しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天声人語 【昭和63年】

2023年08月25日 | 昭和51年~64年

 

 

天声人語 【昭和63年】

青函連絡船最終便  1988(昭和63)年 3・15

 

連絡船がなくなったことを、いずれは悔いる時がくるかもしれないが、

今はただ、これも時の流れだと思うほかはない。

 

 

・・・

コウノトリ人口繁殖成功   1988(昭和63)年 4・7

 

昔は浅草でも青山でも、たくさんのコウノトリが寺の屋根や松に巣を作っていたそうだ。

松とツルの絵は、実はツルではなくてコウノトリの場合が多い、という話をきいた。

 

やがて受難の時代がくる。

白くて大きな鳥だったのが災いして、狩猟の評的にされた。

巣を作る松が減り、農薬汚染がひろがった。

それがコウノトリ激減の理由にあげられている。

今は日本で生まれたコウノトリは一羽もいない。

だからこそ、飼育者たちは祈りながら、ヒナ誕生を待った。

 

こんど卵を産んだ夫婦は、中国のハルビン動物園からやってきた。

三月の初旬、四個の卵を産んだ。

有精卵であることを念じながら見守った。

・・・

 

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天声人語 【昭和62年】

2023年08月25日 | 昭和51年~64年

 

天声人語 【昭和62年】

『平凡』廃刊    1987(昭和62)年 9・28

ひところは大衆娯楽雑誌の世界に君臨していた月刊誌『平凡』と『週刊平凡』が廃刊になる。

萩本欣一が「悲しいよ、悔しいよ」といっている。

欣ちゃんはこの雑誌を読み、芸能人を身近に感じ、自分でもやれると思うようになってこの世界に入った。

 

敗戦の年に誕生した『平凡』はたちまち百万部を超えた。

7S、つまりスター、スクリーン、ステージ、ソング、スポーツ、セックスを扱って売れた。

一九五九(昭和三十四年)に生まれた「週刊平凡」は7Sに1Tを加えた。

テレビである。

当時テレビは急成長期にあった。五十九年の普及率は一割強だが、六十五年には八割を超える。

テレビの急成長は次々に人気ものを生み、人気ものを追った「週刊平凡」もまた、急成長した。

 

この雑誌のおもしろさは異種交配にあった。

第一号の表紙はテレビ界の高橋圭三と映画界の団礼子との組み合わせだ。

以後、三島由紀夫と雪村いづみ、浅沼稲次郎と若尾文子、長嶋茂雄と北原三枝、という組み合わせが表紙を飾った。

 

七〇年代以降、雑誌の極端な細分化、専門化がはじまり、『週刊平凡』は芸能雑誌化する。

だが、ちまたに芸能情報や暴露記事があふれ、両『平凡』は次第に存立の基盤をゆすぶられる。

 

それにしても「平凡」というすばらしい表題が出版界から消えるのはさびしい。

雑誌は生きもの時代の子、だという。

人びとは、強烈に自分自身であることを求める時代に入ったのだろうか。

 

・・・

 

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 天声人語 【昭和61年】

2023年08月25日 | 昭和51年~64年



「天声人語」 辰濃和男    朝日文庫 

新自由クラブ解散  8・13

『瘦我慢の説』を書いた福沢諭吉翁だったら、

新自由クラブ解散の報をきいてたぶんこう書いただろう。

新自クごとき小党は大政党に抗してその勢いを維持するよりも、大政党に合併することこそ安楽なるべけれどもなおその独立を張り続けたるは小党の痩我慢にして、

我慢のときにゆらぐことありたりといえども、一応は党の栄誉を保ちたれりというべし。

しかるにここに遺憾なるは自民圧勝の余波をうけし新自クにこと起こりて、

不幸にもこお大切なる痩我慢の大義を害しつつたることなり。

そもそも新自ク結党の趣旨は荒野にありて日本の政治の蘇生を願う一粒の麦たらんとし、腐敗政治の打破を志すにあり、

金権政治を断たんとするには痩我慢の主義によらざるべからず。

 

されどこの遇直なる初志を貫きえぬまま、時勢を見はからい、

手ぎわよく連立に走り、さてまた今日自ら解散し大樹の下にすり寄らんとするがごときはこれを何とかいわん。

一票投じたる有権者の落胆失望はいうまでもなく、公党の信義を損うたるの不利は決して少々ならず。

 

・・・

 

 

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「兵隊盃」 

2023年08月17日 | 昭和51年~64年

郷土・城見村出身の偉人、加藤六月代議士は終戦後、小さな”盃”をコツコツと蒐集していた。
その盃には、日の丸や凱旋が描かれていて、軍人の戦勝や退役の際の記念品だった。
戦後は廃棄物同様に扱われ、哀れんだ六月さんは、
それを”兵隊盃”と呼んだ。

 

・・・ 


 「兵隊盃」 


序にかえて    加藤六月

私が「兵隊盃」を蒐集するようになったのは、昭和24.25年頃である。
郷土の星島二郎先生の門下生となって、修業しはじめたころでもある。 

当時の食糧事情はひどく、食べ物、そして着る物、せわしい日々、やみくもに生きてきた。
そんな時に戦災で焼け残った街角に時折、骨董品をみかけた。
岡山市の骨董品店でのことである。
片隅に
日の丸と軍旗をあしらった小さな盃が埃にまみれ雑然と積み上げられていた。

この時、胸をついた不思議な感情は今でも忘れることはできない。
何かしら哀れと思った。
憤りと恥しさの入り混じった複雑な気持ちといえようか。
戦争に敗れた日本は進駐軍の支配下にあり、日の丸の掲揚は禁止されていた。
政治、経済、文化のあらゆる文化の人が、
戦争協力者として公職追放された。
日本人一人一人が戦争の生々しい傷跡に苦しみ、あえいでいた時代である。 

日の丸をあしらい、「凱旋記念」などと記してある。
「兵隊盃」は、不用品どころが邪魔な品物であった。
家の中にしまっておくことすら不安に思えたかもしれない。
 
私は第二次大戦の末期、陸軍航空士官学校に在籍していた。
多くの先達が前線に飛びたち、
漠然とだが、自分自身も死を運命づけて考えていたように思う。

急転回する時流にどこか不器用で、ぎこちなかったとも思う。
「兵隊盃」と出会い、
「野ざらしにしておいていいのだろうか・・・」
そんな思いに駆られ、店の片隅にあった盃を数個買った。
 
それから三十数年。
昭和42年、代議士に初当選するや多忙を極めるようになった。
そうした中にあっても、
周囲の協力もあり盃の蒐集は中断することなく続いた。
そうしているうちに置く場所は限界点をとうに超えてしまった。
私は集めた盃を前に「どうすればよいのだろうか」とここ数年考え続けた。
陸士六十期の同期生諸兄らとも相談してみた。

 
・・・

 


兵隊盃の由来


国立国会図書館に問い合わせてみると、兵隊盃という言葉は記載されていない。
戦前、
兵隊が兵役を終了し、満期除隊になる時に記念品を配る習慣があったが、
その際、盃が記念品の代表的なものとして使われたのではないか、という。

兵隊盃の主たるものは磁器でできている。
明治維新後、陶磁器の生産技術は飛躍的に向上し、生産量は急激に増大。
それに伴って一個あたりの生産コストも大幅に低下、個人で負担可能な状態になった。
戦争参加や凱旋・戦勝記念ばかりでなく、「除隊記念」「退営記念」の盃がつくられた。
日の丸、軍旗、桜や梅、星、馬、大砲などの絵柄。大陸地図や戦艦名を記入したり、工夫がみられる。
また特別大演習を記念する木盃や徳利、湯呑、茶碗、急須、遺髪(爪)入れなどの記念品も多く登場するようになった。 

日露戦争から第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、昭和7年の上海事変のころまで兵隊盃の配布は兵役期間を済ませたものの習慣になった。
兵役を済ませることは一人前の成人男子と認知されることであり、
入隊する際に親戚や知人から餞別を受け取れば、そのお返しの意味も込めて配ったようである。
ただ、
こうした習慣は日中戦争を経て衰退してゆく。物資不足、人出不足で
盃を配布する余裕がなくなったのである。

 

・・・

 

  

後記     加藤六月

本の出版の意図は、私は「誤ちは二度と繰り返さない」という強い決意と反省を持っている。
軍が強大になり、派閥抗争が生まれてくると、
国民生活の優先より軍備拡張、社会資本の充実より国防優先と逆立ちした風潮が出てきた。
「守るべきもの」が国民の自由や生命・財産ではなくなった。

信仰的軍国主義が鼓吹され、大和魂が徹底的に鍛え込まれた。
「選ばれた優秀な民族、日本人」ばかりが強調される精神至上主義であった。
戦争は泥沼化し、日本の都市は空襲で焼け野原、広島と長崎は原爆の惨劇。
戦争の非人間性と悲惨さを骨の髄まで知ってしまった。

昭和42年に衆議院議員に初当選して以来、18年目の政治生活を迎えた。
無我夢中でやってきたが、
これまでの政治生活を振り返り、新たな飛躍を期す転機とするつもりである。


・・・

「兵隊盃」~平和への無限の思い~
 
昭和59年7月16日 第1版発行
著者--加藤六月
定価---3.600円
発行所---総合政経懇話会出版部

 

・・・

・・・

 

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政治家になる人

2022年04月30日 | 昭和51年~64年
たたきあげで政治家になる人は、いい意味でも悪い意味でも、たくましい。
別の世界の人と思うことがある。

・・・・

おごりの春の片隅で 「後列のひと」 清武英利 文芸春秋 2021年発行


竹岡和彦は、同志社大学時代は新左翼系学生運動の闘士であった。
反対デモで捕まったこともある。
ただし、思想的な根は浅い。
のちに、「森下仁丹」社長で自民党参院議員だった森下泰を「師匠」と仰ぎ、
同党の大阪府議会議員も務めている。

・・・・

1974年6月、森下の参院選挙運動が始まる。
竹岡はビラを配り、ポスターを貼り、マイクを握る。
間もなく騒ぎが持ち上がった。
証紙を貼ったポスター以外に、事前運動用のものを貼り続け公職選挙法違反に問われようとしていた。
貼ったのは森下仁丹社員だったが身代わりで自首し、肝心なところでは黙秘を貫いた。
森下事務所に入って12年後、彼も候補者を支える側から選ばれる側に回る。
大阪府議選、さらには参院選へと出馬する。


・・・・


「竹岡さんの奥さんな、いつも同じ八百屋さんで野菜買うてはるけど、あれは具合悪いで。
あっちこっちで買わなあかんのんちがうか」
妻は遠くまで買い物に出るようになった。
竹岡は家で髪を洗わないようにした。
出かける先々で床屋を訪れ、洗髪をするためである。
妻は、犬にまでお辞儀しそうになった、とぼやいた。

・・・・

自宅にかかってきた怪電話を15歳の娘が受けてしまったこともある。
「あんたのお父さん、別のところに女の人がいて,子どもがおるそうやで」

宗教票を二千万円で買えると持ち掛けられたこともある。
それを断って結局落選した。

妻は選挙後、すぐに娘を連れて実家に戻り、離婚届を弁護士を通して渡してきた。
哀しかった。
「死ぬこと以外はカスリ傷」と口にしてきたが、これは深手だった。
その直後に師匠の森下を心不全で失い、竹岡は政界から引退する。

・・・・

それから約30年が過ぎ、ヒルトン大阪で『無鉄砲』の出版祝賀会に約130人が集まった。
あれから竹岡はハワイでゴルフ場を手掛け、不動産業を営み、パチロット(パチスロ)事業にもからんで、しぶとく生きてきた。
政財界からアンダーグラウンド世界で、裸の大阪を観察してきた。
自伝には著名人の実名が満載だが、それでも原稿からヤクザや芸能人は削除されている。



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国鉄井原線に赤信号

2020年08月31日 | 昭和51年~64年
国鉄井原線は総社~神辺間で、昭和41年に工事着工。
当時は矢掛~神辺間は井笠鉄道が営業中、赤字のため昭和42年の営業廃止も決定していた。
その頃は日本中で、路面電車や軽便の事業廃止のど真ん中で、国鉄が事業を始めたのは正気の沙汰とは思えなかった。
事実当時の国鉄は採算無視の国営会社だった。

それにしても
よくまあ井原線は、第三セクターとはいえ開業できたのものだ。
そして今日まで無事営業をつづけている。




(井原鉄道・小田~早雲の里荏原駅間 2015.4.3)

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国鉄井原線に赤信号

ニュー井原新聞・縮小版 昭和54年?月?日


今月初旬頃、運輸省が財源難を理由に、現在建設中の地方線を、原則として中止するとの方針を打ち出した。
建設期成同盟会長の小野井原市長を陣頭に、沿線の役員首長が相並んで上京した。

現在建設中の線は41線。
建設続行のメドは、一日一キロ当たりの輸送密度が四千人とされている。
これに合格するのは茨城県の鹿島線、愛媛県の内山線の二線だけといわれる。

しかし岡山県と鳥取県を結ぶ智頭線が3900人、これに次いで井原線は3800人と見込まれている。
井原線の場合,辛うじて存続が可能なのでは?
というのが期成会の感触のようである。

勿論これには、沿線市町の用地供与、工事進捗に対する全面協力などとともに、関係当局に対する間断のない強力な運動が必要不可欠、との前提がついている。

国鉄井原線は、昭和41年5月、神辺~総社間40.8キロをめざして着工したものだが、
現在用地の買収率68%、路線完成率44%。

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大松ママさんバレーボール教室

2020年08月25日 | 昭和51年~64年
1964東京オリンピックでの、”東洋の魔女”を率いて金メダルの”鬼の大松”監督は大スターとなり
「俺についてこい」の本はベストセラーになり、ハナ肇が主演の映画にもなった。

その人気により自民党で参院選挙に出馬、当選と落選。
その扱いぶりはNHKのど自慢の、宮田輝アナとまったく同じ。
使い捨て。

最後は井原市のママさんバレーの際、死亡した。まだ57才だった。


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ニュー井原新聞・縮小版 昭和53年11月11日


大松ママさんバレーボール教室を開催

岡山県家庭婦人バレーボール連盟では、昭和53年11月23日精研高校体育館で、
大松ママさんバレーボール教室を開催する。
講師は、元東京オリンピック日本女子監督の大松博文氏で、
ほかに補助講師として全国家庭婦人バレーボール連盟理事長ほか数名があたる。
受講チームは、井原さくらA、B、井原ママ同好会、高屋ママ、出部ママ、美星ママの六チーム、72人。
講習時間は10時から16時まで。


※管理人記・11月23日夜倒れ、翌24日に亡くなった。

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どうしても見たかった試合『ボクシング』・・・その3

2020年06月06日 | 昭和51年~64年
どうしても見たかった試合④アリvs猪木


まさか世界のアリと日本の猪木が同じリングにあがるとは、夢にも思えないことだった。
それにボクシングとレスリング。
契約の調印をしても、その後も・・・ほんとなんだろうか?といくらか信じられなかった。
テレビでアリの練習風景を見ていると、
やっとほんとうなんだと思えるようになった。

それからは日本中がアリvs猪木の話題一色になった。
試合の予想をするのが日常の会話になった。

初めてのことなので、試合展開や勝ち負けが、予想も想像もしにくかった。
とにかく日本中の話題になり、
試合は土曜日の午後1時頃からテレビで全国中継ということになった。
全国民(?)が土曜日の午後はアリ・猪木戦に注目した。

アントン猪木も世界のアリに「ペリカン野郎」と呼ばれては、苦笑いでごまかすのが精いっぱい。
試合ムードが高まり土曜日になった。
その日はP社岡山出張所の別室で同僚全員(6人くらい)で見た。
朝から仕事の話よりアリ・猪木戦が話題になっていた。
テレビ放送が始まり、
最初の頃はみんな、ワイワイ勝手な予想を言っていたが・・・次第に声が少なくなった。
試合は思わぬ展開になっていった。

アントンはゴングが鳴るたびに、リングに寝た。
たしかにレスリングの猪木が勝つ、または負けないためには、あたりまえの戦法だった。
アントンは寝るしかなかった。
そして毎ラウンド寝て試合は終わった。
両者引き分けだった。

これほど注目された試合もなかったが、凡戦という評価が多かった。
いやいやアリを日本のリングにあげて、正々堂々の試合をしたのは立派なこと。
まあ退屈な試合ではあったけど。
それは、結果論。

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岡山市民会館に新川次郎ショーを見に行く

2020年05月24日 | 昭和51年~64年
岡山市民会館に新川次郎ショーを見に行く

高校一年生の時、笠岡の大和座で「新川次郎ショー」があった。
その日は授業があり、見に行くお金もなかった。
授業中、今頃新川次郎は歌っているのだろうな、と気になった。
それから10余年後、岡山で新川次郎ショーがあった。
その時は独身貴族でお金のことはまったく気にならなかったが、
既に、新川次郎の地位が小さくなっていて、
「西川峰子・新川次郎ショー」だった。主役は西川峰子の方だった。
場所は岡山市民会館。
新川次郎は最後に「東京の日よいつまでも」を歌った。
その三番目は、
♪ああ岡山の日よ いつまでも~ で終わった。
いい声をしていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

岡山市民会館に北島三郎ショーを見に行く

中学生の時、北島三郎が「ブンガチャ節」でデビューした。
次の「泪船」もヒットした。
それ以来北島三郎のファンだった。
昭和50年ごろ、岡山市民会館で「北島三郎ショー」があった。
既に歌謡界の大物になっていた。
定時後、一人でショーを見に行った。
数々のヒット曲を歌ったが、途中のおしゃべりで
「聴かせてやってんだから」と発言した。
その言葉を聞いた時、
いっぺんに北島三郎に対する熱が冷めた。
その発言のある前から、ステージでなんとなく偉そうな感じがしていた。
当時、三波春夫が
「お客様は神様です」のフレーズが知られていた。
それまでは、ファンに阿るような気がしていたが、三波春夫を大いに見直すようになった。
それからは、三波春夫の歌をよく聴くようになった。



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常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら

2020年05月23日 | 昭和51年~64年
常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら

常磐ハワイアンセンターは大きな温泉施設で、毎日がレジャー客で人気があった。
管理人も会員になっていて、(年会費を払えば何度でも入れた)
家族でよく行っていた。

常磐ハワイアンセンターには芸能ショーがあり、一流の歌手も出演していた。
ある日、当時人気・・・今でも一定の年齢層に人気・・の桜田淳子ショーがあった。

会場に行くと、いつもと違って超満員。
立ち見でショーを見ることになった。
その時、妻と2歳の長女の三人だった。

ステージに現れた桜田淳子はかわいいステージ衣装で、踊って歌った。
残念ながら後方で見ているので、お顔までははっきりと見えなかった。
歌とおしゃべりのショーだったが、
話す内容が子供向けで、おしゃべりは物足りなかった。

長女は大人の脚しか見えないので、可愛そうで肩車にした。
最初はステージを見て反応がよかったが、
いつの間にか動く様子が無くなった。
妻に言うと、
「寝ている!」
管理人の頭を枕にして、べったりの姿勢で寝ていた。


人気スター桜田淳子は、結婚が原因で芸能界から消えてしまった。
原因はどうあれ出なくなったので、いつまでも若くて可愛いままのイメージが残っている。


・・・・・・


特急ひたちで、往年の大歌手・霧島昇と付人を見た


東京への出張は特急ひたちで往復していた。
出張手当はグリーン車が出ていた。
復路のみグリーン車に乗って、往路のグリーン料金をこずかい銭にしていた。

ある時の出張帰り、上野駅午後6:00発のひたちグリーン車に乗ると,霧島昇がいた。
霧島以上に年配と見える男性の付き人が相席していた。
そのグリーン車には、いつものように、合わせても5~6人程度の乗客だった。

しかも管理人の一列前の隣列だったので、二人の様子と会話がよく見え、よく聞こえた。

列車は水戸駅を過ぎた。
水戸駅を過ぎると乗客の乗り降りは、降りるだけになっていく。
つまり車内はいっそう静かになり、自分が降りる駅に着くのを待つだけの状態となってゆく。
その時に、
霧島昇は突然言った、
「駅弁がほしい」。
その瞬間、
付き人は席を立ち、前方に向かって走り出した。
そして次に、そのまま後方に走り去った。
・・・・・そして霧島の席まで戻り、なにやら言った。
探したり当たったり努力したが、結局駅弁は買えなかったという報告であろう。
霧島は強い口調で、しかるようで、納得をした。


普通であれば、時間的に無理かなと思うであろう。
しかし両者は本気モードで弁当を求めた。

両者が冷静に話していれば、管理人も”無理であること”をおしてもよかったのだが、
とても、そんな雰囲気ではなかった。
芸能人の実態を垣間見たような、そして残念な気持になった。
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