しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

軍神西住戦車長のこと② 「西住戦車長伝」

2018年07月29日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

徐州会戦を舞台の小説に日野葦平の「麦と兵隊」があり、菊池寛には「西住戦車長伝」がある。
麦と兵隊には文学作品の匂いがあるが、西住戦車長伝は、いかにも英雄ムードの最中に世にせかされて書かれた感がする。

「菊池寛全集」より「西住戦車長伝」平成7年 高松市発行・発売文芸春秋より転記する。

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発端
戦車隊を率いて、上海戦を初めとし、南京、徐州の攻略戦に参加した細見大佐は、昭和13年7月内地への転任を命じられた。
各地の戦闘において斃れた部下の将兵の事を考えると、忸怩たるものを感じた。
戦死した将兵のことばかりが胸に浮かんでくるのであった。
殊に西住大尉は軍神西住戦車長のこと② 「西住戦車長伝」
、上海上陸依頼あらゆる戦闘に参加ししていたので、その追憶の情は一層深かった。
どんな困難な任務を命じても、大尉は冷静に沈着に気がるに遂行した。

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父からの手紙
小次郎殿
重ねて申しますが、音信がなくても、家郷のことなど少しも気にかけることなく、所謂忘私奉公の覚悟で奮励されうよう希望致します。
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素朴にして多くを語らぬ母堂は、
愛児の壮烈な戦死についての話を聞きながら、目を輝かしたが、涙はこぼさなかった。
「小次郎の霊よ、貴方の魂は今すぐ母の膝元へ帰ってはいけません。
貴方の魂は、最後まで大陸にとどまって、貴方の戦車隊を護りつつ、あくまで戦って下さい。
小次郎が亡くなりまして依頼、あれに夢を一度も見たことがございません」
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当局が発表した西住大尉井の功績
☆忠烈鬼神を泣かしむる鉄牛隊長
功四旭五 歩大尉 西住小次郎 熊本
・・・、偉勲を立てた。
次いで南京城攻略戦に参加し、更に徐州へ向かい進撃中昭和13年5月17日、敵を認めるや、猛射を浴びせて、大打撃を与え、北方に四散潰走せしめた。
尚も追撃し、クリークの為前進困難になるや、敵前にあって戦車より躍り出で、通過点を偵察して中隊長に意見具申のため追及中、右大腿部に重傷を負いしも屈せず、中隊長に「中隊は左より敵を攻撃すること可とす。」との最後の意見具申をなし、後重症の為後送途中、戦車内において「天皇陛下万歳」を三唱し、護国の神となった。
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戦死
隊長戦車に追及せしが、不幸にして敵弾を右大腿部に受け倒れたり。時に午後6時30分。
西住中尉の戦車から砲手高松上等兵直ちに下車応急処置、次いで隊長戦車近づくや中尉は「大丈夫です。」と元気に報告したりしが、負傷は大動脈を貫通し出血甚だしく戦場を離脱するに至れり。
而もこの間隊長に対し「隊は左より敵を包囲するを可とす。」の意見具申をなし「傷は軟部ですから大丈夫です。」等極力隊長の指揮を容易にし、心配をかけざることに努力したり。

中尉は午後7時30分衛生隊軍医より確実なる止血を受けたるも、既に出血甚だしく再び立つ能はず、死生を誓いし戦車の中に名誉ある終焉を遂げられたり。
「西住はお先に満足して行きます。隊長殿しっかりやってください。」
「御母様小次郎は先にいきます。」
「姉さん色々・・・(言語逐次不明)。」
「弟・・弟・・・立派に・・」
「天皇陛下万歳」
なお当番兵なる高松上等兵に対して、
「わずか1年で別れるとは思わなかった。これからは軍人の本心、軍人精神を基幹として隊長はじめ幹部方の教えに従って立派な軍人になれ。」と諭したり。
午後11時過ぎ遺骸は、愛車に依り隊の待機位置に到着し、隊長以下之を迎えたるも、もはや声もなかった。



