しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

皇族でない人の国葬  2022年9月27日(予定)

2022年08月25日 | 令和元年~
戦前は法令に基づき、天皇陛下が決めていたそうだ。
戦後は法令がないので、内閣の思いつきで決めるそうだ。
どの時代も”人”の面と、”費用”の面で問題があり、国葬者は少ない。


山本五十六元帥は、本人の遺志とは逆に、鬼畜米英の敵討ちに利用された。
吉田茂元首相は、国民や経済が昭和元禄の真っただ中で、穏便に行われた。
安倍晋三元首相は、銃撃による急死だったが、国葬を決めるのも急で、世論も賛否が拮抗している。


・・・・


「サンデー毎日」  2022年8月21.28日号 毎日新聞社


国葬が政治論点になった貞明皇后(大正天皇の皇后) 

成城大学森暢平教授


戦後初の「国葬」が議論になったのは、1951(昭和26)年、貞明皇后が亡くなった時である。
66歳で、突然の悲報だった。
戦前と異なり、国葬の一義的な主催者は政府となる。
日本憲法下の最初の議論から、国葬は「政治」とは無縁でなかった。


戦前、国葬令が存在した。
天皇、皇后、皇太后が亡くなれば国葬であった。
ところが戦後失効した。


『昭和天皇拝謁記』によると、
「占領下のため、国葬を望まぬ」吉田首相の意向や、
法相が、法制上国葬なるものは存在しない述べた。
吉田首相は”国葬を考えたが、天皇が遠慮した”という言い訳で、議論をしのごうとした。
天皇は、
「政府の申し出を、私が及ばぬと言える筋合いのものではない」と述べた。


このとき、与野党から「国葬法案」の競い合いが始まった。
しかし、
「誰を対象に」
の問題を詰める必要があった。
戦前は、皇族および「国家に偉功」が対象である。
勲臣、元老、名将を、政治から超越した立場にある天皇が選び、
国葬という名誉を与えるものだった。
対象を選択する主体が天皇ではなく、内閣になれば、必然的に「政治」となる。


内閣の思いつき
皮肉なことに、貞明皇后の逝去から16年後に吉田がなくなった時、
戦後初の「国葬」が行われた。
ワンマン吉田の国葬に、野党社会党は国費支弁の側面から反対した。
社会党
「なるほどこの人ならば、という基準がなく、いうならばときの内閣の思いつきでやるのは賛成しかねる」
大蔵大臣
「御承知のように法令の根拠はございません。
やはり何らかの基準をつくっておく必要があると考えております」
答弁だけに終わった。


「全国民」が死を悼む国家イベントが国葬である。
安倍晋三元首相の国葬には賛否が拮抗する。
そうしたなかで実施される国葬にはやはり、
違和感を覚えざるを得ない。


・・・
 
(山本長官・おじのアルバムから)
 
・・・

「サンデー毎日」が見た100年


1943(昭和18)年 山本五十六戦死
国葬で示された”遺志”


1943(昭和18)年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官は、南太平洋のラバウル基地から前線視察に向かう飛行機が撃墜され、死亡した(当時59才)。
遺骨は戦艦武蔵に乗せて、5月21日横須賀港に帰港した。
同日、山本長官の戦死が大本営発表と同時にラジオ放送された。
《嗚呼!この提督にして、はじめて曠古(こうこ)の大戦果が挙げられたのだ》
と感慨無量だ。
そんな国民的英雄を失ったマイナス面を軍部は逆手に取ったふしがある。


1943年6月5日、山本長官は皇族、華族以外では初めて「国葬」により送られた。
日米開戦時から講和を目指していたとされる山本長官の”遺志”は、
結果として別の言葉で代弁されることになる。


《この日、日比谷葬場に進む葬列を見送る市民の大群の誰もが、
大空と怒涛のなかになお叱咤する元帥の雄姿をありありと見たのである。
米英撃滅の拳を揮って居られる姿を見た。
そして誰も彼もが米英撃滅への拳を握りしめたのである》
本誌6月27日号は力んだ筆遣いで伝えている。


