しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

婦人の公民権獲得運動

2021年08月28日 | 昭和元年~10年
婦人の公民権獲得の運動は、魁の人たちは世の人から、たいへん冷ややかな目でみられていたであろう。その中で活動した。

戦前・戦中・戦後に代議士を務めた星島二郎さんは、婦人運動に理解が深かった。
首相にまでなった犬養木堂さんは、婦人運動については名が出てこない。江戸時代に育ったのが原因か、それとも多岐にわたる政治活動で、婦人問題まで入り込めなかったのであろうか。



(戦前~戦後、婦人の地位向上に尽力した星島二郎(第一次吉田内閣時の写真)商工大臣、後列一番背の高い人。その右に田中耕太郎文相、更に右に和田博雄農相)




「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

岡山の婦人参政権獲得運動

岡山県特別高等警察課の調査資料によると、
1922年(大正11)4月の治安警察法改正に際し、これを記念して岡山市内の劇場で中国民報社主催のもとに、阪神から婦人弁士を招いて坂本鶴子(代議士の義妹)らの出演により、婦人参政問題を議論したことがある。

1926年(大正15)9月に婦人参政権獲得同盟(会長河口愛子、顧問安達内相婦人、鳩山一郎夫人)の岡山支部が発足し、
東京から会長らを招いて岡山、西大寺、倉敷の各地で演説会を開き、一部世人から軽蔑と嘲笑をうけながらも「婦人解放」の呼び掛けを開始した。
以来、支部長坂本鶴子、横山正江らを中心に月2回の婦人問題研究会やお茶の会を開き、パンフレットやビラをつくって宣伝につとめ、
各地に遊説して女性の自覚を促し、総選挙に際しては星島二郎、鶴見祐輔ら婦選に理解のある候補者の応援演説に駆け付け、議会に対して本部とともに請願書を提出するなど、熱心に運動を続けてきた。

1929年には岡山県会に公娼廃止建議案を提出、通過の瀬戸際まで行っている。
1929年4月現在の支部員は60数名。
婦人公民権は本年5月10日衆議院で可決されたが、13日貴族院の審議未了で実現しなかった。





「戦前昭和の社会」  井上寿一 講談社現代新書 2011年発行

「婦人」の登場

『家の光』の発行部数は、「婦人」の地位向上と連動していた。
これには大きな理由がある。

戦前における女性解放運動は農村の無学な女性たちがその歴史的な前提条件を築いていたからである。
農家の女子は一家の衣食の世話を引き受けてすることは勿論、田畠の仕事をする、一家の会計も多くは主婦の任ずるところだ。

この論考は、日本の主要な輸出品である綿糸や絹織物の生産がもっぱら女性の「勤勉労働」によるものであることに注意を喚起する。
「日本国は日本の男子は我が婦女に対して深い感謝を表すべきである」。

要するに農村においては、女性が男性と対等の労働力だったのだ。
そこから男女間の社会的地位の平準化が進んでいく。


「働く婦人」

男子普通選挙制度が確立する。
つぎは女性参政権ということになった。
まず政友会が「婦人選挙法案」を持ち出す。
ついで民政党も地方レベルでの「婦人参政権」で対抗する。
欧米の主要国で女性参政権がないのはフランスとイタリアだけであり、
日本においても女性参政権は時間の問題に過ぎなかった。
問題は選挙権の付与にふさわしい「社会からの敬意に答えようとする」女性になれるかだった。

農村の女性は身近な生活実感レベルからの男女同権をめざし、
参政権には漸進主義的な態度をとっている。
たとえば『家の光』昭和7年7月号には、
「参政権よりももっと大事な問題は、家庭内でもっと自由を与えられ、
女といえば奴隷のようにされる境涯を脱出したいのです」
着物を仕立て直し、機を織り、養蚕がだめならクルミの栽培で借金を返す。
福神漬けを茶菓子の代用とし、夜なべ仕事で得たわずかな額ではあっても貯金をする。
恐慌化の農村を支えていたのは女性たちだった。


恐慌が促す社会進出

参政権といった政治的な地位向上よりもさきに、女性の経済的な地位向上が進んでいた。
助産婦、女優、看護婦、女給はもとより
美容師、裁縫師、タイピスト、電話交換手、会計、車掌、教員、事務員、飛行家、医師、そして巡査までにも、
どしどしと領域を広め男の領域をも侵略しつつある。
なぜこうなったか。
恐慌が女性の社会進出を促した。
夫の収入を補うためにやむなく仕事に就く。それが事実として、女性の地位向上をもたらすことになった。

同じ1931(昭和6)年、満州事変が勃発した。
国防婦人会が誕生し、「エプロン」(割烹着)が制服になり軍部の支援を受けた。
主な活動は出征兵士の見送りなど、停滞期が訪れた。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弾圧、干渉による「翼賛選挙」

2021年08月27日 | 昭和16年~19年
翼賛選挙に非推薦で立候補した人、その家族や支援者は、世を敵に回しての苦しい選挙活動だったと思える。
あの時代でも、非推薦候補の得票総数は全体の約35%あり、当時の表面的な支持にくらべ意外に批判票が多い。

この選挙で非推薦の立候補者(当選・落選問わず)が戦後の日本政治をリードした。
主な非推薦立候補者
鳩山一郎(首相)
三木武夫(首相)
芦田均(首相)
片山哲(首相)
河野一郎
安部寛

・・・・・・・・

「昭和 第6巻」  講談社 平成2年発行

弾圧、干渉による総力戦体制の確立
選挙戦なき「翼賛選挙」


昭和15年10月に結成された大政翼賛会は内務官僚と警察が実験を握り、
単なる「上意下達」の行政補助機関と化していた。
これを不満とした東條英機首相は「大日本翼賛壮年団」(翼壮)を創設させた。
翼壮は翼賛選挙の忠実な実戦部隊となった。
昭和17年、マニラ占領、シンガポール陥落などが次々に報じられ国民は戦勝気分にわきあがっていた。
4月30日が選挙日と決まった。
この選挙は戦時下の選挙であり、かつ議会を政府に協力させる体制の確立を目的に行われたため「翼賛選挙」と呼ばれた。

