しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

”産めよ殖やせよ国のため・外伝” 「4年間一睡もできなかった」、女(ひと) 

2023年05月31日 | 昭和16年~19年

広島県甲奴郡上下町に3ヶ月ほど住んだことがある。
おばあさんが一人暮らしで、昔はご主人と二人で商売をしていたそうで、その家は街道沿いの大きな元商家だった。

おばあさんには男ばかし、4人の子がいるそうで、子育て時代の話が記憶に強く残っている。

「(昭和15年前後ごろ)
結婚して最初の子が生まれた、
翌年次男が生まれた、
その翌年三男が生まれた、
そのまた翌年四男が生まれた。
4年連続して子を産んだ。
出産と子育てで、一睡も満足にできなかった。

それを見たある人が、『世の中には、こうゆうもんがある』と衛生サックがあることを教えてくれた。
それからは、それを使い、子供も産むのを止めた」






・・・・

この話をのち母にしたら「サックのことは知っていた」。

・・・・

おばあさんの話を聞いてから、30年ほど経った。
今でも自分の周りの人や話で4年連続して出産した人は聞いたことがない。
3年連続の人もいない。
おばあさんが言っていたように子育て時代は、毎日がてんてこまいの4年間だっただろうな。
それにしてもご主人までもコンドームのことを知らなかったのも、ちょっと珍しい。


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「トトミチ」の仲仕歌

2023年05月31日 | 民謡

「とと道」というのは、吹屋が鉱山で栄えていた頃、
瀬戸内の漁港から、鮮魚を、籠に背負って(天秤棒で担いだという説もある)、夜通し走りリレー方式で翌朝、吹屋に届けた道。
詳細は不明だが、近年埋もれた道探しで報道されることがある。

・・・


「美星町史 通説編」 美星町 昭和51年発行

「トトミチ」の仲仕歌

魚仲仕というのは、 
漁港から消費地の問屋へ魚介類をかついで運んだ人たちの俗称である。
この仲仕が魚介類の産地である西浜、尾道、鞆、笠岡、下津井方面と
消費地である成羽、吹屋、新見、高梁方面の問屋との間を中継ぎで交替しながら品物を運送していたのである。
三山は、この仲仕の通る道筋にあり、しかも生産地と消費地の中間に位置していた。

この仲仕の仕事は吹屋銅山の盛衰と比例してさかえたり、おとろえたりといわれている。
明治後期には中継ぎ場には20~30人の仲仕が出入りしていた。
細い急坂をオウコ一つに魚をかついで行き来していたのである。

仲仕の日当賃金は一般の五倍以上の賃金であったといわれる。
中継場の仲仕問屋には仲仕が寝泊まりしており、
寝ていて荷の来るのを待っている者と、早く起きて荷を取りに行く者が、くじ引きで分けて仕事をしていた。

笠岡を夜の9時に出発し、夜道を通して歩きつづけ、夜明けの四時半ごろ宇戸谷に着いていたので、威勢のいい五~六人の魚仲士たちの歌が聞こえたものである。
秋の収穫後の稼ぎ仕事としてやることが多かった。
朝の九時に吹屋の町の問屋へ着く。
さらに新見には夕方の六時ごろには到着していたのである。

仲仕が運ぶ一荷の重さは、十貫から十二貫位で鮪が大なら4本、中なら6本と、ほぼ決まっていたようである。
この魚仲仕の仕事も大正末期までで姿を消した。
それは伯備線の開通で、運搬の役が終わったからである。

・・・

仲仕歌

一、
魚仲仕はどこがようてほれた
尻の振りよろしく足軽さよ ヨーホー ヨイヨー
二、
足も軽いが お尻も黒い 
お鍋のお尻が 顔負けだ ヨーホー ヨイヨー
三、
抱いて寝ようとすりゃ くるりとまわる
娘心が まだうせぬ ヨーホー ヨイヨー
四、
娘心は うせてはおるが
私しゃ お前のかかじゃない ヨーホー ヨイヨー

