しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の貸本屋

2016年12月27日 | 昭和36年~40年
観音堂の隣に、独り住まいのお婆さんがいた。
夏休み時などは双子の女の子が遊びに来ていた。

そのお婆さんのうちで「貸本屋」を始めた。
玄関からはいるとすぐ、土間と座敷の間の板間に漫画の本を並べていた。
1冊借りると5円(だったかな?)で一度行けば、たいてい2冊借りていた。
漫画本の数は多くなく、1週間ほどで何割か入れ替えをしていた。

その貸本屋が在ったのは昭和35.36年頃で、管理人は漫画に対する興味が薄れていた。
数回借りた記憶がある。

その頃は全国的に貸本屋が流行ったようだ。
金浦からは自転車の荷台に漫画と読み物を積んだ貸本屋が。週に1~2度各家の庭まで来て廻っていた。


大冝では、吉浜の近くの店でも貸本をしていた。(借りたことはない)
用之江の学校下では、貸本屋が流行る前から漫画を置いていた。学校帰りに借りて帰ることもあった。

中学の時、生江浜では、茂平の貸本とほぼ同じ規模の店があった。

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茂平に来る紙しばいのおじさん

2016年12月26日 | 昭和31年~35年
紙しばいは城見保育園で先生(保母さん)から何度もしてもらった。
小学生になると、漫画に移った。もはや園児が好む紙芝居にまったく興味はなかった。

・・・しかし・・・

その小学生生活も高学年になろうかという時、
夏休みに紙しばいのおじさんがやってくるようになった。

おじさんは笛か拍子木か忘れたが鳴らして周辺の子供に来たことを知らせた。
場所は観音堂の前、
自転車の荷台に木製の額で造った台を置いていた。

管理人は親にせがんで二度ほど行ったことがある、
以下は頼りない記憶である。

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おじさんの周りには子供が数人集まっていた。

そこで5円を払うと、おじさんは棒の飴玉をくれた。
それをなめながら紙芝居を見ることは、飴を手にしてない子は紙芝居を見れないことを意味した。

紙芝居の入場者は男女合わせて10人位、飴玉を手にしてない子は遠方から眺めていた。

紙芝居は一話で連続物。5~10分くらいで終わり、自転車の荷台にしまい次の興行場所に去った。おじさんが次の場所はまったく不明だった(関心もなかった)。

紙芝居は面白かった。何が面白いかと言えば、おじさんの表情が面白かった。
今でいう物まねのコロッケのように、台本を顔で読んだ。身体で表現した。

ストーリは全く覚えていないが、顔と手の動き、体をのけぞらすしぐさ・・・・今に思えば、子供相手とはいえプロの噺家だったとも感じる。

元は活動写真の弁士だったのだろうか?

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なお、
茂平の観音堂の紙芝居は昭和34・35年頃のことで2年間ほどの事と記憶している。

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城見村の皇紀2600年の記念行事

2016年12月24日 | 昭和11年~15年
日本の史上最大の祝賀イベントであった、と言える「皇紀2600年の祝い」。

では、岡山県小田郡城見村ではどのような祝賀行事が行われたか?
といえばこれがはっきりとわからない。

父の話(当時・東京陸軍病院に入院中の傷痍軍人)・・・お金持ちの家に招かれ御馳走を食べた。町中を花電車が走っていた。
母の話(当時・後月郡西江原町技芸学校生徒)・・・「金鵄輝く日本の榮ある光身にうけて・・・紀元は二千六百年 あゝ 一億の胸はなる」♪と歌いながら行列した。
おばの話(父の妹・当時城見村茂平・家事)・・・祝ようることは知っていたけど、これという記憶はない。
おじの話(父の弟・当時城見村茂平・笠岡商業生)・・・笠岡の港に軍船が来て、生徒全員で迎えに行った。城見村の行事は記憶がない。

今日、茂平八幡神社に行った際
拝殿の絵馬の「聖地参拝」を見ながら思った。茂平の神社であるが城見村の参拝者名が記載されている。

たぶん昭和15年の「皇紀2600年」の城見村の催しは三つ、
一つ・村民による“聖地参拝”、それの補助金。およそ60名が参加、聖地とは伊勢神宮。
一つ・「郷土将兵慰問写真帳」の発行。
一つ・城見小学校へ奉安殿の建設

貧しい城見村の財政では、これで精いっぱいだったと思える。


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「元島民」って誰の事か?

