しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

赦す・・・・・

2022年06月18日 | 昭和11年~15年

渡辺錠太郎大将が、もし国の指導者であったなら、戦争はふせげたのではないか、
という史家は少なくない。

母はよく、「昭和11~12年頃がいちばんよかった」と話していたが、
それは母個人の思いの他に、経済や暮らしの指標が有史以来頂点を示していることでもよくわかる。

その昭和11年2月に「2.26事件」は起こった。
翌年、昭和12年には「日中戦争」が始まった。

渡辺大将が斃れたのは国家の悲劇のはじまりとなった。
遺子・和子さんの人生テーマは「赦す」ことになった。

 

(2.26事件)

 

・・・・・

雑誌「文藝春秋」 2022年新年特別号

「100年の100人」 渡辺和子 
皇道派の親玉は赦さない  保坂正康


私が当時88才の渡辺さんに会ったのは2016年1月初め。
著作『置かれた場所で咲きなさい』がベストセラーになっていた。

父親の渡辺錠太郎(陸軍の教育総監)が二・二六事件で青年将校らの襲撃を受けて殺害された時、
彼女がそれを目撃した。当時、九歳だった。
戦後は修道女となり、大学教授として次代の子女の教育にあたる中で、
人生のテーマは「赦す」ことが柱になっていたと思う。
その「赦す」とはどういうことなのか。

理事長室で、私は実に四時間も話を聞いた。
ご自身なりに人生を振り返っておきたいとの思いがあったのだろう。
渡辺さんは、父親を殺害した青年将校や兵士は「赦す」という心境に達していた。

私は一歩踏み込んで、
彼らの背後にいた軍事指導者について質した。
彼女の答えは鋭かった。

「私には、二・二六事件の背景にいた人は『赦す』の対象外です」
皇道派の真崎甚三郎について、
青年将校を煽てた責任をとっていないと具体的に語り、
その処し方を毅然として批判した。
その瞬間、
彼女がこの事件の全てを的確に理解し、
「赦す」範囲を明確に決めていることがわかった。
私はその心中に触れて涙が出そうになった。
この年、12月30日に彼女は人生を閉じた。

 

 

・・・・

 

 

2015.4.4
岡山市北区伊福町・ノートルダム清心女子大学

 

・・・・

 

 

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彼の天井は見えない

2022年06月18日 | 令和元年~

大リーグ・エンジェルスの大谷選手は、投げて・打って、
日本とアメリアの両国の野球ファンを楽しませている。

プロ野球の名監督とは、下位から上位の強豪チームにしたとか、
優勝何回した、という監督に冠している。
プロ野球100年で画期的な”二刀流”をファンの前に実行した栗山監督には、
どういう称号がつくのだろう?

10年ほど前、日本ハムが大谷選手を二刀流でプロ野球、次のステージのメジャーリーグを目指す方針を決めた瞬間から、
マスメディアの非難と疑問の報道は、その一切が栗山監督に向かった。

 

(2022.6.18山陽新聞)

・・・・・

 

雑誌「文藝春秋」 2022年新年特別号

「100年の100人」 大谷翔平 
彼の天井は見えない  栗山英樹元日本ハムファイターズ監督

翔平とは二度と一緒に野球をやりたくない----。
それが僕の今の正直な気持ちです。

僕は、初めて高校生の彼を見たときから
「投打どちらかを無くす選択は絶対にありえない」と考えていました。

当時から最高の投手に、
そして最高の打者になる可能性を秘めていた。
ただ、それだけに僕は、翔平と野球した5年間
「この才能を潰してしまったら、僕ごときが監督を辞めるくらいでは済まないことになる」
というプレッシャーをとてつもなく重く感じていたんです。

あれだけ「出力」が高い選手には常に怪我の不安が付きまといます。
一球投げただけでも、打つ、走るという一瞬のプレーでも一発で故障してしまう恐れがあった。
それほど二刀流は身体への負担が大きく、
僕は彼の身体の心配ばかりしていました。

