しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

自衛隊が学校のグラウンド拡張工事をする

2024年05月11日 | 昭和36年~40年

昭和30年代は、自衛隊が多くの学校の、校庭の拡張造成工事に従事した。


昭和30年代は、自衛隊が国を護る緊急度が少なかった。
時代は東西冷戦。
日本が国境を接する国で、日本に攻め込む可能性がある国は、せいぜいソ連くらいだったが、
そのソ連ともカニの漁獲量を競う程度の問題しかなかった。
つまり、自衛隊は、国家を護る点では、ヒマだった。

いっぽう学校は、
生徒数も増え、学校も増え、校舎・校庭も拡大・拡張、プールも新設という時代だった。
そこで自衛隊が出動した。

 

・・・

これは岡山県小田郡美星町の自衛隊の学校工事。

どこの学校とは書かれてないが、同じ美星町で三校が、自衛隊にお世話になった。

 

2024年4月28日・「芳井歴史民俗資料館」
『美星町&芳井町 写真で振り返る我が町の70年』

自衛隊による学校運動場の拡張工事
昭和37年(1962)7月

自衛隊の協力を得て公共施設の敷地建設を進める動きは、周辺の市町でみられていた。 
この年美星町は、美星高等学校・美星中学校・黒忠小学校のグラウンドの拡張工事のため自衛隊の協力を得た。 
美星中学校は、 昭和37年4月に 美星・宇戸・日里の3中学校の統合が決定したため、グラウンドを拡張した。

・・・


笠岡市内でも自衛隊が工事をした。
(自分の記憶では)
笠岡高校の校庭拡張工事。
有田・用之江道路新設工事。(現在の県道井原福山港線の一部)

 

 

 

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「斎藤のラーメンは汁に指を入れたまま・・・」客に出す

2024年02月07日 | 昭和36年~40年

戦後の笠岡では、”斎藤”といえば、それは中華そばを意味していた。
支那そば、中華そば、ラーメンと40年間ほど笠岡の中央でお店を出していた。


昭和が終わる頃、斎藤ラーメンもお店を終い、以後は現在まで笠岡ラーメンの超有名な”伝説の店”となった。

 

 

「斎藤のラーメンは指を汁に入れたまま・・・」客に出す

 

今から数年前のこと、雑談中に、年齢からみて実食の経験はないであろう方から
「斎藤のラーメンはどんぶりの汁に指がはいったままテーブルに置いてたんですよね」
という話が出た。
そうだった。
思い出した。
”斎藤”に行くと、いつも、という程ではないが、置く時に、よく汁に指をつっこんでいた。
でもそれは、見慣れてきた光景だった。
小学校の脱脂粉乳をアルミに注ぐ先生や生徒は、
注ぐ方も受け取る方も、指が粉乳に浸かっていた。
それは毎日毎日の日常風景だった。
ついでに言えば、自分はその頃
朝、歯をみがいたり、顔を洗ったりするのも稀だった。(週に2~3度)
母方の祖父母宅では箱膳で、椀も箸も洗わずに再使用していた。 

 

 

「斎藤のラーメンは客の残した汁を、・・・次の」客に出す


高校生の時、隣の席の人がヒソヒソと教えてくれた。
「斎藤がなあ、保健所から営業を止められたんでぇ。
残った汁を捨てずに、混ぜて、使うたんでぇ。
昨日から3日間、店は閉まっとるでぇ。」

ウチでは残りもんは、翌日も、翌々日にも食べていた。
それでも残って腐りそうなものは、
大きいものは牛、
小さいものは猫、
に回し、いよいよ食えないものは穴に埋めて堆肥としていた。
”斎藤”のことは、さして驚かないし、半ば普通のことと思っていた。


・・・

自分の思いは、貧しい農家の自分だけの思い出だけでなかった。
花の東京のど真ん中で、
時代の寵児だった舟木一夫さんと林与一さんが同じような経験をしている。

なにか安心したような気持になった。
それでブログ記事にして残すことにした。

・・・

 

