しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「江戸参府旅行日記」番外編・広島県立歴史博物館の秋の企画展「~近世・海の旅と憧れのまち~」

2021年10月07日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
元・福山城三之丸にある「ふくやま草戸千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)」では、
令和3年10月1日~11月23日まで、秋の企画展・「京 江戸 長崎~近世・海の旅と憧れのまち~」を開催中。
10月5日に見に行った。




特別展なので料金は1.000円。




・・・・

館内の展示品。


長崎の唐人屋敷の様子。






長崎から江戸への絵図。
これは九州北部、熊本城・柳川城・久留米城が見える。






瀬戸内海の「地乗り航路」と「沖航路」。
沖航路は地乗り航路からとって変わったのでなく、両航路は使い分けされていたように思う。






弥二さん喜多さんの道中。





他にも興味深い展示品が多くがあり、いい時間を過ごすことができた。勉強にもなった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトが来た時の鞆

2021年10月04日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
文政9年(1826)にシーボルトが鞆に来た時、あったものとなかったもの。

撮影日・2021年10月2日


この眺めは、江戸時代も今も変わらない。






「大波止」は、寛政3年(1791)に出来た。文化8年に大規模修理と延長が完成。






「船番所」は、場所は今と変わらないが、残っているのは石段だけだそうだ。







シーボルトが日記に書き残した、医王寺。









鞆の「常夜灯」。

残念ながらシーボルトが帰国した後の、安政6年(1859)年に寄進されたもの。
雁木は文化8年(1811)に完成している。







朝鮮通信使が”日東第一形勝”と賞嘆したのは1711年、
禅福寺「対潮楼」は、元禄年間にできたそうだ。




鞆の町並みは魅力的で国の重伝建に指定されている。
潮待ちの湊として、
”1000年に及ぶ繁栄”が昭和初期までつづいた。


※福山市教育委員会「鞆町並みの魅力」一部引用





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シーボルト「江戸参府旅行日記」大坂から長崎への帰り旅・鞆

2021年10月04日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「江戸参府紀行」 シーボルト 東洋文庫  昭和42年発行

十一・大坂から長崎への帰り旅



1826年(文政9)
6月23日(旧5月18日)



(鞆グリーンラインから)




朝、引き舟にひかれて鞆の港にはいる。
正午ごろ上陸。


(鞆港の雁木)




たいへんきれいな町並みで、船の出入りがあり活気にあふれた町である。
たくさんの小売店があるが、大部分は船員用の品物や蓆・網・帽子・草履などの藁製品である。



(鞆の町)





東北の側にある港は、概して小さい日本船には都合の良い停泊地で、北側にはたいへん頑丈な堤防、西南の側は町と高い山があって港を守っている。
港外は三尋の深さであるが、港内はもっと浅い。
けれども約半マイル離れた所に好条件で錨を降ろすことができる。



(鞆港・いろは丸記念館前)





町の長さは15町で、手入れの行き届いた住居は裕福なことを物語っている。
住民は数千にのぼるようである。


(鞆城跡)


(鞆港焚場)





われわれは何軒かの家を訪ねたが、心から迎えてくれた。
ある寺に行ったが、その場所は美しさとひらけた眺望で有名であったし、
また遭難した朝鮮人が滞在したところとしても少なからず有名であった。




(日東第一形勝の福禅寺)



(鞆渡船場)








私は町の郊外にある医王寺に出かけた。
険しい山を登ると、山の背に寺がある。
この山の植物群はカシ・コナラ・マツ・クリ・エノキ・ツツジ・グミ・ハゼ・・。



(医王寺)





夕方船に戻り、夜半に30隻の引き船で港外に出る。



(仙酔島)



(阿伏兎観音)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シーボルト「江戸参府旅行日記」大坂から長崎への帰り旅・御手洗

2021年10月03日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト

「江戸参府紀行」 シーボルト 東洋文庫  昭和42年発行

十一・大坂から長崎への帰り旅





(広島県大崎下島・御手洗港)




1826年(文政9)
6月25日(旧5月20日)

御手洗の町から数人の患者が来て、私の診察を求める。
患者の中には17歳の少女がいた。



(広島県大崎下島・御手洗港)



母親の申し立てによると、ときどき色情狂の発作を起こしたという。
私は母親に、食餌と心理学的な処置とともに、娘をはやく結婚させるよう忠告した。



(広島県大崎下島・御手洗港)




