しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

麦を作る②真田を編む

2022年01月31日 | 農業(農作物・家畜)

城見小学校の講堂は「真田講堂(さなだこうどう)」と呼ばれ、
児童の学校自慢の一つだった。
戦前、城見尋常小学校の生徒が何年間も真田を編んで貯めたお金で建てた講堂。
ここで式や映画や学芸会をしていたが、昭和50年頃老朽化で壊された。

・・・・・・

小田郡史(大正13年版)の城見村史より

生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町

主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。


・・・・

(父の話)

真田講堂はまだなかった。
ちいとずつ貯金をしていって作った。
えっとみんなで貯金していた。
2000・5・14

真田を編む 

裸麦の穂をそろようた。 先は先で取り、中は中でとりょうた。
上の細いとこと、真中辺を切る。

麦は硫黄でうむして白うして、乾燥させて、真田にしょうた。

真中は潰して真田、先のエエ部分はごぶしをなようた。

子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。
学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。

今はだれもしょうらん。
麦を植える人もおらんし、乾燥炉もねぃ。

談・2000・6・17

・・・・

(母の話)

真田

裸麦をはやめにとりょうた。

雨がふったらいけん。色が変わるけぃ。


けっこうに並べて硫黄をかけてうむす。そりょうを外へ並べて干しとく。
「うむし」はどこの家にもありょうた。

そりょうをとっとく。長屋の上へ。

ちぃちぃとだしちゃあ真田をこしらようた。

談・2001・1・1


・・・・・



(懐かしの真田講堂)

・・・・


「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館(福山市大門町) 昭和52年発行



麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほとんどで、
戦前は小学校で講習、競技会がもたれた。


・・・・・

福山市「引野町史」
麦稈真田

当地方での麦稈真田の製造は、明治21年ごろ大津野村在住坂本弁右衛門が、
岡山県浅口郡地方に赴き、好業種と認め、自ら習得して帰ったのが始めと伝えられている。
当初は製品を浅口郡地方の商人に売却していたが、
明治24.25年になって、村では2~3の業者が、原料を供給して村内の人々に賃組みさせたことから漸次従業者が増加した。

明治26年になって原料の麦稈に改良が行われた。
すなわち、品種に長稈の「やはず」を選び、
やや青刈りしたものに硫黄漂白を施して良好な結果を得た。
こうして原料を自家生産することにより収益を得た。
また明治27.28年になると、隣村の大津野村に輸出問屋の支店が数店開業し、
商取引も活発化した。

こうしたことから、30年代に入り村内では非常な隆盛を見せ、
農家の副業として殊に手作業ということから婦女子の内職として広く普及した。



・・・・・

「神島史誌」

横江小学校
昭和6年9月14日 真田競技大会
昭和7年9月20日 校内麦稈真田競技会
昭和10年9月10日 麦稈真田競技会
昭和11年9月8日と9日 麦稈真田練習会
昭和13年10月3日~8日 真田編み会
昭和30年冬休み中の真田出品により児童用雨傘25本備え付け

神内小学校
昭和10年11月20日 真田競技会


・・・・


「倉敷市史8」

麦稈真田

材料となる裸麦はヤハズなどの品種が適している。
ヤハズは太くて伸びがよく、つやもよい。
第一関節が特によく伸びる。
早生種であるから入梅までに採取できる。
上質の麦稈を確保するために、青刈りと称して適期の1~2週間前に刈り取った。
そのため麦としては収穫が減少し、麦の品質も劣るが真田の生産による収入増はそれを遥かに上回った。

「千歯扱き」で穂を落とした棹は、三節のところより押切で切り、その夜「晒小屋(さるしごや)」で晒す。
翌朝漂白した美しい麦稈ができ上り、天気がよければ2日ほどで乾燥が仕上がる。

藁の二節(にぶし)の手前を鋏で摘む。これを荒摘みという。
天日干しをして袴をそぐり(除く)、次に先節の手前をまた鋏で摘んで天日干して先の袴をそぐり、
二節は節をそろえて小束にして、押切で切り落とす。

その後、「調選(ちょうせん)」で下ろし太さの選別をする。
問屋の注文を請けて「とんび」(仲買人)が真田紐の見本をもってくる。
この注文にあわせて、先は丸のままで、二節は「突割」で二つ割、二つ半割、三つ割というように、麦稈を割って使用する。

真田を組む
真田紐を編むことを、組むといった。
現金収入の少ない田舎のことで、手の動かせるものは全部真田組をした。
組み方は簡単な三平から複雑な五菱まで30種類以あった。

麦稈真田組みは永らく農村の経済を支え、わが国の外貨獲得にも大きく貢献してきた。
大正初期~昭和5年頃が最盛期、
昭和30年代、産業構造の変化で真田組みは終幕を迎えた。

・・・


・・・・




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麦を作る①

2022年01月30日 | 農業(農作物・家畜)

5月の終わりごろ、
学校への道は道端に干した苅りたての麦がぷ~んと匂っていた。
小学校の時も、中学校の時もそうだったが、
高校生の通学路には、その思い出がない。

思い起こせば、その頃に家から麦飯はなくなり、
祖母の内職だった真田も無くなった。
畑や田んぼから麦が消えたのは高校生の時だった。

・・・・
(父の話)

よう乾燥しょうたところは(稲刈りがおわった後で、株を)はねうがして、麦を植ようた。

小麦藁を屋根にしとった。小麦でなきゃあつかえなんだ。細いし大けい。
裸麦は搗いて食びょうた。搗いたら白うなる。そりょぉ米に混ぜて。
昔の「麦飯」いうのは裸麦を混ぜのをようた。

真田麦は裸麦を硫黄で蒸して、摘んで、さらして白ぉして、それで真田を組みょうた。
打って、やおうして、手でもみょうた。(縄を編んでいた)
だいぶ打ってやおうしとかんと編めなんだ。


2003・5・18


・・・・

「矢掛町史 本編」 ぎょうせい 昭和57年発行

すたれゆく麦作

稲の収穫後の整地には、稲株の掘り起こし、砕き、牛ンガでさらに深耕、
マンガで引いて、鍬で整地。
他に、
稲株をそのまま残し、株の上か株間に穴をあけて数粒の種子を手でまく方法がとられていた。ゲンコツ植えと呼んでいた。

厳しい寒さの中で麦踏みを、男は地下足袋を履き、ほおかぶりをして麦の上を踏んで歩く。
春の草取りを経て、刈取期を迎える。
5月中旬から6月下旬である。
手労働による刈取り作業の後、
小麦は刈り干し(ベタ干し)して足踏み脱穀をして、実干しの後貯蔵される。
裸麦、ヤハズ麦は千歯にかけて、からさおで打つか発動機で脱穀した後実干ししてから貯蔵される。


