しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「野崎家塩業歴史館」を見学する

2024年02月17日 | 昭和26年~30年

場所・岡山県倉敷市児島味野「旧野崎家住宅」
行った日・2024.2.15


江戸時代に開発された新田では、瀬戸内地方は、
”入浜式塩田”と”綿作”が盛んであった。
綿作は綿花の輸入自由化で明治30年頃、突然に衰退し、
入浜式塩田は流下式化で昭和30年頃、一気に消滅した。

岡山県も海辺で東西に塩田が連なっていたが、特に有名なのが
江戸時代後期の児島半島の野﨑武左衛門で「塩田王」と呼ばれた。
現在旧宅は国の重要文化財で、邸内に「野崎家塩業歴史館」がある。

館内に入浜式塩田の製法が展示されてたので、備忘のため記事にした。

 

 

 

①沼井堀り

毎朝沼井堀りから始まる。

この仕事がいちばんきついといわれる。

 

 

②土振り

掘った砂をひろげる。

 

 

③浜引き

砂をかきまぜる。

 

 

 

④砂寄せ。

写真にも写るが、この仕事は女性が多い。

 

 

⑤すくい込み

集めた砂を沼井に入れる。

 

⑥はなえ

沼井に海水を注ぐ。

 

 

⑦かん水足踏みポンプ

沼井のかん水をかんごうに送る。

 

⑧平釜

かん水を煮詰める。塩の結晶をすくい取る。

 

 

⑨上荷船

できた塩を運搬する。

 

 

 

他にも多くの塩業に関する展示があり、たいへん勉強になった。

 

 

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「マーガレット姫の恋」  昭和30年10月16日 

2022年02月23日 | 昭和26年~30年
日本では、
皇位継承権も持たない皇室の人が、婚約を発表したら、
週刊誌とTVの昼のワイドショーが、婚約相手を人権・人格を完全無視・否定して徹底的にお暴き立てて非難した。
犯罪でも、なんでもない人を、これほど激しく、言いたい放題の悪口・非難は今まで見たことも,聞いたこともなかった。
(その人は2020年結婚し、外国に居住した)

英国では、
王位継承権を持つ人が婚約をしたら、その相手は
外国人であり、
バツイチであり、
異教徒であり、
アフリカ系であった、
が、それでも結婚した。
(その後に、外国に移住し、2020年に王室から去った)


いったい日本は、世界標準から何周遅れているのだろう。


これは↓、今から66年前の英王室のこと。
王位継承権を持つ人が、バツイチの民間人と恋仲になった。

・・・・・・・



「マーガレット姫の恋」  昭和30年10月16日 ~天声人語~ 荒垣秀雄


英国では、マーガレット姫の結婚問題が、ここ数日のうちにどちらかにきまるのではないかと興奮状態にあるようだ。
うわさの人、タウンゼント空軍大佐と約3年ぶりに13日、14日と2日続けて会われたからだ。
労働党の大会では、
「プロレタリアートが王室と結婚する権利がある」という決議まで飛び出した。

ウインザー公の場合は相手のシンプソン夫人が離婚の経験者だったが、
今度は相手の男が離婚者である。
英国教会では離婚者の再婚を認めぬ掟で、女王は国教の首長である。
エリザベス女王も苦しい立場なのだろう。

チャーチル前首相はこの結婚ばなしには反対だったと伝えられる。
イーデン現首相は自身が離婚の苦い経験者だけに、マーガレット姫のロマンスには理解がありそうだといわれる。

マーガレット姫はこの夏で満25歳になったので、女王のお許しがなくても自由に配偶者を選べるが、
離婚者のタウンゼント大佐(40歳)とはイングランドで結婚式をあげることはできず、王位継承も放棄せねばならぬ。
英国本土に二人で住むこともできないらしいとのこと。

姫は英政府から年金6千ポンド(6百万円)を受けておられ、正規の結婚されれば1万5千ポンドに増額される。
ウインザー公が王位を退かれた時、英議会はその後の公に年金をさしあげる案を全会一致で否決した。
国礎を危うくした王様だという理由からだ。

マーガレット姫の場合はそれほど深刻な空気はもちろんない。
多くの国民も姫の自由な恋愛を支持しているようだし、
エリザベス女王も妹君にはやさしい同情を寄せておられるらしい。
古い伝統を尊ぶ英国がこの恋をどう扱うか、
ひとごとながら、やはり気になる。



・・・・・・

マーガレット王女の、この恋は破れた。
別の人と結婚し、離婚した。
ミックジャガーと浮名を流したりしたが、再婚はせずに2002年、71歳で亡くなった。


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”里庄町の山男”  徴兵忌避で逃避12年

2021年10月12日 | 昭和26年~30年
里庄の山中に12年間、ドロボーしながら隠れ住んだ人がいたとは・・・今日まで、まったく知らなかった。


(里庄町・椿の丘公園から見る”竜王山” 2020.7.27)






