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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

綿花  (江戸時代に茂平の人が作っていたもの)

2025年08月28日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

江戸時代や明治に、高祖母が作っていたものは何だろう?
米・麦・黍
サツマイモ
綿花がすぐに思いつく。

江戸時代後期から明治中期まで、綿は瀬戸内地方を代表する農作物だった。


茂平の吉原地区は江戸中期の干拓地で、土地は塩分があった。
父の話では麦の裏作だが、
父以前では綿が表作であっただろう。

吉原には管理人が小学生の時まで綿畑が点在していた。
白くふいた綿畑の光景は今でも印象深く覚えている。

綿は白い部分を仲買人のような人が集めにきていた。
売るのでなく綿打ちをしてもらっていた。
ちゃんちゃんこの中にいれたり、ふとんに入れていた。

 

・・・

(管理人の高祖母・1847~1943)

 


・・・・
(父の話)
綿

綿は塩分をいくらか含んだところの畑で、麦の後作で植えていた。
ほりあげの畑に植えとった。内海のネキは塩分があるんで。
綿はようできとった。

談・2001年1月5日


・・・・

 

「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


綿

綿の本格的栽培は江戸時代から明治20年ごろまでである。
安い外線の輸入によって生産が減少した。
無霜期間200日(7ヵ月近く)といわれるように、霜に弱い作物である。

温暖な地方でも「地に合う」ところと、合わないところがあり、合わない田畑では綿がふかない。
「地」に合う田畑では毎年のように作られたので、その田畑は「ワタバタケ」と名が付いていたほどである。
県南の干拓地ではまず綿を植え、シオヌキをした。
金肥として干鰯などが重要な肥料であった。
収穫は手摘みで人手を要したので、子供たちをかり出して手伝わせた。

 

・・・

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

綿

平地で作られた。
春八十八夜ごろに蒔いて、8・9月ごろに収穫した。
綿の実がふいてくると、摘んできて干し、実と綿の繊維を分けて、綿打ちをした。
綿打ちの大きな弓をもって綿打ち廻った。
糸にしなくなってからは布団綿にして自家用に作られた。

・・・・

綿

「金光町史」

金光町は浅口郡内でも有数の綿の産地であった。
幕末から明治初めまで、綿を各地で栽培し、実綿や繰綿を玉島港に出していた。
このあたりの綿作の最盛期は天明2年(1782)のころであろう。
稲よりも綿収益が上り、アゲ田をした。
アゲ田とは肥土を除けて砂を入れ肥土を戻す、綿作によい。
収穫したのが実綿で、それを綿繰機(ネジワク)で繊維と実を分け、
繊維が繰綿になる。

繰綿は、綿打ちの弓で繊維をほぐす。
綿打ち屋に頼んで綿打ちをしてもらった。
次に枡の裏などの上で綿を薄く延ばしてシノに巻き、糸車で撚りをかけると手引きの木綿糸になる。
手引きの糸は太さが一様でなく、仕事着によかった。
ほぐした綿は布団綿にしたり、着物の中綿に入れた。


・・・・

綿

「福山市引野町誌」 

水野藩は大規模な新田、塩田の造成を行ったが
新田をはじめとして藩内に綿作を奨励した。
藩は綿を米の代替えとして租税の対象とした。
新田での綿作が、商業的ペースに乗ったのは、水野藩末期から阿部藩に入ってからと思われる。
江戸時代中期には米作よりも有利なため盛んに綿作が行われていた。
末期になると良田化も進み、田は米作が主体となったようである。
明治になって更に増えて、備後の特産物のトップとなった。
ところが外国綿が輸入され明治18年を頂点にその後急減。
明治29年の綿花の関税が撤廃されるに及び、凋落は決定的となった。
綿作に代わって興隆してきたのが養蚕といわれている。

 

・・・・

「倉敷市史8」

綿作り

綿作には多くの手間と大量の干鰯や油粕といった金肥が必要とされ、
さらには天候によって作柄が大きく左右されやすい危険性もあったが、
綿花は、
各家庭で衣類や布団綿を自給自足するためばかりでなく、
農家に貴重な現金収入をもたらす商品作物として盛んに栽培されるようになった。

明治20年代後半になると生産量は急速に低落する。
以後は自家用の布団綿などが細々と生産されるにすぎなくなった。

明治13年に倉敷村に生まれた山川均は、その自伝で
「ふだん着は糸車から織った手織り木綿で、
少なくとも綿を作る農家は、糸を買う必要がなかった。
たいていの農家は、綿を作っていた。
ところが、機械で紡いだ紡績糸がでてくると、その方がはるかに精巧でしかも経済的だった。
そこでお百姓の家庭でさえも、糸車は急速に納屋や天井裏に追放され、綿の栽培はまれにしか見られぬようになった。」

・・・・

 

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岩蔵さん  (茂平の農家が作るもの・明治30年頃、綿花から果物に変った)

2025年08月28日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

江戸時代~明治中期、備中・備後の新田で特に盛んだった綿花は明治20~30年頃急激に衰退した。
紡績工場が出来て、インドやアメリカの輸入品に値段と品種で負けてしまった。