 

・・・

(西浜=ようすな=笠岡市金浦)

 

 

・・・

「真備町史」

トト道に関して

 

櫛田の繁栄
大正頃、松山街道は魚売りが肩に天秤棒をかついで玉島から高梁に向けて夜中にここを通過、何十人も通るにぎやかさ。
古人は肩の力と足の力とは今日の想像以上である。
もちろん玉島から櫛田に多くの魚も来た。
当時明治・大正にかけて飲み屋や旅館が軒を並べた。

・・・・


「成羽町史」

トト道


生活に必要な日用雑貨品は、玉島から高瀬舟で運ばれていた。
この川船往来とは別に、海魚が笠岡方面から吹屋へ運ばれた。
かつて古老に聞いた話であるが、足自慢の若者が、夜半に笠岡を出て、宇土谷を経て、保木の坂から成羽へ駆け抜けた。
成羽で引き継がれた魚は、羽山街道を上って吹屋へ運ばれたという。
山の中の吹屋での最高のご馳走は海の魚、いわゆる「トト」であった。
したがって、吹屋へのこの道を「トト道」といった。
繁栄を極めた吹屋銅山の往時が偲ばれる。

 

・・・

(吹屋)

・・・

 

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「福山ばら祭2023」に行く

2023年05月29日 | 令和元年~

4年ぶりのパレードがあるというので、ばら祭を見にいった。
場所・広島県福山市中心部
行った日・2023年5月28日

 

福山駅北口スクエアのバラ。

 

 

「福山大道芸」、

福山中心部12ヶ所でパフォーマンス。ばら祭の目玉のひとつ。

 

 

 

中央公園。

 

 

 

 

メイン会場の「緑町公園」。

これは、「ぶちうま広場」。ぶち美味い店には長い列。

 

 

戦後、福山市にバラが生まれた地、「福山ばら公園」。

 

 

そして”4年ぶり復活”した「ローズパレード」。

 

最初曇りだった、

晴れればいいなと思っていたが、晴れたら暑くて倒れそうだった。

 

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明治の人はなぜ、桃を食べ始めたのだろう?

2023年05月28日 | 食べもの

万葉集の時代から”桃”が出るけど、それは”桃の花”。
日本人はいつから桃を食べだしたのろう。

その理由は、
明治の中頃、
大きくて、甘い、新しい品種の桃が発見されたから。

茂平の桃農家に生まれた管理人には、
先人の努力に感謝の思いがあふれる。

 

(茂平の桃畑)

 

・・・・

「桃」 有岡利幸 法政大学出版2012年発行によれば、

 

桃は

中国から入り、「中国以前はモモと呼ばれているのはヤマモモ」。

 

中国文化も入り、

陶淵明「桃花源記」桃源郷、

三月三日・桃の節供、など日本文化になり愛された。

 

なお「安土桃山時代」、伏見の桃山に、桃はなかったそうだ。(江戸時代にほんとの桃山になった)安土伏見時代が正しい?

 

 

・・・・

「桃」 有岡利幸 法政大学出版2012年発行

 

縄文時代に桃が渡来して以降ずっとその果実を、
食用や薬用として利用してきた。
桃の果実は小さくピンポン玉程度の大きさであった。
現在私たちが見るような巨大な果実は、
明治以降改良が行われたもので、近世以前のものとはくらべられない。
別種と考えてもよいほどの違いがある。


梅も桃も、
春の咲く花は美しさを愛でるというよりも、
薬の材料がたくさんできたなあというようにみられ、
そして実を結んだのちには、その実が薬とされた。

 

桃太郎
流れてきた桃は、川上からではあるが、
上流に桃畑があったような気配は伺えない。
そして桃の木を探しにも行ってない。
流れてきた桃は神の授けてくれた桃で、木に生っている桃の実でない。

 

 

明治以降の桃
大きな果実をつける桃

 

