しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

吉田小学校  (金次郎像その5)

2015年01月30日 | 昭和21年~25年
吉田小に学校沿革史があり(残り)、その記述があるので転用する。
当時・吉田小には本校と分校があり、分校の像建立は省略した。

なお、注記にあるように城見小の場合
校庭の目立つ場所に忠魂碑が建つのは珍しいと言えそうだ。




以下全文、
”岡山県における二宮金次郎像の実態調査 森元辰昭”借用

吉田村小学校沿革史
昭和16年2月29日 徳山斧衛氏二宮尊徳銅像寄贈建立する。
昭和17年2月 大東亜戦争の為め二宮尊徳像応召 陶像を以って之に替える。
昭和18年12月27日 梶田多賀一氏和気清麻呂陶像一基寄贈。(昭和20年1月30日破棄)←管理者記・破棄の時期に疑問がある。
昭和21年1月1日 奉安殿御聖影奉還式。
昭和21年1月11日 御真影奉還
昭和21年6月1日 勅語謄本返却
管理者記・奉安殿自体の破却時期は不明。

注記
御真影は昭和20~21年に奉還、
勅語は昭和23年6月国会で失効決議された。岡山県内では昭和21年1月に地方事務所へ返還した事例が多くみられる。

忠魂碑は在郷軍人会が設置したもので、現在では学校敷地内から切り離している。
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尊徳先生とお別れ (金次郎像その4)

2015年01月30日 | 昭和21年~25年
山陽新聞の前身、合同新聞の記事。
新聞社が戦争体制を支え、加担した一端が読み取れる。


以下全文、
”岡山県における二宮金次郎像の実態調査 森元辰昭”借用



昭和16年10月29日合同新聞
尊徳先生とお別れ
銅像供出の「金次郎像」阿哲郡新見町思誠国民学校



わが国を挙って一億一心”勝たねばならぬ戦ひ”のために臨戦体制は一層強化されつつある。

視よ、
ここに1500の学童たちから日々”僕たちの二宮金次郎先生”と親しみ懐かしまれ、
無言のうちに教訓を説く尊徳二宮金次郎先生の銅像も金属動員令に率先して勇躍応召することになったのである。

純真と崇拝のこころをもって”僕らの金次郎先生”と仰ぎ、
つねに敬服と感謝の念を捧げてきたものだけに、この度の意義深い献納は、より深い時局への認識と強い感動を学童の胸に与えるものがある。

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「勤倹力行」 (金次郎像その3)

2015年01月30日 | 昭和21年~25年
以下全文、
”岡山県における二宮金次郎像の実態調査 森元辰昭”借用。



陶像の普及

当初は銅像、石像が多かった。
備前焼は紀元2600年ごろから写真をまきセールスしていった。
昭和16年金属回収令以降により銅像が供出された跡に設置する場合も多かった。


「勤倹力行」

斉藤実内閣の誕生(昭和7年)によって「勤倹力行」が叫ばれ、文部大臣鳩山一郎ら12名が賛助会員となって「二宮尊徳先生少年時代之像普及会」が結成され、朝鮮・台湾まで宣伝された。


寄贈者

個人・団体、
成功体験者、戦死者遺族、地元有力者、卒業生(青年団等)、その他(表彰金など)


台座文字

台座には尊徳先生の言葉を書いて児童生徒に啓発しようとした。
わかりやすく、実行可能なものが強調された。
「至誠勤労」
「報徳」
「至誠」
「至誠報徳」
「勤倹力行」
その他
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現存調査 (金次郎像その2)

2015年01月30日 | 昭和21年~25年
小学校の金次郎像について、
”岡山県における二宮金次郎像の実態調査 森元辰昭”という本を図書館から貸出した。たいへん参考になったので書き写した。
以下全文借用。