用途は、
ハヤズ麦・・・実は麦飯・飼料、麦稈は真田
裸麦・・・実は麦飯・飼料、麦稈は多く牛小屋に入れ荒肥えの原料
小麦・・・うどん粉、そうめん、醤油の原料。麦稈は屋根材として貴重であり、
スイカ・なんきん・きゅうりの敷き藁としても使われた。


太平洋戦争による都市住民の疎開、
敗戦による食料難び深刻化する昭和20年代は、田畑をあげての農業生産に必死で取り組んだ時代であった。
また二毛作田も増えた。

しかし工業化への政策は農村の労働力を吸収し、農村部の人口も減少させることになった。
麦作は戦前より、米作に対する裏作としての水田利用や畑作として栽培されていた。
金のかからない、逆に収益にもならない意外性のない経営であった。

昭和40年代に激減、衰退した。
昭和35年頃から兼業農家の増大、
小麦の輸入の増大、二毛作を一毛作で裏作がなくなった。
政府の保護が米作ほどになかった。
収穫期は5月中旬から6月下旬。

減少
昭和21年、田の面積の1/8が一毛田が、年を追って増大し、昭和45年では2/3に達している。

 


(笠岡市カブト東町)
・・・・

「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版


麦と雑穀

麦の代表的なものは大麦である。
裸麦は大麦の変種である。
小麦は畑で作ったが、水田二毛作の裏作として作った。

裸麦には種類があって、ヤハズは節間が長く、麦稈帽子用の真田に適していた。

麦作りは「多労多肥」といわれるように、多くの労働力や肥料をつぎ込まねばならなかった。
江戸時代から魚肥やセントク(菜種粕)大豆粕などのナネゴエ(金肥・きんぴ)が、第一次大戦後は化学肥料が用いられた。
金肥の使用を節約するため水ゴエ(コガ水・風呂下のコガ水)ダルゴエ(人糞尿肥)を度々撒いたり、厩肥を存分に入れたりした。
麦価は安くて割の合わない作物であったが、麦飯用、その他食料として欠かせなかった。
水田の二毛作地帯では、裏作として麦を作ったが、畑地では麦の二毛作・三毛作が行われた。

夏作といって、ササゲとかアズキを、または大豆などを収穫したあとに、栗とか黍(きび)、あるいは蕎麦を作り、そのあとに麦を植えれば三毛作となる。
薩摩芋を収穫した後に麦を蒔けば二毛作となる。

水田にしろ、畑地にしろ、休閑することはなく、どの田畑にも毎年麦を作付けしたほどである。
小麦は刈りとると、大きな束にしたまま運搬し、穂を上に立ててカド干しし、麦打ち棚(ゴケタオシ)または足踏脱穀機で脱穀し、唐箕でいい穀粒とよくない穀粒とゴミを分ける。
大麦や裸麦は刈りとると、畑ですぐ、千歯こぎし、麦穂を落とし、運搬する。
蓆を一面に敷いて何日間かカド干しをする。その間、熊手でかきまぜて、乾燥をたすける。
乾燥した麦穂は唐竿打ちで脱粒し、ユリで穀粒と穂粒に分け、さらに唐箕でよい穀粒とよくない穀粒に分ける。


・・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。


・・・・


パンなどの主食、焼酎やウイスキーの、ウオッカ、ジンなどの酒類の原材料。
大麦
大麦は六条大麦と二条大麦と裸麦(六条裸麦)に分類される。
六条大麦はおもに麦茶や麦飯に使用されている。
二条大麦はビールや焼酎、菓子、健康食品に使用。
裸麦は麦飯、麦みそ、麦茶に使用される。

小麦
四麦で、国内で最も多く生産されているが8割以上が輸入。

「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


・・・・・


城見の麦畑 

「井原の歴史」によれば、昭和30年代まで米麦二毛作が主流であったそうだ。
大正13年の「小田郡史」の城見村は二毛作は1/3。
麦作は畑で作るのが半分くらいだったようだ。

・・・・・

「井原の歴史」井原市史編集委員会・重見之雄    いばら印刷 平成13年発行

米麦二毛作
この地域においては昭和30年代頃まで、水田耕作の主流は米麦二毛作であった。
そこで米作と表裏の麦作について、その作付面積と収穫量は、
昭和23年には稲をかなり上回る約1800ヘクタールにも及んでいた。
当時は水田の裏作だけでなく畑でもかなり栽培されていたことを物語る。
しかし30年代から急速に減少しはじめ、50年代以降とるに足らない状況になった。

・・・・・
「福山市引野町誌」 ぎょうせい  昭和61年発行

麦は主に田の裏作として栽培された。
深津郡の裏作率は非常に高く78.5%幕藩時代から産していた。

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綿を作る

2022年01月29日 | 農業(農作物・家畜)
茂平の内海(うちうみ)に接した畑には白い綿の畑があった。
綿畑は、いかにも塩分が強い土壌を子供心にも感じていた。

・・・・
(父の話)
綿

綿は塩分をいくらか含んだところの畑で、麦の後作で植えていた。
ほりあげの畑に植えとった。内海のネキは塩分があるんで。
綿はようできとった。

談・2001年1月5日




・・・・


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社

綿

綿の本確的な栽培は江戸時代から明治20年頃までである。
安い外綿の輸入によって生産が減少した。
霜に弱い。
「地にあう」ところと、合わないところがある。
県南の干拓地ではまず綿を植え、シオヌキをした。
金肥として干鰯などが重要な肥料であった。
収穫は手摘みで人手を要したので、子供たちをかり出した。


・・・

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

綿

平地で作られた。
春八十八夜ごろに蒔いて、8・9月ごろに収穫した。
綿の実がふいてくると、摘んできて干し、実と綿の繊維を分けて、綿打ちをした。
綿打ちの大きな弓をもって綿打ち廻った。
糸にしなくなってからは布団綿にして自家用に作られた。


・・・・

綿

「金光町史」

金光町は浅口郡内でも有数の綿の産地であった。
幕末から明治初めまで、綿を各地で栽培し、実綿や繰綿を玉島港に出していた。
このあたりの綿作の最盛期は天明2年(1782)のころであろう。
稲よりも綿収益が上り、アゲ田をした。
アゲ田とは肥土を除けて砂を入れ肥土を戻す、綿作によい。
収穫したのが実綿で、それを綿繰機(ネジワク)で繊維と実を分け、
繊維が繰綿になる。

繰綿は、綿打ちの弓で繊維をほぐす。
綿打ち屋に頼んで綿打ちをしてもらった。
次に枡の裏などの上で綿を薄く延ばしてシノに巻き、糸車で撚りをかけると手引きの木綿糸になる。
手引きの糸は太さが一様でなく、仕事着によかった。
ほぐした綿は布団綿にしたり、着物の中綿に入れた。