翔平とはベタベタした関係ではいたくない。
「全て自分で決めろ。
野球の神様はお前が決めたことを愛する」
実際、登板スケジュール、試合出場、練習法など、彼は全部自分で決めています。

日本人がメジャーでホームラン王争いをするというのは確かに凄い。
でも、翔平は投手なら20勝、
打者なら60本はホームランを打てる選手だと思っています。
彼の天井はまだまだこんなものではありません。

 

・・・・

 

 

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箕作阮甫(みつくりげんぽ)

2022年06月16日 | 銅像の人

場所・岡山県津山市西新町 ”重伝建・城東町並み”地区

 

(箕作阮甫先生像)


 「街道をゆく36」 司馬遼太郎  朝日新聞社 1992年発行

作州津山(岡山県)に、箕作(みつくり)というめずらしい姓の家があり、
代々秀才を出したことで知られる。
稀姓ながら、たいていの百科事典に、すくなくともつぎの代表的な5人の名は出ている。
年代順にならべると、
箕作阮甫 1799~1863
箕作秋坪 1825~86
箕作麟祥(りんしょう) 1846~97
箕作佳吉 1857~199
箕作元八 1862~1919

その源流は作州津山藩の藩医箕作丈庵という人にあったようで、
その子阮甫から名声が大いにあがった。

阮甫は蘭学を学び、医家としての著作も少なくない。
時代がなお啓蒙期だったから、手引書のような著作である。
が、時代は阮甫の医学より語学の方を必要とした。
天保10年(1839)、幕府の天文方の訳員としてまぬかれた。
対外問題がやかましくなってきたため、幕府として西洋語のできるものを諸藩からひきぬかざるをえなくなったのである。
阮甫の半生は、そのまま幕末対外交渉史だった。
嘉永6年には長崎でロシア使節に応接し、
翌年の安政元年には東奔して下田でロシア使節と会い、同年アメリカ使節とも折衝した。

秋坪は、阮甫の養子になり、阮甫同様、洋学をもって幕府につかえた。
要するに箕作姓は、一族をあげて幕府と明治政府のために肝脳を労しぬいたといっていい。

 

(箕作秋坪先生像)

 

撮影日・2022.4.7

 

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聖ディエゴ喜斎

2022年06月16日 | 銅像の人

場所・岡山市北区天神町

 

「土光敏夫先生記念苑」の向かい側に「聖ディエゴ喜斎記念聖堂」がある。

聖堂前に石像が建つ。

 

聖ディエゴ喜斎。

(Wikipedia)

ディエゴ喜斎(ディエゴきさい)

現・岡山市北区生まれ。
安土桃山時代の日本の商人、キリシタン。イエズス会員。
日本二十六聖人の一人として磔刑に処せられて殉教、死後に聖人。
俗名(日本名・本名)を市川喜佐衛門、ヤコボ喜斎と称される。


三原市の三原城に「聖トマス小崎像」という殉教者の銅像があるが、

同じ”二十六聖人”で、豊臣秀吉の命令で長崎まで道中引っ張られたのち磔となった。

 

撮影日・ 2022年5月28日  

 

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「街道をゆく」占守島

2022年06月14日 | 占守島の戦い

元帝国陸軍戦車兵の
作家司馬遼太郎氏が、秋田空港から象潟へ向かって乗ったタクシーの運転手さんは、
元・占守島の兵士だった。

 


「街道をゆく29」 司馬遼太郎 朝日新聞社 昭和62年発行

 


秋田県散歩・占守島(しゅむすとう)

空港で乗った個人タクシーの矢倉氏は、温厚で、えもいえぬ含羞がある。
大正10年うまれで、私より二年先輩である。
この年代はよく死んだ。
「よく生き残りましたね」
「はい」
おだやかな表情である。

「敗戦までおられたのは、どこですか」
「占守島でございました」
その島名をきいて、鼻の奥に硝煙がにおいたつ思いがした。
「大へんなところにおられましたね」
「はい」
占守島というのは、日本領だった。
戦前は千島国占守郡とよばれていた島である。