東條内閣は、帝国議会を政府に協力的な議員で独占したいと考え、異例の推薦候補制度の導入を発表した。
しかし帝国憲法で公選制がうたわれている以上、政府自ら候補を推薦することはできない。
そこで翼賛政治体制協議会(翼協・会長阿部信行陸軍大将)という「政治結社」が設立され、政府に変わり国策遂行に都合のいい人物を推薦することになった。

翼協は帝国在郷軍人・市町村長・大政翼賛会支部役員など地方の有力者で構成され、
各道府県単位に支部を置き、推薦候補の選考と選挙運動の推進にあたった。
議員定数に当たる466人の推薦候補は4月9日までに決まったが、
このとき活用されたのが『衆議院議員調査票』である。
同調査票は、選挙に向けて警察が現職議員を調査し、内務省がまとめたもので、
現職議員は甲乙丙に三分類されており、当落予想まで併記されていた。

猛烈な選挙干渉と、その結果
4月4日に選挙が公示され、466議席に対して推薦候補466人、非推薦候補613人が立候補し普通選挙始まっていらいの激戦となった。
政府は翼賛会・翼壮・在郷軍人会・大日本婦人会・町内会・隣組などのあらゆる組織を通じ推薦候補を後押しした。

選挙期間中、非推薦候補は政府や軍部、警察の指導する、あらゆる組織を動員した選挙妨害を受けた。
非推薦候補者とその支持者に対しては「非国民」呼ばわりや「配給を停止する」など露骨な選挙干渉が行われた。

選挙演説も批判的言論が禁じられ「国民士気抑揚」のための官製演説が強制された。
一方、推薦候補には臨時軍事費の中から資金援助が行われた。

選挙運動は全体に低調だった。
しかし有権者が組織的にかり出されたため、投票率は全国平均83.1%と高かった。
開票結果は、
推薦候補 381人(当選率81.8%)新人195人 翼壮40余人
非推薦候補 85人 主な当選者町田忠治、安藤正純、鳩山一郎、尾崎行雄、浅沼稲次郎、西尾末広
落選者も含む非推薦候補の得票総数は全体の約35%を占めており、
東條内閣に対する批判票が相当多いことが証明された。

翼協は選挙後に解散し、翼賛政治会(会長阿部信行)が発足した。
議会からはほぼ全員が参加し、ここに東條内閣にたいして「イエス」と言うだけの「翼賛議会」が成立した。






「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

昭和17年「翼賛選挙」

東條英機首相はこの機を捉えて、議員構成を東條政権に有利な方向に誘導しよと考えた。
昭和17年2月17日「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を閣議決定し、
推薦候補導入による議会コントロールに乗り出した。
政府の指導の下に翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、候補者の選定にあたることになった。
各道府県に支部が置かれたが、支部長の多くは軍人や大政翼賛会・大日本翼賛壮年団の幹部であった。
翼賛議員同盟は翼協に働きかけ、466名が推薦された。

しかし、鳩山一郎・安藤正純ら同交会の議員は「官選議員出現の虞あり」と反対声明を発し、官憲の推薦参加は憲法違反と断じて翼協の解消を要求した。
中野正剛の東方会も推薦を拒否し、国家主義団体にも推薦制に反発する動きがみられた。
総選挙は4月4日に告示され、非推薦614名を含め1.080名が立候補した。

内務省は演説会で戦争・軍・翼賛選挙を批判することを禁止し、
推薦候補には政府側から資金援助が行われた。
また、非推薦候補が官憲から各種の妨害を受ける例がみられた。
干渉の主役は内務省であったが、一部では憲兵の干渉も認められた。
投票は4月30日に行われ、推薦候補381名、非推薦候補85名が当選した。
推薦候補の議席占有率は8割を超え、東條政権は議会方面でも足場を固めた。

なお、非推薦議員や立候補断念に追い込まれた政治家は、戦後にいたって「軍部」あるいは「軍国主義」に反対したものとして追及を免れ、一変した中央政界で飛躍の機会をえるケースが少なからずみられた。






第21回衆議院議員総選挙・投票日昭和17年4月30日
当選者
(Wikipedia)
岡山県 1区
岡田忠彦・久山知之・森谷新一・片山一男・逢沢寛
岡山県2区
小川郷太郎・ 星島二郎・犬養健・小谷節夫・土屋源市

太字が非推薦者
星島二郎さんは戦後・大臣や衆院議長
犬養健さんは戦後大臣





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦後初の総選挙・婦人参政権

2021年08月27日 | 昭和21年~25年
女性が初めて議員の選挙に投票したのが、昭和21年4月10日の衆院選挙。
戦後で世は混とん。
管理人の家では、神戸から戦災で焼け出された親戚3人が同居中。家の中は10人同居。
初めての投票した時のことを母に聞けば、
「背中に二子をおんぶ、片手に一子の手をつなぎ」投票に行った。

初の選挙は戦後の混乱の想い出の中の(小さな)一つのようだった。





「昭和 第7巻」  講談社 平成2年発行
実現した婦人参政権
40年間の苦難の道





実現した婦人参政権

終戦の日から10日後の昭和20年8月25日、市川房江が「戦後対策婦人委員会」を結成し、9月11日第一回会合を開いた。
その目的は、戦後における婦人関係の諸対策を考究企画し、政府当局へ進言するとともに、その実現に協力することだっが、
さしあたり政府、貴衆両院、各政党に対して
婦人参政権、男女平等実現のため5項目を申し入れた。

昭和20年10月11日、GHQは五大改革指令を発するが、その第一に婦人解放があげられていた。
このGHQの意向を察知した日本政府は10月9日に成立した幣原内閣が翌10日の初閣議で、婦人参政権と男子の年齢引き下げを全員一致で決定する。

