発行

 

大正頃までは、機織りは女の仕事であった。
各戸に機があって、女たちは晴着から普段着・仕事着はもちろん、
布団・蚊帳に前掛け・手拭いに至るまで、
一切の衣料を織り出したものである。
明治30年代までに生まれた女の人は、ほとんど機織りの経験者である。
秋の収穫がすむと、春の彼岸まで、寒い時期は明けても暮れても、
糸引きと機織りだった。

高機で、一日一反織るのは難しい。
どんな縞にするかで、どの糸が、いくらくらいいるか決まった。
その計算を縞算用といい、難しいものだった。

ええ綿と悪い綿により分けた。
ええのは糸にひき、
悪いのは布団綿にした。

 

・・・・

 


「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行
明治の初めまでに全県下地機から高機になった。
ついで南部の一部にはシャクリを高機にとりつけシャクリバタとした。
明治30年~40年に生まれた女の人は殆どハタ織の経験者である。

 

ハタオリ  福尾美夜

昔、綿を畑に植え、糸車でひいて糸にしてハタにあげて織っていた。
女は家中の布の製作者であった。
新しい着物には想像もつかない位の手間がかかり、
できた喜びも大きかった。
新しい着物の袖に手を通せるのは一生のうち、数える位しかなかったのである。
布の縞や絣は主婦の腕の見せどころでもあった。

綿は植えられなくなり、糸を購入して織ることになった。
何と労力の節約だったであろうか。
ついで晴着は購入することになり、ごつごつした手織りは普段着、仕事着になり、
不細工で低価値とみなされた。
今ではハタオリを知る人すら少ない。
地域により家により違うが、明治20年頃までは殆どの家にハタがあり、だいたいどこも織っていた。
高機(たかばた)といって腰をかけて織るハタになり三日で一反くらいはかかったという。
シャクリバタで紐をひけば自動的に杼(ひ・さい)が動いて一日一反織れた。


・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

業歌(わざうた)

機織り唄

昔は、どの家でも機織りをしたもので、機の織れない娘は嫁のもらい手がなかった。

嫁入りゴを自分で糸を取り、自分で織り、仕立ててきたと話してくれたお婆さんにも何人か会った。

女の子は七歳ごろから糸引きを習い、十二、三歳で機にあがった。

地機から高織に改良されたのは明治中期ごろで、たいそう機織りが楽になったという。

一人前は一反を二日というのが相場で、一日一反織れが大変な手立ちであった。

 

哲西町

うちの娘は機織り上手

神か仏か天神様か

そばにゃ飾りもしめてある

上にゃ鳥居も立ててある

織れや織れ織れ機織娘

負けてくれるな兄嫁様に

チャランタン チャランタン

 

美作町

今日の一反チャンコロリ

昨日も一反チャンコロリ

向こうの紺屋へなげやって

紺屋さ紺屋さ染めてくれよ

 

染めてあげよう何色に

浅黄に駒形 紅鹿子紅鹿子

 

・・・

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

製糸唄

機織りは昭和初期までは、どの家でもやっていた。

糸車を使って綿の繊維から糸を引きだして、よりを掛けて糸を作った。

若い娘たちは一カ所に集まっていっしょに糸取りをした。

その方が楽しいし、能率があがり、技能も上達した。

 

勝央町

七つ八から糸取り習うて

今じゃ糸屋の嫁となる

くるりくるりと回れや座繰り

早くたまれよ枠の糸

 

・・・・

「神島史誌」  神島協議会 昭和60年発行


ハタ織り
明治の初めごろまでのハタは地機、
次に改良されて高機となったが、
綿糸の輸入とともに国内の綿作がすたれ、
ハタオリも次第にすたれ、
戦後なくなった。

・・・

 

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そうめん掛け場唄

2023年02月28日 | 民謡

素麺の三大産地は「播州」「奈良」「小豆島」だが、

近辺では小坂(鴨方)尾坂(笠岡)矢掛の三カ所が三大産地といわれている。

管理人は自称・素麺道1級だが、食べるのは、いつも地元の素麺と決まっている。

 

 

・・・


「鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

素麺

製粉
この地方では小麦粉を製造するために水車が利用された。
最盛期の明治末ごろには、
杉谷川沿いに60カ所あまりが階段状に並び、
コットン、コットンと音をたてて稼働していた。
近隣からも製粉にしてもらう人々が、小麦を持って来ていた。
大正2年電気を動力とする自家製粉へ変化した。
昭和38年以降は、自家製粉の小麦粉から、大手製粉会社の小麦粉を使用し現在に至っている。


素麺作り

素麺作りは、12月から3月まで行われる。
以前は、4月1日からは杉谷川の用水を農業用水として利用するため、
この期日は厳しく守られていた。
素麺作りをする人の朝は早い。
朝の5時ごろから始まる。
なかたて・こね・いたび・ほそめ・こなし・こびき・門干し・小割り・結束と、
作業は連続して行われる。
素麺は天候に左右されやすく、
雨が降りそうになれば門干している素麺を納屋に入れ、
なかだては天気を考えながら食塩水を調合するなど、
気苦労の絶えない仕事である。

 

・・・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

そうめん掛け場唄

小麦ができ、粉をひく水車が利用できたこと、冬場に晴天の日が多い—

こういう好条件が矢掛町・鴨方町・笠岡市を中心とした地域に、

手延べそうめん作りを発達させた。

昭和15、16年ごろは最盛期で150軒もあった。

 

鴨方町

何の因果で そうめん職習うた

せめて朝まで寝る職に

掛けても掛けても 柴灯の量(かさ)減らぬ

誰が持て来て入れるのか

誰も持て来て入れるじゃないが

お手がにぶけりゃ減りません

 

矢掛町

アー歌い出したぞ

アーそうめん屋のちょんが

朝の寝声で細々と

アーそうめんなさらにゃ

アーほかに職はないか

せめて朝まで寝る職に

 

・・・・

 

撮影日・2013.4.16 (浅口市鴨方町)

 

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