この話を娘はうれしそうな笑いを浮かべて聞いていた。
精神病の症状に国民的の風習が現れるのは、注目に値するものである。
たとえばこの少女は、
病気の発作が起こると、歯を黒く染めるが、こうするのは日本では既婚の婦人の一般的な印なのである。





(広島県大崎下島・御手洗港)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シーボルト「江戸参府旅行日記」下関から室津への旅(日比~室津~大坂)

2021年10月03日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
シーボルト「江戸参府旅行日記」 三 下関から室への旅(日比~室津~大坂)





(日比港)


1826年(文政9)
3月6日(旧1月28日)


早朝上陸


(日比五丁目)


日比と向日比をコンパス観測。

向日比の前方で大槌島の東南端に、大きな砂州が広がっている。


(渋川から見る大槌島)


スチュレル大佐は一行は鉱物を採集し、その他地質学上の調査を行った。





(玉野市日比、御崎神社の秋祭り)




われわれは日比と向日比の間の海岸に沿っている塩田の方にでかけた。
村々にはナンテンがたくさん植えてあった。
小さな庭には背の低い竹垣がめぐらせてあった。
ソテツとシュロはまれな植物である。
日比の塩田は非常に注目すべきものである。

海の塩はこのあたりでは太陽で蒸発させる方法で塩水から精製される。
これは日本における唯一の、一般に行われている製塩の方法である。
ヨーロッパと比べ完全度がはるかに高い。
それにはたくさんの独特な点がある。
ここにその記述を続けたいと思う。



(塩田に、大正時代三井造船が進出した)




---塩田作業記述省略----


日比と向日比の住民の裕福な暮らしはひときわ目立っている。
人々はわれわれを珍しげに眺めていた。
彼らから、まだ一度もオランダ人がこの土地を訪れたことはなかったということを聞いた。

海岸でタコを捕る巧妙な漁法を見た。
貝の巣にはいりこんでつかまってしまう。

船は出帆しなければならない。
風と潮流にさからっているので、30隻の引き船を要請する。
しかし日比の入江を出るとすぐに錨を降ろした。



3月7日(旧1月29日)


夜明けと共に錨を揚げた。
昨日の引き船で海上に出る。


(宇野港)



8時ごろ西南の順風にめぐまれ、引き船を返す。





(日生諸島・大多府島)



右舷に大島・塩俵島・小豊島シュデシマを見て進み、大きな小豆島を見て停船。



(小豆島)





この場所でクロノメーターによる経度の測定を行う。
われわれはグリニッジ東経133度54分に位置していた。
日本人の図解的な地図や海図はこの島の多い海域でたいへん役立つ。





室の海岸の沖合1里まで進み、そこで準備していた引き船が助けに来て港へわれわれを引いていった。
ホテルは九州の大名が参勤の途上に訪れる普通の宿である。


(室津湾)



(室津港)



部屋、ことに大名用の客間は非常に簡素であるが、驚くほどさっぱりしていて、趣味豊かに造られ設備されている。
わずか2~3の調度で飾られているだけであるから、なおさら目につくのである。

使節は大名の部屋にはいった。
部屋は三つあって、控えの間と、その両側に1室ずつある。



(室津)







3月8日(旧1月30日)

午前中は経度・緯度の観測ならびに来客や診断に費やした。
われわれは室の港を見物した。
番所があり、巨大な石で築いた石垣のうえに、港の入口を掃射する砲台が作られている。
港には50隻以上の船が並んで停泊していた。
山根崎に登った。



(室津の賀茂神社)


(室津の賀茂神社)




(室津の賀茂神社の前方、家島諸島)



前方には家島群島が、その背後には淡路島が横たわり、右手に小豆島、遥か彼方に四国の連山が雪をいただいた高い峰がそびえていた。
住民たちの住まいはあまり裕福でない様子だったのは意外である。




・・・・・




九州や西日本の大名たちがしばしば江戸参勤の途上ここに上陸し、それからこの地方の有名な神社仏閣に詣でて、陸路大坂への旅をつづけるからである。
明日われわれは、この地方で有名な聖地に向かって巡礼の旅にたち、
さらに陸路大坂まで旅をつづける。




(竜野)



(姫路・灘)



(姫路城)



(明石・魚の棚)



(神戸)




(尼崎・えびす神社)




(西宮)