舟木一夫・林与一、東京NHK裏で「客の残したラーメン汁を食べる」

YouTube
与一チャンネル「舟木一夫さんを語る」

舟木一夫さんとは昭和38年からのお付き合いでございまして。
大河ドラマ「赤穂浪士」でごいっしょし、気が合いました。
それでまあ、時間がある時に「ラーメンでも」って時代劇の衣装のまま内幸町のNHKの裏、
そこの屋台に入って食べたんですけど、今思うとよくあんなラーメンを食べられたなと思うのは、
あの食べおわるとですね。
食べ終わったラーメンをざるに落として、スープを残すんです。
それであの、バケツにいれたものを注いでやってたんですね。
今だったらもうあれ見たらお腹にはいらなくなっちゃうんですけど、
当時は平気で食べてましたね。はい。

・・・


東京よりも岡山県の保健所の方がきびしかったのか?
いやいや、
”斎藤”が、それにより客が減ったという話もなかったし、
運転の速度制限にたまたま掛かった、程度の感じでお店も客もみていたのだろう。

茂平の名産「干しイチジク」は、作っているところを”見たら食べれない”と思っていた。
NHKの赤穂浪士の放送から6~7年後、「干しイチジク」は食の安全に問題があり生産中止となった。
その頃から、やっと食の安全や衛生に国や国民が気にするようになった、ということなのだろう。

 

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昭和39年、西郷輝彦が歌手デビューした

2022年02月22日 | 昭和36年~40年
東京オリンピックがあった昭和39年、
日本中に活気と若者の雑踏があった。
しかし、できたばかりのクラウンレコードは有名歌手が北島三郎と五月みどりの二人だけの、まさによれよれの状態。
そこへ「君けを」の西郷輝彦がデビューし、つづいて水前寺清子が売れて会社は継続権を得た。クラウンは西郷で救われた。





当時は歌が売れると、即映画化され、歌った人も出演していたが、
新聞の芸能蘭では、西郷の演技が上手いという評価だった。


管理人もまた、「十七歳のこの胸に」「涙をありがとう」「涙になりたい」は、歌も映画も楽しませてもらった。
その後映画では予科練生になったり、小説吉田学校に出たり、
テレビでは現代劇、時代劇。主役、脇役、なんでも演じて楽しませてくれた。


カラオケでは、
「十七歳のこの胸に」「涙をありがとう」「兄妹の星」の3曲が持ち歌。
ということは、
60年近くも、西郷さんで人生をいくらか味付けされたり、憩いの時を持つことができて、
お世話になってきたわけだ。

合掌。

(西郷輝彦は2022年2月21日、75歳で亡くなった)






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高校の時あった店

2021年01月18日 | 昭和36年~40年
笠岡の映画館


笠岡中央劇場
中央劇場の前には斎藤のラーメン屋があった。土曜日の午後は高校生であふれかえっていた。「アラビアのロレンス」「007」の時などは格別。入りきらない感じだった。

高三の秋の日、クラスメート達と3~四人二時間目が終わり学校を出て中央劇場にいった。時間は午前10時半。第一回目の上映が始まる。弁当を暗闇で食べる。三本建て,が終わるのが午後三時くらい。ちょうど学校が終わる時間、で、家に帰っていた。そういう事が何回もあった。

土曜の午後あれほど混雑する中央劇場だが、普段の日はまったくの貸切上映だった。その鮮明な驚きと、今仲間だったk君どうしているんだろうかと気になる。


セントラル劇場
セントラルは郵便局の裏、西本町にあった。結果的に(僕が昭和57年笠岡にUターンした当時)最後まで営業していたのではないだろうか。
主に日活の青春映画を上映していた。