・・・・

綿

「福山市引野町誌」 

水野藩は大規模な新田、塩田の造成を行ったが
新田をはじめとして藩内に綿作を奨励した。
藩は綿を米の代替えとして租税の対象とした。
新田での綿作が、商業的ペースに乗ったのは、水野藩末期から阿部藩に入ってからと思われる。
江戸時代中期には米作よりも有利なため盛んに綿作が行われていた。
末期になると良田化も進み、田は米作が主体となったようである。
明治になって更に増えて、備後の特産物のトップとなった。
ところが外国綿が輸入され明治18年を頂点にその後急減。
明治29年の綿花の関税が撤廃されるに及び、凋落は決定的となった。
綿作に代わって興隆してきたのが養蚕といわれている。



・・・・

「倉敷市史8」

綿作り

綿作には多くの手間と大量の干鰯や油粕といった金肥が必要とされ、
さらには天候によって作柄が大きく左右されやすい危険性もあったが、
綿花は、
各家庭で衣類や布団綿を自給自足するためばかりでなく、
農家に貴重な現金収入をもたらす商品作物として盛んに栽培されるようになった。

明治20年代後半になると生産量は急速に低落する。
以後は自家用の布団綿などが細々と生産されるにすぎなくなった。

明治13年に倉敷村に生まれた山川均は、その自伝で
「ふだん着は糸車から織った手織り木綿で、
少なくとも綿を作る農家は、糸を買う必要がなかった。
たいていの農家は、綿を作っていた。
ところが、機械で紡いだ紡績糸がでてくると、その方がはるかに精巧でしかも経済的だった。
そこでお百姓の家庭でさえも、糸車は急速に納屋や天井裏に追放され、綿の栽培はまれにしか見られぬようになった。」


・・・・





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イ草を作る

2022年01月29日 | 農業(農作物・家畜)

汽車に乗って岡山に行くとき、鴨方駅を過ぎる頃から藺草が車窓風景になった。
金光~玉島~西阿知~倉敷~中庄~庭瀬~岡山、そのすべてがイ草の風景だった。
特に中庄付近は印象深い。
しかし岡山から宇野線に乗った時は、もっとびっくりした。
妹尾~早島~茶屋町の辺りは見渡す限りのイ草の大平原だった。まあ驚いた。
今は全く残っていない・・・イ草も二毛作も・・・そのことにもまた、驚く。



(総社まちかど美術館)


「岡山県史 民俗1」
イ草(藺草)

藺草
早島町周辺はわが国屈指の綿作地だったが、明治20年代から藺草が広く栽培され、
都窪郡・倉敷市・岡山市・吉備郡南部が産地となった。
とくに、
早島町・岡山市福田地区・妹尾地区に多かった。
12月中頃から1月の寒中にかけて氷を割って田植えをする。
つらい作業である。

春になると急速に生長し、伸びすぎると品質が落ちるので、5月中旬頃先を刈って揃える。
7月20日前後の酷暑日に、若い屈強な人夫を使って刈りとりをする。
人夫の多くは、第二次大戦前は香川県から来ていたが、戦後は県内が多く、徳島・香川がこれに次いでいる。
刈り取った藺草は田の一隅に設けてある「ドブ」の藺泥で染め、その日のうちに乾燥させると、よい色のイ草になる。
色は白銀色がいいとされ、藺泥が大きく左右する。
藺泥は明石市の大蔵谷のものがよく、しかし近年は淡路産のものが入っている。
午前4時から午後9時まで、一日17時間もの骨身をけずる重労働であり、まさに、戦場のせわしさである。

売り値は年により激しい変動があり、好況の翌年には生産過剰となり、価格暴落の危険があった。
この投機的な動きはトンビと呼ばれる県内400人(昭和35年)の仲買人をふとらせ、農家は価格の変動に一喜一憂しなければならなかった。
よい年には小麦の19倍にもなったことがある。




(岡山県史)

・・・・

井原町史
藺草(いぐさ)

藺草は、昭和初期から十年代前半を通じて、稲倉村、県主村、木之子村で多く作られていた。
特に稲倉村や県主村では、藺草用の土が搾取できたことも良条件となった。県主村では、恐慌期に、染土のみ出荷が良好だったという。
藺草と対照的に、はっかと除虫菊は全町村で収穫された。


・・・・

(父の話)
藺草
茂平はない(きっぱり)
用之江も大冝もない。

談・2000.6.25

・・・・
「金光町史」
イ草

イ草栽培は、昭和30年代、岡山県南部で盛んになり、
昭和39年岡山県の総面積は5.550ヘクタール(全国の45%)に達した。
金光町でも、その頃が最盛期であった。
朝は4時から刈り始め、鎌はねさして土を切るくらいすれすれに刈る。
少しでも長く刈るためである。
イ草の処理が終われば、直ちに田へ水を張り、遅い田植えをする。


・・・・



昭和44年と45年にイ草刈の人夫になった。
朝の薄暗い時に起きて、ノドに飯を通して、田んぼに出た。
暗くなるまで仕事をして、晩飯を飲み込んで、すぐに寝た。
寝る前にビールを飲んだが、十数時間の真夏の仕事の後だけに美味かった。
(それ以来”呑兵衛”になり、今日まで持続している)

炎天下での10日間の重労働だったが、水分の補給を気にしたこともないし、誰かが日射病で倒れたという類の話もなかった。なぜだろうな?




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除虫菊を作る

2022年01月28日 | 農業(農作物・家畜)

瀬戸内海地方を代表する風景でもあった除虫菊。
今は観光用に因島に少し残るだけ。

・・・・

除虫菊
(父の話)
畑ゆうたら「麦」「芋」「除虫菊」が多かった。

除虫菊はめんどくせぇ。(刈ったあとで)
菊の花を落とす。
植えるのは新涯の畑が多かった。
カド(家の庭)へひろぎょうた。
雨が降ったらいけんので畑には干さんようにしょうた。
どこの家にも除虫菊はつくりょうた。


砂地。
花を摘んで干しょうた。
庭にむしろをひいて干しょうた。
買い人が来て(茂平の農家から)買うていきょうた。
じく(除虫菊の幹)はくすぼらす。捨ちょうらなんだ。晩にくすぼらせば蚊やこがきょうらなんだ。

2002年6月23日


どんごろす 
除虫菊の乾いたのや、芋を入れて(畑から)戻りょうた。
2005・2・5、父の話


・・・・
除虫菊
(母の話)

学校の下の加藤さん。
干たのを買いにきょうた。けっこうにひたのはええ値で買ぅてくりょうた。
花は三べん切る。乾かしたら買いにきょうた。
除虫菊はええ相場がしょうた。
穀物はなんでもしょうた。ササゲや小豆やゴマ。
米でも残ったら売りょうた。米は買うこともできょうた。
有田の松浦でも買いにきょうた、売りに行きょうた。
今はああゆう商売しょうる人はおらん。