(大坂)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シーボルト「江戸参府旅行日記」下関から室津への旅(下関~日比)

2021年10月02日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「江戸参府紀行」 シーボルト 東洋文庫  昭和42年発行


三 下関から室への旅(下関~日比)


1826年(文政9)
3月2日(旧1月24日)


8時ごろ、西風を受けて出帆し、潮流に助けられ正午ごろ太陽の高度を計った。
それによると北緯33度5分にいた。
ここは多数の大小の島々が散在する内海で、豊予海峡、紀淡海峡の間の広々とした多島海を三つの海域に分けている。
周防灘、播磨灘、水島灘。水島というのは甘い水(淡水)の出る島の意味である。
この海域を形成している海岸の地形ははなはだ不規則で、外国船にとってはこの迷路を通って危険な航海をすることは今日まで不可能であった。
けれども日本の船乗りはこの水路に精通しているので、すっかり任せておいても安心である。
内海の東端にはこの国最大の商業都市大坂が位する。



(周防大島)


向島(防府市)野島・笠戸島のかたわらを過ぎ、夕方に上関と室津の間の海峡を通過した。
屋代島の牛の首埼と沖家室の間に錨を降ろす。



3月3日(旧1月25日)

寒暖計はF38度を示す。
船は停泊したまま。風は烈しさをまし、夕方にはたくさんの錨を降ろし船が流されないようにしなければならなかった。



3月4日(旧1月26日)

相変わらず向かい風。
朝の時間を経度の測定と方位の測量に利用することとし、9時過ぎ屋代島の牛の首崎に上陸する。
化石となった象の臼歯の、よく原型をとどめたものを発見した。小豆島ではしばしば化石した骨、疑いもなくマンモス象の骨が発見されるということである。
使節はわれわれが学問的な調査を行うために彼のもとから離れると、いつものようにイライラしだした。





出帆し、東島、怒和島の間を東北東の進路を通って御手洗へ向かった。



(正面に怒和島)




(倉橋島鹿島の段々畑)





(伯方島、正面は岩城島)





(大三島・宮浦))




船頭は引き潮の流れにあい、しかも暗闇の中で、船が浅瀬や岩礁に衝突するのを恐れて、
海岸近くの三原の沖に10時ごろ、錨を降ろした。




(生口島から三原港を望む)




(浮城・備後三原城)


(三原・糸崎から前方に佐木島や因島が重なる)






3月5日(旧1月27)



(三原港の前にある宿根島)


夜明けとともに帆を上げ、9時ごろには水島灘(今の燧灘)という広い水域に出た。



(弓削島 愛媛県越智郡)



(弓削島から見る因島=広島県尾道市)






左舷には田島、右舷には弓削島が見える。


(田島・横島 福山市内海町)



(田島・横島 福山市内海町)



まっすぐ箱の崎まで向かって正午まで進み、そこで晴れ渡った空のもとで太陽の高度を測った。北緯34度16分。
飯野山(讃岐富士)は南77度東であった。



(内海大橋=福山市)


(田島から見る内海大橋)






今朝早く備後領の南端の阿伏兎岬を通過した。
岬の上には観音を祀った磐台寺があり、岩の上に建っている。
灯台に似た寺の塔が遠くから見える。
船乗りや旅行者はここで仏前に供え物をそなえ仏の加護を願うのが常で、
供え物は普通12の小銭で、信者はそれを小さい板切れに結んで経文を唱えながら海中に投げる。
このおびただしい供え物を僧侶が雇っている漁師が拾い上げるのである。


(阿伏兎観音)







なお巡礼地としていっそう有名なのは、向かいの四国の琴平山にある金刀比羅宮である。
 


(金刀比羅宮参道)


(金刀比羅宮)


琴平山は孤立した円錐形の山で、讃岐の内陸数里のところにある。
山は遠く海上から見える。
神殿および、およそこの山の全域が魅するような美しさだという。
船人は金毘羅権現におのれの生命をあずけ、お供え物をするが、普通は小さい酒樽といくらかの銭で、これを海中に投げるのである。
漁師や農民は、投げ込まれた供え物を海中や海岸で見つけると、直ちに社へ持って行き、
その代償として免罪符をもらう。
これを着服すると神罰を被る恐れがあるので、彼らは良心的にふるまうのである。






(多度津沖)