 

このひらたい島は、カムチャッカ半島からかぞえると、千島列島第一島である。
第二島が幌筵島である。
「かれらは幌筵島へ行ったよ」
というふうな会話を、私は昭和二十年初頭、ずいぶん耳にした。
幌筵島にまで戦車聯隊がおかれるときいて、ふしぎな思いがした。
すでに戦争は日本軍の衰耗期にあり、守勢に立っている。
米軍が北方から飛び石づたいに北海道へやってくるという公算も少なくなかった。
この仮定のもとに、占守島・幌筵島に兵力が置かれたのである。

米軍が上陸したときにできるだけ出血を強要しようというもので、
このため水際における火力配置が重視された。
砲兵は岩壁をくりぬいて砲を入れ、上陸点と思われる浜の両側から側射できるようにした。
米軍機による両島への爆撃は、昭和20年に入ってからほとんど毎日のようだったという。

 

「池田末男さんという大佐をご存じでしたか」
「いえ、私どもは高射砲でしたから。
しかし、関東軍から元気のいい戦車隊がきたというので、評判でした」
8月15日、日本は降伏した。
同17日、占守島の各部隊は兵器の処分にとりかかった。
兵器のひきわたし相手は当然米軍だと思っていた。

18日になって異変がおこった。
午前1時半すぎ、
砲声がとどろいた。
戦車聯隊の本部付の情報担当をしていた木下弥一郎は、私の同期生だった。
かれらは幕舎で、この砲声をきくと、すぐとなりの幕舎に寝ていた池田末男大佐を起こした。

池田大佐は電話で幌筵島の師団長をよびだし、決心を問いただした。
木下は電話のすぐそばにいたが、池田大佐はじつに意気軒昂としていたという。
ともかくも、国家としてポツダム宣言を受諾しているのである。
師団からすぐさま東京の大本営に、上申の電報を打った。
大本営からマッカーサー司令部あてに打電し、
ソ連に対して停戦するよう指導ありたし、と要請した。
マッカーサー司令部ではそのように連絡したはずだったが、ソ連は応じなかったらしい。
このために、無用の戦いが始まった。

ソ連は艦船をともない、射撃を加えつつ、島の北端の竹田浜に上陸してきたのである。
池田大佐は午後2時40分ごろ各中隊に非常呼集をかけた。
島の北端では日本側の歩兵や砲兵がすでに戦闘中だった。
戦場付近に到着したのは午前4時ごろで、すぐさま攻撃を開始した。
この間木下弥一郎は軽戦車に乗って、連隊長戦車のあとに従っていたが、
連隊長戦車が砲弾をうけてぐっと盛りあがり、やがて炎上するのを目の前で見た。
8月21日、
双方の軍使によって停戦がきめられるまで、ソ連軍は苦戦しつづけた。
ソ連政府機関紙『イズベスチャ』は
「8月19日はソ連人民の悲しみの日である」と書いているという。

 

私の友人は、すくなくとも四人戦車の中で死んだ。
ソ連軍は、一ヶ月後、戦場掃除をゆるした。
将校ばかり十五人がそのことに従事し、木下弥一郎もそのなかにいた。
かれは遺骨入れの袋を作っておいた。
羽二重製の五センチ角の袋である。
遺体からハサミで親指二節を切りおとし、それを丁寧に焼いて、灰にした。
遺骨袋は九十六個だった。
それを一つの箱におさめた。
その後、シベリアに拘留中もその遺骨箱を持ちあるいた。
この箱をソ連軍の目からかくすための苦心を書くだけで一冊の本ができるほどだった。

 

 

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「悠久の大義」

2022年06月11日 | 昭和20年(終戦まで)

なぜ無謀な策が誕生したのか?どうして止められなかったのか?

