しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章比丘尼+「東海道中膝栗毛」喜多さん比丘尼に遊ばれる

2021年09月30日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)

第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ ③比丘尼




(東海道53次内沼津 広重)


比丘尼

大部分は若くて頭をきれいに剃った人たちがいっぱいいるのを見かける。
剃髪した人々のうちには比丘尼と呼ばれる若い女性の教団がある。
これは鎌倉や京都の尼寺の支配下にあって、その庇護を受けている。
熊野や近国に多いので熊野比丘尼と呼ばれている。

最も美しい女性である。
善良で魅力的に見えるこれらの貧しく若い女性たちは、
大した苦労もせずに尼として物乞いする許可を受け、
旅行者から思うままに魅惑的な容姿で、うまく布施をまきあげる術を身につけている。
かなり多くの者は娼家で年季を終えてから自由の身となり、青春時代の残りを旅で過ごすのである。








・・・・・・・




「東海道中膝栗毛」 現代語訳・村松友視  講談社 2010年発行



比丘尼に遊ばれる


歩いていると、うしろからきみょうな音が近づいてきた。
三人の比丘尼(尼僧)が、竹の管を指で鳴らし、歌いながらやってきたのだった。
「おっ比丘尼だ。俺の方を見てにっこり笑ったぜ。にくいね、どうも。」
「笑ったんじゃねえよ。ありゃ顔にしまりがねえんだ。」

先頭をいく比丘尼が二十三くらい、もう一人は二十六、七歳、それに十一、二の小比丘尼の三人づれた。
若い方の比丘尼が喜多さんのほうへ近よって、
「もしあなた・・・・」
「あんですかあ。」
喜多さんはもう、でれっとしただらしない顔になり、口にしまりがなくなったから、ことばもあわわになっちゃった。
「火はござりませぬか。」
「ああ、タバコの火ね。はいはい、打ってさしあげましょう。」
喜多さんは、すり火打ちを出して器用に火をつけ、
「さあどうぞ。」

「ところで、どちらえ」
「名古屋のほうへ・・・。」
「ほう、名古屋ねえ。そいつはいいところへいきなさる。
名古屋なんて、なみの学問じゃちょいと出てこないよ。」
とにかく喜多さんは、はしゃいでいる。

「今夜どこへ泊るの?まだ決めてない?
ふーーん、あのね、赤坂で泊まるのがいいんじゃないかな。
おれたちも、ちょうど赤坂で泊るから。」
「わあ、うれしい!
あの、タバコを一服くださいな。
ちょうど切れちゃったんです。」
「さあさあ、どうぞどうぞ。
こんなもんでよかったらみんなあげちゃう。」

「ところでさ、あんたみたいなべっぴんさんが、
どうしてまた髪をそっちゃんたんだい。おしいことをしたなあ。」
「とんでもない。たとえ髪があったって、
あたしなんかをあいてにする男はいませんよ。」
「あるともあるとも。それなら俺が一番にかまいたいね。どうです。」
「おほほほほ・・・。」

喜多さんはひとりでうかれていたが、比丘尼がわき道へ向かって歩きだした。
「ねえ、おれたちと泊るんじゃなかったのかい。」
「ちょっとあっちの方をまわってまいりますので。じゃ、またね。」
比丘尼たちは、わき道のほうへいってしまった。
喜多さんはぽかんと見送っていた。







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ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章 伊勢参り

2021年09月30日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ 


伊勢参りの人たち





一年中行われるが、特に春が盛んで、街道はこのころ旅行者でいっぱいになる。
老若・貴賤を問わず男女の別もない。

自分たちの食べ物や路銀を道中で物乞いして手にする多くの伊勢参りの人。
参府旅行をする者にとっては少なからず不愉快である。
なぜなら、ひっきりなしに近づいてきて、
「旦那様、お伊勢参りの者に路銭を一文お恵み下さい」と言葉をかけるからである。