東西に向かって引き潮の流れが異常な速さと強さを持っている。
満ち潮は水島灘では外側よりもいちじるしく高位を示す。
すべてを経験をつんだ思慮深い日本の船乗りは、たびたび心ひそかに感心したものである。


針路を白石にとり、それから塩飽島に向きを変える。



(笠岡市北木島)



その島は七つあるので普通七島(ななしま)と呼ばれている。




(香川県多度津郡 佐柳島)






(坂出市沙弥島)





引き潮は好都合であった。
日暮れと共に日比の近くに錨を降ろした。


(日比港 岡山県玉野市)




・・・・



この内海の航海を始めて以来、われわれは日本におけるこれまでの滞在中もっとも楽しみの多い日々を送った。
船が向きをかえるたびに魅するような美しい島々の眺めがあらわれた。
島や岩島の間に見え隠れする日本と四国の海岸の景色は驚くばかりで---
ある時は緑の畑と黄金色の花咲くアブラナ畑の低い丘に農家や漁村が活気を与え、
ある時は切り立った岩壁に滝がかかり、また常緑の森の彼方に大名の城の天守閣がそびえ、その地方を飾る無数の神社仏閣が見える。
はるか彼方には南と北に山が天界との境を描いている。
すぐ近くを過ぎてゆくいくつかの島は少なからず目を引く光景を呈している。

温和な島国の気候と千年の努力が、これを野趣の溢れたロマンチックな庭園に作り変えたのである。

常緑の葉をもった樹木の多数の種類、ことにスギ・マツは日本の特徴ある植物であり、
早く花を開く樹木や灌木はこの地方に常春の外観を与えている。

気温はほんとうに温和であり、海上の活発な船の行き来は美しい自然に劣らぬほどわれわれを楽しませてくれた。
数百の商船に出合ったし、数え切れない漁船は、昼間は楽しげな舟歌で活気をみなぎらせ、夜は漁火で海を照らしていた。
随行の日本人はいつも上機嫌だった。
これは社交的な同居生活の薬味であり、旅の幸さの強壮剤であった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジーボルト「江戸参府紀行」序文

2021年10月02日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ジーボルト「江戸参府紀行」 斎藤信・訳  平凡社  昭和42年発行

1826年の江戸参府紀行の序

この国の地理・住民の言語・彼らの風俗・習慣を、私は教養ある日本人との交際を通じて調べておいた。
私自身の小旅行は長崎の近郊を越えた程度に過ぎなかった。
遠い国々の事情に通じている医師たちが私にその地方の天産物を教えてくれた。
彼らは自然科学や医学について私の講義を受けようとして、日本の各地からやってきて博物標本や動植物の書物などを贈った。
数百名の患者は、珍しい博物標本を差し出した。
数人の猟師を鳥や獣を捕えるために雇い入れていたし、昆虫採集の目的で他の人々を仕込んでおいた。





出島では植物園を造ったが、私の多方面にわたる友好関係のおかげで、約千種の日本と支那の植物を数えるにいたった。
また蝦夷や千島についてもある高貴な日本人を通じて、博物学および民俗学上の資料の貴重なコレクションを手に入れた。
私の見聞をひろめることが、いまや来るべき江戸旅行の主目的であった。
けれどもこの旅行には種々の制約があって、自由に研究し、その領域を広げることは期待できなかったから、
使節派遣が終わったのち、なお江戸に滞在し、
将軍家の医師に博物学や医学を教えることを口実にして、
状況次第で日本の国内を旅行しようという計画をたてていた。

私の計画を受けた蘭印政庁は、これに同意し、滞在費を含め強力に支援するようこのたびの使節に依頼してきた。

オランダの船舶は毎年わずか2回だけ貿易のために寄港することを許されていた。
12月にバタビアに出帆して、単調な静けさを出島の住民はとりもどす。
そうゆう時期江戸旅行の準備にとりかかった。



(江戸での宿舎、長崎屋)


先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、
公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。
この旅行で重要な役割を演じ、現金出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行う大通詞として末永甚右衛門がわれわれに同行した。
立派な教養と学問的知識をもっていた。
賢明で悪知恵もあった。少年時代に通詞の生活に入り、オランダの習慣に馴れていて、オランダ語を上手に話したり書いたりした。
長崎奉行の信頼も厚かった。