大和座
高校一年の頃、歌手新川次郎が歌謡ショーにきた。授業中、今日は新川次郎が大和座に来ているのか。と、思いながら授業受けていたことを思い出す。
映画は東映が主だった。
姉といっしょに見に行った本間千代子の「あの雲に歌おう」中村錦之助の「徳川家康」植木等の「ほらふき太閤記」のことはよく憶えている。笠岡の映画館・・でも・・・が、全国封切りというふれこみだった。
笠岡高校では全員で「東京オリンピック」を見に行った、こともあった。椅子にすわろうとしたらココはなになにちゃんの席だからとイス取り女生徒にいわれた。


金星劇場
この映画館は今でいうポルノ、当時でいうエロ映画をしていた。
同級生で優等生のK君が「兄貴といっしょに”いも侍かきえもん”を見にいったら、へんな映画もしだした」と言っていたが、アレほんとだったんだろうか?今でも思い出す言葉。
武智鉄二の「黒い雪」、同級生のFは「岡大生じゃ」といって入館したらしいが真意のほどはしらない。
高校卒業後、まもなくこの映画館はストアになった。今その跡形は全く無い。


2001年6月5日


ジョギングついでに高校時代の映画館跡地を走ってみた。2001年6月10日

大和座・駐車場になっている。土のまま、一部砂利砕石敷。映画館は跡形もないが付近の町風景は全く変わっていない。
セントラル・建物はほぼ原型のまま。下にコンクリートを敷き駐車場になっている。路地、壁、高校当時と同じ。
中央・トマト銀行、数年まえまでは斎藤ラーメン屋の建物もあったが道路拡張により完璧に過去のものになっている。
金星・どこにあったわからない。多分現在道路ぎわの更地駐車スペースのところだろうか。


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本屋


くりお(栗尾書店)

「くりお」はスサキ通りにあった。書店の奥につるつる親父が店番をしていた。

当時は笠岡一の本屋であった。今はコンビニの本の量と変わらない。「本屋」をしているというだけ。


いけだ(池田書店)

大仙さんの隣、昔も今もほぼ同じ。笠岡の本屋で僕の高校当時とほとんど変わっていない。
高校の頃はココでよく立ち読みをしていた。


にしな(仁科書店)
笠高・笠商から最も近く、笠商の玄関口。
ひらたく本を並べていた。ココでもよく立ち読みをしていた。
今はシャッターを降ろしたまま。で、もうだいぶんたっている感じ。



長鋪
仁王堂にあった。(自分にとっては)立ち読み専門の店。
老人夫婦が店番をしていた。
高三の時、高二の後輩が漫画本をみていたのにビックリしたことがある。
僕にとってはマンガは小学生までのもの、という概念があったので。
そのマンガは「巨人の星」。


旭書店
スサキ通りに高二か高三の頃できた。本屋にはドアを開けて入る店だった。
その店の二階は喫茶「嵯峨」ができた。


岡本
本通りの本屋。
全焼したスーパーの隣にあった。たまに行っていた。

2001年6月6日



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喫茶店



「珈琲園」
笠岡一の喫茶店。(今はないけど)
西本町冨士駐車場の二階。

高校三年になったばかりの頃か、高二の終わりか。神島出身の一年先輩を同級生のIくんたちと三人で笠岡駅に見送った帰り「珈琲園」行った。
珈琲園に行く初めてであった。し、僕にとって初めての喫茶店だった。珈琲一杯60円だった。当時支那そばも60円。それなら腹の太る支那そばのほうがいいと思ったりもしたが、喫茶店にはこれを機に行く事もあった。

大学生の頃は帰郷して行く店は①珈琲園②嵯峨③Aワンだったかな?


