しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

音戸の舟唄

2023年01月31日 | 民謡

 

笠岡市にも渡船があったが、昭和40年前後すべて無くなった。
生江浜⇔金崎
片島⇔神島
横島⇔神島
高島⇔神島
小飛島⇔大飛島

 

 

呉の音戸渡船も、
呉市HP、に
令和3年10月31日をもって廃止となりました。

 


ヤーレー 船頭可愛や
音戸の瀬戸でヨー
一丈五尺の ヤーレノー 
艪がしわるヨー


ヤーレー船頭可愛いと
沖行く船にヨー
瀬戸の女郎衆が ヤーレノー 
袖濡らすヨー

ヤーレー泣いてくれるな
出船の時にゃヨー
沖で艪櫂(ろかい)の ヤーレノー 
手が渋るヨー

ヤーレー浮いた鴎の 
夫婦の仲をヨー
情け知らずの ヤーレノー 
伝馬船ヨー

ヤーレー安芸の宮島
廻れば七里ヨー
浦は七浦 ヤーレノー 
七恵比寿ヨー

ヤーレーここは音戸の瀬戸
清盛塚のヨー
岩に渦潮 ヤーレノー 
ドンとぶち当たるヨー

 

 

 

・・・・

たいへんな労作である、
「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行
に”音戸の舟歌”が記載されていない。
なぜだろう?

・・・

 

撮影日・2021.4.26 呉市 (渡船廃止の6ヶ月前)

 

 

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呉音頭

2023年01月31日 | 民謡

 

就職し、最初の赴任地が呉だった。
会社の業績がうなぎ上り(当時は、ほぼすべての会社がそう)だったこともあり、
週に何度も飲み屋に行った、仕事の名目で、すべて会社持ち。

その時に”呉音頭”を覚えた。
何度も聴いていたので三味線の音色と唄は、今でもよく覚えている。

 

(軍港)

 

(住んでいた宮原通8丁目の寮に行くと、寮は無く公園になっていた)

 

・・・

【呉市HP】

「呉音頭」
  詞:島川光栄氏
  作曲:杵屋七峰氏

呉が見たさに 逢いたさに
ちょいと音戸の 瀬戸あけて
千艘(ぞ)万艘と 呉はよいとこ
千艘(ぞ)万艘と 船が来る
ハ ヨイ ヨイ ヨイヤサノ ヨーイヤナー

 

(両城町200階段)


投げた碇(いかり)が 重とうて
一夜二夜じゃ 揚がりゃせぬ
せめて麗女(うるめ)と 呉はよいとこ
せめて麗女(うるめ)と 七夜まで(略)
花の中から 歌がする
春は桜の 平原へ
月も浮かれて 呉はよいとこ
月も浮かれて 出てのぞく(略)
煙の宮原 朝夕に
産業景気の 汽笛(ふえ)がなる
工場(こうば)通いは 呉はよいとこ
工場通いは 仇にやせぬ(略)
港出て行く あの船へ
休山から 声かけて
持たせやりたや 呉はよいとこ
持たせやりたや 呉だより(略)
招くネオンの 花道を
君と中ブラ 仲のよい
肩を柳が 呉はよいとこ
肩を柳が 又まねく(略)
秋は色づく 野呂の山
去年見染めて 今年また
逢うてうれしい 呉はよいとこ
逢うてうれしい 呉の人(略)
港繁昌の 波の上
かもめどりさえ 晴ればれと
呉を祝うて 呉はよいとこ
呉を祝うて ひとおどり(略)

 

(堺川と灰ヶ峰)


・・・

 

撮影日・2012..2.10

 

 

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笠岡港ぶし

2023年01月30日 | 民謡

 

”笠岡港ぶし”は民謡ではないが、郷土歌謡なので載せる。

しかも”野口雨情”大先生の作品なので載さないわけにはいかない。

もっとも、曲の方は聴いたこともない。

下記の「岡山の歌謡」という本で、初めて知った。

 

・・・

 

笠岡港ぶし

野口雨情 作詞
あいに来るときゃ 笠岡は港
聞かれりゃ 魚釣り舟遊びと
いうておいでよ
わたしゃ待つ身でままならぬ

「岡山の歌謡」

 英玲二  岡山文庫  昭和45年発行

・・・

 

 

 

撮影日・2022.11.20

 

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はねおどり歌

2023年01月30日 | 民謡

 