日本人の同伴者のうち最も身分の高い人物は給人で、御番所衆とも呼ばれ、出島では上級と言う名で知られていた。



使節は新式の家具や立派な食器類や銀器やガラス器を準備し、
私は、バロメーター・高度測定用のトリチェリのガラス管・温度計および寒暖計のほかに、
ロンドン製のクロノメーター・副尺がついて15秒をよみとることができる六分儀・精巧な水準器と羅針儀・電気治療器・組立式顕微鏡などを持っていった。
あとは小型のピアノ。
携帯用の薬品と普通の外科の手術道具をそれに加えた。


・・・・・・



蹄鉄は
日本では使用されていない。
牛馬の蹄には稲わらで作った靴をはかせるが、街道の至るところで旅行者用と同じように買えるよう吊るしてある。



(東海道53次・三島)



運搬人は、
荷を担ぐものと、駕籠舁(かごかき)がある。
彼らの鍛錬と忍耐と敏捷さには驚くが、彼らの節制を重んずるのは称賛に値する。
荷を担ぐ仕事には下層階級出で力強い男子が選ばれる。
駕籠を担ぐには相当の訓練がいる。
駕籠舁は数日にわたって40~60キロと歩かねばならない。
両脚は藁靴をはき、一種のゲートルをつけている。
長い杖を持つ。
身分の高い人々の駕籠舁も同じ。


街道
一般に道幅の広い街道には地形の許す限り両側にモミ・スギなどの陰の多い樹木を植えている。
街道はその領地の大名の費用で維持され、代官や庄屋の監督下にある。
大名行列がたびたび行き合うので、秩序を保つため、各々は道の左側にいて他の者には右側を行かせる。

一里づつ道の両側に小さな丘があり一里塚と呼ばれる。
不浄だと排斤されているエタという階層のものが住んでいる区間は、たとえ数時間を要する距離でも、距離には数えられない。


(舞阪の松並木)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「江戸参府旅行日記」番外編・シーボルトの日本派遣

2021年10月02日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
「ケンペルとシーボルト」  松井洋子著 山川出版社 2010年発行

シーボルトの日本派遣

シーボルトはドイツで生まれた。祖父も父も医者の医者一家。
1815年大学に入学し、
医学に加え
化学・解剖学・薬学・物理学・植物学・人類学などを学んだという。
1822年「軍医としてオランダで勤務に就き、東インド会社の植民地へ行く」決心をする。
その理由は、
「博物学研究の特別な愛好心、この偏愛こそ小生を他大陸へ遠征させる決心をさせた」と語っている。

当初ブラジルへ赴く、という交渉も受けており、どこであれ学問的に未知の土地で研究を行うことが目的だったと思われる。
1822年7月ハーグへ到着。
オランダ領東インド陸軍外科軍医少佐に任じられた。26歳の医師には破格の待遇であった。
1823年2月バタビアに到着した。4月日本勤務を命じられた。
1823年8月11日長崎湾に入港した。





日本での活動

本来は商館駐在員の健康維持のためのものであったが、
彼の博物学研究に資するため、日本人に対する積極的医療行為を開始した。
11月にはすでに人脈を生かし、オランダ語で博物学と医学を教え始めている。
1824年には長崎市中に出張して教育を許され、郊外の鳴滝に家屋を購入し門人を寄宿させた。
効果が目に見えやすい医療を武器として彼を売り込んでいった。
出島の外での医療と教育が、とくに医師たちの前での手術や処方の臨床医療教育が彼への評価を高めた。

当初よりの使命であり関心事であった、博物学的調査、具体的には動物学・鉱物などの収集を手掛けた。
出島に植物園を開いた。
バタビアから、栽培が有益と思われるすべての種子や苗木を送るよう要請され、
植物園で育てた苗が発送された。


1826年、江戸参府を好機に、
幕府に江戸への長期滞在を認めさせ、日本について総合的調査を展開する計画を示し、承認と財政措置を求めている。

シーボルトは100年前の先人より、各段にめぐまれた条件にあった。
蘭学の発展は、オランダ語で彼と学問的な話をできる人々を準備しており、
その人々は彼の持つ医学を中心とする西洋の学問伝授を望んでいた。

ケンペルは、みずからの手で多くのスケッチを残しているが、
シーボルトには、彼のカメラ代わりになる画家がいた。
町絵師川原慶賀は日本人の生活、道具、風景を細密描写した。