2016年12月19日 | 平成元年~平成31年
かつて日本領土に“占守島”という島があった。
その島の名はおじさんの話で初めて知った。
昭和10年頃おじ(母の兄)は東京の農学校に進学した。
「同期は約40人日本全国から来ていた。いちばん遠いのは占守島(しゅむしゅとう・日本最北端)からの人」。

それから10年後に終戦。日本は無条件降伏。
日本領土から独立した国家あり(台湾・朝鮮)、占領された地方(奄美・沖縄・小笠原、南樺太・千島)がある。
そのうち奄美・沖縄・小笠原は日本に返還された。

北千島と南樺太は日本政府が放棄し南千島のみロシアと領土交渉をしている。
今月の日露首脳会談は首相の選挙区内にある温泉ホテルで開催されたが、案の定ロシアはゼロ回答。

新聞には元島民という名が氾濫しているが、この元島民とは南千島の人々を指すようだ。
強制退去されたのは同じ歴史だが、樺太は除外され、固有領土と言える北千島も存在すら消された感がある。
樺太島民や北千島島民は(無視されことを)どう思っているのだろう?

完全に無視されたといえば、日本領土ではないが
満州や南洋諸島の開拓団もそうだ。国家政策で移住し命からがら強制退去されているのは千島と変わるものはない。


結論・国際世論の支援・支持がまったくない交渉事は止めよう。
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伊勢神宮はなぜ残ったか?

2016年12月16日 | 昭和20年(終戦まで)
(以下は新潮社・マッカーサーの日本より転記)

昭和20年12月15日、GHQは「国家と神道の分離指令」を発令した。

天皇のマッカーサー訪問、皇室財産凍結、梨本宮ら戦犯逮捕、修身・歴史教育禁止、天皇の人間宣言、と“神州日本”の掘り崩しはすすんだ。
「国家神道の廃止によって、天皇制の支柱になっていたものが破壊されてた」と声明が発表された。

神道追放の仕事は一見矛盾する二つの事柄を同時に解決しなければならなかった。
というのはポツダム宣言には「言論・宗教、思想の自由」がうたわれ、いっぽう軍国主義の思想背景のいっさいの打破も至上命令であった。
神道さえなければ戦争は起こらなった、という外務省役人や神道・神社をすべて叩き潰せという進駐軍人もいた。

では、はたしてすべての神道や神社が天皇制イデオロギーや超国家主義と密接につながっているのか?
例えば、四国の金毘羅さん、日光の東照宮、お稲荷さん、・・・・。

問題になったのは「伊勢皇大神宮」「靖国神社」、「熱田神宮」、
各地51の「護国神社」。
靖国神社は戦死者の霊を祭るのは、近代国家の美風であると日米双方から同じ意見が出た。(ただし、戦死者の霊が靖国にあるのか護国神社にあるのかは理解出来ないようだ)

ワシントンの国務省から「神社神道の、国家により運営や管理されている部分は除去されなければいけない。しかし、民衆の信仰としての神道はよいであろう」の指示があったが、現場は混乱した。
新年の門松、七五三、神前結婚、村祭りの寄付まで地方軍政官に許可を求めに来た。軍政官もわからないから東京の総司令部へお伺いをたてた。
流鏑馬の行事、お神輿は担いでいいのか、山車はどうか?
神官たちは自分の神社がどうなるのか?農地改革で所有地・山林は没収される恐怖。


東京で一冊の手引書が作られ、全国の占領軍機関に配布された。

「一時、占領軍は神道の全面的廃止を考えた。しかし、それは間違った考えであった。
国家神道は禁止された。
しかし、神道そのものは日本人の精神生活を豊かにするものに役立っている。
日本にはたくさんの神がいる。木であり、キツネであり、山、祖先、英雄、天の神々もいる。
定義づけようとしても、その論議は無益である。」

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結核は死ぬ病気だったか?

2016年12月15日 | 暮らし
新選組の沖田総司や詩人の石川啄木はじめ、結核で死んだ人は多い。
管理人も小学生の時はツベルクリンやBCGを注射する、代表的な国民病だった。

では、結核になると死はまぬがれなかったのであろうか?

「梶島山のくらし」から
回生病院会長・M医師(大正10年生)の話を転記する。
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結核ゆうのは栄養の管理が大事な病気だから、栄養が低下したらみんな死んでいく。
国民は栄養失調で、結核が感染しても無理をして本当の肺結核になってしまう。
だからコメのご飯を食わして卵をしっかり食うたものは助かっている。
麦飯を食うてみそやこうこですましょうる百姓はみんな死んでいった。
卵は金になるけい、みな売ってしまう。
病気になったら最後。金がかかるけえ、本気で治療させてくれんのよ。
御馳走を食うた金持ちの子は死ななかった。それも不平等じゃなあ。

結核患者が家にいたら、コンコンと家族に次々にうつす。
だいたい家の納戸へ押し込まれる。
「日当たりのよいところに出してくれ」と言うても「近所の人に見られたくない」という。そうゆう時代じゃったから、どうしても独立した病棟を作りたかった。

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回生病院は田んぼの中にぽつんと非常に目立つ場所にあった。
今は東福山駅周辺の都市化で埋もれるような場所となった。

笠岡市では昭和30年頃、小平井に療養所ができた。
岡山県では早島に国立の療養所があった。

現在は、全世界で150万人が死亡し、そのうち95%が低中所得国。

結核になったら、貧乏人から死んでいくようだ。


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赤痢は死ぬ病気だったか?

