しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

製縄(せいじょう)

2023年08月01日 | 暮らし

縄=わら縄、という時代が有史以来つづいてきたが、
1960年代になって化学製品に追いやられた。

家では祖父が、雨の日に藁縄を編んでいた。
父や母はしない。
祖父専用の雨の日の仕事だった。

祖父が作ったワラ縄は長屋に積んで保管していた。
そのワラ縄は、すべて家の自給用で他家にわけたり
売ってお金にしてなかった。(家の必要量だけ作っていた)

 

 

・・・

製縄(せいじょう)

千田の製縄の歴史は古く、かつ重要な副業として重んじられていました。
農家の各戸毎に足踏み製縄機を据え付け、老若男女の別なく、副業として精励したものです。



昔の家の建築は、壁は土壁でした。
細長い竹が組まれ、それを手ないのわら縄で組んで止め、泥壁が塗られたもので、
建築には必須のものとなり、小遣い稼ぎになっていました。
太平洋戦争後、化学工業の発展で化学製品の縄が大量に生産販売されるようになり、仕事がなくなってしまいました。

「千田学区地域誌」  (福山市千田町)千田学区町内会連合会  2008年発行

・・・

「梶島山のくらし」 (福山市引野町)梶島山のくらしを記録する会編  2011年発行


梶島山の大事な副業としての縄ない
梶島山には、どの家にも一台の縄ない機があり、二台三台と据えて、その収入で食べていく家もあったほど盛んだった。
縄は梱包に欠かせないもので、米俵、麦や塩を入れる「かます」などに大量に需要があった。
縄ないはいい副業になった。

・・・

 

 

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もとやんの藁草履

2023年07月31日 | 暮らし

もとやんは茂平の漁師で、
漁業とわらじを編むのを業としていた。

普通の茂平の漁師は、半農半漁で、
収入も労働時間も、
ほぼ漁業半分、農業半分で生活していた。

もとやんは農業をせずに毎日、稲わらで草鞋を編んでいた。
もとやんは無口な男で、浜にいるときも無口だった。
自宅で草鞋を編むでいる時も、もちろん無口だった。

 

 

子供たちも、もとやんを不思議な感じで見ていた。
もとやんは、中年だったが、独身の身の様子だった。
その当時、独身で一人家族の家は珍しかった。

もとやんとは年に一度話す機会があった。
それが城見小学校の運動会の前の日。
5円玉を持ってもとやんの家に入る。
そこには、もとやんが黙々と手と足を使って藁仕事をしている。
家の土壁には、もとやんが作った草鞋が紐に結んで何足も壁中に吊ってあった。
そこで、もとやんと何か話したはずだが記憶がない。
たぶん、気に入った草鞋を手にして、黙ったまま、お金をもとやんの手のひらに渡したのだろう。
翌日、もとやんが編んだ草鞋を履いて運動会の競走に出場した。

小学校を卒業するころ、
もとやんは苫無の海岸で死んだ。
もとやんが死んだのは子供たちの大きな話題になったが、
すぐに過去のことになっていった。

もとやんは、
茂平の子どもたちに愛されたわけでも、嫌われたわけでもないが、
黙々とした漁師姿と稲わら仕事は、茂平の一つの昭和の風景だったことには、間違いない。

 

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七月七日 ②なぬかび

2023年07月06日 | 暮らし

牛が一年で仕事をするのは、一度(田植え時)しかなかった。
しかも牛は大飯食い。
エサをあたえるのは農家の大仕事、
それでも牛は大切にされていた。
その極めが七夕の水浴だった。
茂平では”とんま”の浜で牛を洗っていた。
牛が何頭も波打ち際で、体全体をゴシゴシ洗うさまは子供がみていても興味深い風景だった。

 

・・・

井戸掃除は、井戸が深くなく、はんぶん遊びだった。
朝からバケツで井戸水を汲みだし井戸を空にしていた。
空になる頃、父が井戸の底に降りて、底に溜まった枯葉などを取り除いておしまい。
すぐ終わり、すぐに地下水が井戸に溜まっていった。

 

・・・

井戸掃除 (母の話し)

何処のうちでもボニの前、七夕の頃。・・昔ぁ、旧じゃが。
井戸掃除をしょうた。
毎年じゃ。
井戸の水を全部出して、底をこさぎょうた。

ウチのは浅いのでワケはないが、(実家の)賀山にゃぁきょうていくれいじゃった。
縄をつとうて下まで降りていきょうた。
上から見ようてきょうとかった。しまいにゃおじいさんも、「もうようおりん」ゆうてようた。
底にたまった泥を取りょうた。