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文化財の海外流出

2018年07月28日 | 江戸~明治
文化財や美術品の海外流出は、たいはんが明治維新後の「西洋志向」や「廃仏毀釈」の時と思っていたが、
実際はかなり広範囲の時代、しかも現代までわたっているようだ。

週刊新潮・2018年7月26日号より転記する。

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誰が「国宝を流出させたか」 

ボストン美術館の
「平治物語絵巻」は、フェノロサが道具商から言い値の倍で買った。
「吉備大臣入唐絵巻」は昭和8年、ボストン美術館の東洋部長富田幸次郎が購入し、ボストンに持ち帰った。
明治15年から8年間日本に滞在した医師ビゲローは41.000点の美術品を同館に寄贈した。ボストン美術館の浮世絵の8割以上がビゲローが蒐集したもの。

ワシントンDCにあるフリーア美術館
実業家フリーアが蒐集した日本の美術品を基礎に大正12年にオープンした。
蒐集したコレクションは1万点。宗達や尾形光琳の作品多数。

川崎美術館
川崎造船所を一代で築いた川崎正蔵は、同郷松方正義との関係で、日本美術の名品を蒐集し川崎美術館を開館した。
「予が美術品を蒐集するは海外に流出を防止せんがため也」
開館から15年後、昭和2年金融恐慌が起こり、川崎家では損失補償のため美術品を売りに出さざるを得なくなった。
宝楼閣曼荼羅図はフリーア美術館の所有になる。

建築家ライト
ライトはボストンの実業家スポルディングに現在価値20億円もの金を委託され、すべて使い切って浮世絵を買いあさった。
のちに6.000点の浮世絵をボストン美術館に寄贈する。

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軍神西住戦車長のこと①

2018年07月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

父は昭和13年5月12日に宇品から天津に着いた。
天津からは済南に向かい、
5月15日に戦場へ到着、赤柴部隊長に拝謁、配属された。
以後徐州戦から漢口戦まで戦線に居た。

絵本や映画になった西住戦車長は5月17日に徐州戦で戦死している。
部隊は違えど、同じ徐州戦争に3日間、戦さ時間を共有していたことになる。

父は生前、戦車隊のことも”軍神西住戦車長”のことも話したことはない。
おそらく関係も関心もなく、軍神のことも知らなかったように思う。

以下はウイキぺディアを参考転記。
司馬遼太郎の説が妥当に思う。
それにしても軍神になると国民に対するプロパガンダが大掛かりだ。

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西住小次郎


日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。

戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された。
以降、西住は「軍神西住戦車長」などと謳われ、広く国民に知られることとなる。

西住が乗っていた1,300発にも及ぶ被弾痕の残る八九式中戦車は靖国神社で展示され、大きな話題となった。

子供向け
子供向けの伝記が数多く作られている。
小説と新聞
菊池寛『西住戦車長伝』は1939年(昭和14年)、東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載。
映画
監督は吉村公三郎、脚本は野田高梧が担当し、上原謙が西住役として主演。主題歌は『西住戦車隊長の歌』

 


『西住戦車隊長の歌』 歌:徳山璉 作詞:北原白秋、作曲:飯田信夫。発売:ビクターレコード。
『軍神西住大尉』 歌:ミス・コロムビア/松平晃 作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而。発売:コロムビアレコード。
『軍神西住大尉』 歌:霧島昇 作詞:西条八十、作曲:江口夜詩。発売:コロムビアレコード。
『軍神西住戦車長』 歌:樋口静雄 作詞:佐藤惣之助、作曲:佐藤長助。発売:キングレコード。
『聖戦の華』 歌:東海林太郎 作詞:藤田まさと、作曲:紙恭輔。発売:ポリドールレコード。

 

評価(司馬遼太郎)
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、西住と同じ戦車第1連隊の機甲兵将校だった作家司馬遼太郎は、
戦後『軍神・西住戦車長』というエッセイを発表し、戦車学校では「一度も西住戦車長の話をきいたことがなかった」、
戦車第1連隊でも「逸話さえもつたわっておらず、その名を話題にする者もなかった」と述懐している。
また、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことは間違いない」と認めつつ、
「この程度に有能で篤実な下級将校は、その当時も、それ以後の大東亜戦争にも、いくらでもいた」とし、
それにも関わらず西住が軍神になりえた理由を「彼が戦車に乗っていたからである」
「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があったのだ」と推察している