茂平の農家は栽培していた綿花を、
紡いで織って縫って着る。
余剰品は売って換金していた。

綿花栽培を止めて、
糸や布は買うようになった。
綿花の代わりの作物が必要となった。

綿花の代わりに果物を作るようになった。
果物は茂平を代表する産業となった。

 

・・・

明治になって日本は生活も食も大きな変化があったが、
食では明治20~30年ごろから果物を食べるようになった。

果物栽培を代表する桃は、岡山県から多くの先駆者が出ている。
笠岡の渡邊淳一郎、
赤磐郡の大久保重五郎は「白桃」を発見、
井原の山室運平、
そして茂平・国繁の松浦岩蔵さん。


・・・

 

 

・・・

 

「城見のあゆみ」 城見地区まち協  2017年発行

城見の果樹
松浦岩蔵(城見の果樹王)

明治2年(1869年) 大宜に生まれました。 若い時から勉強好きで特に果樹栽培に熱心でした。 
日清戦争後 (1893年ごろ) 大宜から国繁に移って山林2haを開墾して 「国繁園」と名づけ、 
夏だいだい・ワシントンネー ブル・温州蜜柑・梨・甲州ぶどうを栽培し、
ぶどうのマスカットハンブルグを畑で栽培することに初めて成功しました。 
また除虫菊の山地での栽培にも初めて成功しました。 
この地方に現在のように果樹栽培が発展したのは岩蔵さんの研究と苦心があったからです。
岩蔵さんが生まれた大宜には小さな田畑があちこちに散らばっていて、農業をするにはとても不便でした。 
岩蔵さんは、軍隊に行っている時も農業の本を買って研究をしていましたが、 
農業の将来に不安を感じていました。 
そこで岩蔵さんは除虫菊栽培をヒントに、この地でのこれからの農業は果樹栽培が中心になると考え、
手元にある田畑を小作に出し、思い切って国繁に出て果樹栽培を始めることにしました。

 

・・・

有岡利幸 法政大学出版2012年発行

「桃」 

 

縄文時代に桃が渡来して以降ずっとその果実を、
食用や薬用として利用してきた。
桃の果実は小さくピンポン玉程度の大きさであった。
現在私たちが見るような巨大な果実は、
明治以降改良が行われたもので、近世以前のものとはくらべられない。
別種と考えてもよいほどの違いがある。

梅も桃も、
春の咲く花は美しさを愛でるというよりも、
薬の材料がたくさんできたなあというようにみられ、
そして実を結んだのちには、その実が薬とされた。

桃太郎
流れてきた桃は、川上からではあるが、
上流に桃畑があったような気配は伺えない。
流れてきた桃は神の授けてくれた桃で、木に生っている桃の実でない。


明治以降の桃
大きな果実をつける桃
 

明治時代になると、政府は勧業奨励のため、各種の事業に干渉してきたが、
農業も同じ熱心さで保護奨励につとめた。
明治初年に北海道を開拓するため、いわゆる開拓使を置き、
主としてアメリカより各種の果樹を買い入れた。
けれども当時の北海道は山林原野のすがたをとどめた土地であった。

今の新宿御苑に、もっぱらヨーロッパ種の果樹・野菜の種苗を輸入し、栽培して繁殖させ、各地に配布していた。

桃も明治6年、ヨーロッパから7品種、中国から華北系と華中系品種が導入された。
これらは在来品種に比べて果実が大きく、内質や風味が優れ、とくに中国から導入された上海水密桃と天津水蜜桃が注目された。

桃は明治初期には東京で苗木を養成し、有志の者に配布していた。
明治11年に清国から導入した水蜜桃がはじめて結実した。
明治28年以後に至って、
岡山県では土用水蜜桃、六々園水蜜桃、離核水蜜桃、白桃が発見され、
これらは有望種として各地で栽培されていった。

明治32~33年ごろ、
東京神田の果物店に天津水蜜桃が陳列され、
珍しくて立派な桃として一個十五銭でとぶように売れたという。

岡山県はむかしから桃樹栽培が発達したところで、
明治6年小田郡の渡邊淳一郎がはじめて桃樹の栽培に着手した。
御津郡の山内善男は、果実に袋掛けをしたところ、害虫の被害を免れた。
これにより岡山県下では栽培する者が増加し、年を追うごとに産額が増加したのである。
赤磐郡の大久保重五郎は「白桃」を発見、
白桃の育成は、わが国の桃栽培の歴史における品種革命といっても差支えないであろう。
大久保は離核化のため大正末期に「大久保」を育種交配した。


・・・

「日本の農業4果物をそだてる」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

果樹の話


庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。

生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。

 

・・・

「小田郡誌」


果樹園芸

本村の果樹栽培は殆ど大字茂平に属し、
海岸に沿える部落にして三面山、海に面するが故、気温他の二大字に比し暖なり。
本村の果樹は明治25、26年頃夏橙作付。漸次柑橘の栽培盛んにして、
近年
葡萄・無花果・梨・桃等の産出を見るに至る。

 


・・・

「瀬戸内の産業と交通」  横山昭市 瀬戸内海環境保全協会 昭和54年発行


明治の農業
小豆島

ところで現在の小豆島での主な農作物は、米をはじめジャガイモ・タバコ・ミカン・キクなどである。
ここではそれらの作物も含めて、小豆島における明治以後の主な作物の変化についてふれてみよう。