明治時代になると、政府は勧業奨励のため、各種の事業に干渉してきたが、
農業も同じ熱心さで保護奨励につとめた。
明治初年に北海道を開拓するため、いわゆる開拓使を置き、
主としてアメリカより各種の果樹を買い入れた。
けれども当時の北海道は山林原野のすがたをとどめた土地であった。

今の新宿御苑に、もっぱらヨーロッパ種の果樹・野菜の種苗を輸入し、栽培して繁殖させ、各地に配布していた。

桃も明治6年、ヨーロッパから7品種、中国から華北系と華中系品種が
導入された。
これらは在来品種に比べて果実が大きく、内質や風味が優れ、とくに中国から導入された上海水密桃と天津水蜜桃が注目された。

桃は明治初期には東京で苗木を養成し、有志の者に配布していた。
明治11年に清国から導入した水蜜桃がはじめて結実した。
明治28年以後に至って、
岡山県では土用水蜜桃、六々園水蜜桃、離核水蜜桃、白桃が発見され、
これらは有望種として各地で栽培されていった。

明治32~33年ごろ、
東京神田の果物店に天津水蜜桃が陳列され、
珍しくて立派な桃として一個十五銭でとぶように売れたという。

岡山県はむかしから桃樹栽培が発達したところで、
明治6年小田郡の渡邊淳一郎がはじめて桃樹の栽培に着手した。
御津郡の山内善男は、果実に袋掛けをしたところ、害虫の被害を免れた。
これにより岡山県下では栽培する者が増加し、年を追うごとに産額が増加したのである。
赤磐郡の大久保重五郎は「白桃」を発見、
白桃の育成は、わが国の桃栽培の歴史における品種革命といっても差支えないであろう。
大久保は離核化のため大正末期に「大久保」を育種交配した。

 

・・・


桃の分類
果実の形状、色、肉質、離核等。
極早生、早生、中生(なかて)、晩生(おくて)。
生食用と加工用。

・・・

桃の利用法
生食、缶詰、ジュース、ネクター、乾燥品など。
総生産量の80%以上が生食に利用されている。

・・・

 

「物語・食の文化」 北岡正三郎 中公新書  2011年発行

果物

わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、
キイチゴ(木苺)などだけで、
弥生時代になって、
モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。
縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。

中世以降主食、副食以外の嗜好食品または間食用の食品として、
菓子と同様の位置にあり、江戸時代には水菓子と呼ばれた。

現代ではデザートとしての食事の一部分を占め、菓子とは違った役割をもっている。
古代ローマでは果物は嗜好品ではなく、食膳の重要な食品で、肉、魚、野菜などと同列の扱いであった。

20世紀には果汁の利用がアメリカで盛んになり、缶詰、瓶詰、紙パック詰が大量生産されている。
香水、石鹸、化粧品、芳香剤にアロマが利用される。

 

・・・・

 

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男女共学⑪昭和22年男女共学前夜(笠岡男子国民学校・女子国民学校の場合)

2023年05月27日 | 学制150年

笠岡には明治時代から昭和42年まで、
同じ敷地内に二つの小学校があった。
戦前は男女別の学校で、戦後は東西に区分けして男女共学になった。
男女共学後、両校は競いあい、
田舎の小学校の生徒は、西小や東小には何をとっても勝負にならない、と思っていた。

 

・・・

奉安殿・男子校

 

 

奉安殿・女子校

 

 

大楠公像・男子校

 

楠公母子像・女子校

 

・・・・・

国民学校

昭和16年4月から昭和22年3月まで施行された。
国民学校は、
「皇国の道に則り」、「皇国民の基礎的錬成」を目的とした。
小国民を皇国民に練磨育成する。
従来の「教授学校」から「国民錬成の道場」に替わった。

「教育史」 柴田・斎藤共著 学文社 2005年発行

 

・・

 

 

・・・

 

「岡山教育史」

昭和19年11月7日
「校地の高度利用に関する件」を指示し、
校地を高度に田園化することを至急実施されたいとして、次の事項を命じている。

田園化すべき面積
其の外を田園化する

中学校・青年学校
体操教練に必要なる最低面積
国民学校
初等科総数一人当たり0.8坪、高等科1坪。

観賞植物等は、食料農作物に転換すること。
至急作付けを行うこと。

 