雑誌「歴史人」 2022年6月号  
沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと

「悠久の大義」

昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊はレイテ島沖で5空母に大きな被害を与えた。
特攻隊員との約束通りに、ただちに天皇陛下に報告された。

天皇はびっくりしつつも、
「かくまでやらせねばならぬということは、まことに遺憾であるが、
しかしながら、
よくやった」と言った。
指揮官の大西瀧治郎中将としては、
「もうやめよ」という言葉を期待していたようだが、「よくやった」といわれたら、
体当たり特攻をやめるわけにはいかなくなった。
特攻はその後、普通の攻撃法となっていくのである。
・・
戦争は殺し合いだが、運がなくて戦死することと、最初から死ぬために出撃することは違う。
爆弾を命中させたら生還してよいか質問した隊員を「まかりならん」と叱るようになり、
帰ってきた特攻隊員は何回も出撃させるようになった。

・・
当時の軍人は天皇のために命を投げ出すことこそ名誉であると、厳しく教育されていた。
成算のない出撃でも、それは永遠に続く天皇への忠義の証となると、信じるように仕向ける教育を行った。
天皇への忠義が足りないと非難されるほど、不名誉であり、屈辱的なことはなかった。
我が身を滅ぼそうとも、結果は悠久の大義に生きることになる、と信じて生きてきた。

このような教育は、付け焼刃では隊員も納得しなかっただろう。
長い期間をかけて、教育勅語や軍人勅語を、暴力と共に浸透させた結果だったのである。

10代の少年が特攻隊員に養成された
歩兵ならちょっとした訓練を行うだけでも戦場に投入できるが、
パイロットとなるとそう簡単ではない。
そこで、中学4~5年生を相手に募集し始めた。

(15歳で予科練に入営したおじ=母の末弟)

 

それが甲種予科練だ。
太平洋戦争が不利になってくると大増員した。
さらに小学校高等科を対象とした制度も新設され、募集も行われた(乙種予科練)。
・・
昭和20年4月6~7日、特攻機300機が出撃

このうち、24機が体当たりした。
大半は駆逐艦で10隻を数えた、うち3隻は沈没。
この特攻と合わせるように戦艦「大和」が軽巡1,駆逐艦8隻を引き連れて出撃した。

昭和20年3~4日、201機出撃
海軍136機、陸軍65機が出撃。
昭和20年5月11日の特攻で正規空母「バンカー・ヒル」へ2機が体当たりして、大損害を与えた。
6月22日まで行われたが、
最期は飛行機も足りなくなった。そこで海軍機上作業練習機「白菊」まで動員して出撃した。
さらに「赤とんぼ」と呼ばれた練習機まで動員して出撃させた。
人権無視の時代とはいえ、
日本軍が人間の命をいかに粗末にしていたか、それを思うと愕然とする。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「伏龍特攻隊」

 

軍国少年

城山三郎「生き残った者の苦しみ」 毎日新聞 2022年6月9日

「軍国少年でした」と作家、城山三郎は戦時中の自らを振り返った。
2005年夏、記者がインタビューした時のことだ。

大日本帝国は日清戦争、日露戦争、第一次政界大戦と対外戦争を繰り返し、いずれも勝利した。
「一等国」に向かう坂を上っていった。
大戦後は中国侵略を続け、満州事変を起こし、日中戦争も始まった。
その中国からの撤兵を巡りアメリカと対立し、41年12月開戦となった。


「軍国少年」は必然
日本は悪くない。
大東亜に新しい秩序を作ろうとしている。
悪いのは中国でありアメリカ、イギリスだ。
それが日本政府の一貫した主張であり、教育現場でも繰り返された。
新聞もその主張に沿う報道をした。
多数の「軍国少年」「軍国少女」が誕生するのは必然だった。
その一人として、城山少年は志願して海軍に入った。

特攻は大西瀧治郎中将が「統率の外道」と断じたように、本来はやってはならない作戦だった。
しかし、期待したほどの戦果は上がらなくなった。
それでも、特攻は終わらないどころか拡大していった。

