しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

硫黄島から生きて戻った日本兵

2022年04月30日 | 昭和20年(終戦まで)
硫黄島(いおうとう)には陸海軍合わせて約21.000の日本兵がいた。
栗林中将が、硫黄島守備隊全員に配布した『敢闘ノ誓』はよく知られているが
特に
一 ・我等は敵10人を斃さざれば死すとも死せず
一 ・我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん
は兵の行動にいかされた。

昭和20年3月21日大本営は、
「戦局ついに最後の関頭に直面し、17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行するとの打電。
通爾後通信絶ゆ。
この硫黄島守備隊の玉砕を、一億国民は模範とすへし。」
と玉砕を発表した。

実際にはおよそ1.000人の兵が生還した。
どういう状況で、どういう人が帰還したのだろう。
その一例。


・・・・・


森茂 財閥御曹司は部下を投稿させたのか

森茂中尉、30歳(戦死時)。

全身傷だらけの森茂少尉が生き残りの部下10数名を集めた。
「俺はもうだめだが皆はまだ大丈夫だ。
いいか皆は生き残ってくれ。
俺は本当のことを知っているつもりだが、
米国という国は国際法を守る国だ。
ここにボロ切れがあるが、
俺が死んだらこれを白旗の代わりにして米軍の方へ行け。
米軍は決して皆を殺しはしない。
生き残ってその後の日本を何とか守ってくれ、頼む」
森は可愛がっていた伍長に愛刀を渡すと兵たちを遠ざけ、手榴弾の発火栓を抜き腹に抱えて北の方を向いた。


部下を投降させた士官が硫黄島にいたのか。
もし本当なら、彼はどんな人物だったのだろう。


三木睦子の証言

平成18年12月、私は東京・渋谷にある三木武夫記念館を訪ねた。
故・三木武夫首相の睦子夫人が森中尉の三つ違いの妹である。
「昭和21年、硫黄島で兄の部下だったという方がいらして、部下に投降を勧めた話をしてくださった」
その人物は、上官だった森の最期を伝えようと遺族をさがしていた。その人の、その後の消息はわからないという。
「兄は不器用でしたが、優しい人でした。
部下を一人も殺したくなかったのだと思います」とも話す。
「この戦争はやるべきではない」と話していた兄を睦子は覚えている。

森家は多くの政治家や財界人を輩出している。
森茂は大学を二つも出て、将来は森コンツェルンを統べる人材と期待されていた。
その命を奪われた悔しさの中、家族は、
彼の最期の言葉が部下を生き延びさせたと信じた。


「硫黄島 栗林中将の最後」 梯久美子  文芸春秋 2010年発行



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千三年の鳥居松

2022年04月30日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県笠岡市入田 
訪問日・2019年10月14日  







千三年の鳥居松


なぜ「千三年の鳥居松」と呼ぶのか、その概略は『お代官様が領内視察をしていたとき大松に驚き
「あの松の樹齢はいかほどじゃ」と尋ねると、庄屋のお供をしていた与七という男が即座に「今年でちょうど千三年になります」と答えた。
「どうして判るのじゃ」
「松は千年たつと逆葉(さかば)を打つと申します、ちょうど今より三年前に逆葉を打ちました」
以来、土地の人は千三年の鳥居松と呼んでいた。





国師神社の参道の端に切り株が祀ってある。
千三年の松は、第二次世界大戦の終わりごろに木造の軍艦を造るという軍の命令で
切り倒された。



「陶山100選」  陶山地区まちづくり協議会  アド工房 平成27年発行


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政治家になる人

2022年04月30日 | 昭和51年~64年
たたきあげで政治家になる人は、いい意味でも悪い意味でも、たくましい。
別の世界の人と思うことがある。

・・・・

おごりの春の片隅で 「後列のひと」 清武英利 文芸春秋 2021年発行


竹岡和彦は、同志社大学時代は新左翼系学生運動の闘士であった。
反対デモで捕まったこともある。
ただし、思想的な根は浅い。
のちに、「森下仁丹」社長で自民党参院議員だった森下泰を「師匠」と仰ぎ、
同党の大阪府議会議員も務めている。

・・・・

1974年6月、森下の参院選挙運動が始まる。
竹岡はビラを配り、ポスターを貼り、マイクを握る。
間もなく騒ぎが持ち上がった。
証紙を貼ったポスター以外に、事前運動用のものを貼り続け公職選挙法違反に問われようとしていた。
貼ったのは森下仁丹社員だったが身代わりで自首し、肝心なところでは黙秘を貫いた。
森下事務所に入って12年後、彼も候補者を支える側から選ばれる側に回る。
大阪府議選、さらには参院選へと出馬する。