共同井戸のところにゃ、共同で掃除をしょうた。

2001/1/1

 

 

・・

「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行

この日七度水浴びをすれば病気にかからないといわれ、多くの者が水(海)浴をし、
牛や馬も洗ってやる。
特に海で牛を洗えば元気になるといわれていた。

またこの日、
井戸替えをすれば、一年中きれいな水がわき出るとの言い伝えがあり、
井戸さらいをする

・・・


「美星町史」 美星町 昭和51年発行

ナヌカビ

七月七日をナヌカビといい、一般に井戸かえやノミカワのカワカエをし、水神様を祀る。
またナヌカビには墓掃除にも行く。
この日、牛を飼っている家では牛を川へつれていき、川入れをして「一年中の風呂入りじゃ」と洗ってやる。
一般にナヌカビから、僧侶が各檀家をまわってタナギョウをする。

 

・・・

・・・
 

「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行

七日をナノカビといい、
子どもは七回水浴すれば丈夫に育つという。
女性は髪を洗うと髪がきれいになるとか、黒い髪になるという。
また洗濯をして七竿干すのだともいう。

この日は必ず井戸替えをする日とされている。

 

 ・・・

 

「岡山県史・民俗編Ⅱ」 岡山県  昭和58年発行
七夕
七日に井戸替えをして水神様を祀る例は非常に多い。
このほか牛を川へつれてゆき、タデの葉で洗ってやると牛が達者で災難にあわないという。


・・・

 

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七月七日 ①たなばた

2023年07月06日 | 暮らし

七夕飾りは楽しかった。
ナスビやスイカを書いた絵を買ってきて、
藪から竹を一本持って帰り、
こよりを作りながら、
竹に飾った。
家の庭に立てたまま1週間ほど経つと「七夕」の日となり、
庭から海に、ひこずって持ち運び、流した。
毎年の夏休みに一度ある、朝の行事だった。

 

・・・

 

・・・

「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行


七月七日

七夕の節句、たなばたさん、星祭りともわれている。
六日の夜に主に行う。
二三日前の早朝に、
稲の葉の上にある露を集めて硯に入れ墨をすり、
五色の紙を短冊に切ったものに七夕の歌、星の名、俳句、和歌などを書き、
これを竹の葉枝につるして庭前に立てて牽牛、織女の二星に供える。
六日の夜は、
うり、なすの各一個を七つに切ってこれを稲の葉で通し、かしわの葉に盛り、
酒、もち(だんご)とともに星に供え、技芸が上達するよう祈願する。
七日の早朝になると、供物などを川や海に流す。
これは「天の川」へ流すという意味から。

 

・・・

「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行
七夕とナノカビ

七夕
七月六日は子供の祭り、
子供たちは早朝、ハスや里芋の葉に溜まった朝露を集めてきて、
墨をすり、短冊に願い事を書いて笹竹に吊るす。
笹竹は縁側に立て、団子や西瓜、瓜、大豆、ササゲ、栗などを供える。
ナスやキュウリで牛や馬、鶏などを作って供える。
笹竹の下枝にナスを輪切りにして二つずつ刺す。
夜は満天の星をあおぎ、願い事を祈る。

翌七日朝七夕を川に流す。


 

・・・・


「岡山県史・民俗編Ⅱ」 岡山県  昭和58年発行

七夕

七夕はタナバタと読み、旧暦七月七日の行事とされているが、
六日夜行われる神祭である。
女の子が機織りが上手になるようにと願って布切れを供えたり、
この夜の星明りで針に穴を通すと、裁縫の手が上るとか乞巧奠(きこうでん)の名残である。

・・

 

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鞆の祇園さん参り

2023年07月04日 | 暮らし

広島県福山市鞆町「沼名前神社」(鞆の祇園さん)

 

茂平の港に年に一二度、観光汽船が入港していた。
茂平の波止場には、小さな漁船しかなかったので
大きな旅客船が目の前で見えるのは楽しかった。


波止場には乗る人や、見送る人や、見物人でにぎやかだった。

観光汽船は茂平の樋門の前に停まり、
荒神さん側から伝馬船で客を2~3人ずつ乗せて、本船へ運んでいた。


観光汽船は茂平から鞆へ行くということだった。
知らない鞆よりも、観光汽船へ一度乗ってみたい、その願望や気持ちが強かった。
鞆への観光船は、茂平の人たちの日帰りの物見遊山だと思っていた。

