しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小3の春③チャンバラ遊びと山形勲

2018年09月28日 | 城見小・他校
男の子はチャンバラ。
漫画も映画も、見るのはチャンバラ。
ラジオは、浪曲もドラマも時代劇。
パッチンの図柄も時代物。

遊びはチャンバラごっこ。
棒きれを片手に斬りまくる。
宮本武蔵や鞍馬天狗や赤胴鈴之助・・・・。

しかし相手がいる。悪者で斬られ役が必要になる。
それが山形勲。

東映時代劇の半分は、最後に悪役の山形勲が斬られて終わる。
斬られる際、鼻をぴくぴくさせながら倒れる。
映画は、正面から写さず少し横顔で鼻の動きを強調している。

これが子供に人気で、チャンバラ遊びの時は斬られ役
に不自由することはなかった。特技の人もいた。

後年、東映時代劇の悪役・斬られ役専門だった山形勲は現代劇で異彩を放った。
企業トップや重鎮役で重厚な存在感が際立つ役者になった。
あの変わりようはうれしかった。


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小3の春②初めてのソックス 

2018年09月28日 | 城見小・他校
冬の朝。
火の見櫓から近いところ(豆腐屋の前)に集まり集団で学校に行っていた。
大人も子供も「豆腐屋」と呼んでいたが、豆腐を作っていたのは戦前のことらしい。
そのトーフ屋のおばあさんが、冬の朝は焚火をしていた。
子供も焚火に当りながら全員集合するまで待っていた。

ある日、頼んだわけではないが母がナイロンで作った足にはくものを買ってきた。
さっそく翌朝にナイロンのはきものをして登校することにした。
集合場所では、みんな手を焚火に出して当たっている。
ナイロンのはきものがうれしくて、片足立ちして、片方はズックを脱いで足を当てた。
内心自慢げに、みんなにみせびらすつもりだったが、それは実現できなかった。
焚火に出した片足はじゅるじゅると音を出しながら縮こまり、破れて素足が出た。
初めてのソックスは、たったの一日も用をなさなかった。

自分がみせびらかす気持ちさえもたなければよかったのだが、製品自体は早晩に駄目になったような気がする。
新製品はまだ粗悪品だった。
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小3の春①芦田川 

2018年09月27日 | 城見小・他校
笠岡に川と呼べるほどの川は無いが、更に茂平には飛べば渡れる川しかなかった。
福山城から明王院へ行けば、すぐ前に大河が流れていた。
生徒全員が芦田川の大河に驚いた、こんな大きなものが川だろうか?
先生が「川」と言っているから、川に違いない。
明王院の五重塔を見学して、生徒たちは芦田川に下りた。

河原には、砂やきれいな栗石があり、
平べったりした栗石を川面に投げた。
石は5回、6回、7回、ほど川面を打ちつけてから沈んだ。
普段その遊びは海でしていたが、海は波があるので4~5回打ってから沈んでいた。
の川面は波もかったので、小石が水面を蹴る様子が面白かった。
男の子は数の多さを声高に発した。
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満蒙問題

2018年09月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

民間人として満州に行ったおば(父の妹)は、「(日本人は)偉い思うとったから、戦争に敗けたらその反動が全部でた」と話していた。
軍人として中国に行った父は「悪いことをしただけでなく、良いこともしとる。例えば道路を造ったが、今でも使っているはずじゃ」
と”悪いこと”をした思いを持っていた。

しかし
例えば戦後に、満州開拓団は被害者という面からでしか語られていない。


戦前・戦中を被害意識でしか見ない今の史書は、他国から浮いていた戦前・戦中と共通した面があるように思う。



日中十五年戦争史 大杉一雄著 中公新書 より転記する。

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満蒙問題
日本が日露戦争の勝利におごって、韓国に対して高圧的な態度で臨み、ついに植民地とし、帝国主義国家への道を歩むに至ったのは残念な事実である。
たとえ朝鮮半島が日本の対外関係上、防波堤であるとともに橋頭堡とならざるを得なかったとしても、友好的な同盟国として韓国と共存するという選択はあり得なかったのであろうか。

日清・日露の戦争の犠牲によって獲得し、かつその保有が国際的にも認められている、南満州の権益を中国に返還するなどということは到底考えられなかった。
しかも、満州に関する限り日露戦争の結果は、それを支那のためにロシアから取り戻してやったのだという意識があった。
「満蒙は日本の生命線」という言葉は、必ずしも軍部や日本居留民だけのスローガンではなかった。

このような観念が最も露骨に現れたのが例の二十一ヶ条の要求であり、とくにパリ平和会議において中国の要望を無視して、ドイツの山東省権益の返還を認めなかったことは、「5・4運動」(1919)に代表される中国国民の激しい反発となり、中国ナショナリズムの憎悪の的となってしまった。

「満蒙生命線」論は当時の日本国民の共鳴と支持を受けていたが、中国にとっても「支那人は満州を以って国防の第一線と考えるに居れり」(国連リットン報告書)。
それにもかかわらず日本側の議論には中国への配慮はまったく払われていなかったといってよい。

だからこそ柳条湖で「暴戻なる」中国人により、満鉄線が爆破され(事実は関東軍)、それにより「隠忍自重していた」関東軍も、ついに出動したと報じられとマスコミも国民も、これを一斉に支持し同調するようになった。
しかも満州国を「独立」させ、事実上の植民地としたこと、すなわち満蒙を掠め取ったこと及びそれに対して国際的な非難をこうむったことに、それほどの罪の意識をもたなかった。

以上の事は、平和憲法のもとに50年生活してきた戦後派の人々には、理解できない部分があるかもしれないが、否定できない歴史的事実である。
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軍隊が置かれた城

2018年09月01日 | 江戸~明治
明治維新でお城は政府・兵部省の所有となり、明治5年に陸・海軍省発足で陸軍省が所有となり、翌明治6年に軍の使用予定がない城は廃城令が出た。
廃城令が出た城は財務省が管理し、学校・役所等使用で売却することになった。

中国四国では、津山城・福山城・三原城・萩城・今治城・高知城などが廃城となった。


「日本の城1000城」西東社 2012年発行より転記。

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軍隊が置かれた城

明治4年(1871)4月、2鎮台が置かれた。同年8月東京・大阪・鎮西・東北と4に増える。
鎮台は国内治安向けの歩兵主力の軍隊で、本営4ケ所、分営8ヶ所が、旧城内に置かれた。この時、仙台城・大坂城・小倉城にそれぞれ鎮台が置かれた。
そして弘前城・佐倉城・上田城・名古屋城・小浜城・高松城・広島城・鹿児島城に分営が設置された。

明治5年、兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が設置される。城郭の管理は兵部省から陸軍に変わった。

明治6年に鎮台が4から6に増えた。鎮台を含む営所はこの時14ヶ所、将来は41に増やす計画であった。
そしてのために必要になる旧城郭以外の城はすべて廃城となっている。

これにより存城とされたのが、
二条城・大坂城・津城・名古屋城・豊橋城・静岡城・山梨城・小田原城・江戸城・彦根城・高崎城・宇都宮城・若松城・仙台城・盛岡城・山形城・秋田城・福井城・金沢城・新発田城・陸前高田城・鳥取城・松江城・姫路城・岡山城・広島城・山口城・和歌山城・徳島城・丸亀城・高松城・松山城・宇和島城・福岡城・小倉城・熊本城・飫肥城・鹿児島城・厳原城・首里城であった。

しかし山口城のように存城がいったん決まったものの、その後廃城令が出た城もある。
存城が決まっととはいえ、城は軍隊を駐在させるための場所であった。
城内の建物は必要がないとされた建物は壊された。
残された建物の多くも使い勝手がよいように改修されてしまったものが多かった。

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尼港事件--「平和をたずねて」より

2018年09月01日 | 大正
尼港事件(1920)から98年経った新聞記事を記録しておく。


「平和をたずねて」毎日新聞 2018年8月21日より転記

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日本の徴兵制は本籍地主義だったことから、部隊の全滅は町や村の戦没者を一気に増やし、男性の人口を減らした。
尼港事件では歩兵第2連隊(水戸)第3大隊がそうだった。
連隊の犠牲者307人中281人が茨木県の出身者で占められた。
在郷軍人会が水戸市内に建立した「尼港殉職者記念碑」に、次の記述がみられる。

《この方面の革命軍は、極端な過激思想を持つ悪質なパルチザン軍で、情勢の悪化を憂い中央では増援の派遣を図ったが、結局積雪等に阻まれて断念を余儀なくされた。(略)》

戦死した兵士は、異例の2階級特進となったが、地元紙「茨木民友社」の長久保社長は軍部の責任を厳しく問うた。
1920年6月水戸市常盤公園で招魂祭が営まれたとき、田中義一陸相や上原参謀総長らが列席したことにふれ、長久保社長はこう論じた。
『これを以って見ても其の責任上遺族を慰撫する事に於いて如何に狼狽したかを窺知するするに足りるであろう』

続けて「勝田市史 近代・現代編1」は次のように書き留めている。
「領土さえ拡がれば国は繁栄するものと心得ている低能児」の軍閥と
この軍閥と手を結んだ原敬内閣とを、舌鋒鋭く批判する長久保こそ、無名の師にむなしく異郷の地に斃れた兵士たちの真意をあらわした言論人であった。

尼港事件の追悼碑は、全国に少なくとも6ヶ所ある。殉難者は軍人の水戸に対して、民間人は天草(熊本県)が多かった。
≪わが天草人にして、殉難せる者百十名の多きに達す。(略)悉く自力更生のため大陸に進出せる勇者なりき。然るに業中にして俄然凶手に斃る。人生の恨事、何者か之に過ぎん。嗚呼、悲しいかな≫
続けて、
≪然れども殉難者の一死は、あえて徒死にはあらざりき≫として、こう説明する。
≪国家に対して貢献せる所、決して少なからず。
即ち、国防上最も必要なる北樺太の利権は、ひっきょう殉難者の賜たるは勿論、帝国今日の大陸政策もまた、つとに諸君の雄図に胚胎(はいたい)せり≫
時代を映す碑文とはいえ、北サハリンの「保障占領」に「貢献」したといわれても、民間人の死者たちは当惑するのではなかろうか。


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