しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学校の工場化

2020年11月29日 | 昭和16年~19年
学校の工場化・笠岡市

笠岡市史 第三巻 平成8年発行 

昭和19年2月25日、政府は「決戦非常措置要綱」を決定する中で、学徒動員体制の急速な整備確立を期するため、
学校校舎の工場転用を強く打ち出している。
2月26日合同新聞には、
「学徒は工場に出向くことなく、学校内に於いて軍需生産に従事せしめ得るようにし、たとえば、
女子校などでは雨天体操場に軍被服廠のミシンを移して、軍関係の被服製造にあたる」

笠岡市域では笠岡工業学校と笠岡淳和高等女学校の二校で実施されている。
『笠工50年史』から引用してみると、
昭和18年10月に「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、軍国主義国家の要請によって、
全国の大部分の商業学校とともに、笠岡商業学校も工業学校に転換した。
しかし工業教育としての施設や設備・教材や教職員は皆無の状態であり、
更に物資不足とも相まって教育推進の困難は想像を絶するものがあった。
施設・設備の充実と実習を可能にしていくためには「学校工場化」にふみきらざるを得なかった。
昭和20年呉海軍工廠造機部を誘致して学校工場化の契約を完了した。
武道場の床をはがして鋳物工場を造った。
教室は機械工場に、講堂は仕上げ組み立て工場になった。




学校の工場化・福山市


広島県史 近代2 

福山高等女学校は昭和19年7月より、事実上、陸軍被服廠の下請工場と化した。
同校の校内にはミシンなどの機械が設置され、生徒は被服廠員となって、ボタン付け、穴かがり、まつりなど
軍服仕上げ作業を行うことになったのである。
この作業もはじめは上級の生徒だけで行っていたが、だんだんと下級生を含めていった。
教室の工場化は拡がっていった。
昭和20年になると事態はいっそう深刻化し、授業が停止されることになった。
同年3月政府は「決戦教育措置」を決定し、
「国民学校初等科を除き学校に於ける授業は昭和20年4月1日より昭和21年3月31日まで原則として停止する」ことになった。





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昭和20年代の政治・政党

2020年11月28日 | 昭和21年~25年
ライシャワーの日本史 文芸春秋 1986年発行 


昭和20年代の政治・政党


1920年代の政党活動の趨勢があまり形を変えずに戦後まで生き残っていた。

1945年10月初め、旧民政党が進歩党として生まれ変わり、20年代のリベラル派外相であった幣原喜重郎を党総裁に選出した。
幣原は既に首相に就いていた。
旧政友会は、自由党の名のもとによみがえった。
戦前の社会大衆党は社会党と名乗りスタートを切った。
1924年以来非合法だった共産党も再発足した。

自由党は、老練な鳩山一郎が率いていたが、占領軍は総選挙直前に鳩山を追放した。
後継の総裁には、元外務官僚で駐英大使の吉田茂が就任した。同年5月に首相となり7年間首相の座を占めた。
戦後27年間の3年間を除き、歴代首相はすべて官僚出身者が占めた。





当時の日本政府は、アメリカ占領政策の執行者という特異な役割を演していたが、吉田の立場はそれを端的に物語っていた。
国会では少数与党だけを頼りに首相の座を守りつづけたが、
政府の最大の仕事といえば、アメリカ側と折衝し占領政策に影響力を与えるよう努めることであった。
この任務を遂行するうえで、堪能な英語力がものをいったから、占領下の4人の首相のうち、幣原・吉田・芦田の3人までが外務省であったのも偶然ではない。
吉田は占領軍を後ろ盾にし、高圧的なやり方で事を運ぶことができた。

日本にとって、1945年の降伏につづく10年間は、混乱と苦難の10年であったが、日本はよくその外的内的後遺症を克服した。
革命的動乱も社会的崩壊も、なに一つ怒らなかった。
日本人の変革への欲求とアメリア人の改革への熱意がうまく溶けあって、政治と社会の趨勢を形づくった。
議会制民主主義がしっかりと打ち立てられ、生活も安定を取り戻して、日本は驚くばかりに平等で階級差のない社会となりつつあった。
国際社会への復帰も認められ、内気で控え目な国ながら、ほかの諸国の善意と国連の恒久平和の理念を信頼したいと熱望していた。

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電話をかける

2020年11月27日 | 初めてのこと
電話をかける

高校生になって、名簿表(とでも呼ぶ)氏名・住所を書いた一覧表に電話番号を書く人が何人かいた。
その時、驚き、また高校生になった事を実感もした。
電話を書いた人はお金持ちと、親が商店の人だった。
中学生までの名簿には電話番号は無かった。それが普通だった。思いもしなかった。