小豆島では明治時代のはじめごろは米や麦・サツマイモなどの生産が中心であった。

その後、明治時代の中ごろから終わりにかけて商品作物としてリンゴや温州ミカン・オリーブなどが導入された。
まず、リンゴ は明治20年(187)に二生村(池田町)へ導入されたが、それは早生種が中心であった。
これらのリンゴは 「青リンゴ」と呼ばれ、関西市場で好評であった。
しかし、明治時代の終わりから大正時代に綿虫の被害が発生したため、生産が一時減少した。
大正時代の終わりには硫酸ニコチンが綿虫対策に効果をあげたことから、再びリンゴ生産が増加し、昭和10年ごろに最盛期をむかえた。
その後は第二次世界大戦の影響や、戦後の青森県や長野県などのリンゴにおされて、小豆島のリンゴ生産は衰えた。
このリンゴに代わって、昭和30年ごろからスモモの生産が池田町で盛んになってきている。

 

・・・


父の話 (2002)

 数字は「小田郡史」城見村の数


年間収入 一戸平均年収 485円

そわんもねぇ。(そわぁな、もんじゃった。)

桃 353本


梨 2433本

梨が多かった。
どうめん・うつろ・しんがい、皆梨を植え取った。

腐って、予防しつきょうた。
雨が降りそうないえば予防、止めば予防。

タゴへ(予防薬をいれて)手押しポンプでするんじゃった

20世紀はおいしゅうて、おいしのができょうた。

やすうなりだしたんと、
腐るばあするんで、桃に植え替えた。(作者記・昭和20年代前半か?)


葡萄 16700本

「きゃん」葡萄が多かった。

牛 95匹


うさぎ 759000匹
殺して食ようた。

・・・

 

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茂平の内職・真田を組む

2025年07月09日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

農家の縁側(えんだ)には決まったように真田の道具がころがっていた。
どこの家にも真田をしていた。

 

真田(さなだ)は備中・備後の南部地方では内職というより副業に近い存在だった。

 

城見小学校の講堂は名称が「真田講堂(さなだこうどう)」で、
児童の学校自慢の一つだった。
戦前、城見尋常小学校の生徒が何年間も真田を編んで貯めたお金で建てた講堂。
ここで式や映画や学芸会をしていたが、昭和50年頃老朽化で壊された。

 

(城見小学校の真田講堂)

・・・・・・

当ブログ・2022年01月31日 

・・・・・・

小田郡史(大正13年版)の城見村史より

生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町

主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。


・・・・

(父の話)

真田講堂はまだなかった。
ちいとずつ貯金をしていって作った。
えっとみんなで貯金していた。
2000・5・14


真田を編む 

裸麦の穂をそろようた。 先は先で取り、中は中でとりょうた。
上の細いとこと、真中辺を切る。

麦は硫黄でうむして白うして、乾燥させて、真田にしょうた。
真中は潰して真田、先のエエ部分はごぶしをなようた。

子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。
学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。
時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。

今はだれもしょうらん。
麦を植える人もおらんし、乾燥炉もねぃ。

談・2000・6・17

・・・・

(母の話)

真田

裸麦をはやめにとりょうた。
雨がふったらいけん。色が変わるけぃ。

けっこうに並べて硫黄をかけてうむす。そりょうを外へ並べて干しとく。
「うむし」はどこの家にもありょうた。

そりょうをとっとく。長屋の上へ。
ちぃちぃとだしちゃあ真田をこしらようた。

談・2001・1・1

・・・


「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館(福山市大門町) 昭和52年発行

麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほとんどで、
戦前は小学校で講習、競技会がもたれた。

・・・


・・・

福山市「引野町史」
麦稈真田

当地方での麦稈真田の製造は、明治21年ごろ大津野村在住坂本弁右衛門が、
岡山県浅口郡地方に赴き、好業種と認め、自ら習得して帰ったのが始めと伝えられている。
当初は製品を浅口郡地方の商人に売却していたが、
明治24.25年になって、村では2~3の業者が、原料を供給して村内の人々に賃組みさせたことから漸次従業者が増加した。

明治26年になって原料の麦稈に改良が行われた。
すなわち、品種に長稈の「やはず」を選び、
やや青刈りしたものに硫黄漂白を施して良好な結果を得た。
こうして原料を自家生産することにより収益を得た。
また明治27.28年になると、隣村の大津野村に輸出問屋の支店が数店開業し、
商取引も活発化した。

こうしたことから、30年代に入り村内では非常な隆盛を見せ、
農家の副業として殊に手作業ということから婦女子の内職として広く普及した。

売れ行きの増加は、米国を主体とした輸出の好況によるものであった。
好況の反面、粗製乱造や競争買いが続出した。防止策として明治43年、広島県真田同業組合を創立した。

麦稈真田は、国外国内ともに夏の日除け帽子として主に使われた。
夏の日除け帽子のうち通称カンカン帽は、明治後半から大正時代流行した。
しかし昭和年代に入るにしたがいしだいに衰え、第二次大戦中は輸出は皆無となり、
以後は国内の一部需要に支えられているにすぎなくなった。