・・・・・・・


「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行


戦時色の一掃


戦後の学校は、軍国主義から民主主義へと180度の方向転換の努力を続けながら、
教育を再開していった。
1945年(昭和20)9月20日文部省は、国防軍備などを強調した教材、
戦意高揚に関する教材などの全部、またはその一部を削除することの通牒を発した。
教科書に墨を塗って使ったのはこのときのことである。
当時、GHQの指令は至上命令であった。
修身・歴史・地理の教科書は焼き捨てられた。
校地内にある御真影・奉安殿・忠霊塔・忠魂碑・和気清麻呂公胸像等の撤去は、
形跡を留めない状態とされた。
御真影はそれぞれ地方事務所を経由して県庁へ奉還し、吉備津神社で焼却した。
教育勅語は、1949年国会で失効が決議され、同年回収された。

 

新しい小学校教育

1947年4月、一連の学校制度の改革が始まった。
国民学校は廃止され、元の小学校に呼び名が改められた。
教育の課程は現場の教師によって自主的に編成されるべきものであって、
文部省の示す「学習指導要領」は参考書にすぎない、という建前をはっきりと打ち出した。


「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行


・・・

(昭和42年)

・・・

 

「笠岡小学校百年史」 笠岡小学校 昭和48年発行

新学制による男女共学の想い出


(昭和22年)
10月1日全児童が運動場に出て、各クラスとも東小から西小、
西小から東小に行く児童、そのまま残る児童と二列に並び、
行進曲でいっせいに講堂の前で同学年の児童がいっしょになるようにして別れていった。
本日をもって実質男女共学となった。
最初どちらも気をつかい、男子は男子だけ女子は女子だけで集まって行動することが多かった。
どちらもライバル意識を持ち勉強、遊びに対抗意識が強かった。
しだいに学校全体の空気が和らいできた。
なかには学校が変わらうのをいやがり住所変更をする児童もいた。

・・・

「笠岡市史第四巻」 笠岡市 平成14年発行

これまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」との意識が一瞬にして覆されて男女がともに机を並べる現実に、
笠岡町立東小学校(旧男子校)と笠岡西小学校(旧女子校)では、
西小から東小へ487名、東小から西小へ503名が移籍することになった。
昭和22年10月1日、東西両校で児童の移籍の為に式典をとりおこない、
相手の学校に送る児童、迎える児童には担任の教師がついて送迎を行った。

これまで見られた男尊女卑の風習が解消され、その名残であった東・西小学校の格差といったものもなくなって、二校が対等、平等に評価されることに変わって、
この二校間は何かにつけ良い意味での競争が始まった。

・・・

 

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男女共学⑩新制中学校

2023年05月27日 | 学制150年

明治20年代生まれの祖父は、中学校のことは終生”新中”(しんちゅう)と呼んでいた。
その時代に生まれた人にとって「中学校」は別世界の人が通うところで、
戦後に出来た新しい「中学校」は、誰も皆が行く学校。
そのギャップが、よほど大きかったのだろう。

 

・・・

「岡山県史第13巻」 岡山県  昭和59年発行

制中学校制度(発足時)

昭和22年。
新制中学校第一学年は、現在の国民学校第六学年を終了する児童を収容し、
第二学年、第三学年は非義務制とし、
国民学校高等科一、二年生および、
青年学校普通科一、二年生などのうち、希望する者を収容するとした。
さらに、男女共学・独立校舎・専任校長などが、新制中学に要求されている。

・・・

「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行
新制中学校の発足
1947年(昭和22)
第一学年だけ実施。
第二学年、第三学年は非義務制で、
国民学校高等科一、二年生および、
青年学校普通科一、二年生のうち、希望する者を収容する。