高校を卒業する春休み、解放的な3月
友人から電話のかけ方をおしえてもらった。
仁王堂の本屋の前に公衆電話があった。
傍らにいる友の言うように、右手の人差し指でダイヤルを何度か回した。
そしたら呼び出し音がして・・・相手が出た。


その頃、坂本九の「明日があるさ」という歌が流行った。
あの歌と気持ちはよく似ていた。
♪  思いきってダイヤルを
   ふるえる指で回したよ
   ベルがなるよ ベルがなるよ
   出るまで待てぬ僕
   明日がある 明日がある 明日があるさ



・・・・・・・・・・


笠岡市政だより  1957年(昭和32年)3月25日

公衆電話

電電公社では次の場所に公衆電話を設置して、皆さんのご便利を図っております。
せいぜいご利用ください。


笠岡 市内各郵便局
駅構内 笠岡駅販売店
駅前 金藤商店
西本町 電報電話局
住吉 大西商店
大久保 小寺商店
くじば 桑田商店
伏越 田林商店
高島 高島小学校
用之江 城見農協
吉浜 金浦農協
吉浜 高橋商店
生江浜 松浦商店


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井原の製糸・養蚕

2020年11月27日 | 昭和元年~10年
井原の製糸・養蚕

「井原市史Ⅱ」 井原市史編纂委員会  平成17年発行


桑園

明治23年(1890)の桑園面積を基準にした場合、昭和4年(1929)は全県で8.9倍に面積が拡大している。
後月郡は37倍、
小田郡は20倍にもなってもいる。

桑畑の畑地に対する比率は昭和4年の全県28%。
後月郡27%、小田郡22%と県平均に近い。
全県の桑園に占める比率を見ると、小田郡が8.2%、後月郡が4.2%であり、小田郡は県内でも桑園面積の広い地域であった。

岡山県の場合、養蚕はあくまで副業であり、水田率の高い地域が桑畑の対畑地比率が高い傾向にある。
つまり畑地の比率の高ければ、畑地で食料生産をしなければならず、桑園の拡大には限界があった。


中備製糸

明治26年(1893)に設立された中備製糸株式会社は、その後順調に発展する。
大正2年、創業20周年記念祝賀会が開催された。
女子従業員のための裁縫などの夜学校を開始した。
職工数は大正7年には237人まで増加した。
大正11年には350釜となった。





原料繭は県外から次第に県内、やがて井原の周辺地域中心になった。

損益状況は、かなりの変動がみられる。
繭の不出来、糸価の低落、経済一般。
第一次大戦で乱調子。
大正15年から生産調整。昭和4年以降は赤字続き。
昭和7年に解散した。
昭和初期、多くの製糸場が倒産し、郡是・片倉を頂点とする大手製糸会社への集中がすすんだ。

購繭時期には、井原の中備製糸の前には、繭を売りに来たり、運んできた農民たちで大変賑わった。
製糸女工たちは給料で井原の商店で買物をし、商店の経営を潤した。
昭和7年の解散時には、
「農村並びに商店街も不況にあえぐ折柄、いっそう不況が深刻化するであろう」と報じられた(山陽新報)。


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終戦前後の岡山県の新聞

2020年11月26日 | 昭和21年~25年
「岡山市百年史下巻」編集・岡山市 ぎょうせい 平成三年発行


終戦前後の岡山県の新聞



岡山市の『合同新聞』(現、山陽新聞)は一県一紙の政府の政策により、昭和16年県下の地域紙を合併、
昭和20年3月には本土が寸断されたときを想定して、題字の下に大坂紙朝日・毎日の題字も付けていた。
委託の形であった。
終戦前の県下で読める新聞は「合同新聞」一紙であった。
昭和20年6月29日未明の岡山空襲で本社も印刷所も焼失した。
上道郡幡多村’(現、岡山市)でタブロイド版の発行が続けられた。

一県一紙に統合させられていた新聞は再び分離へと動いた。
「倉敷日報」は昭和20年12月週刊「山陽日報」で復刊、のち日刊の「倉敷新聞」となる。
津山市の「津山朝日新聞」も21年1月復刊した。
用紙事情が悪く、新興紙に用紙割り当てが行われたため、昭和21年5月姉妹紙として「夕刊岡山」
(現、岡山日日新聞)が発刊され、11月には「山陽朝報」が出された。


『合同新聞』は昭和23年5月「山陽新聞」と改題、24年3月下石井(現、柳町)の新社屋に移り、山陽朝報を吸収合併した。

昭和24年12月「夕刊山陽」(現在の夕刊)を発刊した。
「山陽新聞」は岡山県下を主体に備後・香川へ進出していたが、
昭和30年には、さらに山陰・愛媛版も発行、赤穂だよりも掲載して拡張をはかったが、
のち撤収した。