・・・・・

「神島史誌」

横江小学校
昭和6年9月14日 真田競技大会
昭和7年9月20日 校内麦稈真田競技会
昭和10年9月10日 麦稈真田競技会
昭和11年9月8日と9日 麦稈真田練習会
昭和13年10月3日~8日 真田編み会
昭和30年冬休み中の真田出品により児童用雨傘25本備え付け

神内小学校
昭和10年11月20日 真田競技会

・・・・


「倉敷市史8」

麦稈真田

材料となる裸麦はヤハズなどの品種が適している。
ヤハズは太くて伸びがよく、つやもよい。
第一関節が特によく伸びる。
早生種であるから入梅までに採取できる。
上質の麦稈を確保するために、青刈りと称して適期の1~2週間前に刈り取った。
そのため麦としては収穫が減少し、麦の品質も劣るが真田の生産による収入増はそれを遥かに上回った。

「千歯扱き」で穂を落とした棹は、三節のところより押切で切り、その夜「晒小屋(さるしごや)」で晒す。
翌朝漂白した美しい麦稈ができ上り、天気がよければ2日ほどで乾燥が仕上がる。

藁の二節(にぶし)の手前を鋏で摘む。これを荒摘みという。
天日干しをして袴をそぐり(除く)、次に先節の手前をまた鋏で摘んで天日干して先の袴をそぐり、
二節は節をそろえて小束にして、押切で切り落とす。

その後、「調選(ちょうせん)」で下ろし太さの選別をする。
問屋の注文を請けて「とんび」(仲買人)が真田紐の見本をもってくる。
この注文にあわせて、先は丸のままで、二節は「突割」で二つ割、二つ半割、三つ割というように、麦稈を割って使用する。

真田を組む
真田紐を編むことを、組むといった。
現金収入の少ない田舎のことで、手の動かせるものは全部真田組をした。
組み方は簡単な三平から複雑な五菱まで30種類以あった。

麦稈真田組みは永らく農村の経済を支え、わが国の外貨獲得にも大きく貢献してきた。
大正初期~昭和5年頃が最盛期、
昭和30年代、産業構造の変化で真田組みは終幕を迎えた。

 

・・・

「岡山県史」


真田組み


原料は裸麦わらで、
品種のうち、ヤハズは節間が長いので真田用に適している。
青刈したヤハズわらを麦稈燻蒸小屋に入れて、硫黄を燃やして漂白する。
麦わらは穂の方から先・中・三節といい、四節以下は切り捨てる。
麦わらで三平と五平(五ベタ)という真田に編む。
老人・子供といわず、 冬なら炬燵で、あるいは歩きながらでもできる簡単な作業のため、 重要な副業になっていた。
夏には近所中の子供が一カ所に寄って 真田組み、夕方には牛を連れて外出、牛飼い子をしながら真田組みというのが、子供の生活であった。
第二次大戦前小学校では廊下に並んで真田組みの競争をしたり、真田一反組んでくることを 夏休みの宿題に課されたものである。
真田組みの講習会があり、規格にあった綺麗な真田を組んだ者には品評会で等級をつけ、表彰状・賞品を出していた。
第二次大戦後、一時高値をよび、トンビと称する仲買い人が家々を回り買い集めていた。
昭和30年代後半に、経木真田に移行した。

・・

 

さなだ


「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

明治20年代から農家の副業として婦女子を主体に、子供に至るまで家内中の仕事となっていた。
家では毎日の夜なべ仕事から、外では寄合いなどの始まる前など。

・・・

 

 

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イナ取り・内海の魚

2025年07月08日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

”いな取り”の日は、茂平の子供にとって夏休み後の最大の楽しみだった。


内海(うちうみ)はポンプ場から海に水を吐き出し普段よりいくらか水深を浅くしていた。・・・水深は20cm~50cmくらいか・・・。

竹篭(ウダと呼ぶ)を自転車や自動二輪車につんで茂平に来る。
9月の第一日曜日、茂平の土手は見物と参加者であふれた。

消防団は制服すがたで内海全域を見回りする。
土手には茂平婦人会が模擬店を出す。そこでラムネなどを販売する。

いちばんの見所はヨーイ・ドンで一斉に内海に入っていくとき。
壮観だった。
ザブザブと足音とウダの音で獲る人、見る人、みな興奮していた。


2時間前後で参加者は思い思いに終了していた。
堤防の向かい側の外海(ソトウミ)で汚れを落としたり、泳いだり(およいで落とす)していた。
塩はツテを頼って茂平の民家の井戸水で落としていた。

イナ取りに来る人は、ほとんどが自転車。普通サイズかやや大きめの自転車。
荷台にウダを逆さにして紐でくくって固定していた。

イナ取りに来る人は、駅家~神辺~井原~矢掛の人たちで
溜池の池干しで漁にウダをもっていた。
茂平や野々浜のイナは貴重な海魚となっていたと思われる。

【当ブログ・2014年12月14日】

 

・・・
(父の話)

ワシの子供の頃にゃもうやりょうた。(昭和ひとけた、または大正には)
やりかたは変わった。
(主催者が変わった)最初のうちは土地をもっとったひとがやっとった。(主催していた)
そのうちの一人に責任持ってやらしょうた。