・・・・

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笠岡シーサイドモール女性専用駐車場

2022年08月24日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市笠岡(シーサイドモール) 
廃止日時・2021年
撮影日・2019年3月31日

 

 

シーサイドモール笠岡の女性専用駐車場に、幕が張られて工事が始まったのが2年ほど前。
その場所に10階建てくらいの規模の高層マンションが工事中だったが、完成が近くなった。

マンションは買物便利で、笠岡駅も近いので何ヶ月も前から「完売」の幕が目立つ。
大都会と違い、
田舎町では健康な老人にマンション人気があるようだ。

 

(2021.1.1)

 

 

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旧・笠岡郵便局

2022年08月24日 | 無くなったもの(笠岡市)

場所・岡山県笠岡市笠岡(西本町) 
廃止日時・2022年9月解体予定
撮影日・2019年8月7日

 

 

昭和30年代に完成した笠岡郵便局は、笠岡駅から近く、
旧バスセンターと近接し、長く市民に親しまれてきた。

 

 

旧バスセンターは解体され、駐車場になった。
旧郵便局は「まち協」などが入居していたが、老朽化や耐震性が問題となり、
既に解体が決まっていた。

ついに来月から解体工事が始まるそうだ。

 

 

※写真↑の左側のなまこ壁のお宅も1~2年前に解体された。

 

 

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♪ああ岡山の灯よいつまでも

2022年08月24日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

たしか高校一年生の時で、6月の頃だった。
笠岡の大和座で”新川二朗ショー”があった。
その日は、授業中にそのことが気になって、今ごろ歌っているのだろうな、と気持ちは大和座にいっていた。
高校一年生の自分が、授業を受けずに学校休み、
お金を払って歌謡ショーを見ることなんか、まったくの想像外のことだった。
高校は、木造校舎の古い二階建の55人学級の時代だった。

 

 

その時から10年ほど経った。
岡山市民会館で”新川二朗ショー”があった。
既に社会人であったし、夕方の時間だったので、職場に気兼ねなく、即チケットを買った。
じつは、その歌謡ショーは”新川二朗ショー”ではなくて、
”西川峰子&新川二朗歌謡ショー”で、残念ながら西川峰子の名が先にあった。

客席はほぼ満員で、
西川峰子は「峰子のマドロスさん」などを歌った。
その後で、”新川二朗ショー”は始まった。

 

新川二朗は次々にヒット曲を歌った。
あのねちっこい声で。

「指切りの街」 そのひとみ そのひとみ 僕のもの 僕のもの 
「望郷」 この道は ふるさとへ ふるさとへ 続く道 
「君を慕いて」 あの女(ひと)の 花の唇 あの時の 濡れた瞳よ
「真赤な地平線」 呼んでみようよ 呼んでみようよ 

そしてフィナーレとなった。
最期は全員感涙の中で「ああ東京の灯よいつまでも」を歌った。
最期の最期は、
♪ああ岡山の灯よいつまでも
で幕となった。

・・・・

 

新川二朗は2022年8月21日、82才で亡くなった。
実際よりも3才、年齢をサバ読んでいたそうだ。
なお、岡山市民会館は千日前に移転するので、今年(2022年)が見納めになる。

 

 

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「生ききる。」と「アーロン収容所」

2022年08月16日 | 昭和20年(戦後)

会田教授はアーロン収容所から復員中に、

日本に帰れば、すくなくとも将官だった人は全員、

逮捕されるか、自ら責任を取って死んでいるだろうと予想し、その予想がはずれていたことに驚いたことを記している。

 

戦争責任については、父も似たようなことを言っていた記憶が強い。

 

・・・・

 

「生ききる。」 瀬戸内寂聴・梅原猛 角川学芸出版 2011年発行


梅原
昭和20年4月、京大の入学式が終わって家に帰ると召集令状が来ていました。
もし、広島や長崎の原爆投下がなかったら、軍部は本土決戦を決行し、私自身も戦死していたと思う。
戦争が終わった時に、ないものと思っていた自分の命が助かったのですから、敗戦は決してショックではなかった。
むしろ未来が開けたという喜びの方が強かった。
私は、「鎮魂の森」のようなものを作るべきじゃないかな。国の施設として。
多くの人が死んだけど、大変な犠牲があったけど、もう二度とこんなひどい目には遭わせないという、そういうことを確認できる場所を作るべきじゃないかと思います。