・・・・


「竹岡さんの奥さんな、いつも同じ八百屋さんで野菜買うてはるけど、あれは具合悪いで。
あっちこっちで買わなあかんのんちがうか」
妻は遠くまで買い物に出るようになった。
竹岡は家で髪を洗わないようにした。
出かける先々で床屋を訪れ、洗髪をするためである。
妻は、犬にまでお辞儀しそうになった、とぼやいた。

・・・・

自宅にかかってきた怪電話を15歳の娘が受けてしまったこともある。
「あんたのお父さん、別のところに女の人がいて,子どもがおるそうやで」

宗教票を二千万円で買えると持ち掛けられたこともある。
それを断って結局落選した。

妻は選挙後、すぐに娘を連れて実家に戻り、離婚届を弁護士を通して渡してきた。
哀しかった。
「死ぬこと以外はカスリ傷」と口にしてきたが、これは深手だった。
その直後に師匠の森下を心不全で失い、竹岡は政界から引退する。

・・・・

それから約30年が過ぎ、ヒルトン大阪で『無鉄砲』の出版祝賀会に約130人が集まった。
あれから竹岡はハワイでゴルフ場を手掛け、不動産業を営み、パチロット(パチスロ)事業にもからんで、しぶとく生きてきた。
政財界からアンダーグラウンド世界で、裸の大阪を観察してきた。
自伝には著名人の実名が満載だが、それでも原稿からヤクザや芸能人は削除されている。



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五平太(ごへいだ)の煙

2022年04月29日 | 昭和31年~35年
小学生の時、日本の石炭産業は全盛期だったが、
茂平で石炭を見たことは一度もない。ゴヘイダという言葉も知らない。
城見小学校に行けば真冬の時に教員室に達磨ストーブがあり、石炭をくべていた。
ストーブの隣にはバケツに入った石炭があった。
手に取れば汚れるだけなので、木山捷平のように珍重するとか欲しいとか思ったことはない。


茂平の子は踏切をわたらないと学校まで行けないので、
機関車の真っ赤に燃え上がる釜、
スコップで石炭をすくう、釜に投げ込む、飛び散る汗、
を踏切の真下から見ていた。


ゴヘイダの煙を身をもって体験することは何度もあった。
大門~笠岡間には金崎トンネルがあり、真っ黒い煙が顔に、煤となって襲い込んできていた。


・・・・・

五平太(ごへいだ)の煙

「小説を、映画を、鉄道が走る」 川本三郎  集英社 2011年発行


太宰治と親交のあった私小説作家、木山捷平に「斜里の白雪」という北海道旅行記がある。
昭和42年に道東を旅した時の作。
作者は「木井」として登場する。
釧路と網走を結ぶ「釧網(せんもう)本線」の屈斜路湖に近い川湯駅で「木井」は汽車を待つ。
「木井」はホームの花壇の木がどれも黒くなっているのに気づく。
土地の者らしい中年の女性がいう。
「五平太(ごへいだ)の煙だんべ。
汽車が一日に何べんもこの前を通るもの」。


私は何十年ぶりかでこの言葉を思い出した。
子どもの時、私も石炭のことをゴヘイダと呼んでいた。
木山捷平の故郷は現在の岡山県の笠岡。
「ゴヘイダ」は故郷の方言だとばかり思っていた。
司馬遼太郎によれば、
むかし筑前地方で五平太という人物がはじめて石炭を発見したので、石炭のことを五平太というのだ。

(井笠鉄道新山駅)

木山捷平はそのあと、
子供時代の汽車と石炭の楽しい思い出を語っている。
「私が小学生の時、村にはじめて汽車がついた。
私ども小学生は汽車も珍しかったが、それと同程度にゴヘイダがめずらしかった。
線路にはいって拾ってきては珍重した。
カバンの中に入れて学校に持って行き、授業時間中でも見せくらべをした。
黒くてよく光るのが上物だった。
話し合いがまとまれば、鉛筆何本、ラムネ玉何個との交換もできた」



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「一六銀行って、知っている?」

2022年04月29日 | 昭和41年~50年
中学校のクラスにも、高校のクラスにも質屋の息子がいたが(息子と書くのは、女生徒の親までは知らないので)、
その質屋のことを「しちや」・「ひちや」と呼ぶ人はいたが、
「いちろく銀行」と言う人はいなかったような気がする・・・けど。




「家計簿の中の昭和」 澤地久枝 文芸春秋 2007年発行 


若い人に「一六銀行(いちろくぎんこう)って、知っている?」
とたずねると、みんな首を横にふる。
質屋(しちや)のことである。
江戸時代から質屋はあり、日本だけでなくアメリカにもある。
庶民の銀行が質屋だった。