民謡よりも、踊りが有名な「はねおどり」
広島県無形文化財。

踊は素朴でありながら、豪快な感じもする。
元は、「虫送り」と「雨乞い」だそうだ。↓

 

・・・


【福山市HP】はねおどり

この踊りは古くから旧沼隈郡一円と旧深安郡南部及び駅家町万能倉で踊られたもので,
その原形は農村行事の「虫送り」「雨乞い」に求めることができる。
江戸時代,水野勝成が福山城主となり,この踊りがすこぶる勇壮で活気に満ち,士気を鼓舞するとしてこれを奨励し,
各村々に鉦鼓を給付,雨乞い,虫送り,祭りなどの諸行事で行なわせたと伝えられ,このころから盛んになった。

 


はねおどり歌

沼隈郡沼隈町

『はねおどり』は沼隈郡沼隈町に残る県指定の無形文化財である。
白地の浴衣に白い鉢巻き、黒の手甲と黒い脚絆、
わらじを穿いた若い衆が、
大胴という大太鼓をからだの前面に吊るし、
それを打ってはねたりおどったりする。
恐らく豊年を感謝し、神社に奉納する農民の「豊年おどり」が主で、
これに「念仏おどり」が加味されたものであろう。

 


めでたい世のはじめには
地から湧いて出て
空から降る
こちの世盛りに
七から立てて
かけもすまいぞかかりもすまい
まま子まま嫁
なじょ憎かろに
いとし殿御の子じゃないか

 

 

 

 

この『はねおどり』は沼隈郡沼隈町山南のほか福山市田尻に残っている。

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

 

撮影日・2016年5月15日   

 

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笠神社の祭り唄

2023年01月29日 | 民謡

 

 

笠岡の笠神社の祭り唄。

お御輿をロープでぐるぐる巻きしているのが珍しい。

 

 

・・・・


「新笠岡天満宮記」 かさおか町の昔を知る会 笠岡地区まちづくり協議会 平成29年発行
(歌詞は膨大なため、抜粋した)

 


見たかナ 聞いたか 吉津のとんどハ 上はナ 鶴亀 五葉の松

見たかななぁ 聞いたか 笠岡神輿はよ 中はなぁ槍で 外は麻

古城のナ 山から 町の灯 見ればヨ 祭りナ祭で 夜が更ける

一人米つく あの水車 誰を待つやら くるくると

俺とお前は 卵の仲よ 俺が白身で きみを抱く

俺とナ お前とは 羽織の紐ダヨ 固くナ 結んで胸に抱く

下の松茸 何見て伸びる 上のあけびを 見て伸びる

嫁になあ するなら 笠岡娘よ ありゃ 色わなあ 黒いが これさえ おめじょうず

歌はひばりか 遍路の鈴かよ かすみ たなびく こうのしま

三十路女と お寺の鐘は 突けば突くほど 味が出る

出船入船 数ある中に 私待つ船 ただ一つ

色気ナづいたかうどん屋の娘はヨ 入れてナ 温めて 汁を出す

成りたなナなりたや 風呂屋の椅子にヨ おそそナ舐めたり眺めたり

二階な貸します お望みならば 下もナ 貸します 後家じゃもの

入れておくれよ 痒くてならぬ 私一人が蚊帳の外

西のなぁ 浜から本町抜けてよ 今日はなぁ若衆の 御輿唄

 

 


・・・・

撮影日・2022.10.9

 

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中庄の「倉敷高校」

2023年01月28日 | 昭和41年~50年

笠岡で「かさこう」と言えば、「笠岡高校」と「笠岡工業高校」の二つある。
話の内容で”笠高”と、”笠工”とを聞き分ける。
慎重な人は”千鳥”と、”工業”と言葉を使い分ける。

 

岡山県で「くらこう」と言えば、倉工だったが、今は「倉敷工業」「倉敷高校」が並ぶ。
以前は「岡山日大」高校だったので、まぎらわしくなかったんだけど。
ちなみに倉敷の娘婿は倉敷高校を「くらしき」と呼んでいる。これはこれで意味する幅が広くて、聞く方も一寸悩む。

 

 

・・・・

ベビーブーマーとか団塊の世代と呼ばれる世代が、高校に入学する頃、
日本全国に高校や高専が新設されていった。

・・・・

 