瀬戸内
北京で終戦を迎えた時、私は「殺される」と思いました。
だってそれまで日本人は中国人に対して占領軍の立場で威張りくさってほんとにひどいことをしていたわけですから。
夫が現地召集で出征し、まだ生後一年経たない赤ん坊を残されました。
「もう殺される」と戸を閉めて閉じこもったんですけど、そうっと朝、
戸を開けてみると、壁に赤い紙がぺたぺた貼ってある。
それに「仇を報いるに恩をもってす」と書いてある。
時の中国軍は蒋介石がトップです。
ああ、こんな国と戦っても負けるの当たり前だと思ったんです。


・・・・

・・・・


「アーロン収容所」 会田雄次著  中公新書 昭和37年発行
戦後の犠牲

日本陸軍の主計部ほど奇妙な官僚主義にとらわれた組織も珍しい。
糧秣廠も、被服廠も「集積」するためにあるので、「支給」する場所ではなさそうだ。
支給してしまうといかにも係が能力がないように見え、司令部からしかられる。
そういう根性であろう。
私たちの靴がなくなろうが、衣類がボロボロになろうが、めったに支給してくれなかった。
そしてその集積品の多くの場合、敵の砲火で灰になってしまうのであった。

私の場合でいうと、二年間のビルマ戦線生活で、何かを配給されたのは、ごくはじめの昭和19年夏以前をのぞくと一切なかった。
食糧は全部徴発、つまり掠奪したり物々交換したりした。
シャツ、靴、飯盒、水筒、地下足袋、小銃、帯皮、天幕、背嚢、みなボロボロで使えなくなってしまった。
いま持っているものは、
すべて前線でひろったり、戦死者のものをみなで分けあったりしたものばかりである。
それが終戦の今となって支給するというのである。
靴などどうしていまごろ支給するのだろう。
すこしまえに分けてくれれば死なずにすんだ男もいたのだ。

初年兵の吉村は、和歌山の高商を出たという快活な青年で、一年ぶりに会った。
会ったとき「君に読ましたい本を持っているんだ。帰ったらたずねて行くよ。」
とうれしそうに言っていた。・・・・

吉村は無頓着にザブリと河のなかにふみこんだ。
やや無造作に、しかし確実に十歩ほど前進した吉村は急にうごかなくなった。
川はそのたりで急に深くなっているらしく、乳のところまで濁流がうずまいている。
吉村は必死に鋼線をにぎって水圧をこらえていたが、あっというまに足が浮いてあお向けになった。
そのとき私たちをじっと見た目はいまも忘れられない。
それは声にもならず、懸命に救いを求める絶望的な目であった。
次の瞬間、吉村の手がはなれ、水中に没してしまった。

二時間以上おくれ、やっと全員寺に着いたとき、先着のM班長は食事の準備もしていてくれたのである。
骨の髄まで冷えこんだ私たちには、腹にしみ入るほどのうまさである。
兵隊たちはもう衣類をかわかして元気にはしゃいでいる。
死んだ人間のことを思うより、今度もまた、自分は助かった、という喜びの方がはるかに強いのである。
もっとも親しい友を失った私でもおなじことである。

せめてここに一筆をしるして、おわびと思い出にしたい。

・・・・・


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終戦記念日

2022年08月15日 | 昭和20年(終戦まで)

(父の話)


8月15日には 焼け野原の、岡山陸軍病院で聞く終戦


陸軍病院の庭に全員集合して聞いた。
ワンワンようたが、
聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。
「日本は負けん、これからじゃ!」と勇ましいのを言うのもいたがすぐ収まった。

(勇ましい事を言う人は、それが一週間くらいはつづいたのだろうか?
2~3日だったのだろうか?
それとも一晩寝ると収まったのだろうか?)