「週刊朝日」の昭和史・第二巻   朝日新聞社 1989年発行


徴兵忌避で逃避12年

岡山県の片田舎の農家に盗みに入り捕まった”山男”の話。
---39才のこの男、小さい時から大の兵隊嫌い。
召集令状の赤紙が来た。しかし、どうしても軍隊に入る気にはなれず、山にこもる。
それから12年。

「山男が出る」といううわさが、岡山県浅口郡里庄村の村民たちの間で、
いつのころからか話題になっていた。
ある家では、十数回も米や、塩や干物が盗まれる。
村のはずれの竜王山の山裾の民家は、かたっぱしから被害を受けた。
盗難届の書類は厚さ10センチ余りも積み重なってくる。
これは、流れ者のルンペンの仕業だろうと思っていた、だが、だれ一人として、
その山男なるものの姿を見たものはいない。

昭和30年4月10日の午前3時ごろ、山を降り、田や畑の中を過ぎて、一人の男が里庄村新庄の安田賢一さん方の、炊事場からタヌキのようにしのび込んだ。
板の間に置いてあったオケに入れた一斗あまりの米を、担ぎ出そうとした瞬間「泥棒や」と叫んだ。
オケをもって泥棒は畑まで逃げ、生米をかじっていたところへ、若者が追っかけ、わけなく捕まえた。

駐在の巡査が呼ばれた。
昨年の9月に一度、スイカ泥棒をして捕まったのが、この男だったが、
その時は、そのまま釈放した。
夜が明けて、男は玉野警察所(←玉島と思える・管理人)へ送られた。

取調べが始まって住所を聞くと、竜王山の山中という。
昭和18年から今まで、ずっと竜王山にとじこもっていたのだという。
うわさされていた山男の正体は確かにこの男ときまった。

男の本籍は、兵庫県美方郡射添村で、岸光夫(39)という。
射添小学校をおえて大阪へ出た。


兵隊嫌い。
兵隊検査を浮けたとき、彼はしょうゆをガブガブ飲んだ。
おかげで熱が出たし、背も小さいので、運よく丙種となった。
住友製鋼に入って荷揚げ人足のようなことをやっていたが、赤紙が来たのである。
仕方なしに仲間から餞別をもらい、大社行の汽車に乗った。
故郷の駅は香住だが、大社まで行ってしまい、8~9日遊び歩いているうち金もなくなった。
伯備線経由で岡山の笠岡へ行った。
笠岡から里庄村の夜の道をあてもなく歩いた。
里庄村には思い出がある。
里庄村のある家の酒男にやとわれたことがある。
歩きつづけ、山のなかへ入ってしまった。

昼間は岩かげに隠れたり、山を歩いたり、そして夜になると、山を降り、農具小屋などで眠った。
最初は畑泥棒を専門にして、芋をとった。
芋がなくなると桃の季節がくる。次に柿、大根。自然は人間を餓死させない。
ワナをかけるとウサギやタヌキもよくかかって食べた。
そのうち欲が出て、
米が食いたくなり、山すその人家からかっぱらいをはじめるようになった。
ついでに着るものも失敬した。
泥棒ついでに本、雑誌、新聞は必ず手に入れた。

一年もすると、もう何も考えなくなった。頭はからっぽ。
着るものの事、食べものの事、それだけを本能的に考えていた。
終戦はむろん知っていた。
しかし何十回もコソ泥をやっていたので山を降りる気にはなれなかった。

彼は大のきれい好きで、毎日行水、頭の毛はカミソリで剃っていた。
山頂の彼の「貯蔵庫」には、地下足袋、しょうゆ瓶、マッチ小箱、せっけん、軍隊服、ワイシャツ、手ぬぐい、パンツ、靴下、下駄、塩、たくあん、高野豆腐など。

「つかまったのは欲張りすぎ、もっと遠くまで逃げてしまえばよかったんです。
そんでも、
刑を終えたら、真面目に働きます」
とも、述懐するのである。




大阪編集部・昭和30年4月24日


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厚子さんの結婚

2021年01月03日 | 昭和26年~30年
あの頃(昭和27年)、東京から岡山はとてつもなく遠かった。
蒸気機関車に乗って、東京から、東海道本線と山陽本線を下ってくる。
15~16時間だろうか。