婦人運動家の原田清子は、当時を次のように回想する。
「交通事情の悪いなかを全国から200人近い人が参加しました。
熱気あふれる大会でした。
当時は人口は女の方が多かったのです。
参政権を獲得したからといって女はダメだといわれないようにしなくては・・・婦人の自覚と政治意識を高め、婦人の政治講座を開いたり講演会を次々開催しました」。

昭和21年、この時の総選挙で婦人投票率は66.9%(男子78.53%)
39人の婦人議員が当選した。
初めて投票する喜びを婦人たちは次のように語っている。
「私は非常に感激した。モンペ姿でソロゾロと出かけた」
「一人前になれた嬉しさを感じた。なにしろ一票入れたら全部よくなるという嬉しさを感じた」

ほぼ40年の長きにわたって、連綿と続けられた婦人参政権の獲得運動は、
戦後ようやく実を結んだ。
この背景には、日本の民主化を推進しようとするGHQの強力な指示があった。
戦争の最大の被害者は女性であるとの観点から、婦人への参政権賦与は日本の非軍事化と民主化のために大きな役割をはたすと考えたからである。



・・・・



「昭和時代 敗戦・占領・独立」  読売新聞  中央公論社 2015年発行
昭和20年10月11日、閣議で婦人の参政権付与決定

終戦直後、日本の女性たちに「解放」の追い風が吹いた。
参政権が認められ、男女平等が高らかにうたわれた。

昭和20年10月11日、GHQは日本政府に「五大改革指令」を出した。
その筆頭が「選挙権付与による婦人の解放」だった。

敗戦後、市川房江や山高しげりら婦人参政権の活動家の動きは早かった。
8月25日に「戦後対策婦人委員会」を組織し、
9月に入ると日本政府とGHQの双方に、女性参政権の容認などを要請した。
10月11日の閣議で、選挙権と被選挙権の年齢引き下げげ、婦人の参政権付与を早くも決定した。
 
こうして選挙法改正が日本側の主導で進められた背景には、
戦前からの参政権運動の蓄積だけでなく、戦時中、
多数の女性が職場に進出、地域でも積極的に活動したことが挙げられる。

ただ男尊女卑の風潮のなお強い中、参政権によって「夫唱婦随の醇風美俗が壊れる」といった批判も相次いだ。

改正選挙法は昭和20年12月に公布され、翌昭和21年4月10日、戦後初の衆院選挙が実施された。
文部省は、「新しい日本は何で築く 男の命ばかりでなく女の命で築く」と記したポスターを貼り出した。
選挙権を初めて行使した女性の投票率は、政府が予想した40~50%を超え、67%を記録。市川らの戦前からの努力がここに結実した。





戦後初の総選挙

「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行


女性が投票所に行く

25歳以上の男子(戦前の普通選挙) 1241万人 (20.0%)
3688万人 (48.7%) 20歳以上の男女(戦後の普通選挙)
「満18歳以上」に引き下げられました、現在の日本では、満18歳以上の有権者は全人口の80%以上。

皮肉なことに、国民は敗戦を通じてようやく平等な選挙権を手に入れることになったのです。普通選挙の実現により、全人口の約48%が有権者となりました。


昭和21年4月10日には衆議院議員選挙、大選挙区定員10名、2名連記制
昭和22年4月20日には第一回参議院議員選挙、
昭和22年4月25日、戦後2回目の衆議院議員選挙、大正以来の中選挙区定員5人の二区。

戦後初の公選第一回の地方選挙は
昭和22年4月5日、知事、市町村長、
4月30日には県議会議員、市町村会議員が一斉に行われた。


敗戦の年の12月17日選挙法が改正され、婦人参政権が実現することになった。
ようやく完全な普通選挙制が実現する運びとなった。




「マッカーサーの日本」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行

「日本の婦人に参政権を与えよう。
女性の参政権が、日本の軍国主義をやっつける力になるだろう」

マニラから厚木に向かう専用機の中で側近に漏らした
(昭和20年8月30日)マッカーサーの言葉は有名である。

昭和20年12月に婦人参政権が確立され、
昭和21年4月10日の初の総選挙で千三百七十万人の婦人が初めて投票権を使い、
婦人候補三十九人が当選した。

また、昭和21年1月23日公娼制度を禁止している。
これらはいづれも新憲法以前に、”緊急命令”として発したものである。






選挙の当選者
(Wikipedia)

第22回衆議院議員総選挙
1946年(昭和21年)4月10日

内閣 幣原内閣
解散名 終戦解散・GHQ解散
岡山県 全県
西山冨佐太・犬養健・近藤鶴代・星島二郎・黒田寿男・若林義孝・中原健次・滝澤修作・ 井上卓一・逢沢寛

・・・
第22回衆議院議員総選挙
1947年(昭和22年)4月25日

内閣 第1次吉田内閣
解散名・新憲法解散
岡山県 1区
黒田寿男・大村清一・小枝一雄・西山冨佐太・榊原亨
岡山県2区
星島二郎・中原健次・近藤鶴代・重井鹿治・多賀安郎





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦・倒される忠魂碑

2021年08月27日 | 昭和21年~25年
終戦後、倒されたり、撤去したり、隠されたりしたもの。
GHQが来る前に処理した・・・文書焼却
GHQが来て、思い込みで処理したものと、指示により処理したものがあるが、区分はよくわからない。
学校の大楠公や和気清麻呂や二宮金次郎像は、天皇との関係がない金次郎だけ残った。


大井地区忠魂碑(笠岡市立大井小)



昭和4年に在郷軍人会の手により大井小学校校庭に建立。
終戦により一時小平井光明坊地に移していたが、再び小学校に復元している。
「遺族三十年の軌跡」岡山県遺族連盟発刊