江戸の町や奥州の住民には、許可を受けずに伊勢参りの旅に出る風習がある。
そればかりでなく、非行を犯して両親のところから逃亡して伊勢に向かい、赦免の免罪符をもらってくる。
そのため、銭がなく野宿したり、時には路傍で病み死んだ人を見ることもある。









・・・・・・・・・・・・・・・・











「江戸の旅とお伊勢参り」  泉洋社  2017年発行





千三百年以上もの歴史を持つ伊勢神宮への参拝は、
江戸時代に熱狂的な支持を得た。
商家の小僧から、京の遊女、村の農民まで、
全国から数百万人規模が伊勢を目指して歩いた。

しかも「おかげ参り」という名さえあれば、
突然の旅立ちも行方不明の無礼も放免。
道中では路銀がなくても誰もが喜捨の「おもてなし」を受け、
伊勢滞在に身をゆだねることができた。





なかでも最大規模だったのは、文政13年(1830)の四百万人。
当時のおかげ参りの熱狂ぶりがうかがえる。
しかもその多くが着のみ着のままの無一文。
おかげ参りのトレードマークだった柄杓を差し出せば、
お金や食べ物の無料提供は当たり前、
宿さえ無料で泊れたというのだから、
参拝者だけでなく日本全国が、まるで熱に浮かされたように、
伊勢神宮に焦がれついていたのだろう。

文政期といえば時の将軍は十一代家斉。
約40人の側室と、50人以上の子供をもうけた。
享楽的な将軍のもと、町人文化が開花した。
庶民が生き生きと活躍した時代だった。








・・・

「伊勢参り 大神宮にも ちょっと寄り」

では、伊勢参りに行って大神宮以外のどこへ行ったのだろうか。
それは外宮と内宮の間に位置する間の山で、
芝居や遊郭として名高かった古市(ふるいち)だ。
古市は、
妓楼70軒、遊女1.000人といわれ、参拝後の精進落としの場所として繁栄した。




・・・




地方色豊かな食事情

雲津の宿、弥次さん喜多さんは、名物のこんにゃくが出た。
キセルで叩くと、まるで石のような硬い音がする。
膳に出された以上、食べものに違いないと、弥次喜多は石を食べようとした。
宿の主人は、こんにゃくの風味をよくする焼き石であると話した。







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ケンペル「江戸参府旅行日記」第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ

2021年09月29日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第五章・街道を旅行し、街道筋で生計を立てている人々の群れ

この国の街道には毎日、信じられないほどの人間がおり、
私は東海道を四度も通ったので、その体験から注目すべきものを挙げよう。


大小名


(津山藩の大名行列)


彼らは一年のうちに街道を行き来する。
つまり一定の時期に江戸城に伺候し、そして再び江戸から帰る。二度通うことになる。
彼らは身分や財力の許す限り立派な行列を作る。
それゆえ最も大きい大名は数日の行程に渡って街道を満たすのである。
大名の行列は2万人前後、小名の行列はその半数。
それゆえ一か月前には宿所や宿場を一定の日数で予約させ、近いうちに通過することをすべての村や町に知らせる。

行列が進むとき、一部の従者を除けば、みな黒一色の絹布の服を着て歩き、
実に規則正しいみごとな秩序を保ち、こんなに大勢の集団が騒音も立てずにしずしずと進んでいく有様は、誠に不思議で称賛に値するけれども、
これとは対照的に槍もちや籠かきは、後ろの裾を非常に高くはしょっているので、
自分のしている褌がいくらかは足しになっても、隠す役目を果たさず、下半身をすべて露わしているのは、実に笑うべきことである。

用を足すため、至る所に設けてある緑の小屋とか百姓家にゆく場合は、報酬として小判1枚を与える。





巡礼の人

有名な観音を祀る33の寺に参る。2~3人で組を作って巡礼の旅をする。
旅行者に布施を求めるようなことはしない。
特別な服装をしている。


(四国霊場・屋島寺)