談・2004.9.5



・・・

小田郡史(大正13年版)の城見村史

除虫菊は松浦岩蔵氏、明治25年東京学農社より種子購入栽培せし。


・・・

「寄島町誌」

除虫菊は「連作を忌むこと甚だしく、連作の結果は収量を滅し、殺虫力弱し」
といわれ、
その播種は春秋の二回が可能であるが、大正期には一般に秋種が行われていた。
苗床に播種し本葉の発芽する11月ころに仮植をし、翌年の3~4月に再び仮植して秋の彼岸ころ本畑に定植し、播種の第三年目の5月下旬から6月上旬に収穫される。



(広島県因島 2011.5.13)

・・・・・・・・・・・・

岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 より転記

除虫菊

明治11年に和歌山県有田市より笠岡市に伝わり、笠岡・小田・浅口・玉島で栽培された。
この地域は温暖寡雨の気候で、よく適し、土壌はやせていても育つし、連作を嫌うが薄荷ほどでない。
秋の彼岸頃播種し、4月中旬から移植する。
収穫期は5月である。
根まで抜き取り、千歯こぎで花弁をこぎ落すのであるが、鎌で根刈りをして、株を残しとくと翌年収穫することができる。
花の色で価格は決まる。
花弁は筵に干され、夜は納屋や土間にいれるが重ねると蒸されるのでオエ(床)にもおかれ、菊とともに寝る。
価格の変動は著しく、朝晩で違っていた。
最高の価格は昭和27年8月。
その年を境に採算のとれない作物となり、昭和34年ごろには頗る減反した。





(広島県因島 2011.5.13)

・・・・


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社

除虫菊

備中西南地方で栽培された。
土壌はやせていても育つし、連作を嫌うが薄荷ほどではない。

秋の彼岸ごろ、苗圃に播蒔し、4月中旬から下旬にかけての間に本圃へ移植する。
麦の土寄せをした中に、浅い溝をきり、五寸間隔ぐらいに、一本すつ根の部分だけ土をかける。
小豆・ササゲなど夏作物を収穫した跡地に、除虫菊を栽培する場合は、アゲ苗といって、苗を本圃の一部に密植しておいて、秋の彼岸頃本圃に本植えをする。
移植してからは草取りと施肥をするほか、ほとんど労働力を要しない。
収穫期は5月である。

根まで抜き取り、千歯こぎで花弁をこぎ落すのであるが、
抜き取らないで鎌で根刈をし、株を残しておくと、芽を出して生長し、翌年収穫することができる。
花の色で価格は決まるので、熟し時をよく見なければならないが、長雨にあうと、品質は落ちる。
花弁は蓆に干され、夜には納屋や土間にいれるが、重ねると蒸されるので、母屋のオエまでも広げられ、菊と共に寝るのであった。

価格の変動は薄荷よりも著しく、仲買人の朝晩の価格が違っていた。
最高の価格になったのは昭和27年8月で、1貫1.500円であった。
価格が下落すると、ゆとりのある農家では翌年まで売らないでいた。
化学薬品の普及により昭和27年8月を境に、採算のとれない作物となり、
昭和34年には頗る減反した。

価格の変動は薄荷よりも著しかった。

・・・・


除虫菊
「福山市引野町誌」 




広島県では明治27.28円頃、向島西村に植え付けられ、本格的には明治晩年ごろからで、大正期前半にかけて画期的な躍進を遂げた。
畑作物として丘陵地帯を中心に普及した。
大きく発展した理由として、
1・輸入のみとり粉の駆逐
2・殺虫剤の需要拡大
3・米国を中心とした輸出の増加
4・適地適産
5・零細農地の土地利用高度化
6・高い収益性
その後、
価格の激変の繰り返しに伴い作付面積も激しい増減を繰り返した。

最大の問題点は価格の変動であり、
生産者に共同出荷等の体制がなく発言力が皆無に近かった。
乾花は貯蔵がきくこともあって、商人はこれを投機材料としたため価格の激変作用が生じた。

戦時にはいり、昭和15年7月に薄荷などとともに統制品となり、
大戦中の除虫菊加工品は軍事物資となり、また殺虫剤(農薬)の輸入途絶に伴い国内の需要は急激に増大した。
しかし食糧増産が優先し生産確保の実効は上がらなかった。

戦後は、BHC・DDTなど合成殺虫剤の生産急増に伴い、除虫菊栽培は激減した。
また丘陵地帯に葉たばこ栽培が盛んになり、昭和40年頃には姿を消したようである。

一面に白く咲き乱れ、遠くから見ると白いじゅうたんを敷き詰めてたような畑、
手こぎ(せんば)で花を落とす収穫の作業、
筵での日干し、
花を落とした残幹を乾かし畜舎の蚊の予防にたきつめたことなど、
郷愁的な思い出に浸る人はまだまだ多いと思われる。


・・・・

井原町史

はっかと除虫菊は全町村で収穫されるという注目される特徴がみられた。
恐慌期に収穫は低迷したが、同八年から回復に転じた。

・・・・・


「矢掛町史」


農産物の変遷


除虫菊は明治20年、笠岡の渡辺小平太が栽培したのが始めで、
その乾花・殺虫粉・蚊取り線香などは明治42年ごろから海外輸出品となった。
その主産地は小田・浅口であった。
除虫菊は、長日照時間、排水とか雨を適地とするので、畑作に適し
小田郡では笠岡諸島が好適地で小田郡の主産地であった。

 

・・・・・・

強力な合成殺虫剤DDTのブーム

「食糧と人類」 ルース・ドフリース  日本経済新聞社 2016年発行

オーストリアの大学生ツァイドラーは1874年にDDTという化学物質を合成したが、
20世紀後半、農業分野で大きな変化を引き起こすことになろうとは夢にも思っていなかった。

DDTはイエバエ、シラミ、コロラドハムシに対してすばらしい効果を発揮した。
1942年には商品化され、人類と病害虫との闘いに終わりを告げるという華々しい謳い文句とともに市販された。

DDTの威力が証明されたのは第二次大戦中のことだ。菊を原料とする除虫菊剤が使われていたが、それが品不足になるなか、
シラミを媒介する発疹チフス、蚊が媒介するマラリアから、DDTの白い粉を振りかけると、歴史上初めて発疹チフスの流行に歯止めがかかった。
マラリアの抑制にも効果を発揮した。

戦後、DDTは公衆衛生上のマラリア対策として導入された。
DDTは疾病対策に使われたあと、農業分野の市場に進出した。
人類を苦しめる病害虫を駆除できるという宣伝文句で、
家庭の庭の雑草から大草原地帯の牧場のハエまで守備範囲が広がった。
これが飛ぶように売れた。


人気の絶頂期は1960年代前半。
新しい害虫が出たり、副作用の被害が深刻化した。
蚊やハエを退治しようとDDTを噴射すれば、鳥や動物が巻き添えになった。
病害虫は進化し効果が薄れていった。
殺虫剤メーカーは絶えず新しい化合物をつくって耐性と闘わなくてはならない。

 

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養蚕業その③昭和恐慌、その後

2022年01月27日 | 農業(農作物・家畜)
盛んな時代は、あっという間に去ってしまう。
養蚕の盛んだった時の農産物で、今も残っているのは稲作くらいか?