途中から消防団が(主催)するようになった。
消防がして(その利益を)消防のものを買うようにしだした。
そりゃぁ、ワシが消防におる時からしだした。((昭和20年代か、管理人)

 

 

 

(福山市大門町「野々浜むかし語り」)

茂平の次の日曜日に野々浜で開催。

 

 

内海(うちうみ)の魚

内海にはイナやボラの他うなぎやエビやいた。
「イナ取り」を除いた、1年364日は”りょうやん”の漁場だった。
りょうやんは小舟を内海に浮かべ、仕掛けをして、漁をしていた。

りょうやんは内海の所有者でも権利者でもなかったが、その親の代から村人の公認で自由に漁をしていた。

・・・

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茂平の古墳(坂里の饅頭塚、お宮の宮山古墳)

2025年07月08日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

坂里の饅頭塚


茂平から笠岡や福山に行く場合、まず大門駅まで行かなければならない。
徒歩の場合は西ノ谷から林を通って駅へ。
自転車の場合は坂里峠を越えていた。

坂里の小高い丘に「饅頭塚」があった。
丘の上にあるので非常によく目だった。
あの古墳が岡山県と広島県の県境になるといわれていた。

この古墳はカナボコに似た形状で、空洞になっていた。
遺跡を掘って取り出す遊びを何度もしたが、何も出てこなかった。

昭和36.37年頃、
この古墳は完全消滅した。
古墳も、周辺の丘の畑も同時に消えた。

古墳は畑といっしょくたになって埋立土となった。
現在のJFE福山製鉄所の用地の土砂となった。
当時は歴史遺跡や史跡を、保存とか調査とか、そういう時代ではなかった。

・・・

福山市大門町「野々浜むかし語り」

饅頭塚

この饅頭塚は、6世紀に多く造られた横穴式古墳だったと思われます。

たぶん、いつの間にか古墳の土が崩れ、奥の石が取り除かれ北側にも入口ができたのでしょう。

・・・

 

「城見のあゆみ」

宮山古墳


茂平宮山に鎮座する旧茂平村社「八幡神社」の境内から箱式石棺と人骨二体が出土しました。 
茂平八幡神社は南東に張り出した30m程の丘陵地に正面を南東方向にして立地しています。
「二基の石棺は、ともに南東~北西に長軸を置くように平行に並び、その間隔は50cmばかりである。 
両者は完全に並行しているとは言えない。 
両者とも、長側には各四枚、短側には各一枚の花崗岩の平石を立てている。
蓋石は二号棺では三枚の平石が残っていたが一号棺では何も残っていなかった。 
しかし状況からみて、それぞれ四枚の平石で蓋がされていたものと見てよかろう。

この二つの棺からは人骨の小片が出土し、 鑑定によると一号棺は成年男子で二号棺は熟年男子です。
 南東方向の海を枕にし、副葬品は発見されていません。

・・・

 

 

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茂平八幡様の平和記念碑

2025年07月07日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

平和記念碑は、敗戦と世相の混乱が少し落ち着いた昭和25~26年頃建立された。
茂平の出兵者全員の名を刻んで、当時流行っていた言葉”平和”を祈願した。

戦前、
茂平の若者は徴兵検査後、大半は陸軍に所属し、
第10師団(姫路)歩兵10聯隊(岡山)や歩兵110聯隊に所属した。

歩兵10聯隊は中支の徐州~漢口や北満州の作戦、昭和19年からサイパン、昭和20年ルソン島で米軍と激戦した。
歩兵110連隊は満州から中支で作戦従事。


茂平に戦争遺跡はないが、
苫無から高丸への道に大津野飛行場の航空機を隠した。
神社参道前では「松脂」の採取をしていた。
各家庭には家に一つ、防空壕が義務付けられた。

大津野飛行場は周辺を米軍の機銃掃射され、その銃弾跡が阿浜(皿山)に残っている。

・・・

・・・

(父の話)2002年


航空機の燃料ゆうことで松根油を採った。松根油は大きな木でないといけなんだ。大きな松ノ木。

茂平では荒神さん、八幡さんの木から採った。

(ゴムの木と一緒じゃが)切って、そこからニヤを出しょうた。

それをこさげて取る。

(子供の仕事か?)の問いに

大人がしょうた。
じょが、ちょっとなかの事じゃった。負けたけぇ。

・・・


城見村の戦没者数は

   95人

本籍人口 3194人
比率     2.97%


・・

 

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珍しい地神、「社稷」 (茂平の新土手)

2025年07月06日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

”地神”と刻まれた円形の石碑は全国無数の村々に存在しているが、
”社稷”と刻まれた地神は珍しい。

大正時代の末期に数基建てられたようだ。
地神が建てられたのは江戸末期から明治末で、
社稷は地神建立の最期を飾るもののようだ。

なお備中備後は五角形の地神が多いのがこの地方の特色となっている。

 

 

・・・


「城見のあゆみ」 城見地区まち協  2017年発行


地神(社稷) 

「社稷」は 「しゃしょく」と読みます。 
 「稷」 は穀物の神を意味する言葉でした。 
土地とそこから収穫される作物が国家の基礎であるという考え方です。 
 「地神」として、あるいは木や石の5角柱に農耕に関わる5柱の神の名を刻んで丁寧に祀ったのです。
 春には、その年の豊作を祈念し、秋には、収穫を感謝する祈りをささげるわけです。