「二度と戦争をしてはならない。
そのためには体験した人間が伝えておかないと。
それが若くして死んだ人たちの鎮魂にもなるはずです」
城山はそう話していた。

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

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沖縄戦

2022年06月11日 | 昭和20年(終戦まで)

雑誌「歴史人」 2022年6月号  

沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと

沖縄戦

航空機による特攻は、その数なんと2.500を数えたという。
人間魚雷の回天も沖縄戦に投入された。
さらに人間ロケット桜花も使用された。
こうした特攻攻撃で撃沈された船は、
わずかに駆逐艦9隻。
戦艦や空母などには、かすり傷しか与えることはできなかったが、
アメリカ兵に対する精神的動揺は、相当なものがあったと考えてよいだろう。

連合艦隊の超弩級戦艦大和もこのとき、海上特攻攻撃に使用されている。
片道燃料だけを積んで、徳山湾を出港し沖縄へ向かった。
海岸に乗り上げさせた後、あらんかぎりの砲弾を敵艦隊にお見舞いし、大打撃を与えようとする計画だった。
だが、すでに制空・制海権を完全ににぎられていたため、計画自体が無謀なもので、
九州の坊ノ岬沖で沈没してしまった。

沖縄南部には民間人が10数万人いたといい、
彼らは日本軍の側にいることが安全だと思い、軍に付き従っていた。
というのは、
アメリカ人は鬼畜だという教育を受け、捕まれば拷問されたり凌辱されたりした後、むごい殺され方をすると信じていたからである。

沖縄の女子学生たちは、野戦病院の看護婦として従軍させられていた。
ひめゆり部隊も、そうした学生看護師隊の一つだった。
彼女たちは第三外科壕にいたが、そこにアメリカ軍がガス弾を投げ込んで、数十名の若い命を奪ったのである。
沖縄県民の命は、アメリカ兵だけでなく、日本兵も足手まといになる民間人に自決を強要したり、スパイ容疑をかけて射殺したりということが起こった。

6月22日、牛島中将は司令部で自殺した。「日本兵は命あるかぎり戦い続けよ」と遺言した。
軍人・民間人含めて20万人が犠牲となった。
沖縄県民は、なんと4人に1人が死んでいる。

 



 

兵力不足を補うため、県民25.000名を召集した。師範学校や中学校、専門学校の、高等女学校の生徒も徴用した。
1761名の男子は「鉄血勤皇隊」、543名の女子生徒は緊急看護衛生班員となった。


5月3日夜から総攻撃開始、目標とする米軍陣地までたどり着けないまま全滅する部隊が相次いた。
5月5日、午後6時総攻撃中止を命じた。
5月7日、ドイツが連合軍に降伏。
6月13日、海軍大田実少将以下の首脳陣は自決し、組織的抵抗に終止符を打った。
自決の直前、大田少将は海軍省の海軍次官宛てに電報を打った。
それは、今度の戦いで沖縄県民がいかに作戦に協力をしてくれたかを細かに述べるとともに、
「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
と結んであった。
6月18日、ひめゆり部隊の看護女学生27名は、米軍急襲を受け全員即死。
6月19日、牛島軍司令官は指揮権放棄を宣言した。もう各部隊との連絡もつかなかったからである。
6月23日、牛島司令官、長参謀長は洞窟内で自決した。
約7.000名が投降した。


戦没者は18万、うち県民は12万。(軍属2.8万、一般9.4万)と言われる。
米軍死者は1.2万人だった。

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「進水式」のこと

2022年06月10日 | 昭和31年~35年

小学校の2年生の時だったと思うが、親戚に海運業の人がいて、進水式に招待された。
茂平の漁船(1~2トン)しか知らないので、とてつもない巨大船に驚いた。
茂平の船には飛び乗るが、この新造船にはハシゴを登って船に乗った。
その時は、船から餅投げをした。気持ちがよかった。
後にも先にも、船からの餅投げは、この時以来見たことすらない。