学校規模は6学級以上20学級以下を標準とする。
通学距離は片道6km程度をもって限度とする。
校舎は独立建築を原則とする。
男女共学制を完全に実施する。

戦後の混乱と生活不安が、人々を取りまいていた当時では、無用の施設としか考えられなかった。
その日その日をいかに生きるかを血眼になって求めていた時代である。

新制中学校の性格
これまでの小学校高等科的感覚か、
旧制中学校的感覚で把握するか。
岡山市では当時の教育課長が
「小学校高等科の延長であるより、中等学校的である」
と中等学校から教師を集めることに主力が注がれている。

教員組織は、
「小学校・青年学校・中等学校からの転勤組と新採用教員とで構成された寄せ集めで
毎日毎日新しくぶつかることばかり」
校長は、多くの苦労があった。

世間は、
「女の子が中学校へ行くそうな」「男女共学じゃそうな」「みんな無試験」「授業料はいらぬそうな」とわいわい騒いだ挙句の果て、
『新中』という半ば侮蔑的な名称をた奉った。
古い中学校の観念しか持ち合わさない人々にとっては、
いろいろな意味において驚くべき存在であったことは間違いない。

・・・

中学校創立当時の苦心

毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一か月、
半数以上そろっていない各教科の教員を集めること、
三か所の小学校と青年学校をまとめる交渉からスタートした。
学校の位置は三か町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず分裂寸前まで追い込まれたこともあった。


・・・

「教育史」  柴田義松・斎藤利彦  学文社 2005年発行

占領軍のとった教育政策

設立趣旨
教育の機会均等化
6.3.3.4制への学校体系
授業料無償
男女平等・共学
住民選挙による教育委員会の設置
社会科の創設などによる「民主教育化」の、基本構想。
こうして1947年(昭和22年)から戦後日本の「新学期」がスタートするのである。

・・・

 

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男女共学⑨青年学校

2023年05月27日 | 学制150年

昭和10年から昭和24年まで、日本の教育制度は幾度と改編された。
昭和10年頃、城見村には「城見尋常高等小学校」を卒業後、進学しないで就労の人たちは「城見青年訓練所」(いわゆる青訓)に通っていた。
この青訓が昭和10年制度化され「城見青年訓練所」となった。昭和14年義務化された。
昭和17年政府は「小規模校を統合」して「独立校」への指示を出した。
なお学校規模は中隊(約240人)訓練が出来ることが目途とされた。
金浦青年学校は国民学校(高等科の意味か?)の校舎と共に昭和17年1月20日落成した。
城見青年学校は昭和10年に改称、昭和17年から独立校である組合立金浦青年学校に統合して消滅。
金浦青年学校は学制改革により消滅して、新制の「金浦中学校」に吸収された。

参考・岡山県史・笠岡市史

 


・・・


「新修倉敷市史6」

青年学校

青年学校は昭和10年の「青年学校令」によってうまれた。
昭和16年には児島・倉敷・玉島の繊維工場に女子青年学校が開設されている。
三菱重工水島航空機製作所も昭和17年、工場建設に先がけて青年学校や寮の建設が行われ、4月開校している。

昭和14年青年学校令は改正され、軍部の強い圧力のもとで所定の学校に在学するものを除いて、年齢満12歳を超えて満19歳までの男子は、
その保護者が就学させる義務をもつことになった。
義務制実施に伴って昭和16年度からつぎつぎと青年学校が開設されたが、翌年からは教員不足の問題もあり、
全国的に統合が進められた。
戦時教育下での青年学校は軍国日本のために、甲種合格が目標とされた。

軍事訓練は陸軍の強い指導で重視された。

 

・・・

「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行
青年学校

青年学校は独立校が少なくて、町村の組合立が多く、
校長は小学校の兼務が普通であった。
昭和16年以後は
「各週概ね2日とし昼間、
自三時至六時三時間を標準とす」
と定められた。
義務制になるとともに就学、出席の督促がきびしくなり、
理由なくして二週間以上欠席した場合は市長が督促し、
さらに出席しないときは県知事、さらには憲兵隊へと報告されたといわれる。
義務制実施に伴って、昭和16年度から各地方につぎつぎと青年学校が設立された。
学校数の増加に伴い、最も大きな問題は教員の不足ということであった。