「岡山県教育史(昭和31年~50年)」岡山県教育委員会  創文社 平成三年発行

 

昭和38年をピークとする高校生急増と昭和41年からの急減の時期においては、

公私立及び私立相互間における募集定員調整の問題は私学関係者の最大関心事であった。

 

高校志願者急増に対し、文部省は昭和36年に高校生急増対策の全体計画を発表し、

昭和40年度において、昭和34年度より約112万増になると見込み、

公立で67万人、私立で43万人の増加となるとし、

私立では約120校に相当する学校の新設、課程増などによる9万人、

臨時学級増により18万人、一学級の定員増により16万人の増を図るものとした。

 

昭和36年2月、岡山県高等学校生徒定員協議会が設置され、

「公立高校への進学者数を70%、私学への進学者集をおよそ30%とする」、

とした建議書が提出された。

公私立分担の努力により、

急増期において進学率を上昇させながら乗り切ることができた。

 

・・・

 

新設、移転、校名変更

 

昭和30年当時の私立高等学校は、

関西高校、

吉備高校、

山陽女子高校、

就実高校、

真備高校、

清心女子高校、

城北女子高校、

片山女子高校、

美作高校、

作陽女子高校、

津山基督教図書館高校、

淳和女子高校、

山陽高校、

金光学園の16校であった。

 

昭和35年から新設校が次々に誕生した。

 

昭和35年1月、西大寺市に西大寺女子高等学校が認可された。

同じく昭和35年1月福井学園により御津町に中国商業高等学校が設立された。

同校は昭和37年岡山市に移転し、岡山女子商業高校と改称、昭和40年に岡山日本大学高等学校と改称、普通科、商業化を設け、昭和41年倉敷市鳥羽に移転した。

現在の倉敷高校の前身である。

 

昭和37年には加計学園により岡山電機工業高等学校が設立された。

(昭和39年岡山理科大学附属高等学校と改称)

 

昭和44年には新見高等技芸学校に通信制の高校として新見女子高等学校が併設され、

昭和47年から定時制(昼間)となり、昭和50年には全日制に移行した。

 

昭和45年には川崎医科大学の開学と共に附属高等学校が設立された。

昭和51年には兵庫県姫路市の学校法人三木学園が中高一貫の英才教育を目指して赤磐郡熊山町に岡山白陵高等学校・中学校を設立した。

 

この間、

岡山市にあった片山女子高等学校は昭和32年本拠を倉敷市に移し、昭和48年には倉敷松翠高校と改称した。

 

城北女子高等学校は昭和37年岡山女子高等学校と改称し、

作陽女子高等学校は昭和38年に男女共学制とし作陽高等学校と改称し、

清心女子高等学校は昭和39年倉敷市の現校地に移転した。

 

・・・

 

 

 

画像・2022.11.6 「高校駅伝・岡山県大会」 笠岡市走出  12月の全国大会も優勝した。

 

 

 

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岡山県西大寺市の「西大寺女子高校」

2023年01月28日 | 昭和41年~50年

かつて、同僚に西大寺女子高出身の人がいた。

その人は、聞きも問いもしないのに「うちは西大寺女子高をでとる・・」と何度も言っていたので、今もその言葉と人を忘れない。

当時、西大寺市の女子中学生の進学の大半は西大寺高校か、西大寺女子高のどちらか二つに一つのようだった。

 

それから数十年経ち、西大寺市はとうに岡山市西大寺になり、

「西大寺女子高」もまた新聞等で見ることがなくなった。

あの”西大寺女子高”は今、どうなっているのだろう。

 

・・・・・

 

「岡山県教育史(昭和31年~50年)」岡山県教育委員会  創文社 平成三年発行

新設、移転、校名変更

 

昭和35年から新設校が次々に誕生した。

昭和35年1月、西大寺市に西大寺女子高等学校が認可された。

市長・市議長も発起人の学校法人金山学園が普通化女子高校として開校した。

昭和38年定時制課程を併設し、昭和41年校名を金山学園高等学校と改称し、

英語科と衛生看護科を増設し、普通科と英語科を男女共学とした。

・・・・

その後、

平成6年(1994年)に、校名を「岡山学芸館高等学校」に変更。

 

(2023.1.9 毎日新聞WEBより)

 

サッカー部は2023年1月に全国優勝。

野球部は甲子園に出場一回。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

学校は英語教育と、進学に力を入れている。

西大寺にある、ひとつの高校でなく、全国的な勢いの高校になってきている。

 