 

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重傷者を若い軍医がつぎつぎに注射によって処置していく

2018年07月28日 | 昭和16年~19年

ふくろうの本「玉砕の戦場」河手書房新社2004年発行より転記

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硫黄島の戦い
「戦死3割、自決と処置6割、他殺1割」で2万余が玉砕した守備隊


昭和19年12月に入ると、爆撃も砲撃も一段と強化された。
とくに開戦3年目にあたる12月8日はパールハーバーのお返しとばかり、大攻勢に出た。
大爆撃を受けつづけても、地下につくられた陣地で負傷者は少数だった。
硫黄島(いおうとう)の守備隊は、小笠原兵団と呼ばれ2万を超える。
陸軍14.000人、海軍6.000人(朝鮮人労働者1.600人含む)で、陸軍中将・栗林忠道が指揮していた。

硫黄島守備隊は息長く抵抗し、硫黄島の飛行場を使わせないことが任務で、最後の一兵まで戦うことを義務づけられていた。
そのため将兵に暗唱させる文書をつくり唱和させ、いやがうえにも士気を奮い立たせていた。
1、我らは爆弾を抱きて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。
2、挺身敵中に斬り込み敵を殴殺(皆殺し)せん。
3、一発必中の射撃で敵を撃ち斃さん。
4、各自敵10人斃さざれば死すとも死せず。
5、最後の一人となるもゲリラに依って敵を悩まさん。
と誓ったのだった。

アメリカは上陸3日間で5.000人の死傷者をだした。硫黄島には200人前後の報道陣が従軍しており、毎日ラジオ中継、あるいは新聞で全米に報道されていた。
それだけに2月24日、6人が摺鉢山に星条旗を掲げようとしている写真にアメリカ人は異様に興奮した。

3月17日栗林兵団長は大本営に対し最後の電報を打ち、玉砕することを告げた。
ただし、この玉砕で硫黄島守備隊の全員がいなくなったわけではない。まだ1万人は地下壕に潜んで生きていたのではないかとみられている。

硫黄島玉砕の真相~陸軍少佐談
「言ってみれば6月19日(マリアナ沖海戦)が日本の命日で、大局の戦争は終わったわけです。
しかし大詔(天皇の命令)が出ている以上、一死をもって国に殉じる以外に道はないと思います。」

アメリカ軍は早くに捕虜となった日本兵をともないかなり根気よく壕内の日本兵の投降を呼びかけたが、大半は壕内で生命を絶ったものと推定される。
結局捕虜となったものは1.000人を少し超える程度しかいなかった。
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従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし

2018年07月27日 | 昭和16年~19年
ふくろうの本「玉砕の戦場」河手書房新社2004年発行より転記


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日本民間人16.000人も自決し、かつ日本軍に殺されたマリアナ諸島の修羅場

昭和19年6月19日、日本の機動艦隊が大いに自信をもってのぞんだマリアナ沖の海戦は完敗だった。
空母や航空機以外の兵器で日本軍の予想もできないほど大差がついていたからだ。
アメリカ軍は優秀なレーダーを備え、航空部隊が米空母上空に到着するはるか前から捕捉し、戦闘機を待ち伏せさせ撃墜した。
それを辛うじてかいくぐった日本軍機も、こんどは空母のはるか手前で待ち伏せていた戦艦や重巡の高射砲で撃ち落とされた。
高射砲弾にはvt信管がついていた。
この砲弾は飛行機の近く50m付近に達すれば熱を感じて爆発した。命中しなくても破片が飛行機に当たり致命傷を与えられたのだ。
こうして300機以上も発進した日本の軍用機のうち空母上空に達したのは数機といわれる。
日本海軍はVT信管の存在を戦争が終わるまで知らなかった。
要するに、海軍戦力において、日本は開戦2年半のアメリカ海軍の進歩を知らなかったのである。
アメリカという国の科学力・技術力を知らずに、やみくもに敢闘精神だけで戦い、最後のチャンスといわれた空母航空戦に大敗したのである。