養蚕、イグサ、麦、除虫菊、薄荷、菜の花、梨が消えた。残っているのは稲と桃くらい。
田舎からは二毛作も塩田も消えてしまっている。



(群馬県・富岡製糸場 2017.9.25)

・・・・

「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行


昭和恐慌化の鴨方

1930年3月から株式市場も一斉に下落をはじめ、物価の下落に連動した。
生糸55%、綿糸52%、米50%の下落を記録。
米と繭の日本農業を直撃することになった。
産業界は極度の不振に陥っており、首切り・合理化の嵐の中で失業者が急増した。
出稼ぎ者の帰村が始まり、農村は農産物の下落と帰村者の増加によって負債をかかえる農家が増加。
農村恐慌に突入することになった。

鴨方町および六條院村では、麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。

生糸の輸出減退は養蚕農家に甚大な影響を与えたが、
鴨方町では昭和期に入って急激な普及をみせていた矢先の不況到来であった。
養蚕農家数を見ると、
1912年(大正元) 7戸
1920年(大正  20戸
1926年     171戸
1930年     449戸

繭の価格は1929年上繭一貫 7.6円
     1932年     2.80円。
次第に養蚕から手を引く農家が増え。1939年には105戸まで減少した。

農家副業としての麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方法は、
制帽工業と葉煙草に見い出そうとする農家が増えた。


・・・・

「笠岡市史第三巻」

昭和初期の小田郡の養蚕業の動向


城見村・昭和3年 69戸 871貫 5.522円
城見村・昭和5年 80戸 1.100貫 4.268円
城見村・昭和7年 74戸 661貫 1.784円
(管理人記・養蚕農家は大冝・用之江、茂平はたぶんなし)


昭和恐慌は、特に生糸と繭の暴落に始まる農村恐慌となって現れた。
岡山県下でも上繭貫当たり平均価格が、昭和4年の7.46円から翌5年の3.70円と半値に下げている。
昭和5年、米価も全国的に急反落した。
「大学は出たけれど」と大学卒業生も仕事にありつけず。

笠岡の製糸業を始め、小田・後月郡一帯の養蚕農家にとっても大きな打撃となった。
昭和7年、
解散し笠岡に一時代を飾った山陽製糸は歴史を閉じた。
中国情勢の変化、アメリカを中心とする輸出の低迷と糸価が暴落。
人造綿糸(レーヨン)の出現が引き金になったものと考えられる。





(群馬県・富岡製糸場 2017.9.25)


・・・・

岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社

県下の養蚕は、1929年(昭和4)をピークに世界恐慌以来の不景気で、生糸の輸出は減少に転じていた。
真庭製糸は休業、井原中備製糸は競売され、従来の県下の製糸業は郡是・片倉・鐘紡の三大企業がほとんど独占した。

こうした状況下で養蚕農家は、次第に大企業の特約取引養蚕に変わり、養蚕戸数の半数が特約取引になった。
前もって繭価を提示するので、相場に左右されず、仲買人に買い叩かれない利点があった。

しかし
繭価は大企業が連合して相場を抑圧し、より高級な付加価値のある新品種を特約農家に生産させた。
桑選択、蚕病予防、施設改良と制約が多く、養蚕方法も複雑になった。
繭も厳選され納入不可のものが多く、投資が借金として残った。

新聞は、養蚕収入額の高さを喧伝するが、家族ぐるみの過重労働に支えられた養蚕も農家経済再生には程遠かった。
これまでの繭屑は、農家の娘たちの嫁入り支度や晴着にと、自分で繰り機にかけて織るのが養蚕農家女性のささやかな喜びであった。
自家用以上の残繭がでるようになり、成羽高女では紬織(つむぎおり)科が新設され、紬織講習会も各学校や女子青年団で開催された




・・・・

「金光町史」
昭和恐慌
昭和5年に入ると深刻な農村不況つまり昭和恐慌へと突入した。
生糸と繭の暴落に始まる昭和恐慌は、岡山県下でも上繭貫当たり平均価格を、
昭和4年の7円46銭から翌5年の3円70銭と半値の下落へと進んだ。
養蚕農家は昭和恐慌を経過する中で激減した。


・・・・

「矢掛町史」

忙しい仕事であったが、当時の農家にとっては安定した現金収入であった。

この養蚕も、ナイロンの出現、戦争による輸出の途絶で激減し、
大戦途中から戦後の食糧難で壊滅的な打撃を受けた。
政府は桑畑から普通畑への転換を命令し、桑の株はチェンブロックで引き抜かれ、食糧生産の畑地へと変わっていった。


昭和55年現在で、美川・三成・南山田など矢掛町内で37戸、老人の副収入程度に養蚕が残されている。


・・・・
「岡山県史 現代Ⅰ」

戦中戦後の食糧増産対策によって最も深刻な打撃を受けたのは、
養蚕および製糸業である。
戦前は桑園面積1万町歩を超え、養蚕農家も5万戸にまで達し、
200万貫の繭を生産したこともあったが、
戦時経済の下で漸次減少して行き、1946年(昭和21)には桑園面積1427町歩、
養蚕戸数7.573戸、繭量約13万7千貫となり、
桑園面積で戦前最盛期の14%、産繭量では6%にまで低下してしまった。

同年(1946)養蚕復興5ヶ年計画を樹立して養蚕の振興を図ったが生産は停滞を続け、1950年には面積・戸数・繭量とも一段と減少している。
養蚕に代わって戦後目覚ましく進展したのが畜産である。
鶏・和牛が増加した。




(群馬県・富岡製糸場 2017.9.25)


・・・・

昭和31~32年頃、井原市の祖父母の家では屋根裏で蚕を飼っていた。
あれを見たのが自分にとっては最後の養蚕だった。



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養蚕業その②お蚕様

2022年01月24日 | 農業(農作物・家畜)
屋根の上に、さらに小さな換気屋根の家が、笠岡市にもいくらか見ることがある。
たぶん養蚕が盛んだった昭和のヒトケタ時代の新築家屋だろう。

ある農家の人に、「かつて養蚕をしてましたか?」と聞くと、
「うちは、家が小さいのでしていませんでした」との返答だった。
養蚕は仕事場が家屋内なので、家の規模も必要だったようだ。

・・・・



「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行



第二次世界大戦前の日本農業は「米と繭」によって代表された。
1930年(昭和5)年当時における養蚕戸数は全国で222万戸に達し、全農家550万戸の40%を占めた。
長野県や群馬県のような主要な養蚕地域では全農家の70%にもなる。
繭の生産額は、1933年度の統計では米の14億円に対して5億円程度に過ぎない。
しかし米の1/2は農民が自分で消費しており、販売米の1/3は地主、農民が直接販売するのは5億円足らずである。
繭は養蚕農民の手に入る。
したがって養蚕地帯の農村では繭販売による現金収入は、米収入よりはるかに多かった。