2016年12月14日 | 暮らし
昭和20年、
現在の福山市域では、米軍の福山空襲による死者数よりも赤痢で亡くなった人の方が多かったそうだ。
管理人の家では(以下母の話)昭和20年
隣家のおじさん(50代)が出所で、祖母(当時50代)、曽祖父(80代)がなり、隔離病棟に送られた。いちばん年長の曽祖父のみが亡くなった。

資料によれば、昭和20~40年までほぼ毎年100.000人程度の発病者がいた。
患者数に大きな変化はないが、死者数は激変している。
昭和20年に10.000人程度だった死者は、昭和40年には1000人。昭和50年には患者1.000人、死者10人程度。
怖い伝染病とはいえ、貧者・弱者が死亡していたようだ。

笠岡市笠岡では東京五輪の年、飲み水にも事欠き、200人赤痢患者がでたが死者はいなかった(と思う)。日本が既に貧国ではなかった一つの証明かな?


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40年間も日本が遅れていたもの

2016年12月13日 | 昭和36年~40年
アンネナプキンは昭和36年、「40年間お待たせしました」という新聞広告を繰り返したので、その商品が何をするももかも知らずに商品名は覚えた。

姉は古いタンスの中の、古着でつくったぼろぼろの布を祖母にみせてもらい「いずれ始まったら、これを使うように」と言われたそうだ。祖母も使い古しの布で使っていたのだろう。

(母は姉に、その件については「おしえてくれなかった」そうだ)


姉は男女共学の高校に行ったが、それの時は脱脂綿をつかっていた。脱脂綿はかさばるので、ませた男子生徒から冷やかされていたそうだ。


「昭和レトロ商店街」(早川書房)に当時の広告が載っているので転記する。

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欧米では40前から研究され、今では85%以上のご婦人が愛用している訳です。

これに引きかえ、わたしたち日本女性は遠いおばあさまの時代=明治そのままの原始的方法しか知らされておらず、40年もオクレテいたのです。

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現在の日本で芸術や文化・思想等は40年遅れているものは珍しくないが、物つくり・工業製品では皆無に近い。

しかし戦後10数年では、まだ日本は貧しかった。どの分野も欧米に遅れていた。アンネナプキンの宣伝文も時代を感じさせてくれる。

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昭和10大事件、のうちの「ヌードショー」

2016年12月08日 | 昭和41年~50年
半藤一利と宮部ゆきの対談集で「昭和10大事件」という本がある。
その10大事件に「日本初ヌードショー」が選ばれている。
こんな事が10大事件なのかと読んでみたら、
ヌードショーは戦前にはなかったそうだ。
東京っ子の半藤氏は終戦後すぐ「額縁ショー」と呼ばれた裸のショーを日劇で見て、「国破れてヌードあり」と感じ、それがビジネスになることにも感心したようだ。
戦後初のヌードショー当時、踊り子は帽子で隠していたらしい。

ついでながら、管理人の経験も時代を感じるので書き残しておく。
時は昭和42年の5月頃、場所は四国の松山市のはずれ、立花町というところに「立花劇場」というストリップ劇場があり、そこで初めてストリップを見た。
入場料は500円、入ったのは昼間。
踊り子がカツラと赤い着物姿。演歌のレコード音楽にのって舞い、着ているものをじゅんじゅんに脱いでいく。
腰巻姿になったらおしまい、次の踊り子(ストリッパー)に交代する。
それをつづけて5人目くらい、最後の踊り子になる。
この人は腰巻も脱いだ。
ついでズロースも脱いだ、しかも、うっかり手にした扇子を落とした。
・・・
そしたら、ズロースの下に、更にズロースを着ていた。
おもしろくも、なんもない、あほらしいヌードショーだった!



追記1・そのころ福山では有名な「第一劇場」があったが、残念ながら入った事がない。

追記2・昭和48年頃、住んでいた鹿児島市のストリップ劇場では「まないたショー」というのが人気だった。
一度見に行ったが、松山市で見たのとは段違いだった。日本経済も激変中、ヌード界も激変していた。料金も1.000円程度だった記憶がする。
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