「社稷」 として祀るのもその1つの形なのですが、 極めて少ないのです。
聞き及んでいる範囲で書き上げてみます。 
茂平に3基、 用之江に1基、福山市大門町に5基、 福山市加茂町に1基 笠岡市有田に1基と、
わずか11 基だけなのです。
どうやら、大正時代の末に福山市東部か岡山県笠岡市の西部に、「社稷」が気に入った神がおいでになったようなのです。 
旗涯地のだけ記年を認めることが出来るのですが、それが大正12年(1923年) 12月なのです。

 大正12年なら1923年で、たかだか90年ほど昔のことで、調べればいろいろなことが分かるだろうと思ったのですが、
ほとんど何も聞き取ることができないのです。
記録したものを残し、後に伝える必要性が大いにあると考えました。


・・・

地神

「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

地神講(あるいは社日講)

地神を講組織で祭る所が各地にある。
春と秋の社日に祭るのが一般的である。
地神講では地神とか地神塔という文字を彫った石碑や石塔、あるいは五角形の石柱に神々の名を刻んだものを神体のごとく扱っている場合が多い。

「江戸末期から明治40年ごろまでに地神とほった石を立てる風が県内に盛んであったらしい。
それまでは石のカマを作って祀った。

・・・

 

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茂平の自然災害②関東大震災ほか

2025年07月06日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

大正12年・関東大震災

「笠岡高校70年史」という本には、大12年の関東大震災の時、笠岡の町がそうとう揺れた思い出が載っている。
当時父は幼かったが、茂平も揺れて家の庭に常夜灯の宝珠の部分が転がり落ちてきたそうだ。

 

父の話・2000年11月23日

落ちてきた夜燈の石

七つの時じゃ。小学校へあがるときじゃ。おべえとる。
その時に夜燈の石が道に落ちそしてウチの庭(カド)に落ちてきた。
そわぁに揺れたんじゃ。
土台基礎はしゃんとしていたがテッペンはのせとけただけなんで、落ちた。
他に茂平に被害は無かった。

 


 
昭和14年・備中日照り

 

その年、茂平では八幡様で雨乞いの祈祷して火を焚いたそうだ。
山口では、ため池の工事が始まった。「奥山池」


(奥山池は昭和18年に完成した。 笠岡市山口 2020.4.11)


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「城見のあゆみ」 城見地区まち協  2017年発行


茂平の八大龍王です。 
龍王は通常山の頂上近くちょっとした広場に祀っていて、 いざという時には、「千把炊き」 とか 「千貫炊き」とか言われるように
草木を炊きあげて雲を呼び雨を降らそうというものですが、 
茂平では、八大龍王ということで8本の石を海岸に横たえ、雨がほしいときは寝ている石を立ち上げて、 
龍王の怒りをかって雨にありつこうというものです。 

・・・

 

「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行

大門町東谷

昭和12年8月27日午後11時本村に70名の充員召集令状来る。
昭和14年村内の旱魃
5月田植えの際はかなり池の貯水もあり、田植えも完了せるに、
其の後天候引き続き旱天にて遂に出穂期にも降雨なく、肥料は殆ど全部に渉り施肥ずみなりしも出穂せず。
野々浜、河口池掛及び其の他少々の収穫を得たり。
全村にて91町歩の免租地を出せり。
故に全村にて食料を一か年完全に食する家僅かに数戸なり。
対策として土木事業即ち、池の修繕にて就労す。
男一人 1円20銭~1円30銭
女一人 80銭~90銭
野々浜森池は此の年新たに築造されしと聞く。

・・・・

「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行

森池

昭和14年頃から工事が始まった。
毎日50人位の地元の人が、朝の8時から晩の5時ごろまで働く。
補助金か何かあったのだろう、成人男子で1日1円20銭の手間賃が出た。
婦人や中学生はそれより安かった。
皆人力で、つるはしやモッコ、トロッコなどで作業した。
工事の大半は築堤に費やされ、4反ほどもある堤防の敷地の上に土を運んではつき固め、また土を積む、という作業を繰す。
地固めには松の胴切りに柄を二本付けたのをもって、土をつき固める。
堤防の核として、水の漏れない粘土質の土を使った「千切り(ちぎり)」を入れて築いてある。
森池が完成したのは昭和16年だったと思う。

ここで子供らはよく泳いだ。
わしは子供の頃、6尺ふんどしを垂らしたのを着けて、海の樋門の欄干から外海に飛び込みをしたりしてえっと泳いだ後、
タオルをもって森池に入り、立泳ぎをしながら洗って塩を落としたものだ。

・・・


「福山市多治米町誌」 多治米公民館  平成5年発行

連隊41連隊
昭和14年の旱魃

41聯隊でも節水を実行。
1日1食はパン食とし、洗濯、水浴のため芦田川上流大渡瀬橋まで度々行軍をしたという。

帝国染料も操業中止となり、井戸を掘り、ポンプ増設した。
新涯のものは、一合の米も取れずに全部買って食べねばならなかった。

 