冬でも陰部に藁の房だけを巻き付けて隠している裸の人によく行き合う。
なんとも奇妙な気がする。
こうした人々は、健康とか、その他のことを治そうとして、寺や仏像にお参りをする。
布施を求めず、いつも一人で休むこともなく歩き続ける。





托鉢僧

元来は山伏である。彼らは頭を剃っていない。
彼らは京都の教団の長の支配下にあり、毎年一個の貨幣を納めなければならない。
彼らが布施を求めるときは、短い法話をし、先端に鉄の輪のついた金剛杖を鳴らす。時には法螺貝を吹き鳴らす。
至る所で比丘尼の群れに混じって、旅行者の周りに集まり、歌をうたい、法螺貝を鳴らし、熱弁をふるい、大声で叫ぶので、うるさい。
お祓いや予言、未来の占い、迷信や魔法のために利用する。




旅行者につまらぬものを売りつけようとする人々

街道筋には小売商や農家の子供たちで、夜が更けるまで、旅行者につまらぬものを売りつけようと、かなり多くの人いる。
例えば、甘みがほとんどない菓子、酒の肴、名所案内・道中記、綱や紐、竹・木からつくった品物。
駕籠かきは駕籠を、
馬方は粗末な鞍をのせた馬を用意して待っている、
普通、宿場まで何かを運んで空で戻る手前である。





淫らな女たち

なお最後に述べなければならないのは、大小の旅館・茶屋・小料理屋などにいる淫らな女たちのことである。
彼女たちは昼頃になると、着物を着かえ、おしろいを塗って、家の前の廊下のところから絶えず旅行者を眺めていて、甘ったるい声を出して、あがっていくよう呼び寄せ、耳元でしきりにしゃべるのである。
何軒もの旅館が並んでいる宿場は特にひどく、例えば近くに並んでる二つの村、
赤坂と御油は、ほとんど旅館ばかりが並んでいる。
どの家にも3~7人までの女がいる。


(御油)


(北斎)


この賤しい女たちと交わりを結ばずにここを通り過ぎる日本人はまれなので、
そのため記念の印をちょうだいして我が家に持ち帰る人がよくあって、それでたいへん腹が立つのである。
日本ではすべての公共の旅館はまた公の娼家であることは、否定すべくもない。

一方の宿に客が多すぎる場合には、他の宿の主人は自分のところの女中(娼婦)を喜んで向こうに貸してやるが、彼らはそれで確実な儲けがあるからである。
こうしたことは、古からの習慣であった。
最初の将軍の頼朝が、すでに何世紀も前に始めたのである。
すなわち彼の兵士が長い遠征の旅路で、己の欲求を満たすことができるように認めたのである。
中国では娼家と売春とは厳罰を課して禁止しているから、若い中国人は、よく日本にやってくるのである。



(広重)




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ケンペル「江戸参府旅行日記」第三章・街道で見た庶民ならびに寺社の建築物

2021年09月29日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第三章・街道で見た庶民ならびに寺社の建築物




城はたいてい、大きな河の岸辺か丘や高みに築かれている。
広大な地域を占め、三重の要塞からなっている。
どの城にもきれいな水をたたえた深い堀や石か土の防壁と頑丈な門があるが、
重砲は備えていない


本丸は、

城の中枢で城主の住んでいるところである。
本丸には白壁造りの三層または四層の天守閣がそびえ人目を引く。


(姫路城本丸)


(姫路城本丸)





二の丸という第二の城には、

用人、城代、右筆などが住み、余った空地は時には庭園にしたり稲を植えている。


(姫路城二の丸)






第三の外構えは、

第三の城と呼ばれていて、下級武士やその城に関係ある人々の住まいで、そこには誰が立ち入ってもよい。


(姫路城三の丸)