 

広島県・岡山県・香川県・愛媛県の、漁船や海上輸送の人達が、”海上安全”の信仰でお参りしていた、
ということを知ったのは、それから何年も後の事だった。

 

祇園さん参り


管理人は祇園さん参りに行ったことがないので、
姉に体験談を聞いてみた。
観光船でなく、隣家の漁船で行ったとのことだった。

姉の話・談2023.7.3

隣のおじさんの船に乗っていった。
おとうさんと私と、他に1~2人。
5~6人で行った。(茂平の漁船は定員自体が5~6人)

鞆に着いて降りる時が怖かった。
船からおりて、階段(雁木)を一段づつはいながら道まで上った。
それから鞆の町を歩いたり、お父さんが、土産や酒かすを買った。
帰るときも、船に乗る時がこわくていけなんだ。

管理人記・当時の港にポンツーン・桟橋は極少数で、
船を岸につけたら、船に飛び乗ったり、一枚板の上をあるくのが普通の乗船方法だった。

 

・・・


鞆の祇園さん参り

「金光町史」

鞆の浦の祇園様に参詣する。
昭和30年頃まで須恵では、毎年一月と六月に参詣していた。
今は7月にバスで行く。
かつては、朝出て南浦港まで歩く。
予約してある運搬船天神丸・八天丸で鞆に行き、
参詣後、阿伏兎観音で御祈念してもらう。
船で北木・白石島を通って南浦港へ帰る。
30~40人ぐらいの一行である。

 

「金光町史・民俗編」 金光町  平成10年発行

祇園講
祇園講は福山市鞆の沼名前神社、通称、鞆の祇園さんへ参る講である。
祭神は疫病除けの神である。
毎年七月ここへの参詣を続けている地区は多い。
戦前は玉島から船で、戦後はバスで参っている。
・・・

・・・

撮影日・2022.10.13

 

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神島88ヶ所霊場参り

2023年07月02日 | 暮らし

神島霊場は備中備後から多くの霊場巡りの人達がいた。
たいてい一泊二日の日程で、毎年お参りし、毎年同じ宿に泊まっていた。
外浦には宿が集中してあった。

いつの間にか、車でお参りする人たちが増え、
いつの間にか、それも減り、宿も減り、
巡礼する姿を見るのが珍しくなった。

・・・

撮影日・2008年4月26日  神島88ヶ所霊場・笠岡市神島

・・・

 

 

お接待。

 

青龍寺。

 

・・・

 


神島88ヶ所霊場参り

「金光町史」

戦前・戦後の頃、
4~5人で、早朝歩いて鴨方から里庄へ行き、そこから川沿いに神島瀬戸へ出て、
神島外浦を巡って定宿で一泊する。
翌日島を巡って瀬戸から船に乗り笠岡港へ、
笠岡駅から鴨方まで汽車に乗る、そこから歩いていた。

・・・


「岡山県史・民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行

大師信仰と88ヶ所めぐり

弘法大師
大師信仰とは一般に弘法大師信仰と理解されている。
そして弘法大師の開基という寺伝を持つ寺、
弘法大師作と伝える仏像、
弘法大師によって湧き出たという泉、
弘法大師の霊験の話などはじつに多く、
弘法大師の信仰が庶民の間に深く浸透していることはいうまでもない。
県下の講の中でも、「大師講」がもっとも普遍的で、
20日の夜、あるいは21日をその日に当てているのは、弘法大師の命日であるからである。
このように弘法大師信仰を普及させたのは、
高野山を根拠とする聖(ひじり)が弘法大師信仰と高野山への納骨を勧めて村々を巡って歩いていたからであるという。
このような高野聖を村に迎えた人びとの心情には、
高貴な霊力を備えた人が、村の外から訪れて祝福してくれるという信仰があり、
その訪れを待ち、その話に耳を傾けようとする態度が強かったからである。

八十八ヶ所巡り
88ヶ所巡りは33観音巡礼と並んで宗派を問わずに庶民の参加する民間信仰である。
これを遍路といい、
また辺土ともいった。
『今昔物語』にも見えるところからすれば、すでに平安の初期に、遠く遥かな四国をあの世(他界)と見て、そこを巡ってくる信仰が生まれていたのであろう。
しかし、
県下などで88ヶ所巡りが行われたのは、江戸時代の中頃であろうといわれている。
そして四国から持って帰った霊場の砂や大師像などを村人に配ったり、
それぞれの村に新四国88ヶ所を設けた。
親しまれている小豆島88ヶ所は1686年(貞享3)の開設といわれる。