平成30年の「2018西日本豪雨」

ヒルタ工業で6人生き埋め、そのうち2人死亡。

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茂平の自然災害①茂平の堤防が決壊した

2025年07月05日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

茂平の自然災害で最大のものは、明治17年の堤防が決壊し海水が流れ込んだことだろう。
隣の大津野村は死者5名、茂平は犠牲者はでなかったようだ。

 

 

 

2021年6月28日・当ブログ

子供の頃、祖母は「昔堤防が切れて海水が流れ込んだ」ことを何度も話していた。
昔というのは、祖母が若いころ経験した事だろうと思っていた。
祖母は明治28年に茂平で生まれた。
堤防が決壊したのは明治17年の事で、未曾有の出来事を祖母は自分の親や近所のおじさんたちから聞かされていたのだろう。

 

山陽新聞に明治17年の水島の決壊記事が載った。
記事を読むと140年前の、茂平の先人たちが体験した恐怖が蘇るようだ。

・・・

 

2021年6月18日  山陽新聞・文化欄 「温故知災・苦難の歴史に学ぶ」

「福田新田の悲劇---高潮の猛威」堤防決壊、次々と家屋漂流

 

福田新田旧5ヶ村(現在倉敷市北畝、中畝、東塚、南畝、松江)は幕末に誕生し、500ヘクタールを超す新たな農地をもたらせた。
周辺の村から入植した人々は、水はけの悪い低地がら米、綿、サトウキビ、梨などの栽培に励んだ。
だが徐々に生産が軌道に乗り始めた1884(明治17)年8月25日、悪夢のような災害に襲われる。


「雨戸は弓のようにしわり込み」、猛烈な嵐から、わら葺きの家屋を必死に守る住民たち。
日付が変わるころ、暴風の中で叫び声が聞こえた。
「堤が切れた、堤が切れた」

吹きつける暴風と台風通過に伴う気圧の低下、そして大潮と、高潮災害が起きる悪条件がいくつも重なった。
押し寄せる高波に、干拓地の西、南を囲っていた堤防が次々と決壊。
内部に海水が流れ込んだ。
住民の多くは暴風雨に耐えることに懸命だったため、潮水が屋内に浸入して、初めて事の重大さに気付いた。

「戸の隙間からドウドウと水がはいりだした。避難するところは何所もない」
追い詰められた人々は屋根の上へ逃れるよりしかなかった。
暴風の中、屋根わらに必死にしがみついたという。

高潮の猛威はさらに続く。
多くの家屋が水の勢いに押し倒され、住民を屋根上や屋内に残したまま、漂流し始めたのだ。
漂流する家同士がぶつかり、崩壊するなどの悲劇が各所で起きた。

ようやく空が白み始めたころ、
流された家々は福田新田の北、福田古新田との境にあった土手に折り重なるように漂着していた。
「青田、民家は残す所なく泥海と化し去り」
子を失った親があてもなく探し歩き、濁流の中で力尽き、妻子の手を離した者が大声で泣く姿など、
惨憺たる状況を遭難記は伝える。

1年後、当時の県令が慰霊のため「千人塚」の碑を建立している。
旧5ヶ村の住民は「千人塚奉賛会」をつくり、今も輪番で供養祭や清掃活動を行っている。


・・・

「岡山県史」

1884(明治17)の大津波

8月25日夜半から26日未明にかけて台風が襲来したため起こった災害である。
折からの満潮と重なり、高潮により堤防が決壊し、海水が広範囲にわたり流入し、未曽有の大惨事になったのである。
『山陽新報』は、
小田郡笠岡村は其の災を被る尤も甚だしく、海岸に添える人家80余戸尽く破壊し、
港中にある三百余艘及び港外に停泊する者皆市中に打ち上げられ、市中の高処と雖も尽く海水に浸され、
中の町筋は市中の中央なれとも、座板より水の高きこと数尺に及べり、人民は家具も何も捨て置て其の身のみ脱れ出て、
山上へ我も我もと逃げ登れり
と報じている。

・・・

「岡山の災害」 縫郷巌 岡山文庫 平成元年発行

明治17年の大津波

この年8月25日夜、台風が襲来し、ことに現在の水島・玉島 (旧福田村、連島村等)は 大津波が海岸堤防を破って押し寄せ大災害となった。


被害の状況
死者・行方不明 655人
家屋の流壊 2.217戸
田畑の荒廃 2.427町
25日午後4時ごろから雨を交えた東南の 風が強くなり、午後10時ごろから烈風雨、同12時ごろ数分間風力衰え(台風の目通過か)、
風向は南西に転じて、再び前に倍する勢力となった。 
折から海が満潮となったので、激浪が海岸堤防を崩し、大津波となって陸地に押し寄せ大被害となった。

被害激甚地 松江、南畝、東塚、中畝、鶴 新田、乙島勇崎の各村
被害甚大地 北畝、福田古新田、広江、呼 松、柏原、黒崎、寄島、西ノ浦、笠岡、 西浜、茂平、神島等

また、同日の津波は、遠く離れた和気郡日生・穂浪両村にもあり、両村で死者・行方不明12人、流壊家屋9戸の被害があった。

この災害にあたり、県は罹災者に対する食料、仮設住宅、農具などの支給、義援金募集(実績3万1千余円)など積極的な救援を行った。
また、皇室からの恩賜金3千円をもって蒲団2.600枚を作り罹災者に配付している。