(2014.9.19 JR赤穂線西大寺駅ホーム 背後の山が金山)

 

 

 

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高瀬舟歌(吉井川)

2023年01月27日 | 民謡

 

吉井川の高瀬舟は、河川舟運の開発者として有名な”角倉了以”のモデルにもなった。

現在でも、その流れを見ていると理想的な舟運の河川であるように感じる。

 

(柵原ふれあい鉱山公園)

 


高瀬舟(たかせぶね)

説明板

柵原のある美作の国は山国でしたが、
吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、
経済活動が盛んでした。
江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、
高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。
高瀬舟は年貢米をはじめ、
木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、
帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。
この高瀬舟は、1992年に再現したものです。

 

・・・

高瀬舟

「加茂町史」

古代以来明治にはいるまでの陸上交通手段は、人畜力のみであったから、
人肩馬背により四方を囲む山々の峠道を越えて行われた。
なかでも年貢米の輸送は、津山あるいは樽河岸へと陸送されるのが常であり、
その納入期には人々の長蛇の列が各輸送路に続いた。
こうした重量貨物で一時に多量の輸送を必要とするものは、
道路輸送よりも荷痛みも少なく、運賃も割安であった水運によって輸送しようという試みが各地で行われた。

高梁川の場合14世紀初頭には、支流成羽川で広島県境ふきん(備中町小谷)まで難工事のうえ通行していた。
当時本流では、数なくとも高梁までは通航していたと考えられる。
旭川・吉井川についても、それぞれ勝山・津山・林野までは中世末期に通航してたと考えられる。
この中世の船路が近世大名たちによって開発された。
航路の維持には、年平均1.000人の有償労働賦役を繰り出して川堀りし、藩の課題となった。

 

・・・・


「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行


今から500年前の室町時代に、早くも岡山県下三大河川には、
中流当たりまで高瀬舟が上っていた。
江戸時代になると、中国山地の山ふところまで航路が伸び、
高梁川は新見市、
旭川は真庭郡久世、落合両町、
吉井川は英田郡美作町、苫田郡鏡野町と奥深く進み、
まさに「舟、山に登る」といった感があった。


舟の長さは12m、幅2m、高さは1.1mほど。
どんな急流でも、幅5mの水路さえあれば自由に通航できたという。
船頭3人は、櫂、櫓、帆を巧みに操りながら下っていく。
江戸時代、高梁川には常時183艘もの舟が往来していたという記録が残っている。


高瀬舟は1艘で、
米なら35俵、
人なら30人運べ、
馬20頭分以上の働きがあり、物資輸送の花形だった。


鉄道が開通し、陸路が整備されると、客と貨物を奪われ
旭川、吉井川から次第に姿を消していった。
昭和3年、伯備線が全線開通するとともに、
高梁川でもその姿は見られなくなり、
河川交通の主役としての長い歴史を閉じる。

・・・

 

(周匝)

 

 

「柵原町史」 柵原町 第一法規出版 昭和62年発行

 

高瀬舟のさし声

 

一、

ほほい ほい ほい

瀬口じゃ 瀬口じゃ 引きずりまわせいや

ふにゃー(舟は)

おきい(沖に)

向いとるじゃないかいや

ろろ へいろー いへん

 

二、

おうい

お最中じゃ ないかいや

ぐいと引いちゃりやー

こいへ へいろー いへん

三、

おーい

引いちゃりやー

ふにゃー頭んばあじゃいわいや

ろろ へいろ いへん

 

(注)

決まった歌詞はなく、その場に合わせて即興的に歌ったそうである。

 

・・

 

「鏡野町史・通史編」  鏡野町 ぎょうせい 平成21年発行

 

年貢米の輸送はもとより商品輸送においても、

牛・馬を使っての陸路輸送に勝る輸送力をもつ高瀬舟は、

当時において第一の極めて有利な輸送手段であった。

そこで、

領地が山間部にある地域では、そこに谷筋が深く入り込む河川航路の開発は重要な意味をもつことになる。

したがって、更に上流へと航路の開発が企てられることになった。

 

河川の氾濫等により変化する航路維持には、大変な労力を必要とした。

川沿いの村々では、川底を掘り下げて航路を維持・確保するための川除けを、村々の責任において毎年毎年行わなければならなかった。

・・・

(津山市三浦駅ふきん)