質草は、3ヶ月ごとの利上げをつづけていれば、流されない(所有権の移転はない)。
元本と利息を払えば、もとの姿で手許にもどってくる。


質屋の蔵は堅牢にできていて、預かった衣類に虫がつくこともないし、少々の火事にはビクともしない。
客の秘密を守るのが質屋の歴史的な鉄則である。


その日必要な現金の手当てに,人びとがかけこんでいったのは質屋であり、質草はつつましい。


・・・


いま、「街の金融」は全盛のように見える。
見まわせば、広告が溢れかえり、24時間営業の店舗が目につく。
その現在も、借金が独走する「消費者金融」などより、「質草」という自前の担保で「自由」を守れるという理由から質屋の利用者はたえない。
昨今の質草の主流は、貴金属という。



・・・・・・・・・・


大学生になって、夏休みの前に布団を質屋にいれて帰省のお金を借りる人がいた。
夏休みが終わると質屋に行って、お金を払い蒲団を戻してもらっていた。
それ以前は、学生服をそうした人もいたようだ。


私は中学校3年の時の時計をしていたが、型が古く、質屋に行って質流れを買った。
二度目はテープレコーダーが欲しくなったが電気店では高いので、質流れを買いに行った。その時、1.500円で買ったのを覚えている。



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楠池のほとり

2022年04月28日 | 令和元年~

~楠池を見ながら昔の話を~

 

池の土手を歩いていたら、農夫さんから話かけられた。

瀬戸内地方には星の数ほど溜池があるが、そのひとつひとつの池に、地域の人の思いが詰まっているような気がする。

 

場所・岡山県笠岡市・楠池

日時・2022.4.9

 

 

・・・・


この池に、ある人がハスを2~3植えました。その後繁殖して蓮根を掘るようになりました。地区の人だけでなく、遠方からも取りにきていました。
池の水を抜いて、そのあとはポンプで抜いて干して、にぎやかにやっていました。
いい時代でした。

・・・・

土手に桜を植えようと、みんなで桜を植えました。
木は大きくなり、花もよく咲くようになりました。
ところが、木の根が太くなって池の土手から水漏れがでるようになりました。
植樹したころの人は、亡くなったり高齢化し、若い人は無関心が多いです。

・・・・

どこに田んぼにも、稲とイ草を植えていました。
遊ぶ(単作)田んぼはありませんでした。

ここらの農家は3反程度で、何か作っていないと(生計が)なりたちませんです。
稲はイ草の後に植えるので、遅れ出来は悪いですが、その前提で作っていました。
今は稲だけです。
(イノシシ対策の)電気柵さえ管理がむずかしくなっています。
電気柵のすぐ下の草を除くのが手間がいります。

・・・・・

小学校は北川に行っています。
学校では映画をよくしてました。
途中、小便がでたくなり外の畑にしていました。
それで、(少年たちのたちしょん)その場所だけは、麦がよく出来ていました。

・・・・・

戦時中は今、古代の丘スポーツ公園の入口ふきんに学校の畑がありました。
毎日のように弁当持って遠足きぶんで行き、芋などを作っていました。

・・・・・


兵隊に行く人の見送りは多かったですが、
高齢化した補充兵の時は、特に気の毒でしかたがありませんでした。


・・・・・・

 

 

 

 

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2022年の桜

2022年04月27日 | 令和元年~
(西から)広島県尾道市・福山市、
岡山県笠岡市・井原市・浅口市・総社市・倉敷市・岡山市・瀬戸内市・備前市・赤磐市・津山市、
岡山県小田郡・浅口郡・和気郡・勝田郡・久米郡、の桜を見てまわった。

今年は晴れの日がつづき、多くの桜を楽しめた。


尾道・福山


笠岡


井原・浅口・小田


倉敷・岡山・総社


瀬戸内・備前・赤磐・津山・和気・勝田・久米



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奈良光枝のこと

2022年04月27日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
二十歳前後の頃、テレビ東京系の懐メロに奈良光枝が出ていた。
それをいっしょに見ていた母は、
「奈良光枝はそりゃあ美人じゃった」と見たことでもあるように話した。
たしかに、テレビに映る奈良光枝は飛び切りの美人だった。
・・・・
藤原正彦先生の”あこがれの人”への思いは、
ほぼ私たちの世代も似たようなもので、先生の思いは非常によくわかる。

・・・・



・・・・・

奈良光枝のこと


「始末に困る人」 藤原正彦  新潮社 平成23年発行


昭和21年に「或る夜の接吻」という映画が封切られた。
日本初の接吻映画と宣伝されたが、私がよく見たところ主演の若原雅夫と奈良光枝は接吻していない。
接吻をほのめかしているが絶対にしていないはずだ。
私の奈良光枝は清純無垢でそんなふしだらをするような人間ではないのだ。
私などとは根本的かつ本質的に違うのだ。