・・・・


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より

桑と養蚕

稚蚕は温暖な密室で飼育し、
蚕壮(そうご)になると広い場所を必要とした。
桑樹は畑とか河原に植えてある「刈り桑」と、
川や水田の岸に大木として散在している「立ち桑」とがある。
三齢までは刈り桑を桑切り庖丁で切って与え、
四齢以後は立り桑を食べさせた。
五齢期になると夜12時まで葉を与えたので、寝るときがないほどのせわしさであった。


養蚕の変遷は3回あった。
天然育、温暖育、条桑育(じょうそういく)。
大正末期から飼育法は条桑育といって、蚕に桑を枝のまま与えて飼育するようになり、幾段もの蚕棚で棚飼いした。
稚蚕は母屋の一室で密閉育として、壮蚕になって8畳のオクノマや離れ座敷に移す。
た。
養蚕業は明治時代から昭和16年頃まで、県内ほとんど全区域で行われ、中国山地の村々が盛んであった。
最盛期は大正末から昭和初め頃まで、昭和10年頃までは比較的盛んであった。

ただし、タバコは蚕に害があるので葉タバコと養蚕は一緒にはできなかった。
年に3~4回飼育した。
最盛期には母屋の室だけでなく、ニワ(土間)でも飼育した。
人は寝るところが無く、縁側やクドの横・蔵などに寝たという。




(「真備町史」昭和54年)


・・・・


「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

繭の糸

養蚕をする家では、年に3~4回は飼い、天井に空気穴をとりつけたり、蚕が繭を作る時期には、家族は寝る場所がない位だったという。
繭はほとんど売った。
上繭・中繭・クズ繭、玉繭(二つくっつく)があった。
自家用にクズ繭・玉繭を手引きした。
この糸がスガ糸といい、木綿のガス糸と混繊することが多かった。


・・・・

(神島村誌)

養蚕
糸つむぎ


幕末から明治になって養蚕が普及、綿畑は桑畑へとバトンタッチ、
生糸の輸出が増え、養蚕は盛んになり、春蚕、夏蚕、秋蚕と忙しく、
寝るところもないほど蚕棚をつくった。
これは大変な収入源にもなった。
まゆを10日置くと蛾になるので、早めに木灰(あく)叉は炭酸を入れて大きな釜で炊いて、3~8個の繭の糸を合せて一本にする。
繭の中のさなぎは飼料にした。

スガ糸
蚕の糸をスガ糸といって、織ると木綿と違って良い着物ができた。
織る前に糸を練るため木灰のあくで煮て織り、この白反を染物屋で好きな色に染めてヨソイキとした。

・・・・

(真備町史)

養蚕業

明治22年頃より当地方には発達した。
しかし明治26.27年には繭価格低落にして衰え、明治37.38年頃より稚蚕(ちさん)の共同飼育を奨励してから、失敗者も減じ、明治末年頃より次第に盛んとなった。
繭種は白繭のみで、黄種は全く飼育せず、繭の売り出し先は専ら富山県である。
桑の種類は「魯桑」(ろそう)が最も多い。桑の仕立ては根刈り式。
春蚕は病気にかかり易く成績劣れりとある。
大正時代は右の如く僅かであったが次第に盛んとなり昭和4~5年頃をもって最高潮となり農産物価格の約一割に達した。
その年頃より農業恐慌、次第に戦時統制、化学繊維の進出などによって衰退した。

・・・・

(美星町史)

養蚕

明治の中頃、絹織物や生糸がアメリカ合衆国その他に輸出商品として伸びてきた。
明治政府は国策として、岡山県でも養蚕を保護奨励する行政措置を執るに至った。
明治21~22年頃から火力を使用しての加温飼育が始まった。
明治38年稚蚕共同飼育奨励金下付規定が公布された。
当地桑園は根刈り仕立てで稚蚕(1.2齢)用と壮蚕(5.5齢)用に分けて、品種も20数種あった。

蚕種は町外から購入、
飼育は春蚕・初秋蚕・晩秋蚕の年三回が普通。
適温は22~25.6度、屋内で蚕箱による棚飼である。
「春蚕の稚蚕は家の6畳間を目張りし、蚊帳で二重に囲み、排気窓をつくり、木炭・薪・練炭等で加温し、硬軟適度の桑葉を一枚摘みとし、保蔵して、細切りして、多いときは一日10回以上給与し、発育するに従い毎日拡座、3齢以上は毎日一回の除沙(食い残しの葉と糞を取り除く)など、昼夜をわかたぬ激しい労働の連続である

稚蚕期は概ね女性の仕事であるが、壮蚕期になると大量の桑の取り入れ・運搬、重い蚕箱の出し入れ、給桑作業などで家族の全労働力を集中せねばならぬ。
やがて塾蚕(繭をつくりはじめ)になると一匹づつ別の箱に移す、この時は一家で足りず人夫を雇った。
この頃は田植えと麦刈りと、年間労働力のピークであった。」

仲買人による個人の庭先取引から、昭和10年頃には会社との特約取引をするようになった。
会社は郡是・片倉の大手から笠岡・矢掛・井原の地元業者も多かった。
しかし、この特約取引の頃から貿易は頭打ちとなり生産は減少しはじめた。

・・・・

岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 


養蚕

桑木は畑(定畑)とか河原、焼き畑などに植えている「刈り桑」と、
川や水田の岸に大木として散在している「立ち桑」とがある。

三齢までは刈り桑を、刈桑包丁で切って与え、四齢以後は立ち桑を食べさせた。
五齢期になると、夜12時ごろまで葉を与えたので、寝る時がないほどのせわしさであった。

大正末期から飼育法が条桑育といって、蚕に桑を枝のままで与えて飼育するようになり、
幾段もの蚕棚で棚飼する。
稚蚕は主屋の一室で蜜閉育として、壮蚕になったら八畳のオクノマとか離れ座敷へ移すのであった。

岡山県内全地域で行われたが、葉タバコ栽培村では養蚕と共存することはなかった。
最盛期は大正末から昭和5年ごろ。
最盛期には年に3~4回飼育し、主屋の室だけでなく土間にも飼育したので寝るところがなく、縁側や蚕棚の間や倉に寝たという。





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養蚕業その①桑園

2022年01月24日 | 農業(農作物・家畜)

近所の散歩道で、川の土手などに桑の木をよく見る。
井笠地方にも、いたるところに自生したかのように残る桑の木がかつての盛んだった時をしのばせている。


(父の話)
談・2000.6.25
養蚕
茂平には・・・・なかった(戦前戦後)
大冝や用之江のものは作りょうた。
用之江との峠の畑に桑畑があった。それは地主が用之江の人。
茂平には蚕をする人はおらなんだ。