・・・

「昭和③非常時日本」  講談社  平成元年発行

小学校と兵役をつなぐ
青年学校のはたした役割

昭和10年4月1日、「男女青年に対し、其の心身を鍛錬し徳性を滋養すると共に職業及実際生活に須要なる知識技能を授け以て国民たるの資質を向上せしむる」ことを目的とした青年学校令が公布され、同年10月10日から青年学校が開校した。
この青年学校は、すでに存在していた実業補習学校と青年訓練所を一つの教育機関に統合したものである。

実業補習学校は
明治26年制度化されたもので、小学校卒の勤労青少年を対象に、修身・読書・習字・算術など小学校教育の補習と併せて、職業上の簡易な知識・技術を授けることを目的とし、その数は昭和9年には15.315校に達していた。

青年訓練所は、
大正15年(1926)4月20日に公布された「青年訓練所令」によって設立された、陸軍省と文部省の管理下に置かれた軍事教育機関だった。
対象は16才から20才までの勤労青少年(男子)で、実業補習学校終了から兵役までの空白期間を埋める形になっていた。
同年7月、公私合わせて15.523校が一斉に開設された。
 義務教育終了後の全青少年を直接管理し、「帝国臣民」としての公民教育を施そうとしたのである。
ところが、小学校の校門には、高等小学校、実業補習学校、青年訓練所の三つの看板がかかげられるのが通例となり、教育制度体系に混乱を引き起こすもととなった。
このため、青年訓練所発足後1年足らずして、実業補習学校との合併論が浮上し、昭和5.6年頃になると、青年期教育全体の再編成構想の一環として双方を合併し、新たに青年学校を設置する案が文部省で策定される。
文部省原案による青年学校は、社会的教育機関という性格が強かったが、これに軍部が反発し、逆に「合併して青年訓練所となす」案を強硬に主張した。論議は平行し10年になってようやく制度下にこぎつけた。

青年学校の課程
普通科と本科からなり、普通科が2年、本科が男子5年、女子3年で、地域の状況により男子4年女子2年とすることもできた。
普通科は尋常卒、本科は高等小学校卒業者だった。

青年学校の義務教育課
昭和12年7月、日中戦争の勃発とともに、日本は本格的な戦時体制へと突入していった。
この情勢のなかで4月、「青年学校令」が改正され、男子青年学校は義務制度化された。
高度国防国家体制の確立が叫ばれるなかで、国体観念の強化、兵士予備軍の育成、軍需生産体制への適応を、いっそうおしすすめるためだった。

これによって、満12歳以上19歳未満の上級進学者以外の男子はすべて青年学校へ就学しなければならなくなった。
また義務制度にともない、工場・事業所など企業内の私立青年学校が奨励された。
義務化実施には私立青年学校の普及が必要だった。
しかし義務制化は、同年から一学年ずつ実施していき、20年に完了するはずだったが、戦争の激化と敗戦によって、完全な実施をみることはなかった。

・・・


「笠岡市史第四巻」 笠岡市 平成14年発行

敗戦

学校では神国日本はいかなる時にも戦争に負けることはないと日々教えられ、
将来の夢は立派な軍人になることを教育されてきた子どもにとっては不安よりも驚きの方が大きかった。
大人にとってはその逆で、これからの生活はどうなるのか、占領軍のさまざまな情報がその気持ちをよけいに煽り立てた。

GHQの指導により単線型の学校体系、男女共学の一大変革が大きな柱となった。
荒らしい学制はまず、高等科の廃止、新制中学校建築や移行であった。

・・・




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石川遼選手、白鳥の親子にはっとーばりされる ~全英への道~ミズノオープン  

2023年05月25日 | 令和元年~

場所・岡山県笠岡市鋼管町・JFE瀬戸内海ゴルフ倶楽部 
日時・2023年5月25日

 