奈良光枝を初めてテレビで見たのは高校一年の時と思う。
三十代後半だった彼女の余りの美貌と清楚には真に誠に本当にたまげた。
彼女を見てたまげない人は視力か感受性に問題のある人だけだ。
これほど美しい女性を見たことはそれ以前も以降も一度もない。
こんな人はもう二度とこの世に生まれないとさえ思った。


「悲しき竹笛」は「或る夜の接吻」というけしからん題名の映画の主題歌と知ったのはかなり後だった。
彼女の歌には他にも「雨の夜汽車」「青い山脈」「赤い靴のタンゴ」などの傑作がある。
レコードもテープもCDも持っている。
彼女を思わない日はほとんどなく、その故郷である弘前は聖地になった。


彼女は佳人薄命の通り五十三歳で亡くなった。
青山斎場で行われた葬儀はあいにく講義と重なった。
前々日から休講にしようか悩みに悩んだ。
結論が出ず、父に相談した。
「バカモン、公務優先に決まっとる」と一喝され、私の青春は終わった。
翌々年、奈良光枝のことを「誰、それ」と言った非国民のような小娘と結婚した。

(2011年6月16日号)




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「明日、仏さまにないやっとごわんど」

2022年04月27日 | 昭和20年(終戦まで)

陸軍特攻基地として知られる「万世飛行場」のはなし。

・・・・・

ある夜、ソヨは婦人会の女たちと、炊事場で出撃用のおにぎりを作っていた。
出撃前日の青年が二階から降りてきた。
倉田道次という少尉だった。
「それは誰が食べるの」
「みなさんが・・・・」
奉仕隊の一人が小さな声で答え、もう一人が
「あなたたちが,持っていくと、聞いています」
と途切れ途切れに言った。
倉田の声は穏やかだった。
「もう遅いからそんなことをしないで、早くお帰り下さい。
それを食べる時間には僕たちはもう生きていません・・・・・・」
出撃後、二、三時間で彼らは沖縄の敵艦に突入するのだ。
倉田はまだ二十二歳である。
「だから作らなくてもいいよ。残った人たちに食べさせてあげて下さい」
女たちは黙ってうつむき、ぽたり、ぽたりと涙がおにぎりに落ちた。
それを見て倉田は
「塩はいらないね」と笑った。
女たちは泣きながらおにぎりを作り続けた。
ソヨには、若者が心底で肉体の飛び散るぎりぎりの時間まで生を希求していることが分かっている。

 

息子のような彼らをかばうのも、彼女の役目だった。
出撃前夜に、将校が特攻隊員の頬を張るのを見かけたことがある。
隊員のいないところで、彼女は将校に薩摩弁で食ってかかった。
「なんてことをすっとですか!
あん人たちは明日、仏さまにないやっとごわんど」

 

ソヨは二〇〇一年に九十七歳でこの世を去った。
その仏壇では、ソヨと五人の少年兵たちの写真が佇んでいる。

 

 

特攻旅館の人々 「後列のひと」 清武英利 文芸春秋 2021年発行

 ・・・・・・


仔犬を抱いて笑ふ少年特攻兵の写真は悲しい

四五年五月末、出撃前の彼らの一人は仔犬を抱いて笑っている。
自分が乗り込む特攻機に爆弾を装備するのを見ているとき、
近くを歩きまはってゐる仔犬を見つけて抱いたといふ。

抱いてゐるのは十七歳の荒木幸雄伍長。
ここでわたしは言葉が泪に濡れないやうにして書くが、
これは昭和日本の最も悲しい写真だらう。


「星のあひびき」 丸谷才一  集英社  2010年発行



 

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会社に行って鍋ややかんを修理する

2022年04月20日 | 昭和21年~25年

就職した会社はもともと、海軍呉鎮守府からの土木・建築の請負業だった。
ところが、
敗戦で海軍は無くなり、広島の本社は原爆で破滅し、無の状態のところにさらに復員兵が復職してきた。

その時代をベテラン社員が話す中で、「会社に行っては鍋やヤカンを修理していた」ことをよく覚えている。どんな仕事なんだろう?
少し参考になるような本があった。↓

 

 

 

「少年時代」 安野光雅  山川出版社 2015年発行

戦後すぐのころはすることがないのでアルバイトをした。
土建業の堀内組の堀内さんは、
鍋の底に黒いものを塗って火にかけると、黒い方がはやく沸騰する。
「それを実演販売して、鍋の底に塗る墨を売るのだ。
あ、そういえば穴のあいた鍋を修繕するというのもあったなあ。
ああ、あれは硫黄に墨を混ぜて型に入れて固めればいいんだ。
熱した鍋の穴にあててこすると硫黄がとけて穴をふさぐ。
水を入れて火にかけても水がある間は硫黄もとけないんだ」
といって笑った。
堀内は土木課が仕事をくれないから、
「役所になぐりこみをかけてな、悪いことをしたもんだ」という。
ほかにも何をしたかわかったものではない。

 

 

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