造船所は「引野」にあり、その当時福山市引野町だったのか、深安郡引野村だったかわからない。
「引野」は昔も今も、みんな「ひきの」としか呼ばない(町を付けないで呼ぶ)。
造船所やアサリで有名だったが、今では、その場所を推測するのが不可能なほど変貌している。

 

・・・・・

 

撮影日・2017年12月18日

場所・広島県尾道市瀬戸田町沢   内海造船(株)瀬戸田工場    
名称・  8.600総トン型旅客船兼自動車航送船「シルバーティアラ」進水式  

 

進水式のイロハ

「行って、見て、聞く」 江上剛  ウェッジ  2010年発行

船台で組み立てられた船体がほぼ完成し、「水に浮かべても大丈夫」というときに、
船体を水に浮かべる作業が進水で、その儀式が進水式と言う。
新しい船の誕生を祝う進水式は、最重要儀式として位置付けられている。

 

 

進水式のハイライトは、命名と支綱切断。
支綱切断ではハンマーや小刀や斧を使う。
切断と共にお酒も割られる。シャンパンや日本酒。

 

 

支綱が切断されると同時に、船は海に向かって滑り出すが、船は必ず後ろ向きで進む。
船の重心は船尾側に片寄っているので、進水する速度を回避する。

 

 

 

 

 

 

 

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農民の食べもの、お殿様のご飯

2022年06月07日 | 食べもの

農村では、腹いっぱいに食えるようになったのは昭和35年(1960)前後のように思う。
それまでは腹に通ればなんでもよかった。
江戸時代の農民が食べたものと、たいして変わらないような気がする。

・・・・・・

 

農民の食べもの

 

農民たちは土地にしばりつけられ、生産した米の半分以上は、年貢として藩へおさめ、残った米はほとんど換金や物々交換のために用いた。

したがって平常は麦と雑穀が主食であった。
『盆がきたなら、麦に米混ぜて、それにささげをぱらぱらと』という歌のように、
ひきわり麦やよまし麦の麦飯を食べていた。
副食物は香の物・にぼし・もろみ・大根・豆等の他、自家製の野菜であった。

魚は干物・塩魚がおもで”ブエンモノ”とよばれる鮮魚は村祭りの食膳にのぼるくらいであった。
川魚や貝類では、川や池のふな・どじょう・しじみ・からす貝などが食用になった。
牛は百姓の宝であるというので、牛肉は食べなかった。
猪肉はヤマクジラとよばれ、鳥肉とともにご馳走だった。

うどん・そば・赤飯・餅などはハレの食物で、特別の日のご馳走としてつくられた。
そのほか、飢饉にそなえて
梅干・味噌・カンコロ・カイモチ・キリボシ・タカキビモチ・ずいきなどが保存されたが、これらは季節の保存食であり、平常でも副食物として欠かせないものであった。

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

 

・・・・

お殿様のご飯

 

幕末の浅野家の例では、42万石でも
朝食は焼豆腐に味噌、
昼食と夜食は一汁二菜で、
大名自身の好みは加味されていない。
献立表は前日に裁可しておくが、
うまいもまずいもいってはいられなかったという。
食味をする台所奉行と毒見をする近習の手前、
何のかんのとはいってはいられなかったというから
殿様の方で気遣いしていたことになる。
飯は一ぜんですませてから吸物を小姓にかえさせる。
食べ残しもできない。
調理した者の責任となるからである。



「翁草」によると、
病中の白河侯は木綿の布団に寝ており、
召使いと見まちがえたほどの夫人が、生味噌を茶碗にいれてお菜に出したという。

「百草」には、
因州の隠居松平冠山は
「御食物、客をもてなし給ふも至って粗末なる味噌汁、平器位の御料理なり」とある。

一橋慶喜の幼少時は、
「毎日三度の食膳も、一汁一菜の蔬菜、玄米にて、膳に魚肉を供するは月に三箇日に限られたり」とある。


なかには鰯を焼いて味噌汁ですませていた大名もあった。

 