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集団就職③市立井原高等学校

2020年11月25日 | 昭和36年~40年
井原市に定時制高校が出来たのは昭和39年で、同様な市町村に比べ少し遅い。











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ニュー井原市新聞 昭和39年4月1日号


市立井原高等学校 4月16日に開校


市立井原高等学校(定時制)は、その細目を次の通り決めた。


一・応募資格、昼間100人、夜間50人、女子のみ、普通科。
二・提出書類等、4月1日から4月10日まで500円を添えて提出。
三・学力検査、4月11日本校にて五科目の検査。
四・合格発表、4月14日 午前9時。
五・開校・入学式、4月16日。



・・・・・



ニュー井原新聞 昭和39年4月21日号

井原市立高校開校す

希望新たに151名が入学

開校並びに入学式は4月16日、
県立精研高校講堂を会場に入学を許可された151名(昼間97名、夜間部54名)の生徒・関係者・来賓等多数参集して盛大に挙行された。




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集団就職②新卒者を迎えた井原市繊維工業界

2020年11月25日 | 昭和36年~40年
昭和40年ごろ毎年の春、テレビの地方ニュースでは集団就職を報道していた。
場所は児島市(現・倉敷市)か井原市高屋町で、セーラー服の女性が集団で入寮するシーンが多かった。


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ニュー井原新聞・昭和35年4月5日号

新卒者を迎えた井原市繊維工業界
地区ぐるみの暖かい抱擁を
千人の求人に三百人の充足



笠岡職安井原出張所の手を通じて繊維関係の工場に就職した者は、若干の過年度卒業者を含めて約三百人である。
近来全国的に、求人数は求職者数を大幅に上回り、明年度以降も更にこの傾向よりの好転が期待できないという状況のもとにあっては、
これら新しく職場に入った人を固着せしめ、地域産業全体の興隆発展に資するかは、受け入れ者にとって実に重大な課題であると思う。
これら幼くかよわい産業戦士の大部分を、年々才々遠い県外から迎える一般市民にとっても、住みよい、働きやすい社会環境を供与するという問題については
、認識を更めておく必要がある。
弊紙ではこのほど、笠岡職安井原出張所を訪ね、平松所長からいろいろと聞いてみた。


今年度井原市内の繊維関係事業場から出された求人数はざっと千人。
これに対する充足数は約三百人。

内訳は
中学新卒が240人、
若干の過年度卒業生、
高卒者が混じっているのが特異だが、今後は高校生獲得に意をもちいなければならぬだろう。

充足先は、
山口県110人、
香川県16人、
岡山県17人、
あとは、鹿児島県63人を筆頭に九州全県。

30%しか充足できない現状について平松所長は、
中卒者の絶対数が少ない。
給与・福利厚生が十大紡に太刀打ちできない。
急激にノシてきた弱電関係が、段違いの好条件でさらっていく。

大企業に真似のできない良さでや、縁故関係、
職場と寄宿舎の、明るく働き易い施設設備、
社長や社長夫人が親身の相手になってやる。

新卒者がホームシックや職場に馴染めなくなり帰郷するのは、大体一か月前後で月平均2~3%と推定される。
これら離脱者は、自分の辛抱できなかったことは言わず、就職先の悪口を理由にする者が多く、来年度の求人に支障となってあらわれる。
反面、いい便りが親許なり出身校に届けば求人の好結果をもたらす。


各職場からの求人要項の中には、
和洋裁、生花、茶道、その他将来家庭の主婦となるための教養をつけることを謳っており、
そのこと自体は立派なことではあるが、現実には回を重ねることに習う方の人数は減り、しまいには先生一人が残るという珍現象の例も少なくない。
昼間働きながら勉強するという特殊な事情は、抑圧を避け、解放の一時が介在しなければ効果をあげることができない。

以上語ったあと、平松所長は、
「女工」という言葉に変わる、もっと柔らかく、聞きざわりのよい言葉はないでしょうか、私自身は「従業員」という表現を用いていますが、おしえてほしいですね。
そして地域社会の皆さん方も、これら従業員に暖かいねぎらいの言葉をかけてやって頂きたい、と結語した。

なお井原市では5月中旬ごろ、新卒者の就職激励大会を催す計画を進めています。

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集団就職①就職列車

2020年11月24日 | 昭和36年~40年
「男船」を歌ってスターになった井沢八郎は、三菱農機のラジオ番組「田園ソング」から「あゝ上野駅」を出して、彼の代表曲になった。
それは管理人が高校一年生の年だった。
集団就職の人たちと世代が重なるが、中学校の同級生で就職する人が、「集団」で、ということはなかった。

いったい集団就職とか、就職列車とはどんなものだったのだろう?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「懐郷」 熊谷達也著 新潮社 2005年発行 より転記

鈍色の卵たち

貴子が国語の新任教諭として雫石中学校に赴任した二年前、昭和36年度から労働省の職業安定政策が大きく変化した。
中学校独自の就職紹介が実質的に禁止され、すべて職業安定所を通すようになった。
つまり職安を差し置いての教員による職場訪問は、就職前もあとも、おおっぴらにはできなくなったのである。

聡は当初から気になる生徒であった。
高校への進学を最初からあきらめていた。
聡は貧しい農家の家で、三男坊だった。
中学卒業後は就職、と生まれた時から決まっていたような境遇である。
進路指導では、親と本人の希望通りに、職安から回ってきた求人票を前に話を進める事しか貴子にはできなかった。

貴子が探していたのは、定時制高校への進学が求人条件に謳ってある企業だった。
ここ数年、以前には考えられなかったほどに中卒者を求める企業が増えていた。
求人倍率は三倍以上になっている。
墨田区の金型工場に決まった。

三月末の盛岡はまだ寒い。
ふだんは薄ら寒い盛岡駅のホームも、あの日だけは人いきれにむせ返るほどに、人また人であふれ返っていた。
盛岡市内と近郊の中学校だけでなく、県内あちこちから、集団就職の生徒たちと見送りの家族がいちどに集まるからだ。

引率する生徒たちと一緒に列車に乗り込んだ貴子は、窓の外を見て声を詰まらせた。
幾重にも重なり、鈴なりになった人々が、別れる子どもに向けて懸命に手を振っている。

やがて臨時列車は、静かにホームを離れた。
しばらくすると、出発の時とは違う泣き声、嗚咽を噛み殺す啜り泣きの声が、あちこちから聞こえだした。
ただただ静かに泣きじゃくるばかりである。
まだ十五歳の子どもたちだった。
どんなに心細い思いをしているかと思うと、慰めの言葉をかけることするためらわれた。
ひとしきり泣き止むと、今度は持たされた弁当やお菓子を黙々と食べ始めた。
食べることで涙をこらえるしかないのだろう。

盛岡から上野まで、今の急行列車なら九時間半で行けるとことを十八時間はかかったはずだ。
集団就職列車は臨時仕立てであるため、定期便や貨物列車の通過待ちで、しょっちゅう停まってばかりいるからだ。
生徒たちの詰襟やセーラー服の胸には、番号札がつけられていた。
たとえば「隅田12番」というように、受入れ先の職安の名前と整理番号を書いた札を、名札のかわりに胸につけることになっていた。

長旅で疲れきった子どもたちが上野駅に降り立つと、名前ではなく番号で整列させられ、管轄の職安職員が引き取って就職先へと連れて行かれるのである。
金色をした卵にはどうしても見えない光景であった。
貴子たち引率の教員は、黙って見送るしかなかった。
無理に笑顔をつくって手を振るしかなかった。
あまりにあっけない、上野駅での子どもたちとの別れだった。



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「天空の城」に登る 雲突城(利神城)

2020年11月18日 | 「天空の城」に登る
雲突城(利神城)
兵庫県佐用郡佐用町平福 






文句なし!


”天空の城”のナンバーワン!!!






平福の古い町並みの背後に聳え立つ利神城。



標高400mの山頂に、

石垣ははんぶん雪崩状に崩れ、ど迫力で迫る。









冬の朝。

山頂の本丸は白雲のような雲海が覆い、

時間とともに移動したり、消えたり刻々と変化する。











播州の山脈が現れ、平福の町が見えてきて

雲海は無くなる。










雲海が消えた後、

足元が険しい山頂に、石垣の全容が見えてくる。










山城を下る、

下って振り返る。









平福の町に戻る、

町から利神城を見る。


やはり”雲突城”という名がふさわしい。








登城日・2013年12月5日


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「天空の城」に登る 桃山城

2020年11月18日 | 「天空の城」に登る
伏見桃山城
京都市伏見区桃山町


伏見桃山城はJR奈良線の桃山駅から、(迷いやすい)坂道を上ってゆくと、たどり着く。









桃の山という地名通り、高所にあり、眺めがいい。








天主閣と櫓は、典型的な模擬天守だが

形があるだけで太閤殿下の時代を想像させてくれる。





ちょっとした遠足や、吟行などで一定の人気があるようだ。





登城日・2015年2月18日



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