『決起する』といっていたのは・・若い・・兵である。(将校でも下士官でもない)
終戦で「ほっと・・した」のが・・ホンネ・・大部分なので、勇ましいことをいうのは不思議でもないがその時点で既に少数意見(というくらい敗戦の状態の現実と、厭戦気分であった)であった。
いさましいのはとても一週間はつづいていない。いってみれば一晩寝ればおしまいの『決起する』であった。


2000年09月16日


・・・

8月15日 茂平では (母の話)

(その放送があることは「隣組・回覧版で知ったのか ?」)

回覧も何もありぁあせん。
「重大放送がある」と繰り返し、ラジオがしつきょうた。
家でラジオで聞いた。
もう戦争が負けるんじゃけえ、そりょを言うんじゃろう思うとった。
(茂平みたいな)田舎の人でも、「そりょう言うんじゃ」言ゆうてようた。
じゃけいわかっとった。

(放送の雑音と内容は)天皇陛下の言うことは今でもぐつぐつ言うて、何を言ようるんかようわからんが。

 

談・2000年01月30日 

・・・・
父は兵役中で母は茂平で終戦を迎えた。
・・・・


「歴史の温もり」 安岡章太郎歴史文集  講談社 2013年発行

45年前の8月15日

45年前の8月15日、私はひと月前に胸膜炎で軍隊を現役免除になり、日本橋を歩いていた。
と、後ろから追い駆けてきたきた学生が「戦争は負けました。日本は負けたんです」とドナるように言って、また駆けて行った。
負けたがどうした、私は心の中で、うそぶくような気持でつぶやいた。

しかし、今考えると、その時の私は、やはり動転していたにちがいない。
敗戦は前々から予想していたことだったが、戦争に負けた後、自分たちがどういうことをしなければならないのか、そんなことまでは考える余裕もなく、見当もつかなかったからだ。

日本は戦争責任の追及や処理が全く出来ていない、といわれる。
それはそうだろう。
大体、戦争責任という言葉を私は戦争中にほとんど聞いた覚えがない。
それは、戦争裁判、公職追放、あるいはオフリミッツといった言葉と同様、
アメリカ軍が進駐してきて初めて日常的に耳にするようになったものだ。

先日大江健三郎のつくったテレビ・ドキュメント「世界はヒロシマをおぼえているか」の中でゲストの一人、金芝河が意見を聞かれて、
自分はこの質問自体に反対だとこたえているのに、ハッとさせられた。
金氏は言うのである。
日本人はまずみずからに問うべきだ、
世界は南京虐殺をおぼえているか、
戦争で犠牲になった百万のアジア人をおぼえているか、
日本に強制連行され被爆した朝鮮人をおぼえているか、と。
私たちがヒロシマを世界に訴えようとするとき、
どこかで「世界最初の被爆国」という被害者の気負いのようなものがありはしまいか?
もしそうなら、やはりそのぶん私たちは金芝河の発言をまともに受け止めなければならないのではないか。

私は軍隊では被害者であったろう。
しかし、例えば金氏や金氏の父母の眼には、私のごとき弱兵でも軍服を着ている限り加害者の一人に見えたに違いない。
そのことを私は、おぼえておかなければならぬと思う。




・・・・

 

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「父の野戦日記」⑩大別山 ~色あせる顔、死人の如く~

2022年08月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

【父の野戦日記】


昨日の疲れも何時の間にやら本日も行軍。
一路漢口へ。漢口へ。
いよいよ二人、一人と、途上をうらうらと、さまよいつつ、倒れつつ行き進む。
色あせる顔、死人の如く。
吾等、身も心も疲れきり、ただいっしょに一歩づづ脚をすすめている様子だ。
薬物は無く、ただ死を近くに感じるのみ。
いや生きつつ地をすすめるのみ。
紅葉ははかなく地上に舞い落ち、今は我故郷と、現在を比す。
風に散る紅葉はひらひらと、吾がままならぬご奉公なりけり。


昭和13年10月27日 

・・・  

(父の話)