城の建物はたいへんよく維持されているが、大修理は前もって将軍に許可を得たうえでなければ手をつけることはできない。


二つの門
町にある二つの門は、毎夜道を閉ざすだけのもの。



・・・・




百姓家は
百姓家はたいへん粗末で小さい。家屋は低い四つの壁からできていて、葦か藁の屋根で覆われている。
床はかまどがしつらえてある、ほかの部屋はきれにな畳が敷かれてある。
開いている戸口には稲わらで編んだ筵か掛かってあるが、これは通りから中をのぞかれるのを防ぐためである。



(井原市「中世夢ヶ原」)




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ケンペル「江戸参府旅行日記」第二章・長崎から江戸に至る水路ならびに陸路の一般的記述

2021年09月29日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)

第二章・長崎から江戸に至る水路ならびに陸路の一般的記述


日本各地には国道や街道がつくられ、
これらの街道は幅広くゆったりとしているので、二つの旅行隊は触れ合うこともなくすれ違うことができる。
上りの人は道の左側を、下りの人は右側を歩かねばならない習慣が定着している。



(舞阪松並木)


街道には旅行者に進み具合がわかるように里程を示す標柱があって距離が書いてある。江戸の日本橋と名付けらている橋を基点としている。
街道の両側には1本ないし数本の樹木を植えた二つの丘(一里塚)が互いに向き合って築かれている。

われわれは将軍に拝謁などの儀式で20日間江戸に滞在し、同じ道をまた長崎へ戻り、3ヶ月以内に一切の旅行を終えるのである。

陸路を行くと、西海道の一部と東海道では、木陰を作って旅行者を楽しませるように、松の木が街道両側に狭い間隔でまっすぐに並んで植えてある。
雨に対しては簡単な排水口があって、低い田畑に流れるようになっている。




身分の高い人が旅行する場合には、街道は直前に箒で掃除され、
また両側には数日前に砂が運ばれ小さい山が作られるが、これは雨の時撒き散らし道を乾かすものである。
2~3里ごとに路傍に木っ葉葺の小屋を設け、垣で仕切る。それで用便する。

街道を管理する者は、近所に住んでいる百姓が欲得ずくで不潔なものを利用するので、道路を清潔に維持することについては、ほとんど苦労することがない。
毎日落ちてくる松葉や松かさを彼らは焚物として集め、それで薪の不足を補っている。
百姓の子供たちは馬のすぐ後ろから付いてゆき、まだぬくもりのあるうちに馬糞をかき集め、自分たちの畑に運んでいく。
そればかりでなく旅行者の糞尿さえ同じ目的で拾い上げ、
またそのために百姓家近くの街道脇には、便所として作った小さな粗末な小屋があり、その中にも糞尿を溜めてある。
すり切れた草履も同様に糞尿に混ぜる。
地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。
道は目を楽しませるが、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずにはいられない。






山岳地帯を通る道も時にはある。
そうした道は石が多くて急で登るのに骨が折れるのである。
馬では進むことはできない。
それで人々は駕籠でかつがれて登る。
しかし、これらの山岳には例外なく清水が湧き出ていて、いつも緑の茂みをくぐって旅ができ、特に春にはフジ・ツバキ・サツキ・ウツギが旅人の心をたいへん楽しませてくれる。


東海道で渡らねばならない川のうちには、急流となって海に注ぐ幾筋かの川がある。
特に雨が降った時には、石の多い流れが水嵩を増すので、橋も舟もまったく役に立たなくなり、
そういうわけで、その土地には渡河をまかされた、その場所に詳しい人たちがいて、彼らに身をゆだねると、責任をもって流れや転がる石と戦いながら渡してくれる。
最も主要なものは
大井川。雨が降ったりすれば、数日間河岸に留まらねばならない。
他に藤枝川と安倍川がある。
それほど川幅が広くない川は舟を用いることが許されている。
有名なのは天竜川、富士川。
深い川には、杉材で作った幅広い頑丈な橋が架けられていて、念入りに手入れされている。
有名で立派な橋は、
一・瀬田の橋。
二・矢作橋。
三・吉田橋。
四・六郷橋。
五・日本橋。
すべての橋は、川の両側で長さ二間だけ地面の上に延びている。