(おば=父の妹の話)
養蚕
茂平も城見もおぼえておらん(養蚕はなかった)。
小平井へ嫁に来た時。姑が「飼ようた」ゆうてようた。
(嫁に行った時には、既に養蚕はしてなかった)
「その頃はのう、上座にも寝られん。畳をあげて・・」
寺で寝ょうたん?じゃろうか。
あれをせんとお金になるもんがなかった
養蚕をせんと食べていかれんようた。
茂平の山に桑畑が一本あった。(弟の)まさしが「実を食べれる」、いってまさしと食びょうた。



・・・・

小田郡史(大正13年版)の城見村史
蚕業
明治22.23年頃より創起し、明治30年頃飼育せるもの10余戸を算せしが、麦稈青刈製造の勃興するにおよび跡を絶つに至れしが、やや養蚕に心を傾けんとする傾向あり。

城見村の養蚕戸数
『岡山県統計書』
養蚕戸数 繭数量(貫) 繭価格(円)
昭和3年 69 871 5522
昭和5年 80 1100 4268
昭和7年 74 661 1784

戸数に茂平はなし。(用之江と大げのみ)


・・・・

井原市

「井原市史Ⅱ」 井原市史編纂委員会  平成17年発行

桑園

明治23年(1890)の桑園面積を基準にした場合、昭和4年(1929)は全県で8.9倍に面積が拡大している。
後月郡は37倍、
小田郡は20倍にもなってもいる。

桑畑の畑地に対する比率は昭和4年の全県28%。
後月郡27%、小田郡22%と県平均に近い。
全県の桑園に占める比率を見ると、小田郡が8.2%、後月郡が4.2%であり、小田郡は県内でも桑園面積の広い地域であった。
岡山県の場合、養蚕はあくまで副業であり、水田率の高い地域が桑畑の対畑地比率が高い傾向にある。
つまり畑地の比率の高ければ、畑地で食料生産をしなければならず、桑園の拡大には限界があった。



・・・・

矢掛町

「矢掛町史」

最盛期は昭和10年前後と思われる。
このころは、矢掛町の8割近くの農家が養蚕をしていた。
特に三谷から川面、中川にかけての小田川の自然堤防上は桑畑に極めて適した土地であった。
小田川の氾濫によって運ばれた肥沃で排水良好な砂が桑の育成に適し、また洪水時に冠水しても流失の恐れがなかった。
農家は座敷の畳をあげ、養蚕棚を設けて養蚕した。
桑の葉を一枚ずつ収穫し、蚕に与え、繭をつくる直前にまで成長した蚕を夜を徹してよりわけるなど極めて労働集約的な作業が行われた。

「矢掛町史」
養蚕

明治7年、小田郡笠岡村に山陽製糸社が創立したこともあり、
小田、後月郡一帯の小田川水系には桑を植える者が増えてきた。
砂礫の多い未利用の川原に桑が栽培された。
明治22年頃は中川村、山田村は養蚕の中心地になっていたようだ。
明治30年頃麦稈真田が盛んになり、
亜硫酸ガスが蚕や桑畑に被害を与えることもあり不振になった。
大正7、8年頃繭は下落し、生産者が減少して、かわりに除虫菊、薄荷の作付が増えた。


・・・・

金光町

「金光町史」

金光町の養蚕の歴史はまだはっきりつかめていない。
阿坂の西山友茂は「昭和2年頃私が始めた。父の代はやっていなかった」という。

桑の栽培には河川敷利用でなく、ほとんど傾斜畑利用である。ここでは養蚕は葉タバコに追われていった。
昭和12年頃が葉タバコと養蚕の転換期となっている。
蚕は春蚕と夏秋蚕がおもに行われ、人によれば晩蚕も行われていた。



・・・・

和気郡「佐伯町史」

佐伯町

生糸の輸出が好調の為、佐伯地方にも養蚕を中心とする農家が増えた。
すなわち、大正3年(1914)から大正8年までに一挙に4倍はね上がった。
水田を桑畑にするもの、畑の多いところは一面桑畑になった。
まゆ生産は年3回もできるという好条件で農村経済を大きくうるおした。




・・・・

福山市

「福山市史 下巻」福山市史編纂会 昭和58年発行

養蚕業の発展を拒む要因

大正期に川北・山野・中条・加茂の諸村に乾繭場を設け、大正11年駅家村に繭市場を設けた。
しかし、いっそうの発展を阻む要因も存していた。
それは生糸が海外の需要に依存し、海外の好不況が繭価の高低に決定的に作用していたこと。
および「小農」の農家副業の一環として行う零細規模の養蚕業として成立していたためである。

とくに養蚕業が主として桑の自給と結合しており、食糧自給を建前としていた当時の農家においては、
桑栽培に大きな限界を有していた。
また労働力の面においても、基本的には自家労働力に依存している限り養蚕業の発展には大きな限界があった。

養蚕業は世界大恐慌(昭和5~7)の影響によって衰退し、その後一時回復するが、第二次大戦の勃発によって急速に衰退し、
桑園は食料増産のかけ声によって掘り起こされ、薯・麦畑等に変わってゆくのである。





(「矢掛町史」)


・・・・
「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行
養蚕農家
大正から昭和初期にかけて、生糸は日本の重要な輸出品であったため、
日本各地の農家が専業や副業で養蚕をおこない、収入を得ていました。
桑を畑で育て、日に何度も桑の葉を摘んでカイコに与えなくてはいけませんでした。
カイコは35~45日ほどで繭となり、仲買人を通して製糸業者に売られました。

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「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

養蚕を手伝う

米と麦だけでは食っていけない百姓は、年三回の養蚕に精を出した。
三回とは春・夏・秋の三期に飼う蚕のことで、春蚕は麦の収穫と、
秋蚕は稲の取入れとぶつかった。
猫の手も欲しい程の忙しさで、小学生の手を当てにあてにするのは当然だった。

桑摘みは、小さな籠を脇に、一枚一枚を葉柄のところで摘み切るのだから、なかなか要領がいった。
葉柄を残すのは次の発芽を損なわないためだった。
春蚕の桑は、それほど手数はかからなかった。
木そのものを更新するため、株のところで切って持ち帰り、家でもいだからである。
春蚕のように、家でもぐときは一家総がかりだった。

蚕の幼虫は手につかむのは嫌だったが、半透明になって熟蚕を拾い出すのは、イヤでも作業を手伝った。
日ごと夜ごとの丹精がみのって、今日はうれしい繭もぎである。
今までの陰鬱な気分は一変して急に明るくなる。
母屋の部屋の畳をあげてお蚕様に提供し、部屋は糞だらけ、ろくろく眠れもしなかった生活から解放されるのだから、うれしくなるのも無理はなかった。
それに繭を渡して若干の現金が入る今日は、正月と盆が重なったようなものだった。