「広島県の歴史」 岸田裕史著 山川出版社 2012年発行

記念碑等
終戦を契機に、戦没者への公葬は姿を消した。
忠魂碑などについても、除去や改革の処置がなされた。
たとえば、原村(東広島市)では忠魂碑(昭和16年建立)が倒壊され、
加計町(安芸太田)で戦役記念碑が取り除かれた。
山本村(広島市)では忠魂碑の文字をセメントで塗りつぶし、平和塔として存置した。
広島市皆実町の日清戦争の勝利記念として建立された「凱旋碑」も平和塔に改変されている。




「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

忠魂碑

忠魂碑は、台石や基壇の上に大きな板状の石碑を据え、表面に
「忠魂碑」「表忠碑」「彰忠碑」「誠忠碑」「「昭忠碑」などと大書し、
そのわきに題号揮毫者名を刻み、
裏面に多数の戦没者の姓名・官位・死亡年月日・造立年月日、造立者名・造立意趣などを刻むものが多い。

第号揮毫者は乃木希典をはじめとする元帥や大将など軍の最高幹部、
造立者は尚武会や在郷軍人会が多く、
軍部とそれを支える在地組織が造立に深く関わったことが知られる。

高さは2mを越えるものが主体で、5mに達するような巨大なものも稀ではない。
下から仰ぎ見るような位置にあることが特色である。
威圧感を持つ石碑が希求されていたことを如実に示す。
造立場所は、
社寺の境内のほか役場や学校など、公共施設の付近が多く、公共性が付与されていることに気づかされる。
1930年代になると、学校教育の中で忠魂碑への参拝などが行われ、忠魂碑が軍国主義教育の教材に供されるようになる。

1946年にGHQの指令によって軍国主義的性格を持つものとして撤去されることになり、大部分のものは地中に埋められたが、
1951年のサンフランシスコ平和条約締結後に再度掘り出され、再建されたものが多数みられる。
しかも、戦後新たに建設された忠魂碑の存在も少なからず知られており、
忠魂碑が持つ複雑な性格をうかがうことができる。

慰霊碑であり、宗教的・政治的・軍事的な機能を併せ持つ施設であるところに、忠魂碑の特色があるといえる。

・・・


忠霊塔

忠霊塔は昭和14年に設立された大日本忠霊顕彰会が、一市町村一基の忠霊塔を全国に建設する運動を展開するなかで広まった戦没者慰霊施設である。
形式は、規模の大小にかかわらず箱形の基壇上に角柱状の塔身を載せ、塔身に「忠霊塔」の文字を表したものである。
基壇の内部には、納骨施設を持ち、遺骨や戦死者名簿などを安置する。
忠魂碑と墓碑の性格を併せ持った。
忠霊塔に慰霊祭は地元の慣習に任されたので、仏教・神社の双方から反発を招いた。

・・・

招魂社
 
戦没者の霊魂を祀る神社である招魂社は、1869(明治2)年に東京招魂社が創建され、
鳥羽伏見戦争以来の政府軍戦没者の神霊を祀ったのを契機に、管理主体である藩が廃され荒廃していた地方の招魂場を整備する動きが現れたのを享けて、
1874年に内務省が各地の招魂社を官費で維持していく方針を打ち出したことによって制度的に確定した。
1934(昭和9)年内務省は招魂社を一府県一社とする方針を各府県に示し、1939年に制度化し、さらに招魂社を護国神社と改称することを命じ、護国神社制度が発足をみた。
大日本忠霊顕彰会が設置され、忠霊塔の建設が本格化するのもこの年のことであり、日中戦争の膠着状態のなかで国民を戦争協力に掻き立てるべく戦没者慰霊施設の整備が画策されたものと考えられる。






「昭和 第7巻」  講談社 平成2年発行

銅像追放
はじめに広瀬中佐
GHQの指令に基づき、東京都の忠魂碑銅像等撤去審査委員会は、
都内20基の記念碑・銅像の適否を21年12月から検討しており、その結果が5月に発表された。
残置が決まったのは,宮城前の楠公像や上野公園の西郷隆盛像など11基。
7月21日、都建設局は撤去作業を、神田万世橋の「軍神」広瀬武夫中佐の銅像から始めた。







福山市多治米町誌」

備後護国神社鳥居

新築中の護国神社は昭和20年8月8日の空襲で焼けた。
戦後「このままだと取り壊されるおそれがある」と市当局者は近くの地中に二基とも解体して埋蔵した。
神社跡は福山市民球場ができ、次いで昭和43年市立体育館が建設された。

その後、備後護国神社として昭和33年福山城背の阿部神社を改築し合祀された。
一基は昭和36年に発掘し現備後護国神社参道に再建された。
もう一基の方は埋めた場所が分からなくなり「幻の鳥居」と呼ばれていたが体育館駐車場下にあると分かり、昭和55年秋の大祭に間に合うよう再建された。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井笠鉄道 敗戦・戦後の混乱

2021年08月24日 | 昭和21年~25年
食べるもの・着る物は戦争が終わって、一層深刻化したが
鉄道やバス経営も、同じように昭和22・23年頃が営業難だったようだ。
煙を吐くバスは戦時中のイメージだったが、戦後の昭和25年までつづいている。



(くじば機関庫)


「井笠鉄道株式会社五十年史」  井笠鉄道  昭和37年発行

井笠鉄道 敗戦・戦後の混乱

戦後インフレの中で経営を打開しなくてはならぬ最悪の状態においこまれていた。
戦時中の打撃は極めて大きく、苦難の時代を乗り切ってきた関藤謙治氏は、
「戦時中の過度の輸送のため機関車を酷使し、且、自動車においても11台にのぼる車両供出をなし、修繕資材は品質劣悪で修繕意のごとくならず・・・」と述べている。
バス事業は昭和22年1月GHQによって代燃車をガソリン車に切り替えることを禁止していたため、新車しかガソリンは使用できず煙を吐いて走るバスがみられたのもこの時期であった。