 

・・・

「福山市史・上下巻」記述なし。

・・・

「倉敷市史」記述なし。

・・・


「寄島町史」

明治17年8月の高潮。
8月25日の夜、岡山県南部を襲った暴風雨は高潮を伴い激波は堤防を崩し、海岸を越えて陸地に襲いかかり、
居宅の流失するものも多く、深夜殊に暴風猛雨の間に襲ったためおびただしい溺死者を出した。
「岡山県の歴史」によると県全体では流失戸数2.217戸、死者不明655人、廃荒田畑は2.427町歩で、被害の最も大きかったのは水島灘沿岸であった。

本町では8月25日午前11時頃から空が曇り、豪雨が襲い、耳をつんざく雷も加わり、東から吹きたる暴風に怒涛は堤防を乗り越えた。
人々は必死になって防御に努めたので、昼間は幸いに何事もなかったが、夜半になって猛雨が西からきて奔涛激波がついに塩田の堤防数か所を崩し、
潮流一時に襲来するに及んでたちまち人家を浸した。
老幼男女は悲鳴をあげて避難し、家財は顧みる暇がなかった。
被害は、死者4、負傷8、流家39、破壊家13、破損家194、破損船63、流失船7、・・・・。
「寄島町沿革史」によると、路傍に泣き砂上に伏臥するもの数百名、目も当てられぬ惨状であった。
大浦神社の東馬場裏に大船が上がり、駐在所の屋根に小舟が打上げられていた。
・・・・その後、漸次冷気に向かい一層の餞寒を憂え、窮民一同が郡役場へ救いを求めに行こうとしたので、
斉藤戸長がこれを制し、郡長あてに伺書を提出した。


・・・

「大津野のあゆみ」

8/15大津波のため堤防破壊する。
耕地浸水90町歩、死者5名、一夜の内に郷頭山、烏帽子山の下まで一面の青海となる。(翌年修復)
時の戸長神原神次郎ほか3名が、県庁に嘆願し、国家補助を仰ぎ、堤を修復した。


・・・

東谷公民館新築記念ふる里のあゆみ」(福山市大門町) 昭和52年発行

明治17年7月5日夜

「堤防破潰し一夜の間に郷頭山、烏帽子山下まで一面青海となり、耕地浸水90町歩、田面の作物は海藻と化し、死者5名を出し、其の上家畜及び家屋の損害多く惨状を極めたり。と記録あるも家畜、家屋の被害の詳細判明せず。


・・・

「孫たちに語りつぎたい金浦

被災地区・吉浜。
7月、大嵐、大津波、生江浜・新川の両堤防決壊、家屋流出あり。

・・・


「城見村史」

本村漁業は往昔より副業的に営み来たりたる者の如し。
明治初年頃より17年頃迄は大部分打瀬網漁業を農業の副業として経営して来るも、
明治17年海嘯(津波)に依り漁船の破壊と共に漸次衰退に趣き、
爾来甚だ振るわず。
皆農業の兼業として、専業と目すべきもの極めて僅少なり。

・・・

 

 

 

 

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茂平新四国霊場

2025年06月29日 | 城見まち協「史跡散策(茂平)」2025.9.28資料

子どもの頃から茂平の88ヶ所の存在は、道べりに碑が建っていたので知っていた。
「ここは88ヶ所」と教えてくれる大人や子供もいた。
しかしお詣りする姿は一度も、一人も、見たことはなかった。


笠岡市内には二十余りの「88ヶ所霊場」があるが、「神島88ヶ所霊場」を除いてお遍路さんを見たことはない。
今はその神島でも、見ることが少なくなった。お遍路さんの宿も減った。

茂平の人々も、茂平に88ヶ所霊場があるのに、神島を巡礼した。

小田郡誌によれば大正時代にすでにすたれている。
父の話も同じで、
村民の苦労して造ったであろう「茂平88ヶ所霊場」も20~30年の繁栄でおわったみたいだ。

 

・・・

「城見のあゆみ」

 

・・・

 

「小田郡誌」

茂平新四国

明治11年頃本村大字茂平に新四国八十八ヶ所の霊場を安置し一時巡拝者多数ありしも今日に於いては漸次頽廃しつつある。

 
・・・

(父の話)


茂平新四国

(大正初期にはもう、すたれていると記されているが?)

昔はよその村からも参りょうたらしい。
今は誰もおらん(参らん)。
海の堤防も奉っていたのがのうなかったし。


2001年7月14日


・・・

「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

 八十八力所
「お大師さん」と一般にいわれるのは弘法大師のことである。
真言宗の盛大な矢掛地方では「お大師めぐり」といって、本四国や町外では神島(笠岡市)、小豆島、それに町内の「お大師めぐり」が行われている。
また、「西国めぐり」の団体をつくり、巡拝が行われ、近くの観音順拝もなされている。
また、毎月21日の「大師講」では部落や 講組の親睦もはかるおおらかな信仰が行きわたっており、庶民の信仰にねざしたものであった。


巡拝霊場は「四国八十八ヵ所」系と「観音巡拝」系があり、
後者の霊場の方が早くから始まったようである。
四国めぐりは近世後期ごろに、やや遅れて始まったと思われる。


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