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サイパン守備隊の日本軍最高指揮官は海軍の南雲中将だった。残存将兵に最後の玉砕突撃を命じて、自決したのである。

「今や止まるも死。進も死。其の時を得て帝国男児として本懐なり。
戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱めをうけず』従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。
明後7日(1944年7月7日)米鬼を索めて攻撃に前進し、一人克く十人を斃し、以て全員玉砕せんとす」と命じた。

玉砕命令により当日3.000人ほどがマタンシャに集合した。
当時日本軍は1万人を下らなかったから、歩けるものの全てであろう。
3.000人は3つのグループに分かれ、生き残り佐官が指揮して米軍陣地へ突撃した。
小銃を持たぬ兵士もいて、はじめから効果を期待しない突撃だ。
日本の大逆襲が終わったとき、日本兵の死体が山と重なった。

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一兵となるまで陣地を固守し、増援部隊来着まで本島を死守せよ

2018年07月26日 | 昭和16年~19年
大戦で亡くなられた将兵は、

その亡くなられ方が悲しい人が大半だ。


ふくろうの本「玉砕の戦場」河手書房新社2004年発行より転記

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タワラ島の玉砕

昭和18年、日本は広げすぎた戦線を縮小した。
中部太平洋の東はトラック諸島までとした。
ブーゲンビル島はもとよりラバウルも防衛線から外された。
東部ニューギニアも外され、西部ニューギニアを守るべき地域とした。
通常これは絶対防衛圏とよばれる。

ではこの戦場にいた日本軍は撤退したのか。ノーである。
輸送船や軍艦を派遣する戦力はなかった。食糧が足りなくなったら畑でも耕しながら最後まで戦ってくれという、きわめて無責任な絶対国防圏だったのだ。

ギルバート諸島のタワラ島

アメリカ軍は入念な航空偵察の結果、タワラ日本軍の兵力を4.500人と正確に割り出した。
その決め手は航空写真に写っている便所の数だったという。日本軍は一個の便所を何人で使わせるかを計算したのだ。

わずか4.600人(うち2000人は朝鮮人建設労働者)が守る小さな島へ、アメリカ軍は18.300人の上陸部隊を用意した。
空母6隻(400機以上搭載)、重巡4隻、軽巡・駆逐艦、潜水艦計200隻の艦隊を差し向けた。

アメリカ軍の攻撃法は航空機で数日にわたって徹底的に爆撃し、艦隊が島の見えるところまで近づいたら軍艦から砲撃し、守備軍の砲台やトーチカを破壊してから上陸用舟艇で海兵隊が上陸するやりかたである。

タワラにもこの方法で上陸してきた。
タワラから2500km西に連合艦隊泊地があり、「大和」「武蔵」など軍艦が進出していた。
しかし勝てる見込みはまったくなく、国防ラインの圏外であり、無理して救出する発想は最初からなかった。
要するにタワラの守備隊は全員が死ぬまで戦うしかなかった。

・・・・・・・

防空壕でただ一人生き残りの、戦後生還した大貫上等兵は
「私のからだに黒焦げの死体が重くのしかかり、あたり一面にちぎれた手足が飛び散った惨状でした。五体完全な自分の姿がどうしても信じられず、しばらく呆然としていた」
同様に生き残った7人と
「捕まれば殺される。捕まるなら自分の手で死のうと、7人いっしょに首を吊ったが綱が切れた。死のうにもピストル一つ、刃物一つありません」
結局7人は捕虜になった。
タラワで捕虜になった日本兵17人で、朝鮮人労働者129人が連行された。


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笠岡商業に行く予定が笠岡工業へ

2018年07月11日 | 昭和20年(終戦まで)
以下は、
散歩の雑談 2018.6.9 
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私は昭和7年生まれです。
笠岡商業に行こうと思っとりましたが、戦争中なんで商業が廃止され工業へ行きました。
6年が終わり、試験を受けてどうにか通りました。
戦争中なんで、空襲警報が鳴ると学校のグランドの下に水路があるんです。
谷から降りて来る、それに駆けり込みょうりました。
そしたら半年で終戦になりました。
戦争が終わると、あちこち分散していた生徒が学校に帰ってきました。
その後、6.3.3制への学制改革改革があり、後から入った生徒もいて、結局6年いたことになります。(卒業しました)
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ポツダム~新型爆弾投下~ソ連参戦