ガソリンの供給は昭和24.25年頃から好転し、25年にはゴム原料の統制が撤廃され、タイヤ等の自由な購入ができ出し、ついに
昭和26年5月1日に代燃車をガソリン車に切替えることが承認された。
昭和27年6月30日に石油全製品の統制が撤廃された。
かくして日中戦争勃発以来強化されてきた物資の統制がなくなり、バス事業の本格的発展が開始された。





(吉田村と記されているが、今は畑が自然の山に戻っていて、吉田のどの付近かよくわからない)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伏鱒二と木山捷平

2021年08月23日 | 昭和21年~25年
昭和21年10月14日、井伏鱒二は笠岡の港でママカリを釣っていた。
そこで戦後初めて木山捷平と再会した。




「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

捷平は昭和19年の暮れ、自由な文筆活動のできる新天地を求めて日本脱出を図る。単身満州に渡る。
そして現地召集、特攻部隊配属、敗戦、難民生活と辛酸をなめる。

かくして敗戦後の1年間を「百年を生きたほどの苦しみに耐え」た捷平は、
昭和21年8月、妻子の疎開先である笠岡の生家へたどりつく。
豊かな自然と食糧事情にも恵まれた農村で、心身の傷をいやしながら生還できた喜びと平和の尊さをかみしめながら、「帰国」「幸福」「疎開者」などの10編の佳作を発表する。

一方、近郷に滞在中の井伏鱒二、古川洋二、小川祐二、村上菊一郎、藤原審爾、木下夕爾などと笠岡界隈でしばしば会合し、飲食と歓談を楽しむ。
「御大であり長老である井伏鱒二氏のかもし出す雰囲気にわれわれは酔った。
文壇のエース井伏氏をわれわれ疎開組だけで独占しているような快感」
(小説「井伏鱒二」)
を満喫しながら鋭気を蓄える。

昭和24年3月、単身笠岡を離れる。
捷平にとって戦後2年7か月の笠岡滞在は、飛躍に向けてのエネルギーを蓄積していた時期と言ってよいであろう。






昭和21年10月14日、井伏鱒二がママカリを釣っていた場所(多分、この付近)




「井伏鱒二と木山捷平」 ふくやま文学館  二葉印刷 2008年発行


満州から引き揚げてきた木山と、郷里疎開中の井伏とが再開したのは、
昭和21年10月14日のことであった。
戦後初めて二人が再会した。


井伏鱒二「木山君の人がら」1968年10月

終戦直後のころ、私が備中笠岡港でママカリ釣をしていると、
肩章のない兵隊服を着た木山君がひょっこりやって来た。
久しぶりの偶然の出会ひだが、いきなり木山君がかう言った。
「僕はね、こなひだ満州から引揚げて、この近くの僕の生まれ在所にころがりこんじゃった。」
「それで君は、その生まれ在所で何をしているんだ」と聞くと、僕は地主で、家内が小作人だと言った。
これは木山君の郷里に疎開している奥さんが、空閑地利用で菜園か何か作っていて、木山君自身はぶらぶらしているといふ意味に解された。
こんな風に木山君は、お互いに久闊でびっくりしている場合でも咏嘆的な言葉や感傷的な口吻を見せない人であった。
詩や随筆を綴る場合にもその傾向があった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦 (長船町・邑久町・金光町・鴨方町・岡山市)

2021年08月23日 | 昭和20年(戦後)



長船町史」  長船町史編纂委員会 第一法規出版 平成13年発行

昭和20年8月15日、天皇は、この日の正午、ラジオを通じて国民に戦争の終結を告げた。
多くの人は、今まで支えてきた気力が抜け、虚脱状態の中で、戦争終結の安堵感と敗戦による今後の国家や村や自分たちの向かう方向への不安とが入り交じって複雑な気持ちになった。
農村地帯であるこの地は、空襲などの傷あとは表面的にはみあたらなかった。
村内を見ると、男子若者が兵士や都会の軍需工場へ徴用などでかり出されて、見あたらなくなっていた。

敗戦から一か月ほどが経過して、やっと気持ちを取り直してきた9月18日のことである。
前日の17日から枕崎台風が西日本を襲った。
18日午後3時、水位を上げてきた吉井川は200mにわたって決壊した。
濁流は一気に邑久郡中北部一帯を泥海に変えた。
停電が続き夜は真っ暗闇、また赤痢などの発生も心配しなければならなかった。
20日後、低地でも水が引き、被害の跡片付けに手を付け始めた10月8日、
阿久根台風で、吉井川はまた氾濫した。
前回決壊堤防から、そこを通り流れ出した。
二度の氾濫で郡内の自給自足さえ危ぶまれるようになった。



邑久町史」 邑久町役場  昭和47年発行

終戦直後、進駐軍三千数百名が岡山市に駐留し、邑久ではさまざまな憶測がとび、
流言が流れた。
この邑久の人々の不安をさらに深刻なものにしたのは、同年あいついで起こった風水害である。
農村にとって天災はもっとも恐ろしい大敵である。
邑久町の西部全域が水をかぶった。決壊の水は浸水1週間つづき、10月には再び増水した。





金光町史」 金光町 平成15年発行

敗戦に伴う軍隊の解体、満州・朝鮮・台湾など旧植民地の放棄、
占領体制下における天皇制国家の政治体制の解体と民主化への改革の歩みが進められることとなった。
内務省の解体と新しい地方自治体の創出、警察制度における特高警察の廃止と地方自治警察の創設、財閥解体と労働関係三法の成立、農地改革、教育における六・三制への移行、宗教における信仰の自由の体制などがこれである。

戦後改革の手始めは、戦争の指導者たちを各界から除去するという公職追放であり、
また戦後の民主化をなす選挙制度の改革、とりわけ婦人参政権の実現となってあらわれた。




鴨方町史 本編」  鴨方町  平成2年発行

「雑音で聞き取れない重大放送は内容は判らなかったが、何となくおかしいと感じた。
其の日、遂に日本が負けたと知らされたとき、まだ20代前半だった私は、声を放って泣いた。
その翌日から百八十度転回した通報達が来る。
先ず教科書の幾つかのページを墨で塗りつぶす。
昨日までひたすら敵意を駆り立てていた子供たちに、どう説明すればよいか、と私は戸惑った。」
終戦の迎え方は職業や役職・地位などによって相違していたが、敗戦による不安と安堵感は共通していた。