(日本橋)


・・・・・



海上旅行の針路は、大きな日本島の海岸に沿ってとられ、左手に日本島を視界におさめ、暴風が来るときには港の一つに避難することができるように、1~2里以上陸地から離れることはない。
海上には上下する大名やその家来ばかりでなく、大部分は商売の為に出かける商人も頻繁に往来するので、時には日に100艘の帆船を数えることができる。








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ケンペル「江戸参府旅行日記」第一章・参府旅行の準備

2021年09月28日 | 「江戸参府紀行」ケンペル&シーボルト
ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行
1691年(元禄4)


第一章・参府旅行の準備


すべての大名は、年に一度将軍の居城に参勤する。
彼らは直接将軍に恭順の意を示すのである。
わがオランダ東インド会社の代表者たる商館長もそれに従っている。

彼は1~2名の書記と1名の外科医をこの旅行に伴うことができるが、
そればかりでなく身分や官位の異なる一群の日本人に護衛されるのである。
これらの日本人は長崎奉行所の支配下にあり、奉行がその役を任命する。
この護衛の裏にある意図は全く別で、スパイや捕虜と同じようなものなのである。

私は参府旅行に加わる楽しみを持った。
二度の旅行で重要と思われたことを、この本に毎日順を追って記そうと思う。
若干の一般的な注釈を、前もって行う。






この旅行の準備。

将軍と閣老および江戸・京都・大坂にいる数人の高官に対する、一定の金額の進物を選ぶことから始まる。
贈物の選択は長崎奉行が行い、幕府に喜んで受け取ってもらえそうなものの中から決める。
彼らはそれらの品を早い時期に商館長を通じて注文するか、あるいは現に倉庫にあるものを取り出す。
しかし、こういう時に彼らは中国人が贈ってくれた自分の持物を紛れ込ませるのに、この機会を利用し、非常に高い値を付けたり勝手な値段をつけて売った。

それらの品は他のすべての旅行の必需品と一緒に船に積み込まれ、3~4週間かかって海を渡り、下関という小さな町まで先に運び、陸路を行くわれられの到着を待っている。
上に述べた船は、ただこの旅行にだけ使用し、長崎の港内に少なからぬ費用をかけて置いておかねばならない。

護衛として付けられる上級および下級の使用人
長崎奉行は与力から1人を選ぶ。指揮官である。
彼の後ろには鎗もちが従う。
与力には同心が付く。これに捕り方が加わる。
通詞は大通詞と小通詞がいる。
費用はすべてわが社(東インド会社)。
出発前に出島で少しばかり顔見知りになることが許されている。

次に荷物運搬人と馬匹を手配しなければならない。





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紫式部(宇治)

2021年09月28日 | 銅像の人
場所・京都府宇治市宇治橋西詰


紫式部
「日本史探訪5」 角川文庫 昭和59年発行

『源氏物語』はおよそ80年に及ぶ大河小説である。
華麗な絵巻物をくり広げるように、優雅な宮廷の社交生活が展開し、
おもな主人公は、その一生を、
詩と音楽と恋愛だけにささげているかのように見える。







たとえば光源氏は、12歳で最初の結婚したのち、40歳近くまでの間に10数人の女性との恋愛遍歴がある。
しかし光源氏は、たとえその女性がどんな女性であっても、最後までそれらの女性を見捨てることがなかった。
光源氏が、当時の女性の読者にとって理想の男性になったゆえんである。
そして、みやびな描写に託して、この小説は、
時の流れと人生の真実を描こうとした。
そこに紫式部の美意識があった。







昭和41年、パリのユネスコ本部は、この紫式部を、日本人としてただ一人、世界の偉人に選んだ。
シーザーやゲーテと並んで、世界の文化に貢献したというわけである。
紫式部は世界的な存在となった。