嵯峨

高三の頃から出来た。

本屋の二階だったので気軽に入れた。
大学生の頃はもう高校生のほうが幅をきかせていた。
逆に言えば、社会人はいなかった。


Aワン
本通りと駅前の金光眼科の通りが交差する、笠岡一の場所にあった。が高校生の時は行った記憶は無い。大学生になってから。


駅前広場
本通り、Aワン近く。ココも大学生になってからいった。


珊瑚
仁王堂にあった。はいった事は一度も無い。


2001年6月6日


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学校の近くに


めがねや

時計とメガネを扱う店が学校から降りたすぐ下右隣。に店があった。
店の名は覚えてない。
一度くらいは時計の修理をしてもらった事があるような、ないような。


東森印刷



ラーメン屋

T君が連れていっていくれた。ラーメンは”斎藤”しか頭になかったが、結構うまい店だった。

この店も僕が高校当時と全くかわっていない。今もあの味で営業している。


2001年6月6日



ジョギング中に笠岡高校の坂道をあがる。右手に「千鳥会館」が工事中。同窓会の会館だが、はたして同窓生が使うのだろうか?
メガネ屋は・・無くなっていた。坂道の拡張で撤去したようだ。
東森印刷・・・看板はないが立派な自宅がそのまま。
ラーメン屋・・・変わらない。
ツカモトラジオ店・・「ラジオ店」の名前も変わらずにある。
平井サイクル・・これもかわらず。
その他・・笠岡高校付近はあんまり30年以上前とかわっていない。
2001年6月9日朝7時ごろのこと。


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スサキ

笠岡一の通りだったが今は何もない。

いよや、森谷歯科、小見山文具、田林、・・・看板だけがなつかしい。

栗尾もない。

立派になったのは通りの舗道と、(官費の)建物だけ。

大仙さまの時以外この通りを歩く、歩こう、という人はいないだろう。

2001年6月10日



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本通

本通は広銀(ニ~三年前から笠岡支店から出張所に格下げ)から東に続く。
途中、昔大黒屋があったところから東へ50メートルほどはアーケードがある。破れたものだが。

それが終わる所に”魚宮”がある。仕出し・魚屋の”魚宮”。



2001年6月10日

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駅前


高校の頃、笠岡駅といえばいつもA組の若いモンが一人二人たむろしていた。


駅前には木造三階建ての旅館があった。井笠バスの事務所が正面。

駅前にはタクシーが二三台。
バスが三四台、で笠岡駅前はもう満杯。

駅前は狭いが人があふれていた。

2001年6月10日



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僕ら、フォークダンスの手をとれば


高校一年生の時、初めてフォークダンスを踊った。

まあるく輪になって二列、男子・女子と。
手と手が触れるのではなくて、指と指が触れていた。

それだけでもういっぱいだった。少年の心は。
指と指が触れる触れない、その寸前の接触で踊っていた。





指が触れるだけで、僕の指が吸い込まれるような感じの手の人がいた。

指が汗でぬれてしまった同級生の指があった。

触れるのではなくて握るのだ、とばかり握る女学生もいた。



高校は女性の比率が高く、女性が男性側に回らなければダンスができなかった。
フォークダンスは右に回り、今度は左に回り目的の女性の手に触れるのはなかなかであった。



2002年3月12日



......................


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集団就職③市立井原高等学校

2020年11月25日 | 昭和36年~40年
井原市に定時制高校が出来たのは昭和39年で、同様な市町村に比べ少し遅い。











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ニュー井原市新聞 昭和39年4月1日号


市立井原高等学校 4月16日に開校


市立井原高等学校(定時制)は、その細目を次の通り決めた。


一・応募資格、昼間100人、夜間50人、女子のみ、普通科。
二・提出書類等、4月1日から4月10日まで500円を添えて提出。
三・学力検査、4月11日本校にて五科目の検査。
四・合格発表、4月14日 午前9時。
五・開校・入学式、4月16日。



・・・・・



ニュー井原新聞 昭和39年4月21日号

井原市立高校開校す

希望新たに151名が入学

開校並びに入学式は4月16日、
県立精研高校講堂を会場に入学を許可された151名(昼間97名、夜間部54名)の生徒・関係者・来賓等多数参集して盛大に挙行された。




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集団就職②新卒者を迎えた井原市繊維工業界

2020年11月25日 | 昭和36年~40年
昭和40年ごろ毎年の春、テレビの地方ニュースでは集団就職を報道していた。
場所は児島市(現・倉敷市)か井原市高屋町で、セーラー服の女性が集団で入寮するシーンが多かった。