「負薪読書図」は幸田露伴が「報徳記」で普及させた。
国定教科書の修身で掲載され児童は少年時代の金次郎を学んだ。
昭和3年御大典記念名古屋博に石像の金次郎像が出品好評を博す。

平成20年8月、教育委員会経由で422校アンケート調査した。
結果、307校から回答有、174校に現存。

平成21・22年に現地調査を行う。対象は先のアンケート校および昭和12年の「岡山県教育史」掲載の尋常小・尋常高小で421校。

その結果、
280体が現存し、

備前焼・・232校、
石像・・29校、
セメント・・7校
青銅・・4校
木像・・2校
台座のみ・・6校

遺漏があり、推定では300体が現存(54%)すると思われる。

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笠岡高等女学校同窓会--昭和18年入学--

2015年01月23日 | 昭和16年~19年
今日の山陽新聞”集い”欄に、16名前後の83.84才の女性、辻与旅館での同窓会写真が載っている。
集い欄には同窓会の掲載が群を抜いて多いが、どれも「--昭和○○年卒業--」と、3月に卒業した年を記載している。

昭和18年4月に入学した人たちは、
(戦後の生活難で)卒業ができなかった人が多いのだろうか?
終戦により家を転居による転校者、または転入による新規入学者が多いのだろうか?
(男性の場合だが、昭和16年中学入学叔父の例・入学当時は5年制で卒業時は4年制、志願兵で1年半休学、「同窓会は入学した時」に出席している)

空前の大混乱期に、食べること・着ること・住む事、で精一杯の生徒が多数で「青春期」無縁の人たち。

今集まって、当時を振り返りどんな話をしたのだろう。すこし気になる。
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小学校の金次郎像

2015年01月21日 | 昭和21年~25年

小学校の「金次郎像」が問題になったのは、
歩きながら本を読むと視力低下だ
交通事故になる
という的外れの指摘をする親がいて、それを受けいれた学校があり新聞沙汰になった位。それも10年か20年前のことだ。

戦前の小学校の校庭には必ずのように「二宮金次郎像」があった。

像は銅製・焼物・コンクリート・石造からできていて、
銅製は戦争中に金属類供出、大砲等に変わっていった。
終戦時の混乱で過剰反応により、学校から撤去を命じられた。

この時点(昭和20年末~21年初め)で日本の小学校から金次郎像は無くなったと思える。

何故なら、
同時に命じられた奉安殿が残る学校は皆無に近い。
更に言えば、天皇家を守った和気清麻呂像も学校から消えている。


では今学校にある金次郎像は、
すべてが戦後に建立されたものだろうか?そうとも思えない。

戦後の教科から終身は消え、
教科書に載ることも稀な金次郎が、何故今でも多くの学校にあるのだろう?


(現在笠岡市内に11像が建つ、学校のほぼ半数)



兼ねての疑問が消えるだろうか?と、

1月18日、福山県立博物館で「二宮金次郎像と青い目の人形」というテーマの文化歴史サロントークがあり出席した。


会場は思いのほかに参加数が多く・・・20~30人位、マニア的な人が参集するかな?と予想していた・・・50~60人、追加のイスが持ち込まれた。

受付で小雑誌とも言えるような資料をもらった。
資料等とともに講座は始まった。

サロントークは2時から4時まで2時間あった。

修了前に2名の方が発言を求め、

1名は、戦前と戦後の金次郎像は建立の目的が全く違うことの質問であり
もう1名は、西日本の多くの学校訪問によるレポート報告は貴重である、というお礼の発言だった。

この2名の発言氏にまったくの同感であった。
つまり、
望んでいた疑問の解決はほとんど無かった。
しかし
足で見聞きした多数の実地・実物報告は貴重なヒントや資料となった。

母校に金次郎像はあった。
しかし見たことはないし、再建もされてない。

その像は何時できて、いつ、どの理由で無くなったのか?
金次郎さんの像への興味も疑問も消えない。



(このページ記述はHP笠岡を走りまくると重なります)

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