なんじゃゆうて、こうなんじゃ。(手でその角度を示す)
馬はころげて下へ落ちる。人間も落ちて死んだんもおる。
路は細ぃじゃけいのう・・・滑ったら落ちる。落ちたら死んでしまう。
よう、こわぁとこを通るねぃゆうとこじゃ。
せいじゃけい、普通なら通らん、きょうとぉて。
命が惜しいけぃとおる。独り残されたらやられてしまうけぃ。
みんなの勢いでとおる。しょうしょう馬やこが落ちても・・・人間だけでも、で、通ぉていきょうた。
その頃は身体もようよろいごきょうた。 

談・2001年8月15日

・・・

・・・

「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行


漢口攻略戦
その四 平靖関の攻撃

大迂回作戦の栄誉を樹立した毛利部隊は、
戦塵を洗う暇もなく、霖雨で泥まみれとなって疲れた身体を10月16日より平靖関の攻略に取りかかった。
平靖関は武勝関と共に漢口北方の護りであった。
行軍2日突然山から砲弾が飛んできた。
平靖関の鉄壁にぶつかったのだ。
二手に分かれて全面の高地に進出した。
10月22日から連日敵の逆襲を受け、集中火を浴びて生地獄と化した。
白兵死闘のルツボであった。
どの山にも敵がいた。
24日午前1時、
第一中隊は決死隊をつのり25人が岩肌を突き進んだ。
隊長がまず倒れ二人の分隊長は共に戦死し、9人が負傷したが、
ついに五九五高地を占領し、
翌25日には漢口陥落のニュースが全軍に伝わる。
苦戦の第十連隊各部隊に喚声が挙がり、兵隊の眼に涙がにじんでいる。
大別山にわけ入って死闘10日間、食糧は不足し籾から飯までにつくらねばならぬ兵站の兵の苦労も一通りでなかった。
27日夜、敵は総退却した。
11月6日馬坪を出発し7日は露営、8日徳安に入り、城内に駐留する。
11月12日各連隊より一箇中隊を抽出して漢口警備に当ることになりとなり13日孝安に宿営して16日漢口に着き特別第三区の警備につく。

 

・・・

(父の話)

大別山の食糧どろぼう

食べるもんがねぃ。
それで、畑の○○を盗る。
なんじゃゆうて畑は下の方。
それをはさんで味方と敵がおる。
両方みんなが見ょおるんじゃけい。
頭を見られたら撃たれる。
溝みたいなここを、どんごろすをもってかがんで這うようにして歩く。
畑に着いたら、かがんで、頭をださんように、見えんように取る。
どんごろすが一杯になったら、くくって、縄を上から引っ張り上げる。
これでほおて(這う)道へでて、せねぇ背負うたり、引っ張ったりしながら戻ってきょうた。

見られたら、すぐ狙撃されっしまう、うっかりしょうたら撃たれて死んでしまう。

談・2001年8月15日

・・・

【父の野戦日記】


大別山の頂上に立つ


時まさに、昭和13年10月26日。午前8時30分。
中支・大別山の頂上に立った。
6時頃より山は霧に覆われ、眼下には白雲がたつ。
同時に夜のとばりが明けんとす。
行軍と小霧が顔につく。
吾は思わず、排刀「ひさつぐ」を抜き絶叫してみたかった。
道は今だ急、ローソクをたより、下りかけて中腹の民家にたどり着く、時は12時真夜中だ。
それより夕食を炊き、食して床についたのは27日午前2時30分。

昭和13年10月27日 

・・・

武漢作戦

(Wikipedia)

新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻が開始され、
第11軍は揚子江の両岸を遡って武漢を目指し、
第2軍は徐州の北方から行動を起こして大別山系を越え武漢に迫った。
第3師団と第10師団は10月12日には信陽を陥した。
揚子江の両岸を進む第11軍の各師団は、10月17日に蔣介石は漢口から撤退、10月25日には中国軍は漢口市内から姿を消し第6師団が突入10月26日に占領した。

 

・・・・

 