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ニュー井原新聞・昭和35年4月5日号

新卒者を迎えた井原市繊維工業界
地区ぐるみの暖かい抱擁を
千人の求人に三百人の充足



笠岡職安井原出張所の手を通じて繊維関係の工場に就職した者は、若干の過年度卒業者を含めて約三百人である。
近来全国的に、求人数は求職者数を大幅に上回り、明年度以降も更にこの傾向よりの好転が期待できないという状況のもとにあっては、
これら新しく職場に入った人を固着せしめ、地域産業全体の興隆発展に資するかは、受け入れ者にとって実に重大な課題であると思う。
これら幼くかよわい産業戦士の大部分を、年々才々遠い県外から迎える一般市民にとっても、住みよい、働きやすい社会環境を供与するという問題については
、認識を更めておく必要がある。
弊紙ではこのほど、笠岡職安井原出張所を訪ね、平松所長からいろいろと聞いてみた。


今年度井原市内の繊維関係事業場から出された求人数はざっと千人。
これに対する充足数は約三百人。

内訳は
中学新卒が240人、
若干の過年度卒業生、
高卒者が混じっているのが特異だが、今後は高校生獲得に意をもちいなければならぬだろう。

充足先は、
山口県110人、
香川県16人、
岡山県17人、
あとは、鹿児島県63人を筆頭に九州全県。

30%しか充足できない現状について平松所長は、
中卒者の絶対数が少ない。
給与・福利厚生が十大紡に太刀打ちできない。
急激にノシてきた弱電関係が、段違いの好条件でさらっていく。

大企業に真似のできない良さでや、縁故関係、
職場と寄宿舎の、明るく働き易い施設設備、
社長や社長夫人が親身の相手になってやる。

新卒者がホームシックや職場に馴染めなくなり帰郷するのは、大体一か月前後で月平均2~3%と推定される。
これら離脱者は、自分の辛抱できなかったことは言わず、就職先の悪口を理由にする者が多く、来年度の求人に支障となってあらわれる。
反面、いい便りが親許なり出身校に届けば求人の好結果をもたらす。


各職場からの求人要項の中には、
和洋裁、生花、茶道、その他将来家庭の主婦となるための教養をつけることを謳っており、
そのこと自体は立派なことではあるが、現実には回を重ねることに習う方の人数は減り、しまいには先生一人が残るという珍現象の例も少なくない。
昼間働きながら勉強するという特殊な事情は、抑圧を避け、解放の一時が介在しなければ効果をあげることができない。

以上語ったあと、平松所長は、
「女工」という言葉に変わる、もっと柔らかく、聞きざわりのよい言葉はないでしょうか、私自身は「従業員」という表現を用いていますが、おしえてほしいですね。
そして地域社会の皆さん方も、これら従業員に暖かいねぎらいの言葉をかけてやって頂きたい、と結語した。

なお井原市では5月中旬ごろ、新卒者の就職激励大会を催す計画を進めています。

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集団就職①就職列車

2020年11月24日 | 昭和36年~40年
「男船」を歌ってスターになった井沢八郎は、三菱農機のラジオ番組「田園ソング」から「あゝ上野駅」を出して、彼の代表曲になった。
それは管理人が高校一年生の年だった。
集団就職の人たちと世代が重なるが、中学校の同級生で就職する人が、「集団」で、ということはなかった。

いったい集団就職とか、就職列車とはどんなものだったのだろう?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「懐郷」 熊谷達也著 新潮社 2005年発行 より転記

鈍色の卵たち

貴子が国語の新任教諭として雫石中学校に赴任した二年前、昭和36年度から労働省の職業安定政策が大きく変化した。
中学校独自の就職紹介が実質的に禁止され、すべて職業安定所を通すようになった。
つまり職安を差し置いての教員による職場訪問は、就職前もあとも、おおっぴらにはできなくなったのである。

聡は当初から気になる生徒であった。
高校への進学を最初からあきらめていた。
聡は貧しい農家の家で、三男坊だった。
中学卒業後は就職、と生まれた時から決まっていたような境遇である。
進路指導では、親と本人の希望通りに、職安から回ってきた求人票を前に話を進める事しか貴子にはできなかった。

貴子が探していたのは、定時制高校への進学が求人条件に謳ってある企業だった。
ここ数年、以前には考えられなかったほどに中卒者を求める企業が増えていた。
求人倍率は三倍以上になっている。
墨田区の金型工場に決まった。

三月末の盛岡はまだ寒い。
ふだんは薄ら寒い盛岡駅のホームも、あの日だけは人いきれにむせ返るほどに、人また人であふれ返っていた。
盛岡市内と近郊の中学校だけでなく、県内あちこちから、集団就職の生徒たちと見送りの家族がいちどに集まるからだ。

引率する生徒たちと一緒に列車に乗り込んだ貴子は、窓の外を見て声を詰まらせた。
幾重にも重なり、鈴なりになった人々が、別れる子どもに向けて懸命に手を振っている。

やがて臨時列車は、静かにホームを離れた。
しばらくすると、出発の時とは違う泣き声、嗚咽を噛み殺す啜り泣きの声が、あちこちから聞こえだした。
ただただ静かに泣きじゃくるばかりである。
まだ十五歳の子どもたちだった。
どんなに心細い思いをしているかと思うと、慰めの言葉をかけることするためらわれた。
ひとしきり泣き止むと、今度は持たされた弁当やお菓子を黙々と食べ始めた。
食べることで涙をこらえるしかないのだろう。

盛岡から上野まで、今の急行列車なら九時間半で行けるとことを十八時間はかかったはずだ。
集団就職列車は臨時仕立てであるため、定期便や貨物列車の通過待ちで、しょっちゅう停まってばかりいるからだ。
生徒たちの詰襟やセーラー服の胸には、番号札がつけられていた。
たとえば「隅田12番」というように、受入れ先の職安の名前と整理番号を書いた札を、名札のかわりに胸につけることになっていた。

長旅で疲れきった子どもたちが上野駅に降り立つと、名前ではなく番号で整列させられ、管轄の職安職員が引き取って就職先へと連れて行かれるのである。
金色をした卵にはどうしても見えない光景であった。
貴子たち引率の教員は、黙って見送るしかなかった。
無理に笑顔をつくって手を振るしかなかった。
あまりにあっけない、上野駅での子どもたちとの別れだった。



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♪花咲く乙女たち♪

2020年09月25日 | 昭和36年~40年


人気絶頂の歌手・舟木一夫が歌う「花咲く乙女たち」といえば、なぜか
後に日活の映画スターになったMくんのことを思い出す。
高校のクラスメートだったMくんは、休憩時間などに、よく「花咲く乙女たち」を口ずさんでいた。

その「花咲く乙女たち」の日活映画は、当時はやっていた普通の青春歌謡映画だと思っていたが
今でいう街起こし、地域起こしであったとは初めて知った。

・・・・・・・・・・・・・・・・


「人びとの戦後経済秘史」 東京新聞・中日新聞編  岩波書店  2016年発行


人出獲得競争

人手不足が深刻化すると、集団就職は商店街・工場・大企業に拡大した。
地域も東京から愛知県や大阪などにも広がり、「金の卵」と、もてはやされた少年少女たちが高度経済成長を支え続けた。

・・・・


高度経済成長期、繊維産業の一大集積地だった愛知県一宮市。
戦後始まった「一宮七夕まつり」にちなみ「女工ではなく織姫と呼ぼう」という声も出た。
危機感を強めた行政は「働きやすい繊維の街」をアピールしようと、日活映画とタイアップした。