「岡山市百年史下巻」 岡山市 ぎょうせい 平成3年発行

岡山市

敗戦の日の人々の表情を『合同新聞』(昭和20年8月16日)は次のように伝えている。

「其航空機工場」 わたしたちは力の限り戦った、しかも負けた、どうしてでしょう。
涙涙、ただ涙。挺身隊の乙女たちが雄々しく結んだ白鉢巻も今は悲しく手に持たれ、東方を伏し拝み、天皇陛下に力及ばざりしを御詫するのみ。

「県庁」官吏としてすべきことはなした。県民には無理を言ったが、涙ぐましい努力によって完遂してくれた。
このうえは戦後の秩序維持、食糧増産、土木再建等重大使命に全力を傾注しなければならない。

「農村」 戦争には負けたが、国民の食糧問題の成否を担うわれわれ農民は頑張るぞ。

「街頭」焼け残った家の片腹に防空壕を構築していた町内会の人々は、
思ひもかけぬ発表に”畜生ッ”と手に持った鍬を叩きつけ、どっかり大地に腰をおろした。
家を焼かれ子供も焼かれた、しかし聖断を仰ぎ奉った。
街の人々も逞しく起き上がった。

橋本市長と戦災復興
竹内市長は、戦争末期の翼賛市政の中心的指導者であったばかりでなく、軍人市長であった。
昭和20年9月24日の市会で辞意を表明した。
辞任の理由は「将軍市長の使命終われり」というにあったと伝えられる。
倉敷紡績から合同新聞社長になった橋本富三郎氏が市長になった。最後の内務大臣によって専任市長。
10月23日、5.000人の米軍将兵が旧陸軍兵舎に駐屯した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和20年頃の学校生活

2021年08月22日 | 昭和20年(終戦まで)
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行

終戦処理

8月16日学徒動員解除、
8月24日学校教練、学校防空関係の訓令が廃止
8月25日岡山県の通達
一 御真影、詔書類は奉安殿・奉安所に奉還すること
二 ポスターや戦意高揚の一切の資料は除去する、そのほか

戦災を受けなかった学校は、夏休みあけに二学期を迎えたが、児童の転出入はどの学校も多かった。
教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、全般的に教育そのものも活気を失ってきた。
これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足はインフレの激化のなかで教師生活を不安定にした。

国民学校では男女共学が基準となり、二人用の机に男女が並んで席についた。



・・・

「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)

大井国民学校

終戦前後の思い出  K男(旧職員)

戦況はいよいよ深刻になり、国民の食糧さえ乏しく、小国民も食糧増産に参加して、蛸村と小平井の2個所に開墾畑を作り用具や資材を運び、
汗を流して国の方針に微力を尽くした風景が今も明確に眼底に残っています。

昭和20年8月15日正午、
あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止め度もなく涙が流れ、職員室に入って何時間も机にかじりつき悲しくて動けなかった事が思い出されます。

戦後はマッカーサーの指令とかで、色々の命令が次々と達せられ今まで大切に使用していた掛け軸や図書は一纏めにして提出、どう処理されたか不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし、
国民の混乱は児童生活のうえにも反映して昭和21年22年は極度の動揺を来たし、学校経営の困難にも遭遇しました。


思い出 F男(昭和20年度卒業)

5年生の頃は戦況も悪化し、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。
上級生とともに六道の山へ開墾に行き、切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしたものです。
運動会もありませんでした。

6年生の時は、戦況は最悪でした。
初等科以外の学校では授業を1年間停止され、中学生、高等科の生徒は学徒動員として兵器を作る工場へつれていかれました。

卒業写真は私たちの学年だけありません、しかし71名全員健在で生活を送っています。


・・・

「大島東小学校百年史」 昭和50年発行より
大島中国民学校 

大島東小の思い出   H男(元大島東小教諭)

昭和20年になって疎開が激しくなり、この学区も疎開の児童が相当多くなって、私が受け持っていた4年生などは2人掛の腰掛に3人掛けさせても、まだ足らなくなり、
教壇に本やノートを置いて座って授業したこともあります。
習字の時間には2人掛でないと書けないので、廊下も使用していたほどです。
児童数は一学級80人くらいまでになっていたと思います。
机の間を通って巡視することなど出来ませんでした。



・・・
「神島史誌」

神島内国民学校


昭和20年2月4~5日 松根油製造つくり奉仕
    4月18日 高等科生、東村の山林開墾に着手
    6月22日 米機空襲。機関銃弾、付近に数発落とす

昭和21年10月 教育勅語の廃止

昭和23年4月 6.3.3の新学制実施
    5月21日 女児に対しDDT散布
    7月15日 BCG接種



「神島史誌」より
横江国民学校


昭和20年4月4日 入学式。男15、女14.
    4月27日 5.6年生全員終日開墾
    5月5日と11日 敵飛行機、頭上通過
    5月27日 小体育会。午後、義勇隊の結成会。婦人会は竹槍訓練
    5月30日 3年生以上、前8時半より後3時まで大殿洲開墾作業を実施
    6月1日 開墾地約2畝完成。サツマ芋の植付け終わる。

・・・

「学校誌~統合に寄せて~笠岡市立高島小学校」 昭和55年発行

高島国民学校


おもいで
昭和21年度卒業生 Y男

5.6年生の頃は、全校生徒70名もいたと思う。そのころは本当に楽しかった。

当時は先生方は島に泊まって共に生活しておられた。
土曜日になると、神島まで船で送っていたものです。
4年生の頃から2.3人で櫓を漕いで、先輩に潮の流れを教えてもらって、風が吹いても平気で送っていったものです。
これも当時の生きた教育ではなかっただろうか。