江戸参府旅行

1790年以降、江戸参府は4年に1度に変更されていた。
シーボルトは2年半待たねばならなかった。

江戸での滞在を自分だけ延長することを画策していた。
一行の宿舎には、門人たちが多数の動植物の標本やスケッチを持参して訪ねてきた。
4月16日特別な日、最上徳内との出会いがあった。
徳内は数度にわたってシーボルトを訪問し、樺太探検の様子や、アイヌの風俗、蝦夷語、地理などを話し多くの情報を与えた。
学問的関心を同じくする者が、出会い、語り合う喜びは双方の胸に響くものであったい違いない。
天文方高橋景保との出会いは、のちに二人の運命を変えるものになった。
間宮林蔵とも会っていた。
江戸滞在中に訪ねてきた学者たちは、
将軍侍医の桂川甫賢・土生玄碩・栗本瑞見・津山藩医宇田川容庵・蘭学の大槻玄沢など、枚挙に暇がない。


江戸滞在延長計画

シーボルトは早い時期から、江戸での滞在を延長し、さらにあわよくば各地を旅行する許可を得たいと考え、バタビア政庁から承認されていた。
江戸滞在の延長は得られなかったが
復路では何軒もの植木屋を訪問して、品種改良や移植などの情報も得た。




シーボルト事件と国外追放

1827年7月、日本から帰還が決まった。
1828年の船で帰国の準備を進めていた。
間宮林蔵の勘定奉行に私物を提出し、外国人との私的文通が問題となり、
シーボルトは出島で厳しい監視のもとにおかれた。
1829年12月30日、シーボルトは日本を離れた。
『日本』の記述によれば、
シーボルトは収集品のうち多くを毎年の船ですでに送っており、
また没収の前に、もっとも重要な地図類などを夜を徹して写したという。
シーボルトのコレクションはさほど大きな影響は受けなかったとされる。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケンペル「江戸参府旅行日記」第四章 駅舎・旅館・料理屋・茶店

2021年10月01日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第四章 駅舎・旅館・料理屋・茶店

街道に沿った町や村には、旅行者のために領主が設けた駅舎があり、
そこでたくさんの馬や荷物運搬人が配達人など、いつでも一定の賃金で雇うことができる。

九州の小さな街道では旅館としての家屋でなく、厩舎として建てられたもので、馬をとりかえる際に街道をふさがないようにするためである。

街道筋には旅館がありかなり整っている。
毎年江戸に行き来する大名たちが宿をとる「本陣」は、すべて整った設備をもっている。


(矢掛宿・本陣)




ほかの立派な家屋と同様に一階建てであるが、もしもう一階あっても二階は頭がつかえそうで、そのうえ結構なにおいが漂っている。
奥行きの長さは時には40間もあり、後ろに坪庭がある。



(矢掛宿・本陣)

調理場には煙突がなく、煙りだしの穴があいているだけだから、よく煙が部屋中に立ち込める。


便所は後屋の脇にあり、二つの戸口を通って入るように造ってある。
中に入ると、清潔な床の上にござが敷いてあり、素足が嫌な人はイグサか藁で作った草履が置いてある。
用を足すやり方はアジアの流儀で、つまり、しゃがんで床の狭い穴の中にする。
もみ殻か刻んだ藁がいっぱい入っている一個の長方形の桶が外から差し込んであって、それで悪臭はたちまち吸収されてしまう。
便所の近くには手水鉢があり、すぐに手を洗うことができる。それは凸凹の石で、竹の柄杓が備えてある。


(矢掛宿・本陣)


浴室は通常小さに庭の一番奥の方に続き、ヒノキ材で建てられている。
その中には一つの風呂、すなわち蒸気の箱があるか、湯の入った浴槽があるかのどちらかだった。
旅行中、汗を流したり手足の疲れをいやすため、毎日入浴する。
日本人の着物は簡単に脱げる。
帯を解いてちょっと体を動かせば、身につけているものはみんな落ちて、丸裸となる。


・・・・・・


私は、数え切れない低級の旅館・小料理屋・居酒屋・食べ物や甘い物を売る茶店について記述しよう。
これらのものは、旅する街道沿いの森や谷間などにもあって、疲れた徒歩の旅行者や身分の低い人たちは、わずかな銭を払って、暖かい軽い食事をとり茶や酒を飲むことができる。
貧しい人たちがやっているので、これらの店は貧弱で粗末であるが、
それでも通り過ぎる旅人といつも惹き付けるに足りるものである。
流れ落ちる小川とか、花をつけた小枝を活ける。
また、きれいに着飾った2.3人の若い娘がいて、道行く人に呼び掛け
、愛嬌をふりまきながら客に差し出す。