 

・・・

 

撮影日・2022.4.5  岡山県赤磐市・美咲町・津山市

 

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塩田・浜子唄

2023年01月27日 | 民謡

 

昭和30年頃まで、瀬戸内各県の沿岸部で行われていた入浜式塩田。

 

山波・松永・大門・笠岡・寄島などの跡地は、住宅団地や商業・工場となり、面影すらない。

もし現地案内人がいても「ココが汐入川であった」、という名残を見せるにとどまるだろう。

 

 

(「広島県の民謡」から)

 

「寄島風土記」 昭和61年発行

天候が相手で、やけつく夏も、凍てつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回のメシを食べるきつい仕事であった。

万牙(まんが)
浜子は理屈は知らないが、朝、昼、晩と太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦、横、斜三様の引き方で砂に着いた海水濃度を高くする。
力と技術を要するので素人には引けない。

塩を撒く
長い柄の小さな木の酌で中溝の海水を塩田に撒く。
満便に撒くので熟練した技術を要する作業である。

沼井堀り
沼井は約4m平方の桝形でかん水をとるところ。
ろ過がすんだ砂を掘り出して沼井の肩に積む。

海水を入れる
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜いて濃い海水(潮の三合満ちまでは海水の濃度が薄い)を注入する。この樋の抜き差しは油断ができない。
失敗すると塩田に海水が侵入し、隣の塩田にも迷惑をかけるので上浜子が受け持っていた。

 

一日の作業


万牙を引く。
昼寝をする。
午後2時、浜持ち。寄子が寄板を持って、力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
女、子供の仕事であるが息も絶えだえ、汗が流れる。
気が遠くなるほど塩田は広い。
夏の太陽は容赦なく照りつける。

次に入鍬がつづく。
特殊な鍬で砂を沼井の中に放り込む。
最も体力がいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。

その後に
振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんなく撒く。

つづいて沼井踏が砂を沼井鍬で踏みならす。

灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入鍬は振り鍬に追われる一連の作業は汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。
寄子は大きな杓を持って沼井壺から藻垂れを沼井に汲み上げる。数多い沼井壺を次々に汲み上げる。
浜子は大きな浜たごを担いで中溝の海水を担いで沼井に注ぐ。
その頃鉢山に太陽が沈む。

従業員400人の寄島塩業は漁業と二大機関産業として貢献した。
第二次大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機を救うにも塩は貴重な資源であった。
今では塩田の跡もない。

 

(2022.6.9  浅口市寄島町 画像の左半分くらいが寄島塩田跡地)

・・・

昭和41年「寄島町史」


大浦神社は郷社昇格が念願だったが、その労が報いられてから一か月もたたない昭和21年2月1日にはマッカーサー指令が出され、神社は国家管理の手を離れた。

東は早崎港から西は青佐西端に至る2キロに及んだ。
二町歩(2ヘクタール)をもって1番とし6番まであり、その後昭和30年には15番まで増えた。
明治38年、一日七トン貨車20輌を30日間発送し、山陽鉄道との特約トン数に達せしめたと言われ、当時の生産量は松永・味野・山田塩田を凌駕していた。
明治38年専売法が施行され、塩業者は販売から手をひきもっぱら製塩のみ従事することとなった。

「入浜式」、
満潮より低く、干潮より高い平らな地面を作り、その上に細かい砂をまき、水圧と毛細管現象によって塩田中の溝から表面に達した海水の水分を蒸発させて、塩の付着した砂を集めて塩を溶かし出す方法で、天保期には全国塩田の90%が入浜式だった。
採集したかん水は、各塩戸とも角型の釜で煮沸蒸留により採塩していた。
昭和13年寄島町片本浜に蒸気利用式丸管機を設置すると同時に、かん水はパイプで工場へ送水し一括製塩することになった。
梅雨明けから盛夏にかけて生産が急上昇する季節には、どの塩戸にも臨時の「寄せ子」をどっと雇い入れ、炎天に作業するさまは壮観でもあった。
夏季は塩田労務者、冬季は酒造りの杜氏として出稼ぎに行くような契約で、毎年就業した者もかなりあった。

