しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

親鸞

2021年06月11日 | 銅像の人
場所・京都府京都市東山区五条橋東 大谷本廟

あの時代の90歳は、今でいえば110歳くらいだろうか?
すべてにおいて、常人とはスケールがまるっきり違っている。






親鸞

鎌倉時代の初期から中期には、六つの宗教が、それぞれ三つの救いをひっさげて宗教活動をおこす。
つまり、
念仏(なむあみだぶつ)と、禅と、題目(なんみょうほうれんげっきょう)の三つの救いを説く。

念仏によって幸福になれるのだという立場が、法然・親鸞・一遍。
禅は栄西、道元。
題目による救いは日蓮がとく。
この6人の教祖の流れから浄土宗、真宗、自宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が形成される。

叡山というのは鎌倉仏教の母体になっています。
親鸞は叡山で一介の役僧を20年間いやというほど体験する。

関東でも20年、農民の中で生活している。
越後で7年。
越後で結婚する。

最期まで責任を持つ、納得のいくまで問いただしてゆく、
これを親鸞は90年の生涯の間、貫きとおした。


「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行








撮影日・2008年11月20日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カレーの市民

2021年06月11日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市 倉敷美観地区「大原美術館」
ブロンズ
作者 ロダン
像高 200cm







ロダンの名作『カレーの市民』、
6人のうちのジャン・デール。
英仏100年戦争のフランス、カレー市の義民。


大原美術館の入り口右側に建っている。
このロダンの像があることに寄って、大原美術館へ入館する際のモードが一層あがる。












撮影日・2019年11月22日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳川家康 (駿府城)

2021年06月11日 | 銅像の人
場所・静岡県静岡市 駿府城跡


「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
 不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。
 堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。
 勝つことばかりを知りて負くることを知らざる害その身に至る。
 おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるにまされり」


東照宮御遺訓





「近世の日本」 高尾一彦 講談社現代新書 昭和51年発行

徳川家康

関ケ原の戦い

秀吉は朝鮮侵略の最中に死んだ。
誇大な妄想におちいった専制君主が死ねば、
朝鮮侵略が妄想の産物であることはだれの目にもあきらかだったから、
いそぎ撤兵することになった。
日本の政治的課題は、秀吉のなきあとの天下統一を、だれがつぐかであった。

この時点で政局を担当していたのは、秀吉の長老の大名たる五大老である。
つなわち、徳川・前田・宇喜多・上杉・毛利の5人である。
この中では家康の実力が抜群である。
家康の政敵は他の五大老になるが、前田利家はその年に死んだ。

慶長五年(1600)関ケ原合戦は東軍の勝利に終わった。

家康はもう誰にも遠慮がいらなかった。
彼が秀吉よりさらに強大な集権的政治体制をとりえたのは、関ケ原合戦のおかげである。
西軍についた大名は90家もあった。
没収領地やけずった領地を、徳川一門や譜代の大名へとりたて、東軍へ参加して功労のあった諸大名への加封した。
その際、秀吉いらいの石高制により諸大名の国替えができた。
重要なところへ徳川家一門や譜代大名を配置した。








「家康 最後の勝利者」 土橋治重 成美堂  昭和57年発行

秀吉、死す

家康は豊臣政権五大老の筆頭であり、秀吉幕下の大名の中では最高に威勢があった。
慶長3年(1598)、秀吉が63歳で死ぬ。
翌年、前田利家が死ぬ。
家康の一人舞台の観を呈した。
慶長5年(1600)関ケ原の戦い。
慶長8年(1603)従一位、征夷大将軍。
元和2年(1616)太政大臣、75歳の波乱万丈の一生を閉じた。いまなら90歳を越したことになるのであろう。








撮影日・2014年10月8日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳川家康 (浜松城)

2021年06月11日 | 銅像の人
場所・静岡県浜松市  浜松城跡

”出世城”として知られる浜松城。
家康はこの地を引馬から浜松と改め、この城を拠点にして五か国の大大名となった。




「家康 最後の勝利者」 土橋治重 成美堂  昭和57年発行


信康自刃

「武田勝頼は勢力が落ちたといっても、四か国を領有するわれらの大敵。
信長公とは一戦を交えるどころか、その後ろ盾がなくては、徳川は家をたてていくことさえできぬ」
信康は21歳、築山殿は37歳で死んだ。
 

五か国の大名になる

本能寺の変の後、甲斐と中、南信濃を手に入れることができた。
五か国のその石高は140万石にのぼった。


小牧長久手

秀吉は光秀を滅ぼした後、
柴田勝家を敗死させ、
丹羽長秀を逼塞させた。
さらに滝川一益を降伏させた。

二男の信雄が家康に泣きついた来た。
合戦は池田恒興父子、森長可が戦死した。
対陣が長くなり、両軍は引いた。

後に頼山陽が「日本外史」に、
家康の天下を獲りたるは大坂の役にあり。否、関ケ原の役にあり。否、小牧の役にあり」と述べている。








徳川家康


「教養人の日本史2」  脇田修 現代教養文庫  昭和42年発行


信長の死後、信長領国の混乱のなかで、家康は甲・信両国を手に入れ、領土は5ヶ国に拡大していた。
家康は信長の子信雄をたすけて小牧長久手にたたかった。
長久手で秀吉の一部隊を破り、合戦上手の面目を示している。
この敗戦は、長く秀吉の負担になった。
結局、
姐をむりやり結家からつれもどして家康の正室とし、
さらには母大政所を人質としてつかわすことにより、やっと家康の入京をえ、臣属させたことは、よくしられている。

1590(天正18)年家康は、小田原の役の先鋒として出陣し、北条氏滅亡ののち、その領国を得て、関東六ヵ国の主となった。

秀吉が死ぬと、天下は再び動乱のきざしをみせた。
世襲して秀頼が跡をつぐほど豊臣政権は安定もしていなかった。
家康は五大老の筆頭であった。
直轄領250万石、家臣団は朝鮮にも出兵せず、無傷のまま温存されている。
翌年、前田利家が死ぬとともに、家康は勝手に政務を行った。

   



撮影日・2014年10月9日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする