しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「笠岡よっちゃれ」を見に行った

2022年07月31日 | 令和元年~

昨夜は、3年ぶりに開催された、「笠岡よっちゃれ」を見に行った。

 

 

今年は来週(8/6)「笠岡花火」も開催される。

しかし、これは例外に近く

岡山県
岡山の花火、うらじゃ、中止。
倉敷のOH天領祭り、中止。
井原の花火、中止。
広島県
福山の芦田川花火、中止。
尾道の住吉花火、中止。

 

笠岡もここ10日間くらい毎日40人くらいのコロナ感染者が出ている。

 

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兵はマラリアで死ぬ

2022年07月30日 | 昭和16年~19年

聞き書きの本を読んでいたら、父と同じ元衛生兵の話が載っていた。

父は、従軍した徐州から武漢への途中、多くの兵が戦と病気で亡くなったが、病気はほとんどがマラリアだったと話していた。

薬の不足と、「現地調達」と言う名の、略奪に近い食糧不足による栄養失調が原因での死だった。

 

本の方はビルマの野戦の話で、読んでいて涙が出た。

 

・・・・

 

「聞く、書く。3号」 聞き書き人の会 吉備人出版  2015年発行

ビルマの記憶

話し手Bさん(1912年生まれ・103才)

今から5年ほど前にな、ワシを訪ねてこの施設まで来てくれた人たちがおったんや。
会うんはその時が初めて、その人らはな、70年前の戦争で一緒に戦った仲間の息子さん達やったんやあ。
なんで来てくれたかというたら、その戦友の彼が亡くなるまでずっとワシのことを「命の恩人」やいうて家族に伝えとったらしんや。
65年間ずっとな。
その彼が亡くなったんで、息子さんたちがどうしてもいうてワシを一生懸命捜してくれたんや。
彼とは戦地で別れたまんまやった---。

 

1943年(昭和18)、ワシは3度目の召集を受け衛生兵としてビルマへ向かった。
衛生兵の一番の任務は、前線で負傷した兵士のところへ行って、後方の収容所へ下げること。
弾が飛び込んでくる中で、撃たれても倒れても、兵士は勝手に下がることはできんけんな。
上官の命令があってワシら衛生兵が行かん限り、兵士は怪我してもそのままなんよ。
収容所いうても屋根なんかない。雨が降ったら濡れたまんま。
軽傷やったらヨーチンや消毒してな、また弾が飛び交う中へ戻すんよ。
重傷者はさらに奥の野戦病院へ搬送。担架で運ぶのはしんどい。
ひどくしんどかった。

ある日、衛生部隊が本隊と合流することになってそこへ向かう途中、薬剤官だった川野さんが倒れたんや。
「熱帯熱マラリア」。
この熱帯熱いうんはマラリアのなかでも面倒なんで、致死率が高いけんな。
彼はもう一歩も歩けんようになっとった。
けど決められたとおり本隊に合流せないかんから、
彼を連れていくかどうするか部隊内で協議してな、結果彼をそのままそこに置いてゆくことになったんや。

部隊は前進。
けどワシはまだ息があった川野さんを諦めきれんでな。
彼のもとへ引き返したんや。
軍医に貰ったビタカンフル注射を持って、4本。
ほんで「川野、生きてくれ!」ゆうて懸命に看護したんよ。
一晩して少し熱が下がったけん、あとは彼を野戦病院へ連れていいった。
彼とはそこまで。

 

けどなあ。
これは当時大変なことやってんやで。
戦場で命令もなく、後方へ下がるいうんは絶対にありえんこと。
当然ワシは追及を受けた・・・・。

このとこを川野さんは、戦後家族に言い続けとったらしいやなあ、ずっと・・・。
息子さんの話では、暑いジャングルで意識がもうろうとする中、
「川野を置いてゆくぞ!」
いう声を本人がはっきり聞いとったらしい。
ここの部分は繰り返し家族に言うとったそうや。

瀕死の仲間を置いてゆかねば、自分が犠牲になるという過酷な状況。
それが戦争や。

 

 

ビルマが一番長かったけん。よう覚えとるわな。
出征する時ワシの子どもはまだ小さかったんで、ひじょうにつらかった。
ジャングルのなかをひたすら行軍。
病死が多かったんよ。
一番はマラリヤじゃ。
ワシもかかったんよ、部隊の半数近く一度はかかとった。
薬剤が不足して十分な手当てができん。
野戦病院へ搬送中死亡する人がほとんどやった。
とにかく食べる物が無い。
全く何も無い。
皆栄養失調で治るもんも治らん。
それで快復できんために置き去りもあった。
それから・・・治らん患者自ら隊を離れることは多く・・・あった。
手榴弾をな、抱えて・・・自決よ。
戦場は常に死と隣り合わせやった。

食事は瓜しか思い出せん。
基本「現地調達」。
”取って食え、取って撃て”そう教えられた。
飼い牛を殺して食べたこともある。
ビルマ語で現地の人と話もした。
ほとんど食べ物の話やったなあ。

慰安婦たちがやってきた。
ワシは彼女たちの検診担当で、性病が怖かったから、衛生隊は皆自慰をしょった。

 

敗戦後フランス軍の捕虜になった。
朝から夕方まで畑仕事。
たまに入れるドラム缶風呂が楽しみやった
仲間と話すのは、いつ帰れるのか全くわからんけど、そのことばかり。
敗戦から9ヶ月後の昭和21年5月、日本へ帰還した。

 

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池の水みんな抜く②ウダ(ウザ)のこと

2022年07月30日 | 暮らし

茂平の「いなとり」は村一番と思える賑わいだったが、
その参加者は府中~新市~神辺~井原、が多かったのは子供も知っていた。


なぜわざわざ遠方から来ていたのか?その訳は、
海から離れ、川魚を漁撈し食す地域の人々には、農具の一つとして「うだ」を所有し生活と食料に役立てていたから。
海岸部の人々には「うだ」は必要ないし、年に一度のために所持するほどの豊かさはなった。

 

・・・


「矢掛町史・民俗編」 溜池とウザ漁撈

溜池での漁撈をイケボシ、カイボシ、サカナトリなどと呼称し、
水田灌漑水を落下すると同時に、
池水も落水し溜池での漁撈、
溜池の修理保全などが関係農民によって行われる。
その上に溜池での捕獲された川魚類は地域農民の重要な食品として貴重な食糧資源であった。
来るべき秋の収穫前、または12月の収穫後の今日の言葉でいうレクレーションでもあって年中行事の一つでもあった。

 

 

ウザというのは魚伏籠のことである。
溜池では、ウザによって川魚が捕獲される。
水中に狼狽する魚をこの中に追い込んでとる。
ウザは片手で池底に突いて、手ごたえがあると、上部の口から魚を手でにぎる。
ウザの材料は真竹である。
ウザは自製する農民が多く、農家には必ず2~3個以上はあった(西川面)。
矢掛町では魚伏籠の呼称を広くウザという場合が多い。
ウダ(東川面)などもこの呼称線上にあるものだろう。

 


・・・


「野々浜むかし語り」 野々浜公民館  1991年発行


網入れ(いなとり)

 

この時は遠く、府中、新市、井原、高屋などあちこちから何百という人が、
投網や「うだ」を持ってやってくる。
野々浜の内海(うちうみ)は、足の踏み場がないくらい賑やかだった。
「うだ」というのは頭丸籠に似た丸い籠で、これを海に突っ込んで魚を上から押さえる。
魚が入るとぴょんぴょん中ではねるのがわかる、という代物だ。
今でも高屋や井原に行くと、
野々浜の網入れをおぼえてる年寄りが居て、
「わしはのう、野々浜の海へ網入れに行きおったんど」
と話してくれる事がある。

 


・・・


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

ウザ
水田のミズオトシをしたとき池干しをしてウザを使う。
ウザで池底を突くようにして魚のいそうなところをかぶせてゆく。
ウザに手ごたえがると、上部の口から魚を手で握る。
材料は真竹である。

 

・・・・

 

 

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城見小学校の修学旅行、宮島へ行く

2022年07月29日 | 城見小・他校

”旅行”といえば、学校行事の「遠足」か「旅行」しかなかった。
家族旅行という言葉も、それに相当する旅行も、城見小の児童には関係ない、当時の日本の普通の農村の学校だった。

それだけに学校行事の旅行、とりわけ修学旅行となると、もう1年ほど前から楽しみだった。

行った場所、泊まった旅館、汽車の中、いろんな記憶がはっきりと残っている。

・・・

城見小学校は隔年で、広島・宮島と四国の屋島・琴平が修学旅行の行先だった。
私たちの年は広島だった。
四国よりは広島の方が良いと思っていた。

朝の暗いうちに家を出て、暗いうちに学校に着いて、点呼の後、歩いて大門駅へ向かった。
県境の講口池のあたりで、夜が明けて来た。
その頃の講口池ふきんは、国道2号線とは言え松林の暗い道だった。

大門駅で引率の先生と生徒(62~63人)は、汽車に乗った。
修学旅行はスタートした。
もちろん、各駅停車で鈍行の、蒸気機関車だった。
昼前に広島駅に着き、バスか徒歩で比治山に登った。
比治山で持ってきた弁当を食べた。

工場見学で東洋工業に行った。
まだ四輪車(キャロルI)は造ってなく、バタンコを造っていた。
工場見学が終わって、全員にボールぺン’(だったと思うが鉛筆だったかも)が配られ、うれしかった。
そのボールペンには”東洋工業”と刻まれていたことにも驚いた。
普通の商品に企業名があるのを見たのは、これが初めてだった。

次に原爆資料館に行った。
原爆資料館にも入った。
焼けた肌や衣類の被爆者は衝撃だった。

その日の宿泊は宮島だった。
季節は”秋”の10月末頃、
”安芸”の宮島に着いた。
ガイドさんの話で、「あきの宮島」とは「秋の宮島」でなく「安芸の宮島」であることを、初めて知った。
宮島の大鳥居の下で記念写真を撮った。
ちょうど干潮の時だった。

その夜、
大広間に寝ているところを、先生は何度も見回りにきた。
寝小便をしないように、「便所にいけ」と言っていた。


二日目は岩国に行った。

岩国の錦帯橋に行って、渡った。
錦帯橋付近の河原で遊んだ。
「あの山が岩国城」と説明されたが、まだ天守再建されず、単なる山にしか見えなかった。
橋の袂の土産物屋から、
マイトガイ小林旭の「アキラのズンドコ節」が流れていた。
当時、渡り鳥は歌も映画も大ヒットしていた。

 

 

バスは岩国基地にはいった。
広い芝生が広がり、ぽつんぽつんと米軍兵の一戸建て平屋の住宅が並んでいた。
洗濯ものを干す兵士の夫人や、子供を見て
しかも二つの人種、白人家族と黒人家族がいた。
映画館でしか見ない外国人を、初めて直にみた。
バスの車内では、そのことに感動する声が聴こえた

帰りは、先生がトンネルが多い理由で呉線経由で大門駅まで帰った。
修学旅行は楽しかった。
楽しかった、その一番は呉線のトンネルだった。
呉線はトンネルと瀬戸内海の景観が魅力だが、
小学生であるから、または海は毎日みているからか
海の景色はまったく気にならなかった。

大門駅まで戻り、歩いて城見小学校に戻った。
そこで解散し、
茂平の人は茂平に向かった。
帰りの道は、暗くなり、家に着くころは真っ暗闇になっていた。

家に帰ってから、
岩国では「白い蛇」を見ていないことに気が付いた。
それが残念だったが、いまだに雪辱できていない。




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羽黒山・三神合祭殿

2022年07月29日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県鶴岡市羽黒町手向        出羽神社(三神合祭殿)   

 

三神合祭殿は赤い鳥居から入ると、すぐに巨大な鐘楼と釣鐘と撞木が目に飛び込む。

こんな大きな「お寺の鐘」は見たことがない。が、

ここはお寺でなく神社。

境内のいたるところに神と仏が残る三神合祭殿だった。

 

 

(羽黒町観光協会)

出羽三山神社・三神合祭殿


羽黒山頂の中心に建つのが羽黒山、月山、湯殿山の三神をあわせて祀る三神合祭殿です。
周囲には自然の地形に応じて建物が配される山岳寺院特有の景観が広がります。
現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建ですが、
山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物です。
平成12年国の重要文化財に指定されました。


・・・

 

(鐘楼と大鐘=国の重文)

 

(羽黒町観光協会)

羽黒山の神仏分離


維新政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じる神仏判然令を出しました。
神仏習合のお山であった出羽三山もその例にもれず、神仏判然令が伝えられると、
羽黒山は出羽神社と改められました(現在の出羽三山神社)。

神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭、
というコンセプトから、仏像・仏具の破壊、経文を焼く、寺院の廃合、
僧侶の神職への転向などを急激に実施したため、お山は大混乱となりました。

神道化していった羽黒山ですが、手向の300余りの宿坊のうち、
正善院と金剛樹院は仏教寺院として残りました。
こうして羽黒山の聖地は神社と寺の双方に分けられ、羽黒修験の
「秋の峰」も神道側と仏教側それぞれで実地されることになり、現在に至っています。

・・・

 

 

山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」

三神合祭殿
さんじんごうさいでん
日本一の茅葺屋根、出羽三山の神々を祀る


月山・羽黒山・湯殿山の三神を合祭した日本随一の大社殿。
厚さ2.1mの萱葺の屋根、総漆塗の内部など、その全てに迫力があって見ごたえ十分。
本殿は度重なる火災にあったが、現在の社殿は文政元年(1818年)に再建したもの。
前方の鏡池は、神秘の御池として古来より多くの信仰を集め、羽黒信仰の中心でもあった。

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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羽黒山五重塔  

2022年07月29日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県鶴岡市羽黒町手向   国宝・羽黒山五重塔  

 

羽黒山五重塔に行くには、鳥居をくぐり、髄神門をはいり、石段を降り、杉木立の参道を歩く。

途中滝があり、千年杉があり、夏でも汗のでない涼しさがあった。

 

 


「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行

出羽三山

出羽三山とは羽黒山・月山・湯殿山をいい、これら三山は一体のものとして信仰されてきた。
月山・湯殿山は奥宮といい、羽黒山に三神合祭殿を設けて本社としている。

羽黒山には、古くから行者がいたらしい。
貞元2年(977)に都で、ずきんをかぶり、108摩尼珠を手にした行者たちが、はげしく法螺をふきならしてあるき「われわれは役行者の徒である」といったという。
この行者たちは羽黒山伏であろう。
平安後期から鎌倉時代、羽黒修験は全盛期をほこった。

 


山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」

羽黒山

羽黒山・湯殿山・月山の出羽三山は、全国有数の修験の山として知られています。
参道には国宝五重塔があり、2,446段の石段と杉並木が続き、神聖な雰囲気を漂わせています。

 

 

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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山居倉庫

2022年07月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市山居町

 

さすがに酒田市のシンボル・山居倉庫は、存在感がすごい。

川に面し、国道に面し、ケヤキに面し、巨大な倉庫が12棟並ぶ。

一部が資料館と土産・物産展になっているが、中心部は現役の倉庫。

現役の近代遺産で、なおかつ”美しい”のがいい。

 

 

酒田市役所”酒田さんぽ”Web

湊町・酒田のシンボル「山居倉庫」

米どころ庄内のシンボル山居倉庫。1893(明治26)年に建てられた米保管倉庫です。
米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。
白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。
夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、
現在も現役の農業倉庫です。

敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設され観光客で賑わっています。
樹齢150年以上のケヤキ35本の連なるケヤキ並木の色合いは、季節とともに変わり見る人を魅了します。
2021(令和3)年3月26日、国指定史跡に認定されました。

・・・・

(山形県HP)

日本一の米「山居米」の巨大倉庫 山居倉庫(酒田市)

『山居倉庫』は、米の揚げ下ろしで雨風に当たらない構造や、倉庫内の工夫を凝らした空調管理、
入庫米の厳しい選別審査などで、中央市場でも日本一と評される「山居米」を生み出した。

現在の近代的な倉庫の保管機能と比較しても、決して遜色の無い山居倉庫は、庄内米の改良と声価向上を果たし、農村経済の振興に貢献した。

 

・・・・

山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」

山居倉庫
さんきょそうこ
湊町・酒田のシンボル「山居倉庫」


米どころ庄内のシンボル山居倉庫。1893(明治26)年に建てられた米保管倉庫です。

米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。
白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。

夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、
自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現在も現役の農業倉庫です。

敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設され観光客で賑わっています。

樹齢150年以上のケヤキ35本の連なるケヤキ並木の色合いは、季節とともに変わり見る人を魅了します。
2021(令和3)年3月26日、国指定史跡に認定されました。

 

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

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喜多院

2022年07月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・埼玉県川越市小仙波町

 

雨の中、喜多院 を訪れた。

川越では最後の見学地だったのと、疲れもあり、休憩所で雨宿りでおわってしまった。

残念。


公益社団法人 小江戸川越観光協会

きたいん
喜多院


天台宗川越大師喜多院は、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願寺であり、
本尊である阿弥陀如来をはじめ、不動明王や毘沙門天等などを祀り、『無量寿寺』と名付けられました。

慶長17年(1612)、徳川家康が天海大僧正に喜多院の再興を命じて多くの堂塔伽藍が建造されましたが、
寛永15年(1638)1月に起きた川越大火により、現存する山門を除き、堂宇はすべて焼失してしまいました。

そこで同年11月、3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)より客殿、書院等を移築しました。

客殿や書院には「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と伝えられている部屋があり、これらは、慈眼堂・山門などとともに重要文化財に指定されています。
境内の一角には、川越北田島の僧・志誠(しじょう)の発願により天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立された
、日本三大羅漢の一つに数えられる「五百羅漢」が祀られています。

 

 

訪問日・2022年7月13日

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富岡八幡宮

2022年07月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都江東区富岡  富岡八幡宮(深川八幡宮) 

 

門前仲町駅から下町の趣を感じながら「富岡八幡宮」に行った。

神社は杜に囲まれていた。

相撲に関する記念碑を楽しみにしていたが、それも楽しめた。

 

 

「東京都の歴史散歩(上)」  山川出版社 1977年発行


富岡八幡宮(深川八幡)

富岡八幡は神田明神・赤坂山王さん・浅草三社さまとともに江戸っ子の祭礼で有名。
辰巳の花街や木場の繁栄を背景に芝居や小説、小唄など庶民文芸にしたしまれてきた。
江戸中期、この境内で勧進相撲が行われていた。
祭礼の盛大さは、そのにぎわいで文化4年の永代橋落下事件をひきおこしたくらいである。
力士碑の裏手にある八幡橋は都内最古の鉄橋(重文)である。

富岡八幡宮の東の木場2~5丁目はもと、木場のあったところ。
”火事と喧嘩は江戸の華”で、たびたびの火災のあと普請工事が木場の繁栄をもたらした。

 

 


「街道をゆく・本所深川」 

 司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行


江戸と深川をむすぶ大橋や永代橋がかけられて、深川が孤島でなくなったのは綱吉の代であった。
大相撲も深川を栄えさせた。
当時、大相撲は『勧進相撲』のかたちをとっていた。
この勧進相撲が深川の富岡八幡宮にのみゆるされていたのである。
大相撲は、この八幡宮の境内から出発したといっていい。
勧進とは、寺社への寄進のことである。
建立やら修理の入費のためにひろく大衆から銭を募ることをいう。
このため、表むきは八幡宮の主催になり、監督官庁も寺社奉行だった。

富岡八幡宮の境内に入ると、社殿を過ぎてさらに奥に入ると、大相撲にちなんださまざまな碑があって、いちいちを見ているだけで楽しめる。


富岡八幡宮祭礼

富岡八幡宮の祭礼は江戸文化が熱するとともにさかんになり、
当日、江戸の市中から永代橋をわたって祭礼見物にゆく人の波はひきもきらなかった。
このため永代橋が落ちたこともある。
この大事故は文化4年(1807)8月、千五百人余もの死傷者がでたという。
「この橋勝れて高く」とあるように、江戸第一の橋といってよく、西の空に富士が見え、北には筑波山が見えたという。

この惨事は蜀山人大田南畝の在世中のことで、狂歌が残っている。
「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 明日は葬礼」

 

 

 

訪問日・2022年7月13日

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海向寺

2022年07月27日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市日吉町      

 


生入定(いきにゅうじょう)した”即身仏”が二体保管されている海向寺。
住民の苦しみを救うため、生きたままミイラに似た身体になり、仏になった僧。
今も庄内地方で尊崇を受けている。

 

 


「歴史と文学の廻廊1」 尾崎秀樹  ぎょうせい  平成4年発行 

即身仏

出羽三山の行者のなかには、仙人沢・荒沢などで、千、三千、五千日に及ぶ山籠修行を行い、
生涯を通して五穀、十穀を断ち、山草か木の実しか食べない木食の行を続け、
修行を助けてくれた人々の苦悩や罪障をわが身に引き受け、死期が近づくと、
生きながら塚に入り、念仏を唱えながら死を待つ者がいた。

行者にゆかりのある者は、塚の中からわずかに聞こえてくる念仏で、行がつづいていることを確かめたという。
こうして死に至った行者はミイラとなり、即身仏(そくしんぶつ)として人々の篤い尊崇を受けたのである。

 

 

酒田市役所”酒田さんぽ”Web


即身仏とは・・・?

江戸時代初期以降、飢饉や病に苦しむ人々がたくさんいました。
そのような人々の苦しみや悩みを代行して救うために修行に挑み、自らの体を捧げて仏となられた方を即身仏といいます。
即身仏になろうと決めたら途中で投げ出すことは許されず、修行に耐え抜いた者のみが即身仏になることができました。

即身仏となられた現在でも、人々の苦しみを沈めるために祈ってくださっていることでしょう。
明治時代に法律が変わり、いくつかの法に違反してしまうため、現在では自ら望んでも即身仏になることはできません。
大変貴重な仏様なのです。


即身仏になるための修行とは、どんな修行だっだの?

即身仏になるための修行は、大きく分けて「木食修行(もくじきしゅぎょう)」「土中入定(どちゅうにゅうじょう)」の2つです。
「木食修行」は、山に籠り、1,000日~5,000日かけて米・麦・豆・ヒエ・粟などの五穀・十穀を絶ち、
山に育つ木の実や山草だけで過ごして肉体の脂肪分を落とし、生きている間から即身仏に近い状態に体をつくりあげていく修行です。
「土中入定」は、命の限界が近づいたと自ら悟ると、深さ約3mのたて穴(入定塚)の石室の中に籠ります。
その中では断食を行い、鈴を鳴らし、お経を読み続ける最後の修行です。
死後3年3ヶ月後に掘り起こされ、若干の手当をしてから乾燥させ即身仏として安置されます。


即身仏ってミイラとは違うの?

即身仏ってミイラでしょう?というご質問をよくいただきますが、実は全く異なります。
一般的にミイラは死後、身体の腐敗を防ぐために人工的に臓器を取り除いて防腐処理を行い、乾燥させ、布でくるんで棺に収められます。
人工的に加工されていること、布でくるむことが大きな違いですが、即身仏になるために難行苦行と言われる修行に耐え抜かれたことがミイラとの最も大きな違いです。

 

即身仏が安置されている寺院: 海向寺

海向寺には、忠海上人円明海上人の2体の即身仏が安置されています。複数の即身仏を安置しているのは全国で唯一、ここだけです。

忠海上人は、元禄10(1697)年、山形県鶴岡市鳥居町の庄内藩の武家 富樫条右衛門家で生まれました。
中興初代住職として、延喜3(1746)年に海向寺の中興を成し遂げました。
50歳になると、人々の苦しみを救い、願いを叶えるために自ら木食行者となって即身仏になることを決意され、難行苦行の道へ進まれました。
宝暦5(1755)年2月21日、58歳で土中入定し、即身仏となられました。

円明海上人は、明和4(1767)年、山形県東田川郡栄村家根合(現山形県東田川郡庄内町家根合)の佐藤六兵衛家に生まれました。
海向寺九世住職を経て、50歳で即身仏になることを決意されました。
湯殿山仙人沢に籠り、五穀断ち・十穀断ちの難行苦行に耐え、文政5(1822)年5月8日、55歳で土中入定し、即身仏となられました。

・・・

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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