撮影日・2010.4.8


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(若き日の)徳川家康

2021年09月28日 | 銅像の人
場所・静岡県浜松市中区元城町  浜松城公園

家康の浜松時代は、29才から45才までで、”若き日の”でなく壮年期を浜松で17年間過ごしている。
もっとも大きな出来事は、岡崎から浜松に移って2年後の”三方ヶ原の戦い”であろう。







三方ヶ原の敗戦
「日本史探訪12」 角川文庫 昭和58年発行

元亀元年(1570)、家康29歳の時、家康は岡崎を離れ。浜松城に居城を移した。
二年後、家康は生涯ただ一度の手痛い敗戦をそこで経験する。

元亀三年(1572)十月、武田信玄は四万五千の大軍を引き連れて上洛の途についた。
天竜川沿いに北から侵入してきた信玄の大軍に対し、家康の軍は信長の援軍を合わせた八千余を率いて、三方ヶ原に討って出た。
ここで徹底的に討ち負かされた家康は、わずかな従者と、追い迫る武田勢をけちらし、やっとのことで浜松城に逃げ込んだという。

しかし、この戦いで、家康の譜代武将の率いる三河武士は勇名をとどろかせた。
武田軍の孟将馬場信房は、あとで信玄に、
「三河武士はたいしたものです。
死体を見てもこっちを向いている者はみんなうつぶし、
浜松の方を向いた者はあおむきになっていました。
敵に後ろを見せた者は一人もいない証拠です」と言ったという。

家康が「街道一の弓取り」と称されるようになったのは、
この戦いからだといわれる。











撮影日・2014年10月9日



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岡崎金次郎

2021年09月26日 | 銅像の人
場所・香川県小豆郡土庄町豊島 壇山岡崎公園


東京では豊島(としま)だが、
広島県に豊島(とよしま)があり、
香川県は豊島(てしま)と、手島(てしま)がある。間違いやすい。

岡山県宇野港から豊島(てしま)に定期航路がある。
今は隣の直島と共にアートの島として人気の島。

島の中央に檀山が聳えている。
その檀山山頂は公園で、銅像が立っている。





銅像に銘板がある、それを写す。

岡崎金次郎
明治13年豊島唐櫃に生まれ、明治26年東都に出て明治43年石材業及び建設業を興す。
関東大震災の復興並びに鉄道建設工事に活躍し、著名なる土木建設工事を完成せり。
晩年豊島の開発に着眼し私財を投じて、広大なる地域に桜を植樹され観光事業に寄与せられた。
また財団法人岡崎育英会を創設せられた。
茲に銅像を建立し翁の業績を永久に奉讃するものなり。
昭和37年4月
発起人 土庄町町長、議長、その他







檀山は標高340m、すそ野は広いので、二つある港のどちらから登っても、結構な運動量になる。
山頂の公園はほぼ360度のパノラマで、展望もすこぶるいい。










広いすそ野は棚田で、
段々畑の多い瀬戸内海の島々では、比較的珍しい風景を見ることができる。
棚田はよく守られ、青い海や島々の眺めが美しい。






撮影日・2011.9.28



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小松宮彰仁親王像

2021年09月26日 | 銅像の人
場所・東京都台東区 上野恩賜公園

第二次大戦の敗戦まで、大日本帝国の陸海軍は皇族を将官にして、軍をより神格化、絶対的なものとしていた。
それは終戦後の、東久邇宮稔彦王(陸軍大将)首相まで続いた。

赤十字社は人道支援団体でスイス人実業家アンリ・デュナンの提唱により創立されたが、日本赤十字社は皇族と軍との関係が強いのが特色だった。
軍との関係は戦後解消されたが、皇室との関係は今も強い。



小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)は、
戊辰戦争、西南戦争で指揮を執った陸軍大将。
その後、日本赤十字社の総裁を務めた、
典型的な「戦前の皇族」の人といえる。







撮影日・2015.7.9


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