「絢爛たる武家文化」 岡本良一  講談社 昭和56年発行

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

農民の生活


農民の服装は、フダン着もヨソユキもすべて木綿であった。
綿を栽培して、夜間や農閑期を利用して、糸車を回して糸をつむぎ、
木綿糸を紺屋に持参して染めてもらい、それを機で織って使用したが、
縞やかすり模様に織り上げるようになったのは江戸時代の末期ごろからである。
仕事をするとき、男はモモヒキにハッピ、
女はたすきがけに前垂れ姿で、キャハン・手甲などつけていた。
そして手製のアシナカをはいた。

農民は朝は暗いうちに起き、夜業に藁仕事をして、一日中仕事をしても、反当収量は2石にみたず、
その米の中から、多くの年貢をおさめるのである。
その身の不心得による借財のためか、
長患いの結果か、
または癩病(らいびょう)にかかったのか、
村々を流浪する乞食の数は相当なものであった。
また百姓のなかで夫役を免除されたものは、
ちんば・眼疾・癩病・盲などで、
かれらは自然治癒をまつか、薬草にたよる以外に方法がなかった。
そのため占者・祈祷師などがはびこり迷信が流行した。

 

「香川県の歴史」  市原・山本共著  山川出版社  昭和46年発行

 

・・・・

 

 

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犬養木堂⑥5.15事件後の国政

2022年06月07日 | 昭和元年~10年

(岡山市吉備津)

 

木堂翁が亡くなって、軍国主義は歯止めが効かなくなった面がある一方
木堂翁が軍人に阿て政権を取ったので、事件はその付けが回った要因も大きい。

清廉潔白な政治家で、多くの人々に慕われたのは間違いない。

 

”無私”

(笠岡市今井公民館)

 

・・・・


「日本の歴史20」  岩波書店 1976年発行

斎藤内閣が成立し、この頃から「非常時」という言葉が一般化した。
はじめは平時と戦時の中間とか、満州に戦時状態が存続する間とかの意味に用いられ、のちしだいにエスカレートしてゆく。
概して軍部が、軍備を拡張するため、危機意識を高揚する必要上、ことさら喧伝したとみるべく、挙国一致内閣の出現を合理化し、
軍部に軍拡とその予算先取権の口実を与え、インフレ財政を余儀なくさせ、
無謀な「自主外交」を賛美し、
侵略をも「暴支膺懲」の名の下に美化するにいたった。

荒木陸相は皇国・皇軍・皇道をふりまわす精神家であるが、政治的才幹には乏しく、
「大和民族の満蒙支配たることは之を否むること能はさるなり」と述べている。
米ソに対し、万一の時は武力戦も辞せず、ときには連盟脱退もありうる、とした。

組閣直後、関東軍司令官より強硬な働きかけがあり、政党がこれに迎合した。
満場一致で「満州国」承認決議が可決された。
東京市民は祝賀会を開き、旗行列、提灯行列がくり出された。
リットン調査団の報告書提出の半月前であったことは、明らかに連盟に対する挑戦であった。

10月2日、リットン報告書が公表された。
融和的であったが、
翌3日の新聞は、
「全編随所に日本の容認しえざる記述」と評し、この頃「アジア・モンロー主義」がさかんに唱えられ、排外主義は高揚された。
世論は急速に軍部の希望する方向に傾斜していった。

内務省に国民更生運動中央委員会ができ、
言論機関や在郷軍人会・青年団を利用し愛国心高揚にのり出した。

昭和8年(1933)3月、ついに国連を脱退した。
日本は国際的孤立に陥り、軍部は総力戦体制を急いだ。
左翼運動の弾圧、皇国イデオロギーや軍国主義を高揚する行事が広汎に開催された。
脱退後、日本の最も恐れた連盟の経済制裁がなかったことは、
断固として所信を貫徹すれば連盟恐るるに足らずという観念を生ぜしめた。

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