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「父の野戦日記」⑨信陽の戦い・第八中隊の全滅

2022年08月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

(父の話)
信陽までは歩くだけ。
何日までに信陽に着け。信陽ではボッコウ犠牲者がでた。

8中隊は占領した平坦地の上から(山から)砲で攻撃され、行ってみたらほとんど死んでいた。
見るのもかわいそうじゃった。生きとる者はわずかじゃた。
戦闘力もなんも無い。青白い顔をしとった。

作戦に引っかかった。


談・2000・7・2

・・・

八中隊の全滅

大別山で、八中隊は砲の攻撃でほぼ全滅状態になった。

四面楚歌の状態で
702(ななれいに)高地と呼んどったが、一度奪った処に敵が砲を打ち込んできた。


大別山中腹の敵が山頂の八中隊を砲で攻撃したがほとんどが砲でやられた。
いっぽう大別山の下側の味方は逃げるだけでせいいっぱい。

8中隊があせったためにこの様に成った。

生き残った人は息もたえだえで、口も聞かれん状態じゃった。
生きている人は戦闘力もなく青い顔をしていた。

死んだ人は70人くらいいた。みな焼かりゃせん。
焼くのに困るくらいであった。

焼いた骨は分けて送った。(人別でなく・・・同じ人の骨を何人ぶんか適当に)
「これが骨だと」。・・・・言われんけど。殺されたものは骨は帰ってくりゃあへん。

じゃけど頭髪が残っておる。
頭髪は遺留品として本人のを送った。

談・2000年07月09日

・・・

8中隊は相手の砦を真っ先に占拠した。
占領して喜んどった。
そこは大別山中の一番高いところで要塞みたいにしとった。

勢い込んで占領した8中隊に、敵は砲をぼんぼんぼん打ち込んできた。
敵は占拠されたんでなく引いとった。

地形も不慣れな8中隊はどうすることもできず、やられっぱなしで死んだ。ほとんど全滅したんじゃ。
敵はそこを知り尽くしていた。大砲を撃ったあとはいんでしもうた。
向こうは信陽の連兵場からそこ(大別山の砦)に向かって撃つのを練習しょうたとこで、そりゃ撃ちゃあ当たらぁのぅ。

作戦にやられたんじゃ。日本人は死んだばぁじゃった。

谷間にいたおじいちゃん達もどうすることもできず攻撃が終わった後で行った。

大勢死んどった。怪我をしたのもいた。怪我をしていない元気なのもいたがヒーヒーしょうた。

(周りが廻りだけに意識がしゃんとしてなく)物も言えん。

 

談・2001年7月14日


  

・・・

     

・・・

「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

漢口攻略戦
その三 信陽南方への迂回作戦

羅山を出発した第三十三旅団は右・歩兵第六十三連隊、右・歩兵第十連隊がすすむと、わずか5キロ南進して急射を受け、逐次敵は兵力を増加してきた。
10月1日頃より、信陽の攻防戦は最高潮に達する。
10月6日京漢線は爆破され、敵の退路は遮断された。
6日間の山岳踏破の苦心を重ねた毛利部隊は突如信陽の南方に出現し、
休む間もなく北上して、山又山をこえて信陽西南3キロの721・5高地に迫ったが、
敵大軍の後方に進出したのであるから四面楚歌で、
毛利部隊は死傷続出で信陽攻撃の最大の苦戦となった。
11日包囲網を縮め、東方からの戦車隊が城門を爆破して、城壁の一角を占領する。
信陽陥落まで毛利部隊が払った犠牲は戦死57,負傷者111人に達した。

・・・・

 

 

 

 

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「父の野戦日記」⑧光山城に入城する

2022年08月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

【父の野戦日記】

雨天の中、光山城に入城した。
信陽攻略の要所だ。
空爆の跡を見る。高層な健築物は無く、ただ外部の一部一部を残すのみ。
その他は整然として聳える○○堂、そして繁華街は昔をしのばせるおもかげは語っているようだ。
あちらこちらの家陰、木陰に、支邦軍部隊の死体がわれ等の目にはいる。

我等は降りつつ雨の中気合をいれつつ、戦闘の戦果を納めつつ意気洋々と入城したのだった。
思えば徐州出発以来、いかなる雨天に悩まされつつ、悪天候と戦いつつ、あの日この日も休み無く。
血の攻撃、実戦悪夢。
敵の攻撃、悪戦苦闘で、今ようやく、光山城へ入城するのだ。

その雨につけ、照るにつけ、思うのは故郷のことだ。
朋は、姉妹は如何に。
だがそのような実に恥かしい。
ただ戦闘の束の間にちらつくホンの一瞬だ。
今は光山に入城する。後6日で我が氏神様の祭典だ。
ありがたき神様のご加護により生き長らえていることを誓って今日を休む。

昭和13年9月25日(光山城内にて)

・・・

・・・


「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行


漢口作戦に於ける第十師団の緒戦は、広州攻撃といえよう。
歩兵十聯隊第一大隊がこの戦で名を挙げた。
9月7日固始を占領し、14日光州に進出した。
9月18日敵は広州城から逃げた。
一方、第二大隊は光山攻撃に当り、19日光州出発、
およそ10キロほど前進した地点で敵と衝突。
彼我の距離80mくらいに近接することもあり、敵は光山に近い高地に拠ってから抵抗いよいよ激しく追撃砲弾の数も増した。
翌20日7時30分攻撃を再興、11時15分光山城を占領した。
すでに敵は敗走していたのである。

・・・・

 

「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

漢口攻略戦・その二 光州への攻撃

9月15日毛利部隊の来栖大隊(第一大隊)が先頭となって前進する。
戦闘が開始されると行軍に疲れた兵も緊張して、落伍者は一人もいない。
光州城を見下ろす位置に立つ。
光州城へは後2キロばかり。
9月17日午後クリークを境にして光州大城壁とにらみ合った。
同時夕刻来栖大隊長は攻撃を命じ、城門に突入。これを占領した。

 

・・・

 

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「父の野戦日記」⑦コレラで死んでいく人

2022年08月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

(父の話)
信陽への行軍は真夏じゃった。
真夏の漢口戦での光州行軍は多くのひとがコレラになった。
小さな小屋のなかにはコレラにかかったひとがびっしりつまって横になっていた。
コレラになった人は尻からビチが出ていた。

コレラは一種の脱水状態で、蒸留水を注射すれば助かるのだが・・・しかも現地でこしらえてもいたが、
(あまりに発病者が多く)それが足らんようになった。
助かりそうなのから選って治療して、そうでないのはホッテ、尻に石灰をかけてそのままにした。
ようけい死んだ。

談・2000.7.9

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

 

第十師団は歩兵第第八旅団が先頭にたち、我が歩兵第三十三旅団は大した戦闘を交えることなく進軍したが、

8月末の晴天つづきの炎天下であり、昼間百十余度も騰り、

当時携帯食糧等の負担量多く、給水また十分でなかったので、

落伍者多く喝病患者また発生、

マラリヤ、コレラ患者も続出して、苦難を極めた難行軍であった。

 

・・・


「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

漢口攻略戦・その一 光州への行軍


徒歩行軍で8月27日~30日慮州に入る。
第十師団は第三師団とともに光州へ進む。
行進したのが8月末の炎天下であり、日射病にかかる者数多く、
兵隊は唯だ黙々と歩み続けるのであるから、その労苦は倍加し、
敵兵の出現を願う気持ちとなる。
一休みできるからである。
倒れた戦友の死体をダビに附す暇もなく、道端の戦友を抱き起す力もなく、
その足もふらふらしている。
マラリアは蔓延し、兵糧は現地調達のため不足している。
この行軍は実に難行軍で惨憺たるものであった。

・・・

(父の話)

行軍は真夏に続く、昼も夜も・・・。
「戦闘!」の時がはじめていっぷくできるときだ。
・・・「戦闘!」が待ちどうしい時もある。
戦闘がないと休みなしで歩く。歩きつづける。ナンボーにもえろうて、
「弾にでも当たりゃあエエ」と思うたりもする。
当たれば休めるから。
が、死にたくはない。
(死傷病者はどうなるのか?)
隊の後ろが野戦病院の列でそれが、トラックの時もあるし、たいていは馬がひくことが多かった。

談・2000.7.9

・・・

 

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