5年生の8月15日に終戦。
6年生の時、私は進学を志し必死で勉強した。
でも本は焼かれ或いは墨で黒く塗られ、当時の恩師K先生の指導は大変だったと思う。



・・・
「吉田小学校百年史」 平成12年発行より

吉田国民学校


小学校の思い出 S子(昭和20年卒業)

昭和14年、私は尾坂分教場へ入学しました。

親が夜なべして藁草履を作っていくれて、それをはいて学校に行きました。
4年生になると本校に通います。
その頃になると吉田村から戦争に行った人が戦死され私たちは吉田駅から道へ並んでお迎えしました。
若い看護婦さんが戦死されてきれいな写真が遺骨とともに帰ってこられたときは涙がでました。

6年生の頃になると、この学校にもお友達が次々に疎開してきました。
都会からこられたお友達はきれいでよく勉強できて輝いてみえました。
昭和20年3月吉田国民学校を卒業しました。
修学旅行も卒業写真もありません。



・・・


「笠岡小学校百年史」 昭和48年発行より

笠岡男子・女子国民学校


女子も男子と同様に軍需工場に動員された。

昭和20年6.15 学徒出動(女子校・高等科2年)
    6.28 学徒出動(男子校・高等科2年) 大塚工場へ入所式
    7.23 学徒出動(報国鉄工所)(女子校高等科1年)






・・・

笠岡高等女学校 「笠岡高校70年史」
笠岡女学校・昭和20年卒手記  (O子)

昭和19年6月、私たち4年生にも動員令が下った。
昭和20年の新年を迎えたころから、敵機の襲来の数が増した。
がんばっている私たちに、予想もしなかったショック的な知らせが報じられた。
それは4年生で学校の終了課程を終えるということだった。
仕事をしながらも、書物をひもとき、友だち同志で研究はしあっていたけれでも、
もう一度、千鳥ケ丘の教室で勉強したいと思った。
もう少し、女学生生活を明るく楽しいものにしたかったと願ったが、それは時世的にもゆるされなかった。
万寿工場の川べりの柳の芽がふくらみかけた昭和20年3月31日、
動員生徒の合同卒業式が、三菱重工業水島製作所の講堂で行われた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

特高警察「公職追放」

2021年08月22日 | 昭和21年~25年
昭和20年8月15日の玉音放送を母は、
「それを言うんじゃ、ゆうて、みんな言ぅた」と、放送の始まる前に内容(敗戦)を理解していた。
そういう国民の声には出ないが、秘められた世論を特高警察は正しく分析していたようだ。

知っても現実を見ようとせず、”一億総玉砕”いっぽんの帝国陸軍よりは、特高警察の方が冷静だったようにみえる。
終戦後の特高警察の解体には、その冷酷で冷徹さがよく示されている。





「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行

敗戦の予感

特高警察が敗戦不可避という認識をもつに至ったのは、
昭和20年春頃だった。

4月の小磯国昭から鈴木貫太郎への内閣交代時の「警保局長引継書類」では、
「民心の動向」について、
「ことに最近における敵の比島および硫黄島、沖縄等に対する侵寇ならび本土空襲の激化等、戦局の急展開に伴い、一般民衆は戦況の劣勢、戦局の不安感より著しく悲観的、敗戦的感情を濃化しつつあり」ととらえるようになった。
5月の警保局、
人心は「正に総浮腰」となり、不安動揺は全国的に拡大しつつあると観測する。
7月10日、警保局保安課旬報、
「沖縄島失陥に伴う民心の動向は極めて顕著なる敗戦感一色に塗りつぶされたるやの感ありて、
これに基因する厭戦、反戦、自棄的無気魄状態の推移は極めて警戒を要するものあるとともに、
空襲激化、生活逼迫に伴う戦争疲労感の台頭と相俟って敗北主義的気運の浸透を懸念さるるものあり。
他面において戦況不振の責任を責任を糾弾する反軍、反官、反政府思想の深刻化、一般化ある等、
今後における民心の推移は極めて注意を要するものと認めらる。」


「特高警察の解体」

昭和20年8月15日の玉音放送で、為政者の最大の関心は「国体護持」=天皇制の存続であったが、その一端は自他ともに特高警察が担うべきものとされた。
むしろ敗戦の事態にこそ、特高警察の本領が発揮されるべきと考えられた。
警保局は9月下旬までに翌年度の予算要求として特高警察の倍増案を立てている。
今後、食糧問題・失業問題・悪性インフレなど「各種の治安上困難なる事象」が予想され、
各府県を含めて1万人以上の増員を計画した。

廃止論の広がり

治安維持法の撤廃についてまだどこでも問題となっていないのは「不思議な立遅れ」だとして、
維持法の撤廃、違反者の釈放から出発すべきである。
特高への恐れが大勢を占めていた。
満州国などの特高警察は、大日本帝国の崩壊とともに消滅した。
10月4日,GHQは「政治的、公民的、宗教的自由に対する制限の撤去」をつきつけた。
治安維持法等の一切の弾圧諸法廃止
「政治犯」の即時釈放
特高警察の廃止と、全特高警察官の罷免などが指令された。
東久邇内閣は退陣するほかなかった。



(昭和20年10月5日・読売報知新聞)



公職追放

合計4.990人が罷免となった。
まず休職となり、のち「依願退職」で、全警察官に対する割合は約6%である。
朝日新聞は10月6日「治安維持にも姑息な態度」と内務省首脳部の認識と行動をの「低調浅薄」を指摘する。
GHQの「要求してきたものは譲る、向こうで気の付かないものは現状のまま」という姿勢に終始した。
罷免の不徹底
基準を10月4日の現職者とした。1/3以上が他の公職に再就職することができた。
「退職特別賜金」も出た。数年後には復帰者も多かった。


