学校の工場化・笠岡市
笠岡市史 第三巻 平成8年発行
昭和19年2月25日、政府は「決戦非常措置要綱」を決定する中で、学徒動員体制の急速な整備確立を期するため、
学校校舎の工場転用を強く打ち出している。
2月26日合同新聞には、
「学徒は工場に出向くことなく、学校内に於いて軍需生産に従事せしめ得るようにし、たとえば、
女子校などでは雨天体操場に軍被服廠のミシンを移して、軍関係の被服製造にあたる」
笠岡市域では笠岡工業学校と笠岡淳和高等女学校の二校で実施されている。
『笠工50年史』から引用してみると、
昭和18年10月に「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、軍国主義国家の要請によって、
全国の大部分の商業学校とともに、笠岡商業学校も工業学校に転換した。
しかし工業教育としての施設や設備・教材や教職員は皆無の状態であり、
更に物資不足とも相まって教育推進の困難は想像を絶するものがあった。
施設・設備の充実と実習を可能にしていくためには「学校工場化」にふみきらざるを得なかった。
昭和20年呉海軍工廠造機部を誘致して学校工場化の契約を完了した。
武道場の床をはがして鋳物工場を造った。
教室は機械工場に、講堂は仕上げ組み立て工場になった。
学校の工場化・福山市
広島県史 近代2
福山高等女学校は昭和19年7月より、事実上、陸軍被服廠の下請工場と化した。
同校の校内にはミシンなどの機械が設置され、生徒は被服廠員となって、ボタン付け、穴かがり、まつりなど
軍服仕上げ作業を行うことになったのである。
この作業もはじめは上級の生徒だけで行っていたが、だんだんと下級生を含めていった。
教室の工場化は拡がっていった。
昭和20年になると事態はいっそう深刻化し、授業が停止されることになった。
同年3月政府は「決戦教育措置」を決定し、
「国民学校初等科を除き学校に於ける授業は昭和20年4月1日より昭和21年3月31日まで原則として停止する」ことになった。
笠岡市史 第三巻 平成8年発行
昭和19年2月25日、政府は「決戦非常措置要綱」を決定する中で、学徒動員体制の急速な整備確立を期するため、
学校校舎の工場転用を強く打ち出している。
2月26日合同新聞には、
「学徒は工場に出向くことなく、学校内に於いて軍需生産に従事せしめ得るようにし、たとえば、
女子校などでは雨天体操場に軍被服廠のミシンを移して、軍関係の被服製造にあたる」
笠岡市域では笠岡工業学校と笠岡淳和高等女学校の二校で実施されている。
『笠工50年史』から引用してみると、
昭和18年10月に「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、軍国主義国家の要請によって、
全国の大部分の商業学校とともに、笠岡商業学校も工業学校に転換した。
しかし工業教育としての施設や設備・教材や教職員は皆無の状態であり、
更に物資不足とも相まって教育推進の困難は想像を絶するものがあった。
施設・設備の充実と実習を可能にしていくためには「学校工場化」にふみきらざるを得なかった。
昭和20年呉海軍工廠造機部を誘致して学校工場化の契約を完了した。
武道場の床をはがして鋳物工場を造った。
教室は機械工場に、講堂は仕上げ組み立て工場になった。
学校の工場化・福山市
広島県史 近代2
福山高等女学校は昭和19年7月より、事実上、陸軍被服廠の下請工場と化した。
同校の校内にはミシンなどの機械が設置され、生徒は被服廠員となって、ボタン付け、穴かがり、まつりなど
軍服仕上げ作業を行うことになったのである。
この作業もはじめは上級の生徒だけで行っていたが、だんだんと下級生を含めていった。
教室の工場化は拡がっていった。
昭和20年になると事態はいっそう深刻化し、授業が停止されることになった。
同年3月政府は「決戦教育措置」を決定し、
「国民学校初等科を除き学校に於ける授業は昭和20年4月1日より昭和21年3月31日まで原則として停止する」ことになった。