2018年07月10日 | 昭和20年(終戦まで)
ソ連大使はとんだピエロをやらされた。
仁科芳雄博士は確認のため広島に飛んだ。

「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防紀」新潮社より転記
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ソ連、参戦へ
ポツダムから、スターリンとモロトフがモスクワに帰着したのは8月5日だった。
佐藤大使は、すぐさまモロトフに会見を申し入れた。
モロトフは、8月8日午後5時(日本時間午後11時)を指定した。
昭和20年8月6日午前8時15分、ポツダム宣言の「日本国本土の完全なる破壊」を謳った警告は、現実のものとなって広島市を襲った。
通信網を破壊された広島市の惨状は、すぐには東京へ伝わらなかった。
6日午後、第二総軍司令部が呉鎮守府経由で伝送した報告は「未だかつてない破壊力を有する高性能爆弾を使用」という子供だましのような内容だった。
翌朝、原子爆弾を使用したトルーマンの声がラジオを通じて流され、日本でも聴取された。
そのうちに広島近在から情報がつぎつぎにもたらされ、参謀本部第二部長有末中将、仁科芳雄博士らが現地に入って確認するのが8月8日午後のことである。
その日の夕刻、モスクワでは待ちに待ったモロトフとの会見が叶った佐藤大使は、意外にも、モロトフから宣戦布告書を受け取るのである。
佐藤大使の電報は、遅くとも日本時間の8月9日の深夜を回ったころに発信されたはずである。
ところが、それが日本に届かなかった。

時差の謎
日本は、全戦場で明石標準時間を使用したが、ソ連は現地時間を用いた。
カムチャッカは日本より3時間早い。
さらに問題は、このころ欧米主要国では、夏時間をもうけていた。


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石工(いしく・せっこう)

2018年07月08日 | 暮らし
子供の頃、山を開墾して段々畑を作っていた。開墾で出た小石を積み上げて石垣にしていた。



「庄原の歴史 通史編」より転記する。

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石工

石工にはおよそ三通りの種別があり「石採(いしとり)工)と「石彫(いしほり)工」と「石積(いしつみ)工」である。

ここでは「石彫工」を中心に記述してみる。
和泉国の石工が遠路庄原に来て、この地方の人が技術を覚えたのは幕末近くなってからであろう。
江戸時代になると庄原各地で墓石が普及し、万治・元禄時代から豊かな商家や豪農が建立した大きな墓が増え始めた。しかし、立派な石造品が完成し依頼した施主の銘が刻まれても、製作者の銘は彫られていない。
したがって石工名が長い間不明であったのは当然である。
和泉の国は自然田村の出稼ぎ状況を18世紀の「宗旨改帳」によると、中国、江戸、九州へも記載あり、広く活躍していたことがうかがわれる。
庄原市には多くの石造品があるが、これらは素人にできることではなく、和泉石工の作品と思われる、銘文が記録に残っているものもある。
石の鳥居は荒切りした船に積み上げ、陸揚げし、山道を運搬する。
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明治維新後

2018年07月06日 | 江戸~明治
「三原市史・第二巻」より転記する。

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維新後の三原町


明治3年、正月4日の初寄合での協議内容によると、

(1)町では近頃物価高になり、商売も少なく、みんな困窮しているのに、役所へ上納する間内銀は三倍増となり、時の相場で米で立て替えて上納することになった。
(2)米値段はことのほか銀高になり毎年調達するのに困っており、取り揃えも容易ではなく、手元で立て替えて支払い、あとから未納者に催促するがうまくいかない、
(3)新しい体制になってからは、出費もかさみ、以前のように各村から年貢米を運んできてその年の決済をすることもなくなり困っている。
(4)目代所で増加した仕事は各村で努めるから、なるたけ間内銀を出さないですむようにしてほしい、と願い出る事にしている。
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