 

~全英への道~ミズノオープンを見に行った。
パー3の8番ホール、グリーン前で石川遼選手を待っていた。
そこへ白鳥が3羽、ラフから歩いてグリーンにはいってきた。
しかも3羽の親鳥には、2羽のヒナがいた。
グリーンに来た白鳥は動かない。
そこへ石川遼選手のボールが1~2mの至近距離でポトンと落ちた。
それでも動かない。

 

 

やがて石川選手ほか3人の選手、そのキャディ、報道のカメラマン4~5人の計10人ぐらいがグリーンまできた。
ここでも白鳥は動かない。
遼選手がホールインした。
その頃、白鳥は白鳥の湖に去って行った。

 

 

石川遼選手目当てのギャラリーだったが、
すっかり注目するのは白鳥の親子となり、目はそっちに釘付けとなった。

 

ハニカミ王子、

遼選手を見れて、白鳥の親子を見れて、面白い一日だった。

 

 

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男女共学⑧井原実業(精研高校)の場合

2023年05月24日 | 学制150年

六・三制度が始まる前の中等教育機関は、
男子校や女子校が大半だったが、男女がいる学校もあった。

 

父は岡山県小田郡から広島県深安郡にある、「神辺実業」学校に通った。(片道15km)
・・・


父の話・2002年4月6日

(女生徒はいたのか?)
おった。
女(おなご)は女子部で校舎が違うとった。
男の校舎は北側、女の校舎は南側。
女がエエ南側じゃった。
家庭科じゃ。男は農業科じゃ。


・・・


同じ学校の同じ敷地でも、男女間の交流は・・・運動会など含めても・・・たぶん、全くなかったようだ。

精研高校が実業学校時代も、”共学”の面では神辺実業とほぼ同じと思える。
これで”共学”といえるかどうか不明だが、校内に彩があったのは確かなような気がする。

 

・・・

 


「精研 六十年の歩み」 精研高校 平成7年発行

 

 

(昭和19年3月第一回卒業生)

・・・


昭和21年家政科卒・在校生だった4年間

入学した時は、すでに第二次大戦が始まっていました。
唐鍬をかついで、尾根づたいに上野の山の開墾にかよいました。
校庭で育てた薩摩芋の苗を植えたのです。
母の着物で作ったモンペをはき、藁草履をはいた姿です。
3年生の時は、学徒動員で航空機の生産に励みました。
凍りついた様な工場でジェラルミンを削りました。
足が冷たくなっても履く靴下もなく、はぎれで足袋を手縫いしたものです。
小さな防空壕に避難して、敵機が飛んでいくのを見た日もあります。
食べ物も少なく、ひもじい思いを随分味わいました。

4年生の8月に終戦を迎えました。
図書室に少しばかっかりあった本を、焼却処分しなければならない命令で、
あの本がほしい、とジーっと見つめていました。
卒業はしたもの、
「思いきり勉強したい!」という夢が消えませんでした。

 

・・・

 

終戦の詔勅を受けて、学徒動員、防空演習などが即刻廃止され、
銃器、連合軍を敵視したビラ、ポスターの撤去などが急いで進められ、授業が再開される。
昭和20年9月15日、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表し、
この方針に基づき、銃剣道や教練などの軍事教育の学科が廃止され、
昭和21年1月には修身、日本歴史及び地理の教科書は回収され、
他の教科書も軍国主義的記述は墨で塗りつぶされた。
また奉安殿は撤去され、教育勅語の奉読も中止された。

昭和21年3月後月実業学校は後月農学校と改称した、
昭和22年4月学制改革により付属中学を設け、2.3年生は付属中学の所属となった。
昭和23年4月井原高等学校芳井校舎となり、8年間の幕を閉じることになる。
昭和24年3月井原実業学校として独立認可。
昭和24年5月井原実業高等学校芳井分校となる。
昭和25年2月精研高等学校芳井分校に校名変更。

・・・

(年度不明)