神島88ヶ所霊場
笠岡市の神島88ヶ所霊場は、
1744年(延享元年)笠岡の今田卯兵衛(慧玄)が、
愛児の菩提のために四国遍路をして、大師のお告げを受けて開いたと伝える。

 

・・・

 

「写真集笠岡」 田中舜治 国書刊行会 昭和56年発行

お大師まいり


春正月ともなれば桃やあんずの花が咲き、
瀬戸内海の潮の香りも一段と強くなり、
お遍路さんの季節である。
備中・備後の奥地の人々は米を背負い老幼相携えて神島八八ヶ所の霊場巡拝に出かけてくる。
そして神島に一泊し新鮮な内海の魚で精進落ちをして一年の農作業のつかれをいやす。
それが江戸時代以来の農民の習慣であった。
五、六月頃は除虫菊が満開である。

神島霊場めぐり


毎年旧暦20日、21日は弘法大師縁日としてお大師参りの客が続く。
彼らは野道・山路を巡礼してひたすらおかげをこうむろうとする。
山あり、海浜あり、そして国立公園瀬戸内海の風景を観賞して気をはらす。
大抵の病気は治ってしまう。
それはこの島が持つ風光の美しさと信仰の渾融であろう。
最近名古屋方面からも参拝者が訪れるようになった。

・・・

 

 

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石鎚参り (お山開き7/1)

2023年07月01日 | 暮らし

笠岡市の山で、
いちばん多い名は「竜王山」次に「石鎚山」。
各小学校区に竜王山と石鎚山はあるように思う。
この地方に”石鎚講”は多く、
今も形を変えながら、四国石鎚山へ登る人は多い。

 


・・・

矢掛町史・民俗編」 矢掛町  昭和55年発行

 

石鎚参り

石鎚山登拝は古くから行われているのであるが、

現在古老より聞きうる、
大正から昭和初年ごろの石鎚参りを記してみよう。

石鎚参りは田植えの終わった直後、
先達を中心に50~60人の人が組を組んで参った。
思い思いの服装の人が多かった。

歩いて夕方笠岡市西浜に着いた。
その夜、舟で西浜を出、翌朝伊予の壬生川港に着いた。
舟は櫓を漕いだので、潮の加減で遅れる場合もあった。
壬生川から黒川まで歩き、はじめて宿についた。

宿を早朝出発し、石鎚山に登った。
登る途中には
「ナンマイダー、ナンマイダー」
と声高に唱えた。
山頂のご神体に体をなすりつければご利益が得られるので、競って触れた。

石鎚参りの土産は石楠花の葉、熊笹、縫いぐるみの小さな猿、ダラニスケ、ニッケなどであった。
石楠花はの葉は、田や畑に棒で立てると虫よけになるといわれた。
熊笹の葉は、牛に食べさせると元気になると信じられた。
縫いぐるみの小さな猿は、子どもが授かるとか、元気に育つ伝承があり、
ダラニスケは胃薬になり、
ニッケは子供への土産であった。
往復5日ほどを要した。

村へ帰ると、人々は出迎え、道端に伏して石鎚参りの人にまたいでもらった。
またいでもらうと、病気が治るとか、ご利益を授かると伝えられた。
一番に村の石鎚社や山上様に参詣し、無事下山のお礼と報告をした。
家のものは、毎日神棚に灯明をあげる場合もあった。

 

・・・


「金光町史」 金光町  平成10年発行

石鎚講

町内で盛んな講の一つに石鎚講がある。
四国の石鎚山を信仰する講で、
遥拝所のある佐方を中心に、町内で百数十軒が加入している。
7月に夏山と呼ぶ石鎚山登拝の行事があり、
以前は沙美や寄島から船で、
現在はバス二、三台で石鎚山に参っている。

かつては夏山から白衣の行者たちが帰ってくると、
道に伏せて迎えてまたいでもらったり、
石鎚山の笹と石楠花をつけた五穀成就の札をもらって田に立てる光景が見られた。
なお、町内では「イシズキサマ」と発音されることが多い。


・・・

 

・・・


「金光町周辺の民俗」  岡山民族学会調査報告  昭和46年発行

石鎚の信仰

金光・鴨方町地域には石鎚信仰者が非常に多い。
この地域に石鎚神社が多く分布しているのも石鎚信仰者が多いあらわれである。
数字を示してみよう。
(笠岡市ぶん抜粋)
真鍋島 先達 14 大先達 0
北木島    109    5
神島      78   4
笠岡    244   10
今井    37   1
金浦   93  5
城見   44  2
陶山   52   2
大井  24  0
吉田  20   1
新山  30  1
白石島  10  0