昭和29年枝条架式濃縮装置をを併用する方向に進み、生産高も従来の1.8倍を製塩んするようになった。

塩業の閉鎖
昭和30年、全国塩田に流下式の採かん方式が採られるや全国の製塩高は急激に上昇した。
必要食糧塩は年間100万トンといわれていた。
工業塩は既に国内塩の半額で200万トン輸入されていた。
加えて、時代の進歩はイオン交換膜によって海水より水分を除き濃縮かん水をつくるまでになり、ついに全国1/3の塩田が姿を消すことになった。
そうして昭和34年11月12日神島・玉島・水島とともに寄島では製塩に終止符がうたれたのである。

 

・・・・・


「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

「お櫃の底を叩く」ほど食わねばならぬ激しい労働、
浜子小屋という特殊な環境での生活、
こうした奴隷的な境遇によって、一般の人の彼らを見る眼は冷たかった。
「子どもをおどすのに『浜子にやろうか』といえば泣き止んだ」というほどであった。


浜子歌

尾道市山波町
浜子可哀やェー 二号半の飯じゃ
足にゃ黒土手にゃ豆がヨーイヨーイヨー

 

豊田郡東野町 (大崎上島)
一夜御寮でも妻持ちゃいやよ
妻の恨みで恐ろしや

 

三原市鷺浦  (佐木島)
来るか来るかと待つ夜は来ずと
待たぬ夜に来て門に立つ

 

豊田郡瀬戸田町 (生口島)
浜子浜引く寄せ子は寄せる
可愛い主さんは土を振る

浜子さんとは承知で惚れた
夜釜たきとは知らなんだ

 

・・・・

(日本最大の製塩都市・香川県坂出市 沙弥塩田跡ふきん  2019.5.11)

 

 

・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

浜子唄

真夏の太陽の下で、まっ黒い砂の上を馬鍬(まんが)で砂をかき起こし、

寄板を押して塩分の溜まった砂を寄せる。

これらの労働をするなかで歌われたのが浜子唄である。

 

【玉野市】

備前岡山児島の日比町ヨイヨイ

日比の塩田浜子ぶしヨイヨイ

浜子浜ひき寄子がよせりゃヨイヨイ

あとで浜子がすくいこむヨイヨイ

寄子かわいやねえさんかぶりヨイヨイ

浜子なかせる白い足ヨイヨイ

浜子さんとは承知でほれたヨイヨイ

夜釜たきとは知らなんだヨイヨイ

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

塩田の「兵役免除」が↑記されているが、

そのことは↑にあるように”幹部従業員”に限られる。

それで、↓記事を追加した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

 

自家製塩の奨励

 

塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。

前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、

この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。

曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一日一キロの塩は取れると指導したが、燃料不足で不可能とわかった。

かん水をそのまま利用せよ、という指導に変わった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

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塩田・沼井叩き歌

2023年01月26日 | 民謡

 

昭和45年頃、国鉄の松永駅に列車が停まると、

駅の北側にはイ草の田んぼが広がり、駅の南側には放ったままの入浜式塩田が海に向かってのびていた。

 

岡山県の児島小川ふきんには、流下式塩田の枝条架(しじょうか)が広大にひろがっていた。

「瀬戸大橋」の付帯工事とは、あの塩田跡の救済事業じゃあないか、と思ったりもした。

 

・・・

 

(江戸時代初期の福山藩の新田開発の大功労者・本庄重政 )

 

(浜子の像・JR松永駅前  写真右側が沼井)

 

・・・

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

 

沼井叩き歌  福山市松永町

「沼井」(ぬい)というのは塩田の中に切ってある四角の井戸のような形のもので、
ここに塩のついた砂を知れる。
夏、塩田を開始する前に、その沼井の側を粘土で五寸幅ぐらいに塗り固めて、塩水が漏らぬようにする。
その粘土をバイ木という板で叩く作業が「沼井叩き」、
その折りうたわれる歌が「沼井叩き歌」である。

塩作りは夏半年仕事をし、寒い半年は休んだので、「沼井叩き」は春先、主として子どもたちの内職として行われた。

 

 

備後松永ヨー塩浜ヨーイどころ
ヨーイ ヨーイ ヤレヤーレ エーイ
浜のからいは御免 御免なれ

沖の暗いのに白帆が見える
あれは紀国蜜柑船

 

・・・・

 

(松永クレーン学校は塩田跡地)

 

 

(松永の汐入川。瀬戸内地方は汐入川はだらけ)

 

撮影日・2019.4.12  福山市松永町

 

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