公職追放(第二弾) 昭和21年1月4日

「8年以上、または昭和16年以降4年間以上特高警察に従事」した警部以上の者。
当初の試算では10.500人の個別審査が予定されたが、86人が該当された。

「憲兵と特高の政治警察は、民主主義実現の一大障害をなすものであった。・・・
これが廃止によって、暗い空の晴れゆく明るさを感じたことは事実である」
1月11日朝日新聞「天声人語」欄は、大方の受けとめ方といっていよい。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「特高警察」とは

2021年08月22日 | 昭和20年(戦後)
敗戦後、まっさきに”公職追放”を受けた「特高警察」とは、どいうゆう存在だったのだろう。



「岡山県県政史」

特高警察官の一斉罷免

「公職追放」は,GHQが計画し、その指令に基づいて、日本政府がこれを実施したものである。
1・応急的追放 特高警察官の一斉罷免(昭和20年10月4日)
2・第一次公職追放 昭和21年4月の衆院選挙を前にして、その規模は大きく政治革命といわれた。
3・第二次公職追放 地方公共団体に極めて大きく影響し、県・市町村およびその議会に多数の該当者があり、地方政界の革命と言われた。
4・公職適否審査委員会
5・追放解除 昭和25年10月から一部解除が始まり、昭和27年平和条約発効とともにすべての公職追放は消滅した。

特高警察官の一斉罷免
本格的公職追放の実施に先だち、昭和20年10月4日、GHQは政治犯の釈放、思想警察の廃止、総動員法による特殊会社団体の解散を指令した。
思想警察の廃止の指令は、特高警察官、憲兵の一斉罷免をもとめたものであった。
このため、本県では県警察部長、特高課長以下の課員および各警察署の特高係巡査に至るまで70余名が全員罷免された。
これとともに県警察部特高課は消滅廃止された。





「岡山県史 第13巻」 岡山県 昭和59年発行

戦争の指導者たちを各界から除去するという、いわゆる公職追放は、
非軍事・民主化のための最も重要な占領政策の一つであった。
アメリカ軍の本土占領がほぼ完了した昭和20年10月4日にGHQは「政治的、公民的宗教的自由に対する制限除去の件」と題する覚書を発した。
これは治安維持法その他の自由抑圧法規の廃止、政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、内務大臣をはじめとする特高警察官の罷免などを指令していた。
この特高警察官の罷免、いわゆる特高追放が公職追放の始まりであった。
岡山県では、当時の県警察部長、特高課長以下特高関係警察官69名が罷免された。







「特高警察」 萩野富士夫 岩波新書 2012年発行

高見順は「日記」に、「特高警察の廃止、胸がスーッとした。暗雲が晴れた思い」と記した。
特高警察といえば、その拷問に象徴される暴虐性がやはり想起される。
特高警察は、表向き拷問死を否定するが一方で
「お前も小林多喜二のようにしてやるぞ」と恫喝するのを常とした。
戦前を通じて日本国内では拷問による虐殺80人、
拷問による獄中死114人、病気による獄中死1.503人と数えられている。

「生きている」特高警察
昭和天皇即位の「大礼」時、(1929)や各地への行幸時には、警察による全国一斉の「戸口調査」が実施され、間借り人・下宿人らの徹底調査や貸座敷、料理店、飲食店、旅人宿などに対する「検索」(立ち入り調査)がおこなわれた。
この「戸口調査」は「巡回連絡」として現在も実施されている。
一般警察官が担当し、情報は、戦前は「特高警察」、戦後は「警備公安警察」に集められる。

3・15事件
1928年2月の衆議院議員の最初の普通選挙で、日本共産党は党員の立候補やビラの配布など、
公然とその姿をあらわした。
これに危機感を強めた田中義一内閣は、3月15日未明、1道3府27県で一斉検挙を断行する。
検挙者は約1.600人。田中内閣は「赤化」の恐怖をふりまいた。
「国体」変革を企図する共産党の広がりが為政者層全般に与えた衝撃は大きく、治安体制が拡充整備されていく。

特別な高等警察
警察の機能は一般に犯罪の予防をする「行政警察」と、
犯罪の捜査や容疑者の検挙・取調べを主とする「司法警察」に分かれる。
戦前の警察の特質はの一つは、この「行政警察」の領域が広く、
犯罪予防以外に、衛生・工場・建築・営業などの国民生活と密接に関わり、
支配統治機構の末端の執行機関として機能していた。
もう一つの特質は、「特高警察」に代表される治安維持・社会秩序の維持機能の強化である。


特高の二層構造
特高警察の指揮センターは内部省警保局保安課であった。
高等試験の388人(1941年)、地方の特高警察約10.000人。
各県に「特高課」、各警察署に「特高係」が置かれる。

特高警察の日常
(1938年宮崎県特高関係書類、米軍没収)
発禁出版物一斉取締り
落書き一斉取締り
要視察人名簿整理
防諜座談会開催
不良新聞記者取締り、外国人一斉視察、朝鮮人一斉視察
邪教一斉取締り
小作争議未然防止
さらに、裏作作付けや貯蓄心の「銃後の活動」にもあたる。
宮崎県特高課は10人、各署特高係は合計30人という陣容である。

思想検事と特高警察
平沼騏一郎に代表される司法官僚は大逆事件で主導権を握ったが、
その後、「思想犯罪」の対応は特高警察に後れをとっていた。
地方裁判者検事局に「思想検事」が配置された。
労働・思想と実際に第一線で対峙するのは警察力であった。

思想憲兵
軍部でも思想問題に関心を寄せた。
憲兵は軍隊内の警察機能を有すると同時に、軍隊の外の一般社会において軍に関わって起こった犯罪に対する捜査や検挙などの権限を持った。
反戦や反軍の運動・思想であり、「満州事変」以降、思想憲兵の活動する場が広がった。

それぞれが優位に立とうと、活動に拍車をかけることになり、
その結果として社会運動のえぐり出しや国民生活・思想の監視と抑圧の度合いをさらに強めることになった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする