しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

織田信長 (岐阜公園)

2021年06月17日 | 銅像の人
場所・岐阜県岐阜市 岐阜公園 「若き日の織田信長像」






管理人の趣味に”低山登山”があり、登山道がある山となれば「城跡」「信仰・霊場」が多い。
岡山県・広島県を中心に山城には300~400城は登っていると思う。
中でも、岐阜城への登城は山として、城として、しかも天下取りの城で、さすがに他の山城とは比較にならない存在感や歴史を思わせた。
岐阜城跡は岐阜公園として整備され、長良川に接して、市民や観光客の憩いの場になっていた。






「織田信長」 土橋治重 成美堂 1972年発行

岐阜城

標高338mの金華山頂にあるこの城は、斎藤氏三代が居城としたころは稲葉山城といった。
永禄10年(1567)ここに入城した信長が岐阜城と改称した。
信長によって大改修を加えられた岐阜城は、当時、天下一の絢爛豪華を誇った山城であった。
三層の天守閣をはじめ、各種の櫓が建ちならび、山城の粋を尽くしたが、
居館もまた豪壮で優美なものだった。
宣教師ルイス・ルロイスは手紙に次のように書いている。

≪余がポルトガルおよびインドより日本に来る間に見た宮殿の中では、このように精巧、美麗なものはない。
石垣の石は驚くほど大きく、内部の各室はクレタの迷宮というべく、巧妙な工夫が施され、
第一階には15ないし20の座敷がある。
屏風、板戸の締金および釘はみな純金を使用している。
座敷の周囲の縁は良材を用い、それは鏡のような光沢があり、緑の壁の羽目板には日本、支那の古い歴史画が美しく描かれている≫

現在の天守閣は昭和31年に再建されたもの。







撮影日・2011年8月5日

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織田信長  (島原)

2021年06月17日 | 銅像の人
場所・長崎県島原市城内  島原城跡 「若き日の織田信長」

北村西望の作品。
北村西望は地元長崎県出身の彫刻家、文化勲章受章、享年はなんと103歳。





「室町期」  山崎正和  講談社文庫  昭和60年発行

織田信長

青年期の信長がわざと愚純をよそおい、異様な風態でひとびとの耳目を驚かせたというのは、よく知られた逸話である。
美濃の斎藤道三と初めて会見した時にも、
彼はまず「かぶき者」よろしく、茶筅髪に虎の皮の袴という姿で現れ、いよいよ面会という瞬間に、
一転して粛然たる正装で道三の前にたったといわれる。
道三はこの青年が只者でないという印象を抱かされるわけだが、
こうゆう自己演出のうまさは、信長の生涯にわたって発揮されている。






島原城は壮大な城で、農民の築城の負担が島原の乱の原因になっているといわれる。
来てみると、それが実感できた。




撮影日・2012年5月8日



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浅井三姉妹

2021年06月17日 | 銅像の人
場所・福井県福井市中央   北ノ庄城跡
製造・2010年(平成22年)


浅尾三姉妹は、織田・豊臣・徳川すべてに婚姻関係があり、
格好の時代小説素材で、主人公でも脇役でも、小説やドラマや大河ドラマに何度も登場している。









「日本史探訪10」 角川文庫  昭和58年発行
お市の方と淀殿 戦国の世に散った美貌の母娘
永井路子 杉本苑子


お市と長政の間に生まれた娘お茶茶が、のちの関白秀吉の妻淀殿となる。
戦国の男たちの政争にまきこまれ、波瀾に満ちたこの母と子、お市と淀殿の生涯。


永井
政略結婚は、ある意味では自分の家、または国を背負って外国へ行くということです。
要するに外交官です。
女性大使として、相手の機嫌を損じないように、実家の不利にならないように、そして両家の間に戦争が起こらないように。
それに妻としての勤めが加わる。それが大名社会の結婚だった。
ばかではとても勤まりません。
できの悪い娘は身内や家来にやってしまうんです。

杉本
小谷城が落城したとき三人の娘と二人の息子がいました。


お市の再婚
天正11年、勝家62才、お市36才で猛火に包まれて消えた。



淀殿


23歳になった茶茶は、秀吉の最初の男の子を生み、山城の国淀城を与えられて、淀殿と称せられた。
この長男は死ぬが、すぐ次の男子を生んだ、のちの秀頼である。
跡継ぎのなかった秀吉は、これを熱愛した。
その愛を背景に淀殿は第一の権力を誇り、その勢いは正妻北政所をしのぐばかりであった。

秀吉が慶長3年(1598)、62歳で死んだとき残された淀殿は32歳、一人っ子秀頼は6歳になっていた。
遺言に従い、淀殿と秀頼は大坂城にはいり、正妻北政所は出て尼となった。


関ケ原の合戦後、家康は征夷大将軍になり、次々に淀殿に対する懐柔策を打ってゆく。
11歳の秀頼を内大臣に任じ、
みずからの孫娘で、淀殿の姪でもある千姫を秀頼に嫁がせ、
その翌年には太閤秀吉を弔う豊国祭りを大々的に行った。


元和元年(1615)大坂夏の陣
天下の名城はついに落ちた。
秀頼23歳、淀殿49歳。
淀殿は、わが子に命をかけ、わが子の運命とともに破滅した。



(Wikipedia)


初(常高院)

京極高次の正室として京極家に入った。
京極家は、室町幕府の侍所の長官を世襲した四職の家門であり、出雲国・隠岐国・飛騨国などの守護を兼ねた名門の武家であった。
京極家はまた北近江の元の領主であり、浅井家の主筋でもあった。
初は三姉妹の中で最も格上の武家に嫁いだとも言えるが、当時の京極家は下克上により衰退し、浅井家や、後には羽柴家の庇護を受けていた。
また、高次の母(京極マリア)は浅井長政の姉であり、高次と初は従兄妹の間柄であった。
夫・高次は関ヶ原の戦いに先立って近江大津城で西軍の軍勢を足止め(大津城の戦い)した功により、若狭一国を与えられて小浜藩主となった。
高次に先立たれた後、初は出家して常高院と名乗る。
大坂の陣の際には、姉妹の嫁いだ豊臣・徳川両家の関係を改善すべく、豊臣方の使者として仲介に奔走した。
夫を支え、衰退した京極家を大名家として再興させ、三姉妹の中では一番多く落城(小谷城、北ノ庄城、大津城、大坂城)を経験している。


江(崇源院)

織田政権下における尾張知多郡の国衆佐治一成(母は市の姉・お犬の方)、豊臣政権下における秀吉の養子(甥)豊臣秀勝との婚姻の後、
家康の嫡男で後に徳川2代将軍となる徳川秀忠の妻(御台所)となり、徳川将軍家に正室として嫁ぐこととなった。
3代将軍徳川家光や中宮源和子(後水尾天皇の中宮(正室)となり、明正天皇の生母)たちを産む。
自らの子孫を後代に残せなかった姉2人とは対照的に、多くの子をもうけた彼女の血筋は現在の明仁上皇・今上天皇・悠仁親王にまで続いている。。





撮影日・2015年8月3日  


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