江戸時代や明治に、高祖母が作っていたものは何だろう?
米・麦・黍
サツマイモ
綿花がすぐに思いつく。
江戸時代後期から明治中期まで、綿は瀬戸内地方を代表する農作物だった。
茂平の吉原地区は江戸中期の干拓地で、土地は塩分があった。
父の話では麦の裏作だが、
父以前では綿が表作であっただろう。
吉原には管理人が小学生の時まで綿畑が点在していた。
白くふいた綿畑の光景は今でも印象深く覚えている。
綿は白い部分を仲買人のような人が集めにきていた。
売るのでなく綿打ちをしてもらっていた。
ちゃんちゃんこの中にいれたり、ふとんに入れていた。
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(管理人の高祖母・1847~1943)
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(父の話)
綿
綿は塩分をいくらか含んだところの畑で、麦の後作で植えていた。
ほりあげの畑に植えとった。内海のネキは塩分があるんで。
綿はようできとった。
談・2001年1月5日
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「岡山県史15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
綿
綿の本格的栽培は江戸時代から明治20年ごろまでである。
安い外線の輸入によって生産が減少した。
無霜期間200日(7ヵ月近く)といわれるように、霜に弱い作物である。
温暖な地方でも「地に合う」ところと、合わないところがあり、合わない田畑では綿がふかない。
「地」に合う田畑では毎年のように作られたので、その田畑は「ワタバタケ」と名が付いていたほどである。
県南の干拓地ではまず綿を植え、シオヌキをした。
金肥として干鰯などが重要な肥料であった。
収穫は手摘みで人手を要したので、子供たちをかり出して手伝わせた。
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「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町 昭和59年発行
綿
平地で作られた。
春八十八夜ごろに蒔いて、8・9月ごろに収穫した。
綿の実がふいてくると、摘んできて干し、実と綿の繊維を分けて、綿打ちをした。
綿打ちの大きな弓をもって綿打ち廻った。
糸にしなくなってからは布団綿にして自家用に作られた。
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綿
「金光町史」
金光町は浅口郡内でも有数の綿の産地であった。
幕末から明治初めまで、綿を各地で栽培し、実綿や繰綿を玉島港に出していた。
このあたりの綿作の最盛期は天明2年(1782)のころであろう。
稲よりも綿収益が上り、アゲ田をした。
アゲ田とは肥土を除けて砂を入れ肥土を戻す、綿作によい。
収穫したのが実綿で、それを綿繰機(ネジワク)で繊維と実を分け、
繊維が繰綿になる。
繰綿は、綿打ちの弓で繊維をほぐす。
綿打ち屋に頼んで綿打ちをしてもらった。
次に枡の裏などの上で綿を薄く延ばしてシノに巻き、糸車で撚りをかけると手引きの木綿糸になる。
手引きの糸は太さが一様でなく、仕事着によかった。
ほぐした綿は布団綿にしたり、着物の中綿に入れた。
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綿
「福山市引野町誌」
水野藩は大規模な新田、塩田の造成を行ったが
新田をはじめとして藩内に綿作を奨励した。
藩は綿を米の代替えとして租税の対象とした。
新田での綿作が、商業的ペースに乗ったのは、水野藩末期から阿部藩に入ってからと思われる。
江戸時代中期には米作よりも有利なため盛んに綿作が行われていた。
末期になると良田化も進み、田は米作が主体となったようである。
明治になって更に増えて、備後の特産物のトップとなった。
ところが外国綿が輸入され明治18年を頂点にその後急減。
明治29年の綿花の関税が撤廃されるに及び、凋落は決定的となった。
綿作に代わって興隆してきたのが養蚕といわれている。
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「倉敷市史8」
綿作り
綿作には多くの手間と大量の干鰯や油粕といった金肥が必要とされ、
さらには天候によって作柄が大きく左右されやすい危険性もあったが、
綿花は、
各家庭で衣類や布団綿を自給自足するためばかりでなく、
農家に貴重な現金収入をもたらす商品作物として盛んに栽培されるようになった。
明治20年代後半になると生産量は急速に低落する。
以後は自家用の布団綿などが細々と生産されるにすぎなくなった。
明治13年に倉敷村に生まれた山川均は、その自伝で
「ふだん着は糸車から織った手織り木綿で、
少なくとも綿を作る農家は、糸を買う必要がなかった。
たいていの農家は、綿を作っていた。
ところが、機械で紡いだ紡績糸がでてくると、その方がはるかに精巧でしかも経済的だった。
そこでお百姓の家庭でさえも、糸車は急速に納屋や天井裏に追放され、綿の栽培はまれにしか見られぬようになった。」
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