前にも後にも(たぶん明治以降すべて)皇女が東京を離れたことはない。


父は、天皇が遠方に捨てたような、というような話をしていた。
母は、実際の厚子さまを見て「あのような品(ひん)のある人を今まで見たことがない」と感謝・感激気味。


結婚後、岡山県内では2~3年間婦人会による池田牧場参りが盛んだった。



(茂平婦人会が池田厚子さんと記念写真)昭和30年頃か 池田牧場にて


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「昭和戦後史・上」古川隆久著 講談社 2006年発行

順宮の結婚

昭和26年7月には、昭和天皇の四女順宮厚子(よりのみやあつこ)が、
旧備前岡山藩主という名家出身の岡山で牧場をいとなむ池田隆政と婚約を発表し、
27年10月10日に結婚した。

婚儀は簡素で、嫁入り道具なども中古品が中心であった。
披露宴こそ池田家の主催で東京会館でおこなわれたが、新婚旅行もなかった。
まだ余裕のない人たちが多い世情に配慮したものであろう。



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力道山の街頭テレビを見る岡山県人はいなかった

2020年11月08日 | 昭和26年~30年
力道山の街頭テレビを見る岡山県人はいなかった


以前義兄に、福山市では力道山の街頭テレビは、駅前や通町であったのか聞いてみたら
「福山で力道山のテレビを見る人を、見たことはない。東京や大阪のことだろう」と話した。

力道山とシャープ兄弟の試合が熱狂したのは、昭和29年ごろ。
岡山県にも広島県にもテレビ放送は始まっていなかった。




・・・・・・・・・・・・・・・・・


「岡山市百年史下巻」編集・岡山市 ぎょうせい 平成三年発行


民間放送の誕生


昭和26年に4社が設立された。
岡山では27年ごろから山陽新聞社を中心に放送会社設立の動きが高まった。
昭和28年4月山陽放送設立、山陽新聞社会長が社長となった。10月1日開局。
放送には未経験者が多く、
演奏所、送信所の機械、設備の据え付け、アナウンサー養成など開局準備に追われた。
ラジオ東京などの協力を得てやっと開局にこぎつけた。
アナウンサーはラジオ東京で6人を養成した。
一期生は、
「五十音の発音、発声から手ほどきを受け、連日、朝の9時から夕方の5時まで標準語とアナウンス技術を徹底的に叩きこまれた。
一ヶ月もすると言葉にすっかり自信を失ってしまい、みんな口数が少なくしょぼくれた」。
録音テープの再生機の調子が悪く、放送がめちゃめちゃになったこともあった。



テレビ時代

昭和28年にNHK東京テレビ局が放送を開始した。
昭和32年12月23日にテレビジョン放送(現・総合テレビ開始。
山陽放送が昭和33年6月テレビ放送を始めた。
昭和33年12月NHKと日本テレビにカラーテレビの予備免許がおりた。
NHK岡山は昭和39年、山陽放送は41年からカラー化した。

山陽放送・西日本放送のVHF2局が広域放送圏で相互乗り入れを行っていた。
その後、UHF3社
岡山放送・瀬戸内海放送が昭和44年開局。
テレビせとうちが昭和60年開局した。
他に衛星テレビ(WOWOW)が見れる。

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桃娘とマスカット娘

2020年09月10日 | 昭和26年~30年
昭和30年前後、岡山駅の桃娘やマスカット娘はどのようにして乗客に売っていたのだろう?


下りの「博多行」の列車。
汽車が止まると同時に窓に寄りアピール。
売れると、品物を渡し、お金を受けとり、おつりを差し出す。
2~3人目の客になると、発車時間が迫り、時にはおつりをもって走りながら手渡しか。




こちらマスカット娘。
桃娘と同じで、売るのは特急または急行に限定された。
特急に庶民が乗ることは稀でなく、ありえない時代だった。
季節は夏。このため窓が開いているのが助かる。(当時は特急でも窓が開閉できたのだろう)






プラットホームでの、一般的な売り子は「弁当売り」で、駅弁をおじさんが売っていた。
慣れた動きと声で販売していた。



・・・・・・・・・・・・・

「目で見る岡山の昭和」 蓬郷巌著 岡山文庫 昭和62年発行


昭和4年

高松稲荷のケーブルカー開通
備中高松最上稲荷と山上の奥の院を結ぶケーブルカーが開通した。
(昭和19年廃止)


昭和27年

岡山駅に桃娘が登場(7月)
旭川で鵜飼い舟開始(9月)
順宮厚子内親王と池田隆政氏と結婚
玉島市や笠岡市が誕生


昭和31年
岡山駅にマスカット娘登場

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モンテンルパの父帰る

2020年08月23日 | 昭和26年~30年
ニュー井原新聞・縮小版 昭和28年8月11日



ようこそ加賀尾師
4年ぶりの郷土に感慨もひとしお





加賀尾秀忍師(52才)は、8月9日午後5時2分井笠鉄道やくし駅着、
市側代表出迎えの教育副委員長、教育長等の感激合掌して出迎える地方住民百余名の中に降りたち感慨ひとしおの中に郷土の土に第一歩を印した。
師は東江原町の高野山真言宗、宝蔵院の自宅に帰着早々左の談話を本社に寄せた。

