笠岡市の山で、
いちばん多い名は「竜王山」次に「石鎚山」。
各小学校区に竜王山と石鎚山はあるように思う。
この地方に”石鎚講”は多く、
今も形を変えながら、四国石鎚山へ登る人は多い。
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矢掛町史・民俗編」 矢掛町 昭和55年発行
石鎚参り
石鎚山登拝は古くから行われているのであるが、
現在古老より聞きうる、
大正から昭和初年ごろの石鎚参りを記してみよう。
石鎚参りは田植えの終わった直後、
先達を中心に50~60人の人が組を組んで参った。
思い思いの服装の人が多かった。
歩いて夕方笠岡市西浜に着いた。
その夜、舟で西浜を出、翌朝伊予の壬生川港に着いた。
舟は櫓を漕いだので、潮の加減で遅れる場合もあった。
壬生川から黒川まで歩き、はじめて宿についた。
宿を早朝出発し、石鎚山に登った。
登る途中には
「ナンマイダー、ナンマイダー」
と声高に唱えた。
山頂のご神体に体をなすりつければご利益が得られるので、競って触れた。
石鎚参りの土産は石楠花の葉、熊笹、縫いぐるみの小さな猿、ダラニスケ、ニッケなどであった。
石楠花はの葉は、田や畑に棒で立てると虫よけになるといわれた。
熊笹の葉は、牛に食べさせると元気になると信じられた。
縫いぐるみの小さな猿は、子どもが授かるとか、元気に育つ伝承があり、
ダラニスケは胃薬になり、
ニッケは子供への土産であった。
往復5日ほどを要した。
村へ帰ると、人々は出迎え、道端に伏して石鎚参りの人にまたいでもらった。
またいでもらうと、病気が治るとか、ご利益を授かると伝えられた。
一番に村の石鎚社や山上様に参詣し、無事下山のお礼と報告をした。
家のものは、毎日神棚に灯明をあげる場合もあった。
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「金光町史」 金光町 平成10年発行
石鎚講
町内で盛んな講の一つに石鎚講がある。
四国の石鎚山を信仰する講で、
遥拝所のある佐方を中心に、町内で百数十軒が加入している。
7月に夏山と呼ぶ石鎚山登拝の行事があり、
以前は沙美や寄島から船で、
現在はバス二、三台で石鎚山に参っている。
かつては夏山から白衣の行者たちが帰ってくると、
道に伏せて迎えてまたいでもらったり、
石鎚山の笹と石楠花をつけた五穀成就の札をもらって田に立てる光景が見られた。
なお、町内では「イシズキサマ」と発音されることが多い。
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「金光町周辺の民俗」 岡山民族学会調査報告 昭和46年発行
石鎚の信仰
金光・鴨方町地域には石鎚信仰者が非常に多い。
この地域に石鎚神社が多く分布しているのも石鎚信仰者が多いあらわれである。
数字を示してみよう。
(笠岡市ぶん抜粋)
真鍋島 先達 14 大先達 0
北木島 109 5
神島 78 4
笠岡 244 10
今井 37 1
金浦 93 5
城見 44 2
陶山 52 2
大井 24 0
吉田 20 1
新山 30 1
白石島 10 0
先達の位をもらうには、5年以上石槌山に登拝しなければならない。
大先達は、長年の登拝を重ね、50歳を過ぎ、しかも宗教上の統率力を持つ人のみに与えられるという。
大正期の石槌山登拝の様子を記しておく。
家の前に、砂を盛り青竹を立てて、シメ縄をはった。
出発前日か当日に村の鎮守に参拝した。
衣装は白装束で、腰に鈴をつけ、六角形の杖を持った。
この杖は石鎚山の成就神社で求めることが多かった。
登拝者の集団は40人から50人くらいで、
先達の人は錫杖をもち、先達の絵符を錫杖に結びつけていた。
ホラ貝は、グループに一つか二つあった。
皮類は一切持っていかず、財布も皮のものを避けた。
登拝する人は、みな自分が神になったつもりで参ったという。
留守をあずかる家の者も、帰宅するまで、肉や魚は食べず、毎日神棚に灯明をあげた。
石鎚山に登る朝は、三時頃より起き、コリを取った。
コリを取らなければ鎖から落ちるといわれた。
登山のおり、息が苦しくなったり、鎖にとりかかった際などには、
六根清浄六根清浄ととなえた。
山頂に着くと、
石鎚神社のご正体に、体をなすりつけておかげを受けた。
ご正体に供えてあるお賽銭をいただいて帰った。
その場合、いただく金額の倍のお賽銭をした。
いただいて帰るものは、このお賽銭のほかに、
人形の猿、笹の葉、石楠花、ニッケ、お礼である。
村に帰ると鎮守に参った。
石鎚登拝の人々は、毎月一日集まって石鎚様を祭った。
石鎚講である。
次の石鎚登拝のため旅費を少しずつ積み立てた。
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撮影日時・ 2011年7月13日 愛媛県西条市 /石鎚山