 

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「精研 六十年の歩み」 精研高校 平成7年発行
旧職員

昭和20年7月1日付で後月農学校に奉職することになりました。
8月15日、終戦。1億国民茫然自失、全く虚脱状態でした。
国民生活は窮乏のどん底で食べることにも事欠く有様で、
食糧増産が唯一の目標でした。
生徒は男女を問わず、毎日勤労作業に追われて、
農園作業に、開墾作業にと明け暮れました。
民主主義の理念もまだ不鮮明な中から、新制中学校の誕生、あい住まいを余儀なくされ、窮屈な時代を過ごしたこともありました。
続いて新制高等学校の誕生で、後月農学校は自然閉鎖、井原高等学校芳井分校の誕生、
さらには精研高校芳井教室となりましたが、昭和37年井原校舎へ統合されました。

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男女共学⑦井原高校の場合

2023年05月24日 | 学制150年

井原高校は昭和23年4月1日設立され、
翌、昭和24年3月が第1回卒業生。
(昭和24年3月)第一回卒業生は、井原高女5年+井原高1年=6年間就学
(昭和25年3月)第二回卒業生は、井原高女4年+井原高2年=6年間就学
(昭和26年3月)第三回卒業生は、井原高女2年+中学1年+井原高3年=6年間就学
(昭和27年3月)第四回卒業生は、井原高女1+中学2年+井原高3年=6年間就学
(昭和28年3月)第五回卒業生は、井原高3年=3年間就学

誕生した高校は、旧制中等学校の当時の4年生、5年生が、そのまま新制高校に進み、
看板だけ変えた面があった。
全国の新制高校にいえるが
事実上、初めての入学試験があった昭和25年4月入学(第五回卒業生)が、
新制高校のスタートだった。
男女共学のスタートも、その時から。

 

 

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「創立100周年記念誌 萩の道」  井原高校 2004年発行

 


女学校最後の入学生
昭和27年卒


終戦の翌年、女学校最後の入学生です。
それは初めて女性が選挙に参加し、投票できた年でもありました。
最初にいただいた教科書は、今の新聞紙に一日分くらいの印刷物で、
それを各自切って折りたたみ、製本しました。
数ある楽しい思い出のトップは、映画鑑賞です。
先生の引率で、長蛇の列を成して、町内の映画館へ行くのでした。
「青い山脈」「秀子の応援団長」「銀座カンカン娘」等々・・・。
食糧の乏しい時代なればこそ、一層、健全な映画で精神のやすらぎと充実感を味わったのです。
高2になって新入生を迎えた時は感激でした。
6・3・3制への移行で、
3年間新入生を迎えないまま、年毎に先輩は卒業され、在校生は減少するばかりで、
5年目にしてやっと上級生になれた喜びは大きく、思わず顔がほころびました。
又、開校以来の”女の園”へ異色の男子学生の御入校と遭って、俄然、活気が張り、
そのかもしだす雰囲気に心弾んだのを覚えております。

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 【男女共学に再編成】


昭和24年8月31日、男女共学の井原高等学校として再編され、再発足することになった。
昭和25年3月22日、女子学生179名、初めて男子学生121名に対して入学が許可された。
ここに女子教育の場として続いた井原高等女学校時代が終わりを告げ、
昭和25年度からは男女共学の高等学校として、地域の期待をにないながら踏み出すことになったのである。
この時の募集定員は普通課程250名、家庭課程50名であった。

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男女共学始まる
昭和28年卒 男

私が井原中学校を卒業して、新制井原高等学校に入学したのは昭和25年4月。
私は試行錯誤に終始した中学3年の次に我々を待つ高等学校とはいかなるものであろうかと思案しつつ、その前途に期待と不安を胸に校門をくぐった。
この年井高は男子生徒を初めて受け入れた。
従来の女学校に男子も通学することで地域社会の話題にもなった。
又学校当局におかれても婦女教育の伝統と男子の処遇をいかに調和さすか大層気を配らせたと聞いた。

 


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