先達の位をもらうには、5年以上石槌山に登拝しなければならない。
大先達は、長年の登拝を重ね、50歳を過ぎ、しかも宗教上の統率力を持つ人のみに与えられるという。

大正期の石槌山登拝の様子を記しておく。
家の前に、砂を盛り青竹を立てて、シメ縄をはった。
出発前日か当日に村の鎮守に参拝した。
衣装は白装束で、腰に鈴をつけ、六角形の杖を持った。
この杖は石鎚山の成就神社で求めることが多かった。
登拝者の集団は40人から50人くらいで、
先達の人は錫杖をもち、先達の絵符を錫杖に結びつけていた。
ホラ貝は、グループに一つか二つあった。

皮類は一切持っていかず、財布も皮のものを避けた。
登拝する人は、みな自分が神になったつもりで参ったという。
留守をあずかる家の者も、帰宅するまで、肉や魚は食べず、毎日神棚に灯明をあげた。

石鎚山に登る朝は、三時頃より起き、コリを取った。
コリを取らなければ鎖から落ちるといわれた。
登山のおり、息が苦しくなったり、鎖にとりかかった際などには、
六根清浄六根清浄ととなえた。
山頂に着くと、
石鎚神社のご正体に、体をなすりつけておかげを受けた。
ご正体に供えてあるお賽銭をいただいて帰った。
その場合、いただく金額の倍のお賽銭をした。

いただいて帰るものは、このお賽銭のほかに、
人形の猿、笹の葉、石楠花、ニッケ、お礼である。

村に帰ると鎮守に参った。
石鎚登拝の人々は、毎月一日集まって石鎚様を祭った。
石鎚講である。
次の石鎚登拝のため旅費を少しずつ積み立てた。

・・・

 

撮影日時・ 2011年7月13日  愛媛県西条市 /石鎚山 

 

 

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五月五日

2023年05月05日 | 暮らし

「子供の日」の頃は、日本がいちばん季節のよい頃で、
自分が子供だった時も季節感が楽しかった。
新聞紙で兜を折って頭にのせたり、
山に行ってカシワの葉をとってくれば、母が柏餅を作ってくれた。
家の裏にため池があり、そこから菖蒲を少し切り取った父が
束ねて屋根に投げた。
風呂に入れていい香りの湯がしていた。
鯉のぼりを立てる家があったが、鯉は一匹だけ泳いでいた。
今のように三匹いなかった。

 

(笠岡市北木島町 2023.4.22)

 

・・・


「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行


五月五日
端午の節句、男の子の祝いで、
よろい、かぶとなどを床に飾り、
鯉のぼり、のぼり旗、吹き流しなどを戸外に立てて祝う。

この日朝早くせんだんの木、よもぎ、菖蒲を束ねて上巳の節句と同じ場所にさす例がある。
せんだんは賢く、
よもぎは病気をしないように、
菖蒲は強く育つようにとの願望からといわれている。
この日は、
ちまき、かしわもちを供え、菖蒲湯をたてて入浴する。

 

・・・

 

(里庄町つばきの丘 2023.4.23)


・・・


「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行

菖蒲の節句
五月五日は男の子の節句。
床の間に武者人形や兜を飾り、粽(ちまき)や赤飯を供え、菖蒲を立てる。
神棚にも菖蒲を立てる。
屋外には鯉幟や旗の幟を上げる。
登の上に猿のぬいぐるみを一つ付ける。
菖蒲、茅、ヨモギ、センダンを束にして屋根の四隅に放り投げる。
これは、
火災除け、魔除け、邪気を払うという。

 

・・・

(総社市農マル園芸 2023.5.2)

・・・


「鴨方町史」  鴨方町 昭和60年発行

端午の節供

初節句のとき、嫁の里から鯉のぼり旗、
あるいは武者人形・かぶと・弓矢などを贈って来る。
六条院では、菖蒲にヨモギとセンダの枝を添えて神棚に供え、屋根の上に投げるという。
菖蒲とヨモギを藁でゆわえて屋根に投げるところが多い。
魔除けである。
この日は菖蒲湯をし、
女の人は髪を洗って、菖蒲で束ねて乾かしたという。
鯉のぼりは半月から一か月くらいの間立て、
節供がすむとしまうのが普通。
念の入った家ではノボリも立てた。
一般には、矢車や吹き流しなどはなく、紙幟であった。
だから風が少しあれば真一文字になって、景気のよい音をたててはためいていたという。
子供たちにとっては、
真田組みや農作業の手伝いもなく、飛び回って遊べる日であった。
菖蒲で鉢巻きをして遊んだという。


・・・

 

 

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笠岡の大仙様

2023年03月17日 | 暮らし

笠岡の大仙様はずいぶんにぎわっていた。

それは昭和40年代までで、昭和50年代から次第にお参りの人が減っていった。

 

画像・笠岡市笠岡・大仙院 2023年3月15日  

 

・・・

笠岡の大仙様


「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行

大仙参り

葬儀のあくる日(翌日)、
シアゲのあとに笠岡市の大仙院に参る。
経木に戒名を書いてもらい水向け供養をし、
線香を立てて拝む。
また死者の着物を棚に供える。(胡麻屋)

笠岡の大仙様は毎月旧24日が縁日で、市が立つが、
お参りして、苗やタネを買う。
縁日にはお参りの人々で賑やかだが、
ことに正月と盆には、お参りする人々で溢れる。

盆月には、
ご本尊の手に結んだ善の綱が、本堂内さらに、水向け地蔵まで張り渡される。
お参りの人々は、死者への小遣い銭を捻り銭として、この綱に結び付ける。
この銭が死者に届くという。
以前には、死者を呼び出してもらう(口寄せ)人々もだんだんいたという。

大山に参ると死んだ子にあえると言った。
人が死ぬと大山に参る風習は、現在では、消滅したといってよいであろう。
そのかわり、笠岡の大仙参りがさかんだといえよう。

・・・

 

 

・・・
「金光町周辺の民俗」  岡山民族学会調査報告  昭和46年発行


この地方や笠岡市ならびにその周辺では、
笠岡市の大仙院へ参る習俗が顕著に認められる。
初七日もしくはそれ以内に、また七七日(四十九日)または、その月以前に大仙院へ参る習俗は濃厚である。
そして大仙院に詣れば、死者に会えるという信仰は根強い。
ことに、子供の死の場合には、参らねばいけないことのようにさえ考えられている。
また、生前の着物、また玩具や菓子などを持って参ることが注目される。

大山まいり(六条院)

毎月旧の24日に笠岡市の大仙院へ参る。
その中でも、年の暮とはじめが多い。
死後、葬式がすんでから、
濃い者が一週間以内に参る。
参る折には、
死者の生前の所有物を持ってゆく。
新仏の時分には毎月参る。
塔婆を買い、経木を流したりする。


大山まいり(里庄町)
笠岡の大仙さまへ参らにゃならんことにして参る。
埋葬してから大抵七日(シアゲ)につれのうて参る。
四十九日にも、つれのうて参る。

・・・・

 

 

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三郎島の話

2023年03月06日 | 暮らし

三郎島の峠で、農夫の方がひと休みしていた。
三郎島の話を聞いた。

日時・2023年3月3日 浅口市寄島町三郎

 


・・・・

イノシシはまだおらんけど、タヌキがいる。
タヌキは何でも食べる。
芋もダイコンも食べられてしまう。

イノシシは柵を飛び越えるが、タヌキは柵の下をとおてくる。
(防護柵が別ということと、島の畑にその費用はあわない)

仕事は朝する、
誰ぁれも昼からはしない。
そしたら、それを知っとる外国人が一人でなく集団で来てミカンを盗ってしまう。
見つけた人が言うと、
「オカネナラ ハラウヨ」と言う。
何んも悪いことをしょうると思うておらん。
人がおってもなめとるなあ。

ここらは山じゃあなく、全部畑だった。
しだいに畑をせんようになって
あの桜のまわりも手入れがまわらんようになってきている。

 

通学船(学校船)


ワシが小学生の頃は、干たら歩いて行きょうた。
学校船ようた。
台風の時はよかった、学校が休みで。ハッハッハ(笑)
三郎の人は全員、
小学校から高校生まで、集まって船で行っていた。
行くときは全員じゃが、帰りはそうでもなかった。
干た道はクルマエビがぼっけいおって面白かった。
潮は日がわかっとるので、船と徒歩は決まっていた。

大人はみんな船を持っていたので、
自分の船で(本土に)行っとった。
便乗させてもらったり、用事を頼んだり、頼まれたりもしとった。

夏やこはえかったが、冬のさびい時にゃあ雪が舞うことが(今よりは)多かった。

 

・・・・

 

 

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