(丸子)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケンペル「江戸参府旅行日記」第六章・オランダ人参府旅行の経験と待遇

2021年10月01日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第六章・オランダ人参府旅行の経験と待遇

日本暦の1月15日または16日が、毎年出発の日となっている。
出発の朝早く、江戸城まで護衛の人々が姿を現す。
やがて二人の長崎奉行が盛装して、われわれに祝詞を述べる。

島を出て、一歩を踏み出す。およそ午前9時と決められている。
奉行と公使(商館長)は籠に乗り、他の人たちは駄馬に乗る。
従者たちは歩いていく。





長崎から小倉までの陸路は、
大名が約100名の護衛の家来を、
海上の船旅では、水夫の数が加わる。
東海道では約150人(船での荷物が加わるので)に達することがある。
荷物は、普通1時間先に送られ、宿の主人にしてみれば、それによってわれわれがじきに到着することがわかるようになっている。

一日の旅程はかなり長く、早朝から夕方まで、時には真夜中に及ぶこともある。
毎日10~13里を進む。
海上では用心して夜旅は避ける。





九州の旅行中は、その接待ぶりが日本(本州)よりも称賛すべきものである。
城主の命令で、箒で掃かれ、水がまかれ、建物の前にいる人は簾の後ろにひざまずいて、われわれが通り過ぎるのを見守っている。
他藩領に入ると、派遣された重臣が、主人の歓迎挨拶を伝える。
大村や島原の港湾を渡るために、領主は自分の遊船とお抱え船頭を貸与され、
食事には暖かい料理を運ばせ、代金は取られない。
これに対して日本島の道中は、畏敬の態度をほとんど見かけなかった。
旅行中の接待には、十分に支払うのだが、それでも対応は馬鹿にしているようである。

オランダ人が馬から下りると(それはどうしても必要な時でなければ見られないのであるが)、先導者や先を行く騎乗者は立ち止まる。
それに続いて行列全部が止まる。
同心が二人の手下と一緒にやってきて、オランダ人の近くに立っている。
われわれを見張って、用便でも引き下がろうとしない。

われわれが泊まる宿舎は、大名と同じところで、それゆえ各地で一番上等である。
旅館では大名の流儀に従ってオランダ領東インド会社の帳幕と紋章がかけられている。
泊っている身分の高い客を知らせるためである。
われわれは、これらの旅館を毎年交互に泊まるので、帰路に泊まろうと思っているところでは昼食をとる。
こうゆうことで宿の主人の煩わしさを均等に分け合うのである。
主人は礼服である裃を着用し、短刀をさして村の入口まで出迎え、一人一人の前に立ち、へり下ったお辞儀をする。
それどころか付添検使とわが使節の乗り物の前では、主人は両手をつき、ほとんど地面につくほど頭を下げる。
終えると素早く家に立ち戻り、もう一度家の前でわれわれを出迎える。


夕方、運ばれてくる蠟燭は、中が空になっている。
夜の灯火には小皿を用い、それにイグサの芯を灯心にしてクジラ油か菜種油につけて燃やす。四角の行灯の中に置く。


同行の日本人は旅行中、毎日3度食事するが、さらに間食もする。
まだ夜明け前、起き上がって着物を着るとすぐに出発前に1回目の食事をする。
昼に、他の旅館で2回目を、
床に就く前に3回目の食事をとる。
食事はたいへん美味しい。
彼らは食事のあと酒を飲みながら歌をうたうなどして暇をつぶす。
オランダ人は静かに食べなければならない。
付いて来た日本人の料理人にヨーロッパ風に調理させ、食卓に運ばせる。
時には宿の主人から日本料理をさせたり、米のお酒を飲む。
中庭に出たり、風呂に入る以外は外へ出ることは許されず、大目にみてくれなければ隣の部屋にも行けない。

旅行中,気付いたのであるが、世界中いかなる国民でも
礼儀という点で日本人にまさるものはない。
身分の低い百姓から最も身分の高い大名にいたるまで大変礼儀正しい。
彼らは才気があり、好奇心が強く、異国の品物を大事にする。

この国では、人々は吉日を選ぶ。不幸を招かないようにする。
けれども、理性的な日本人にはほとんど問題視されてない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする