しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「今昔物語」~平中が侍従の君に懸想した話~  (京都市・京都御苑)  

2024年04月30日 | 旅と文学

高校生の時、クラスにとびきり美人の同級生がいた。
美人なので、その人に思いを打ち明けることは(絶望的な結果しかないので)思いも及ばず、ただ憧れの雲の上の存在の人であることで満足していた。

ある日、国語(古文)の授業で「今昔物語」があり、
男性の先生が、
「今昔物語にはいろいろな説話が載ってあり、その一つをこれから紹介します。」


それが「平中が侍従の君に懸想した話」だった。
先生が授業中に密かに笑う声がおこった。
男子生徒が2~3人、
女子生徒も2~3人。
途中で笑う声が1人、2人とさらに増えて行った。

我が憧れの君からは笑い声が漏れなかった。
当然だと思った。
こういう話は彼女には縁のない、
もともとあり得ないことだから、と至極納得し、かつほっとしていた。


けれど、やはり、なにか、それも違うのでないかとも思った。
あのとき、彼女の表情はどうだったんだろう?
内心、だまって笑いをかみ殺していたのだろうか?

 

旅の場所・京都市上京区・京都御苑 
旅の日・2017年2月15日             
書名・「今昔物語」
原作者・未詳
現代本・「今昔物語・宇治拾遺物語」  世界文化社 1975年発行
訳者・古山高麗雄

 

 


平中が侍従の君に懸想した話

むかし、兵衛の佐平定文という人がいた。通称を平中といった。
人品賤しからず、容貌風采うるわしく、物腰、話術も優雅であり、当時、第一等の美男子であった。 
それほどの男だから、人妻、娘、まして宮仕えの女房で、 言い寄れない者はいないという。
その頃、本院の大臣で藤原時平という人がいた。
その屋敷に、侍従の君と呼ばれる若い女房がいた。
眉目容姿まことに美しく、心ばえすぐれた女性であった。
平中は、常々、本院の大臣の屋敷に出入りしていて、 この侍従の君の噂を聞いていて、 年来、 心のたけをつくして言い寄ったのだが、ままならぬ。 
侍従の君は、恋文を送っても、返事をくれないのである。


平中は、なんとかして、
あの女のいやらしいところを聞いて、うとましい女だと思う心を持ちたいと思った。
そうだ、と気がついた。
君がいかに才媛であろうとも、おまるに入れる物は、われわれと変わりはない。
それを手に入れて玩弄すれば、銀蔵を感じて、未練も断てるだろう。
そこで、平中は女の童が、侍従のおまるを洗いに行くところをねらって、奪い取ることにしたのである。


すると、年は十七、八で、容姿端麗、薄物で、濃い紅の袴をしどけなく引き上げた女の華が、
香染めの薄物におまるを包んで、赤い色紙に絵をかいた扇で顔を隠して、女の局から出て来たのであった。
平中はそれを見て、しめたと思い、見え隠れにあとをつけて行き、
人のいない所を見すまして、走り寄って、おまるを奪う。
女は、泣いて抵抗したが、容赦なく取り上げて逃げて、人のいない部屋に駆け込んで、掛金を掛けた。

奪ったおまるは、金漆塗りであった。
なんともみごとなおまるで、開けるのがもったいないくらいである。 
中身はともかく、おまるについては、他の人のものより格段に立派である。
開けて幻滅を感じるのが惜しいような 気になって、しばらくはそのまま鑑賞していたが、
いつまでもこうしてはいられないと心を決めて、そっと、蓋を開けてみた。

丁子の香が、ぷんと匂った。
これはどうしたことか。 
平中が、首をひねっておまるをのぞき込むと、淡黄色の 水が半分ほど入っている。 
その中に、親指ぐらいの太さで、長さ二、三寸ほどの黒ずんだ黄色の物が三切れほど、転っている。
これが、女の糞だと思って眺めたが、匂いがよすぎるので、木片で突き刺して、鼻にあてて嗅いで みると、
なんとそれは、馥郁たる黒の香であった。


考え及ばぬにくい仕業であった。並の女ではない。
そう思って、それを見るにつけても平中は、侍従の君とねんごろになりたい心が、またも燃えさかるのであった。 
おまるを引き寄せて、少し、すすってみた。
丁子の香が染みわたっていた。
木片に刺して取り出した物の端を、少し舐めてみた。
苦くもあり、甘くもあり、香ばしさがこの上もない。


なにからなにまで、心の行き届いた女ではないか。
尋常の女ではない。
ああ、なんとかして、思いを遂げたい。
と悶々としているうちに、平中は病気になり、悩みに悩んだあげく死んでしまった。

 


益なきことだ。
女には、やたらに夢中になるものではない。
と、世人は、くさしたということである。 (巻三十第一)

 

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「雨月物語」吉備津の釜  (岡山県吉備津神社)

2024年04月29日 | 旅と文学

吉備津神社の、廻廊の側に「御竈殿」がある。
独立した建物で、湯気が内から外に漏れている。

この湯気は”鳴釜神事”のもので、
釜から沸いた水蒸気で、釜に音が鳴り、それで吉兆を占っている。

戦国時代には、既に「備中の吉備津宮に鳴釜」があると有名だったそうだ。
令和時代の今日も、毎日この神事は行われ、神の祈祷・信託を受ける人が絶えない。


上田秋成は、この神事を素材にした「雨月物語 巻之三 吉備津の釜」を残している。

 

旅の場所・岡山県岡山市北区吉備津「吉備津神社」
旅の日・2019年8月13日 
書名・雨月物語
原作者・上田秋成
現代訳・「雨月物語・春雨物語」神保・棚橋共著 現代教養文庫 1980年発行

 

 

 


吉備の国賀夜部庭瀬の郷(岡山市庭瀬)に、井沢庄太夫という者があった。
春に耕し、秋に刈り入れて、家豊かに暮らしていた。
ひとり子の正太郎という者は、家業の農業を嫌うあまり、酒に乱れ、女色に耽って、父の躾を守ろうとしなかった。
両親がこの行状を敷いて、ひそかに相談し、
「ああ、どうにかして、良家の美しい娘を嫁としてあてがってやりたい。
そうすれば正太郎の身持ちも自然とおさまるだろうから」と、広く国中を探していると、さいわい仲人になる人がいて、
「吉備津の宮(岡山市吉備津神社)の神主香央造酒の娘は、生まれつき美しく、両親にもよく仕え、その上歌をよく詠み、琴にもすぐれています。
庄太夫はたいそう喜び、「よくぞ言ってくださった。この縁組は、わが家にとっては家運長久のめでたいことです」
まもなく結納を充分に整えて送り届け、吉日を選んで婚をあげることとなった。

 

さらに幸運を神に祈るために、巫女や裾部(下級の神職)を召し集めて、御釜をした。
そもそもこの吉備津の社に参詣祈願する人は、多くの供物を捧げ、御釜祓の湯を奉り、吉兆か凶兆かを占うのである。
巫女の祝詞が終わり、御釜の湯が湧きたぎると、吉兆の場合は釜は牛の吼えるように鳴り、凶兆ならば釜は物音ひとつ立たない。
これを「吉備津の御釜」というのである。
ところが、香央の家の婚儀については、かすかな音もしない。
娘は婿君の美男ぶりをうすうす聞いて、嫁入りの日を指折り数えて待ちかねていた。
婚儀はとどこおりなく行なわれ、「鶴の千歳、亀の万代まで」と、めでたく歌い、祝ったのであった。


磯良は、井沢の家に嫁いでから、朝は早く起き、夜は遅く寝て、いつも舅姑の側 を離れずに仕え、
夫の気性をよく心得て、誠意を以て仕えたので、井沢夫婦は磯良の孝行と貞節を気に入って喜びを隠さず、 
正太郎も磯良の気持を嬉しく思って、むつまじい夫婦仲であった。 
しかし、生まれついての色好みの本性はどうにも仕方のないものである。
いつの頃からか、鞆の港(広島県福山市鞆、古くから瀬戸内海の要港)の袖という遊女と深く馴染んで、
ついに身受して、 近くの里に妾宅を構え、そこに泊り込んでわが家に帰らない。
庄太夫は磯良のひたすらな献身を見るに見かねて、正太郎をはげしく叱責し、一室に監禁してしまった。

 

 

 

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「雨月物語」白峯  (香川県白峯寺)

2024年04月29日 | 旅と文学

本州と四国が一番接近しているのが、児島半島の岡山県児島・玉野ふきんと、香川県坂出市の五色台。
五色台とは紅峯・黄峯・青峯・黒峯・白峯の五つの山の総称。
玉野市渋川海水浴場からは、眼前に台地状の400~500mの山々が見える。

修業の旅をつづけていた西行法師は、1168年の秋、その渋川から讃岐の白峯の麓に渡ったと伝えられる。
白峯は、上田秋成の「雨月物語」の冒頭の物語として有名。
四国88ヶ所霊場81番白峯寺には、第75代天皇・崇徳天皇のお墓があり、参道は西行の道として整備されている。

 

 

 

旅の場所・香川県坂出市青海町「白峯寺」(しろみねじ)
旅の日・2009.10.25 
書名・雨月物語
原作者・上田秋成
現代訳・「雨月物語・春雨物語」神保・棚橋共著 現代教養文庫 1980年発行

 


雨月物語 卷之一

白峯

逢坂の関の番士に通行を許され、東国への道をとってから、秋山の紅葉の美しさを見捨てがたく、そのまま旅を続けて、浜千鳥が足跡を砂につけ て群れ遊ぶ鳴海潟、富士山の雄大な噴煙、山麓の浮島が原、清見が関、大磯小磯の風光を賞し、さらに紫草の咲き匂う武蔵野から、塩釜の海のお だやかな朝景色、象潟の漁師の鄙びた住居、佐野の舟橋、木曽谷の桟橋など、ひとつとして心のひかれぬところはなかったが、なお 西国の歌枕を見たいと思って、西行は仁安三年の秋には、芦の花散る難波を過ぎ、須磨・明石の浦吹く風を身にしみじみと感じながら、歩みを重ねて讃岐の真尾坂の林という所にしばらく滞在することにした。
長旅の疲れを休めるためでなく、仏法を思念し修行するため、草庵にこもったのであった。

 

 

 

この里に近い白峰という所に、崇徳上皇の御陵があると聞いて、拝み申しあげようと、十月初旬の頃、その山に登った。
松や柏が薄暗いまでに茂りあい、白雲のたなびく晴天の日でさえも、小雨がそぼ降っているように思われる。
児が嶽という険しい峰が背後に聳え立ち、深い谷底から雲や霧が這い上るので、目の前さえはっきりしない不安な気持になる。

日が沈んだので、深い山の夜のありさまは、ただごとでない不気味さで、坐っている石の床も、降りかかる木の葉の夜具もたいそう寒く、身も心も冷え冷えと澄みとおる気がして、自然と、何とはなしに物凄い気持がしてくる。
月は出たが、茂った木立の間は月光も洩れて来ないので、文日もわからぬ闇の中にいて心憂く、
眠るともなくうとうとしている時に、「円位、円位」と、西行の法名を呼ぶ声がする。
眼をあけて、闇の中を透かして見ると、背が高く、痩せおとろえた異形の人が、
顔のようす、着物の色や模様もはっきり見えないで、こちらを向いて立っている。
西行はもとより悟道の僧であるから、恐ろしいとも思わず「ここに来たのは誰か」と答える。
仏縁に帰依なさる御心になられるよう、お勧め申しあげた。

よしや君 昔の玉の床とても かからんのちは 何にかはせん

この言葉をお聞きになって、お気に入ったようであった。
お顔つきも穏やかになり、陰火もしだ いに薄らいでゆくにつれて、ついにお姿もかき消したように見えなくなった。
怪鳥もどこにいったのか、姿もなく、十日あまりの月は峰に沈んで、木の下闇の文目もわかぬ暗さに、西行は夢路をさまようような気持であった。
まもなく明けゆく空に、朝鳥が声さわやかに鳴きはじめた。

 

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「半七捕物帳」川越次郎兵衛   (埼玉県川越) 

2024年04月28日 | 旅と文学

岡本綺堂の「半七捕物帳」のファンで、光文社から発行されている全集を持っている。
ストーリーが面白く、江戸時代の江戸の町の描写が興味深い。


「川越次郎兵衛」では、巻頭で川越までのアクセスを書いている。
江戸時代は人も物資も舟便の利用が多かったが、
小説では陸便が圧倒的に多い。
「川越」は町の名のとおり、湊町として発展・繁栄していた様子を半七老人が語っている。

 

旅の場所・埼玉県川越市幸町・川越商家”重伝建地区” 
旅の日・2022.7.13
書名・「半七捕物帳」川越次郎兵衛   
著者・岡本綺堂
発行・光文社 昭和61年発行

 

 

 

「半七捕物帳」川越次郎兵衛

四月の日曜と祭日、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。
それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。

「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあります。 今はどんなに変りましたかね。
御承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守十七万石の城下で、昔からなかなか繁昌の町でした。
おなじ武州の内でも江戸からは相当に離れていて、たしか十三里と覚えていますが、薩摩芋でお馴染があるばかりでなく、
江戸との交通は頗る頻繁土地で、武州川越といえば女子供でも其の名を知っている位でした。

あなたはどういう道順でお出でになりました......。
ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢入間川を通って......。
成程、陸を行くとそういう事になりましょうね。

江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。
浅草の花川戸から船に乗って、墨田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ着く。
それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりは遙かに便利で、足弱の女や子供でも殆ど寝ながら行かれるというわけです。
そんな関係からでしょうか、
江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。
例の黒船一件で、今にも江戸で軍が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。 

 

 

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燃えよ剣  (北海道函館市)

2024年04月28日 | 旅と文学

小説や映画やテレビや漫画に出る新選組はかっこいいが、
実態は組織の内部粛清に力点がおかれた、ならずもの集団のような意味合いを感じる。

新選組副隊長だった土方歳三は、司馬遼太郎によって
「どかた」さんから「ひじかた」さんと認知され
彼は彼なりに時代と大義と殉じた人間として、再評価されている。

 

 

旅の場所・北海道函館市五稜郭町・五稜郭 
旅の日・2017年7月29日  
書名・燃えよ剣
著者・司馬遼太郎
発行・新潮文庫  昭和47年

 

 

 


五稜郭

歳三は函館政府軍における唯一の常勝将軍であった。
この男がわずか一個大隊でまもっていた二股のは、十数日にわたって微塵もゆるがず、
押しよせる官軍がことごとく撃退された。
歳三の生涯でもっとも楽しい期間の一つだったろう。
兵も、この喧嘩師の下で嬉々として働いた。

 


歳三は、死んだ。
それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。
総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただひとりであった。

八人の閣僚のうち、四人まではのち赦免されて新政府に仕えている。 
榎本武揚、荒井郁之助、大鳥圭介、永井尚志 (頭)。


碑が同市浄土宗称名寺に鴻池の手代友次郎の手で建てられた。
金は全市の商家から献金された。
理由は、たった一つ、歳三が妙な「善行」を函館に残したことである。
五稜郭末期のころ、大鳥の提案で函館町民から戦費を献金させようとした。
「焼け石に水」と、歳三は反対した。
「五稜郭が亡びてもこの町は残る。一銭でも借りあげれば、暴虐の府だったという印象は後世まで消えまい」
そのひとことで、沙汰やみになった。

 

 

 

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尋三の春      (岡山県笠岡市)

2024年04月27日 | 旅と文学

小三の春
古城山への遠足は、笠岡周辺の小学校にとって定番中の定番の場所だった。
管理人は城見小学校の、小三の遠足で古城山に行った。

城見小学校の校門を出て、当時の国道二号線を歩いて笠岡に行った。
約10キロ足らずの距離。

途中、吉浜や金浦では遠足の列が来るのを待っている家があった。
生徒の親類の家で、おばあさんかおばさんが立っていた。
そして生徒に菓子袋を渡した。
遠足の持物はお菓子は一つと決まっていたが、その子たちは二つになる。
それがうらやましかった。

城山に登れば、お猿さんがいて楽しかった。
織の中で飛んだり、跳ねたり、食べたり、の姿がたまらなく面白かった。
かかれないようにエサをやるのも面白かった。

帰り道はバスだった。貸切りの井笠バスに乗って小学校まで帰った。
バスの運転手さんは飛ばした。
古城山から城見小学校まで、信号はひとつもなかった。
山陽本線の踏切が二つ、吉浜と大冝のチンチン踏切以外は、猛スピード。
貸切りなのでバス停は素通り。
道路にスピード制限はなかった。
バスは見たこともない速さで飛ばした。
生徒たちは大喜びした。
そして翌日、学校に行き
そこでまた「昨日のバスは、よう飛ばしたなあ」
と二度楽しんだ。


捷平さんたちは、海を見てびっくりしているが、
自分たちは小二の時の遠足で”芦田川”にびっくりした。
びっくりぎょうてんした。
こんな大きな川が日本に、福山にあったのか!
城見地区にはジャンプすれば越えられる幅の川しかなかった。


なお、弁当は管理人の時代は「巻きずし」と「きつね寿司(こんこん寿司)の二本立てが決まりだった。
遠足の「こずかい」は、修学旅行以外はなかった。
それは小学校・中学校・高校とも同じだった。

 

 

旅の場所・岡山県笠岡市笠岡「古城山公園」
旅の日・2024.4.10
書名・尋三の春
著者・木山捷平
発行・「耳学問・尋三の春」小学館 2023年発行

 

詰襟服の毬栗頭の新しい先生は、号令台の上に飛び上って挨拶をはじめた。
「僕が只今紹介されました大倉です。 苗字は大倉ですが、家には大きい倉も小さい倉もありはしません。
家が貧乏だったもんで、麦飯ばかり食っ大きくなり、師範学校へ行ったんです。
年は二十二で家内はありません。どうぞ皆さん仲よくして下さい」
と、これだけ言うとぴょこんと頭を下げて号令台を飛び降りた。
生徒達の間から一度にどっとどよめきが起った。
私達はこんな新任の挨拶は初めてだったからである。

そのうち四月が過ぎて五月になり、一年一度の遠足の日が来た。
三年生の遠足は毎年笠岡にきまっていた。
笠岡というのは村から二里ばかりの内海に面した小さな城下町である。
今でこそ米を売りに行ったり、肥料や日用品を買いに行ったり、つい隣のように思っているが、
私はその年になるまで町を知らなかった。
今では軽便鉄道も出来たし、自転車という便利なものも普及したからそんなことはないが、
その頃の私達には一つの夢の国であったと言っても過言でない。

私達は一張羅の着物の上に握飯の弁当を背負い、紙緒の藁草履をはいて、朝早く大倉先生に連れられて学校を出発した。 
たんぽぽの咲いた県道を白い埃にまみれながら笠岡に着いたのは昼前頃であった。
先生は所々で私達を道の傍に佇立させて、
「あれが商業学校」「あれが郡役所」「これは裁判所といって悪いことをした者を裁判する所」と説明したが、
私達はそれよりも初めて見る町の店の軒先の品物や広告などを右顧左しながら歩いた。
物珍しいものがどの店の先にもずらりと並んでいた。
「先生!まだ弁当は食わんのですか」
「うん、よし、ちょっと待て。 城山へ上って海を見い見い食おう」

町を横切ると、私達の前に小高いがっていた。それが城山であった。
うねうねと曲った、赤土道を私達は登って行った。 

 

丁度の中ほどまでのぼった時、万歳!万歳!という歓呼の声が舞い上った。
松の木の間から、五月の空の下に遠くひろがった紺碧の海が見え出したのである。
私はこの時、生れてはじめて海を見た。
大きいのにびっくりした。
私達は声を張り上げて、万歳!万歳!と咽喉のつぶれてしまうまで絶叫した。

 

 

すると、大倉先生はみんなに言ってきかせた。
「この海はな、瀬戸内海と言うて日本で一番小さい海なんじゃ。まあ一口に言や、海の子供じゃ。 太平洋というのや、印度洋というのは、この何千倍何万倍あるか分らん程じゃ」
私達はもう一度びっくりして、先生に思い思いの奇問を発した。
「そんなら先生、その大きな印度洋と富士山とはどっちが大けえですか?」
「日本とはどっちが大けえですか?」
「ロシヤとはどっちが大けえですか?」
「そんならその海には鯨は何万疋おるんですか?」
それで私も知恵をしぼってきいて見た。
「そんなら先生、そんな大けな海は誰のもんなんですか?」

 

城山の頂上まで登りきると、そこの広場で海を見ながら背中の握飯を開いた。

山本医院の春美だけが一人巻鮨を持って来ているのが人目をひいた。

大倉先生は矢張り握飯で、私達と一緒に並んで頬張りはじめた。

・・・

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坊ちゃん     (愛媛県ターナー島)

2024年04月25日 | 旅と文学

愛媛県の松山沖に大小の島々が浮かび、それを中島諸島と呼んでいる。
その中島諸島の興居島(ごごしま)は、
いちばん松山から近い島で三津浜港の目の前にある。
興居島は今、ミカンや船踊りで有名だが、伊予富士という名山でも知られる。

フェリーで興居島に向かうと、「あれがターナー島か」
とすぐに気づくほどに、たしかに名画を思い浮かばせる無人島がある。

 

旅の場所・愛媛県松山市興居島
旅の日・2011.7.14
書名・坊ちゃん
著者・夏目漱石
発行・集英社文庫 1991年

 

君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。
赤シャツは気味の悪るいように優しい声を出す男である。
まるで男だか女だか分りゃしない。
男なら男らしい声を出すもんだ。

 

向う側を見ると青嶋が浮いている。 
よく見ると石と松ばかりだ。
赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと言ってる。
野だは絶景でげすと言ってる。
絶景だか何だか知らないが、いい心持には相違ない。
ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。

「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」
と赤シャツが野だに言うと、野だは「まったくターナーですね。
どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。
ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。

舟は島を右に見てぐるりと廻った。
波はまったくない。
赤シャツのお蔭ではなはだ愉快だ。
すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかとよけいな発議をした。
赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれかそう言おうと賛成した。
この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑だ。
おれには青鳴でたくさんだ。

 

 

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坊ちゃん     (愛媛県道後温泉)

2024年04月25日 | 旅と文学

広島県に行けば(備後よりも特に安芸)、みんな生まれながらの広島カープファンで、
カープの悪口は滅多なことでは言えない。
鹿児島県に行けば、みんな♪西郷隆盛おいらの兄貴、で西郷どんの悪口はご法度。
そして、愛媛県の松山に行けば「坊ちゃん」を市民みんな愛している。
松山は「坊ちゃんの町」で、お城も温泉も、坊ちゃんとのからみを抜きには語れない。

だが作者の漱石先生は、坊ちゃんほどに愛されていない。
なぜなら、物語では温泉以外は見るほどのものはないといいきっている。
無理もない。

 

旅の場所・愛媛県松山市道後温泉
旅の日・2022年5月18日
書名・坊ちゃん
著者・夏目漱石
発行・集英社文庫 1991年

 

「乗り込んでみるとマッチ箱の様な汽車だ。
ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。
道理で切符が安いと思った。
たった三銭である。」

(坊ちゃん)

 

四日目の晩に住田という所へ行って団子を食った。
この住田という所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩行いて三十分で行かれる、
料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。
おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。
今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、 一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。
実際おれは二皿食って七銭払った。
どうも厄介な奴らだ。

 


二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。
あきれ返った奴らだ。
団子がそれで済んだと思ったら今度は
赤手拭というのが評判になった。
何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。
おれは ここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事にきめている。
ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。
せっかく来たものだから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出かける。
行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。
この手拭がちょっと見ると紅色に見える。
おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。

 

 

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~やわらかに柳青める北上の~ (岩手県渋谷村)

2024年04月23日 | 旅と文学

岩手県の「渋谷村」という地名は、石川啄木によって今でも日本有数の有名な村名のように思う。
現在は県都・盛岡市の市域になっている。


渋谷村に行くと、
かにかくに渋民村は恋しかり  おもひでの山 おもひでの川  啄木
ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな  啄木
などの看板が目につく。
だが、やはりこの歌がいい

やわらかに柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに  啄木


この歌は、映画【北上夜曲】と名曲【北上夜曲】とも一体化している。
〽匂い優しい 白百合の
濡れているよな あの瞳 
想い出すのは想い出すのは
北上河原の 月の夜 

 

 

旅の場所・岩手県盛岡市玉山区渋民 「渋民公園」
旅の日・2018年6月30日
書名・「一握の砂」
著者・石川啄木
発行・「石川啄木」 石川啄木 筑摩書房 1992年発行

 

この日の北上川。
岩手山は山頂が雲に隠れてしまった。

渋民公園は観光客を目的にしたような公園と思うが、少し錆びれた感じがした。

 

石川啄木は歌人としては天才だろうが、

気難しい人だったのだろう。


「岩手県の歴史」山川出版より転記する。


石川啄木は渋民村に明治19年2月に生まれ、上京し、文学に志したが病をえてはたさず、帰盛して詩活動に従う。
収入は一文もなく、盛岡に新居をかまえた。
明治39年
渋民村の代用教員をつとめた。
明治40年
校長排除のストライキを指導し免職となり、一家離散。
妹をつれて北海道函館にて小学校の代用教員となり、その後転々と北海道の新聞社を歩き、上京の志おさえがたく
明治41年上京し
明治42年朝日新聞社に入社。
明治43年
「一握の砂」を発刊した。

 

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悪霊島  (岡山県・備中神楽)

2024年04月22日 | 旅と文学

金田一耕助さんが大活躍する映画は多いが、
「KADOKAWA映画」が特によく知られている。


「獄門島」は、笠岡沖がモデルで映画も笠岡沖の六島で行われた。大原麗子が六島に来た。

似たような題名で、「悪霊島」がある。
鵺(ぬえ)の鳴く夜は恐ろしい!
「悪霊島」は、鷲羽山沖がモデルで、主役は鹿賀丈史(金田一耕助)。
笠岡市西ノ浜を歩くシーンが映画に登場する。


小説でも映画でも、重要な役目で神楽の一行が登場する。
作者・横溝正史は、備中神楽のことをよく調べて物語に組み込んでいる。

 

 

旅の場所・岡山県井原市青野町「葡萄浪漫大神楽」
旅の日・2024.4.14
書名・「悪霊島」
著者・横溝正史
発行・角川文庫 昭和56年

 


「悪霊島」 横溝正史 角川文庫  昭和56年発行


第十一章 神楽太夫

このへんの神楽はいつか三津木五郎もいっていたとおり、備中神楽とよばれている。 
岡山県にはそうとうたくさんの神楽の社があるらしいが、こんど島へ招かれてきたのは、
後月郡井原市近在の部落のもので、社長を四郎兵衛とよび年齢は七十四歳であるという。 
以下としの順に名前を挙げると、平作、徳右衛門、嘉六弥之助、誠、勇となっており、誠は二十五歳、勇は二十三歳、ふたりは兄弟で、ともに四郎兵衛の孫である。
姓は全部妹尾で、聞くところによると、かれらの住んでいる部落では全戸妹尾を名乗っているのだそうな。
神楽太夫といっても、かれらは神楽を舞うことをもって正業としているわけではなく、 
ふだんはふつうの農民とおなじように、郷里の村で農耕に従事しているのである。
それが祭りの秋ともなれば羽織袴とかたちを改め、あちらの村、こちらの部落とまわって歩くのである。


だから毎年秋の祭りの季節ともなれば、かれらは目のまわるような忙しさであった。
毎日どこかの村で祭りがある。どうかするとおなじ日に二か村の祭りがかち合うことも少なくなく、
あちこちからの引っ張りだこで、二里三里離れた村をかけもちすることも珍しくない。
現代ではトラックというものがあるから、昔にくらべればよほど楽になったが、
以前は神楽太夫の一行があちらの部落から、こちらの部落へと葛籠を乗せた荷車を人足にひかせて移動して歩く姿が、
岡山県の秋の風物詩になっていたという。
神楽そのものがそうとう激しい労働であるうえに、このかけもちがひどいから、体の弱いものには務まらない。

 

 

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