旧尾西市(一宮市)を舞台に、地元萩原町出身の歌手・舟木一夫が主演した映画「花咲く乙女たち」(1965年公開)。
製作費約6.000万円のうち400万円を旧尾西市が負担した。

映画が描いたのは、昼は清潔な繊維工場で生き生きと働き、夜は学校で学ぶ女性工員たちだった。
休日になるとサークル活動や街へ外出を楽しむ。
舟木は彼女らの仕事場に給食を配る青年を演じた。
繊維から連想される「女工哀史」のイメージを塗り替える作戦だった。



(昼は、明るい工場で働く)



(夜は、定時制高校に学ぶ)



(初恋もある)



(ピクニックに行く、みんなで歌う)



(青春映画の決まりごと?ラストシーンは別れ。背後や背景はいつも、愛知県一宮市や木曽川)

・・・・

企業は素直で低賃金で使える労働力を求めていた。
人手不足が深刻になり、出身地域も沖縄まで広がった。
集団就職列車は中学卒の少年少女を60年代には毎年8万人前後も運んだ。
1955年からの15年間で地方から三大都市圏に就学も含め500万人の若者が移動したとの推計がある。

地方は今、朽ちた空き家だらけになっている。
人口集中する都会と衰退する地方。この時期に端を発していた。




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大門駅の貨物

2020年06月14日 | 昭和36年~40年
大門駅は切符を買う窓口の隣に、貨物を取りあつかう窓口が並んでいた。
それは切符を買う人限定で、”チッキ”と呼ばれ、切符の行先まで荷物を受け付けてくれた。
自分の記憶では、
高校卒業時に荷物を大門駅のチッキで送ったような気がする。

”貨物”と呼ばれる荷物は昭和38年に廃止されている。


・・・・・・・・・・・・・・・


「大津野のあゆみ」平成15年 ぎょうせい発行 より転記


大門駅

明治30年、郷頭山の麓に大門停車場が完成。
大正12年、複線化。駅舎も拡張。客駅舎17坪、貨物倉18坪、駅長、助役の官舎も新築された。
昭和3年から、井笠バスが大門駅より海水浴客を運んだ。
昭和6年の満州事変、以降15年間の戦争で大門駅から多くの若者が出征していった。
第二次世界大戦では大門航空隊が爆撃、機銃掃射を受けたが幸いに鉄道には損害を受けなかった。
昭和33年、国道2号線が新しく開設され、トラックと競合するようになり、
昭和38年10月13日で貨物の取り扱い及び配達の取り扱いが廃止された。
昭和36年、岡山~三原間が電化された。
平成7年、南北連絡通路工事が始まる。


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金浦中学校の修学旅行

2020年06月11日 | 昭和36年~40年
中学2年生が終わる3学期頃のことだったと思う。
行先は、
毎年同じ、京都・大阪。
2泊3日の旅。
行先も大阪城と清水寺と奈良の大仏は共通だが、それ以外は毎年すこし変化があったように思う。

汽車で行かずバスで行った。たぶん最初か二度目のこと。
二つ上の兄は汽車で行っている。

観光地は、(記憶の内で)
京都は金閣寺と清水寺と平安神宮。
大阪は大阪城。
奈良の大仏と奈良ドリームランド。
ドリームランドが一番楽しかった。

京都では映画スターに会えるのではないかと淡い期待をしていた。
当時はまだ、東映チャンバラ映画は流行っていた。
残念ながら、そうゆう偶然はなかった。

泊ったのは京都と奈良の木造旅館。
お土産に清水寺で宇治茶を買ったような記憶がある。

それ以外の行先や、食べ物は覚えていない。

とにかく、寝る前の二夜連続の壮絶な枕合戦の印象が強い。
思い出は”枕合戦”につきる旅行だった。


追記・
城見小学校にK先生という絵画の上手な教員がいた。
先生は教員を止めて、画家になるため京都に行った。
京都の修学旅行先の宿に、k先生が訪れて何年かぶりに会うということがあった。


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