 
「私が日本に帰って一番強く感じたことはぶらぶらとすることもなく毎日遊んでいる者の多い比島人に比して、日本人全体が一様に働く意識に燃え真剣に生活と取り組んでいる真摯な姿であります。・・・・(略)」


時の人
新生井原市が生んだ時の人、加賀尾秀忍師は、当分寸暇なき講演と慰労と供養と日比親善運動とが入混った日程で埋められている。
岡崎外務大臣より感謝状、山県厚生大臣から木像一体を贈られた。
尚8月15日井原高等学校に於いて講演会開催の予定である。



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大相撲井原場所

2020年08月22日 | 昭和26年~30年
子供の頃、笠岡に行くと西ノ浜の葦の原(現在のホリディ付近かな?)、海と土砂が交わる草むらを差して
「あそこに相撲が来た」というようなことがあった。

「ニュー井原新聞」によると昭和29年と31年に大相撲井原場所が興行されている。
当時は一門別に興行している。
29年の”双葉山一門”とは立浪一門のことだろうか?
31年の”東京大相撲”とは、何を指すのだろう?

福山のとんど祭りにも毎年相撲が来ていた。
場所は、現在の「バラ公園」。
当時は、4月の初旬は備後や備中をまわっていたのだろう。

(下記の29年は広告、31年は記事)

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ニュー井原新聞・縮小版 昭和29年4月1日

日時 4月1日
場所 井原市大正橋上手河原
井原市制記念
双葉山一門
大相撲
前売券 150円 当日 200円
勧進元 井上勘一

後援
井原市制祝賀協賛会
太陽館後援会
井原市観光協会
井原市未亡人会


ニュー井原新聞・縮小版 昭和31年3月31日

東京大相撲
4月7日に変更

横綱吉葉山ら
180余名の、東京大相撲は4月6日と予定されていたところ、4月7日に変更。
井原町大正橋際河原で興行される。

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初代宮内庁長官の「拝謁記」②

2019年09月01日 | 昭和26年~30年
山陽新聞 2019年8月20日の記事より転記する。

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故田島道治の「拝謁記」には、昭和天皇が戦前の軍部の暴走を「下剋上」とたびたび批判する記述がある。

一方終戦の決断が遅れたことには「無条件降伏は矢張りいや」だったと漏らしていた。
「一寸こちらが勝ったような時に、其時を見付けたいといふ念もあった」とある。「一撃講話論」を持っていたことが改めて裏付けられた。

関東軍の謀略だった1928年の張作霖爆殺事件を巡る田中義一内閣の対応について「事件のさばき方が不徹底であった事が今日の敗戦に至る抑々の禍根の発端」と胸中を明かしていた。
軍部の専横を「下剋上」と非難し「早く根絶」すべきだったとも主張していた。

軍部の台頭を許した「2.26事件」については「あの時分の軍部の勢は誰でも止められ得なかった」と語っている。

開戦時に東条英機を選んだことには「唯一陸軍を抑え得る人間と思って内閣を作らした」「見込み違いをしたといえばその通り」と反省。
開戦を巡り「平和を念じながら止められなかった」「東条内閣の時は既に病が進んで最早どうすることもできぬといふ事になっていた」と悔いた。
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初代宮内庁長官の「拝謁記」①

2019年08月30日 | 昭和26年~30年
8月20日のすべての新聞は、一斉に初代宮内庁長官の「拝謁記」で埋まった。
故・田島道治長官のノートや手帳が,遺族からの提供を受けたNHKから公開された。
専門家の意見は、目新しいものはなく、従来の追認や確認的な資料のようだ。

山陽新聞 2019年8月20日の記事より転記する。

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昭和天皇戦争反省語れず
日本の独立を祝う1952年5月の式典で、昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたにもかかわらず、当時の吉田茂首相の反対で「お言葉」から削除された。
「私はどうしても反省という字をどうしても入れねばと思ふ」(52年1月11日)
吉田首相は「戦争をお始めになった責任があるといはれる危険がある」と反対。
お言葉から削除された。

軍部の暴走
「終戦で戦争を止めるくらいなら宣戦前か或いはもっとはやく止める事ができなかったかといふような疑問を持つと思う」
「事の実際としては下剋上でとてもできるものではなかった」(51年12月17日)
と後悔を記している。
南京事件にも触れ、
「ひどい事が行われている」と聞いたが「此のことを注意もしなかった」と悔やんだ。

退位の可能性
「国民が退位を希望するなら少しも躊躇せぬということも書いてもらいたい」52年12月。
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