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薄荷(はっか)を作る

2022年01月23日 | 農業(農作物・家畜)
薄荷は戦前・戦後、吉備を代表する農産物のひとつで、茂平も、そして城見村にとっても有力な農産物だった。
小田郡城見村が笠岡市に合併した時期くらいから衰退し、
昭和35年頃には無くなったように思う。


(父の話)
薄荷
薄荷は「ししゅうだ」と「うつろ」と「しんげい」で作りょうた。
焼けんとこ。ねばいとこでないとできなんだ。
談・2002年6月23日


(母の話)
仲買人がいた。小川さん。
武徳さん(=元岡山県知事)の自転車置き場があったへん。
大きな釜がありょうた。
(用之江で無くなった後)絞るのは吉田のひでさん方ようた。
薄荷は二番が出る。
談・2004.9.5



(おば=父の妹の話)
畑ゆうたら「麦」「芋」「除虫菊」が多かった。
薄荷は、
新涯に薄荷を植えて、吊るして乾かしょうた
ヒヤ(の軒下に四方を)干しとった。
仲買人が買いにきょうた。
談・2017.2.9

・・・・

昭和16年2月14日、
城見村長から岡山県知事に提出した「工業調査」を転記する。

工場名
藤川薄荷油製造所
小川薄荷油製造所

・・・・


「矢掛町史 民俗編」 矢掛町編 ぎょうせい 昭和55年発行

薄荷

明治末頃から普及して、昭和初期まで栽培された。
終戦後もしばらく作られたが今は見られない。
水田、畑ともに栽培されたが、畑のものが上質である。
春苗を植えたものは、年内に三回(6月中旬、8月上旬、10月下旬)刈り取れる。
収穫した茎は乾燥し、部落共有の蒸溜釜で油をしぼる。
価格は投機作物といわれるように、年により時期により変動が大きく不安定であった。




「岡山の作物文化誌」 岡山文庫


・・・・・

「福山市引野町誌」 福山市引野町誌編纂委員会  ぎょうせい  昭和61年発行

はっか(薄荷)

深安郡では明治34年に導入され、海外の需要増などにより急速に栽培が拡大された。
投機的取引が多く、価格変動の激しい商品であった。
収穫した乾葉を製油業者に吊売りするのを常とした。

農家が不利なのではっかの蒸留設備をつくる所も出てきた。

第二次大戦中は食糧増産が最優先したため、はっかは壊滅的な打撃を受けた。

戦後貿易の再開に伴い急速に復興をみせ、昭和32年には戦前に近い栽培面積となった。
世界市場ではブラジルが優位となり、更に昭和39年化学合成によるはっか脳の工場生産は、
はっか栽培に致命的なものとなった。


・・・・・


「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版

薄荷

薄荷は明治19年ごろから県南が主産地となり、明治末期以降、北海道に次ぐ主産県であった。
11月末~12月初旬、秋の諸収穫、麦などのしつけが終わって、種(種根)を植える。
薄荷は極度に酸性土壌を嫌い、また連作を嫌う。

「薄荷8年」といわれ、1年栽培したら8年はできないといわれた。
植栽の前に畑一面に石灰肥料を施す。
収穫期は一番刈りが5月下旬であり、二番刈りは8月中旬である。
10月下旬に三番刈りをする。
一年に三回収穫できるが、三番刈りは収量がよくない。
雨量の少ない年は出来が悪い。
三番刈りをしたあと、そのまま長くおくほど良い種がとれる。

刈りとった薄荷は縄に編んだ連を、母屋や納屋の軒下に吊るして干す。
干した薄荷は一村に、一つあるいは二つ程度あるウムシガマにいれ、しぼって油を売るのだが、野立て売りや、縄に編んだ連のままで売るものなどがある。
昭和10年が最盛期で、昭和35年ごろ衰減した。


・・・・



「岡山の作物文化誌」 岡山文庫


岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 

薄荷

明治19年ごろから、井笠が主産地になった。
11月末~12月初旬に種を植える。
極度に酸性土壌を嫌い、連作を嫌う。
「薄荷8年」と言われるように、8年間は植えてもできないといわれた。
植える前は畑一面に石灰肥料を施す。
収穫期は一番刈りが5月下旬。
2番刈は、8月中旬である。
10月下旬に三番刈りをする。
1年に3回収穫できる。
麦の作付けのため、刈りとった薄荷は縄に編んだ連を軒下に吊るして干す。
干した薄荷は、一村に一つあるいは二つあるウムシガマに入れ、絞って売る。

昭和10年ごろが最盛期で、
昭和35年ごろ衰退した。


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井原の歴史 平成13年  井原市教育委員会発行
井原市農業の一断面 重見之雄 より転記

工芸作物類

昭和30年代を通じては、薄荷が最高480haとかなりの面積に達していたが、40年代に入ると急速に消滅する。
これに引換え葉たばこの栽培が最盛期を迎え、昭和43年がピークで約300haになる。
地域的には中山間地の畑作地域で多く栽培され、当時の農家の現金収入源の柱になっていた。
しかしその後、急速に減少の一途をたどる。



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「井原町史」

はっかと除虫菊は全町村で収穫されるという注目される特徴がみられた。
恐慌期に収穫は低迷したが、同八年から回復に転じた。


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復刻版「岡山県農地改革誌」  船橋治 不二出版  1999年発行


臨時農地等管理令の制定
第二次統制


昭和16年10月16日、農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
必要に応じ食糧農産物に作付転換せしむことが規定された。

食糧農産物
稲、麦、甘藷、馬鈴薯、大豆。
制限農産物
桑、茶、薄荷、果樹、花卉。


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「聞き書き やかげ」  矢掛町立図書館編  平成30年発行


はじめに
江戸の頃、総社で始まった薄荷栽培は、昭和41年頃まで、岡山県で大規模に行われていた。
昭和14年頃には、日本は世界の薄荷生産高の8~9割を産出し、日本の主要な輸出品の一つであり、北海道そして岡山県が代表的な生産地であった。
県南部を中心に栽培され、備前・備中・備後の3国にわたるこの地産ぼのものを「三備の薄荷」と呼んだ。
合成のメントールが普及してきて薄荷栽培は急速に減少していった。


話し手:矢掛町南山田 〇〇さん(大正14年生まれ 90才)

麦を植えて後、11月の終わりに薄荷の根っこを植える。
春になると芽が出て、三回刈る。
一番目に刈るのは、6月ころ。
二番を刈るのは8月じゃったかなぁ。
一番多く汁(油のこと)が取れる三番刈りは10月になってからじゃった。
刈った茎を壁に吊るし天日で乾かすんじゃ。
天日に吊るして乾燥させた後、業者が引き取りにくるんじゃ。

水蒸気で分離して、水と油に分ける。
その汁が薄荷じゃけぇ。
業者は薄荷をメンソレータムや歯磨き粉や菓子に入れて売って儲けたんじゃ。
休む間もないほど忙しかったが、薄荷はまあまあ金になった。

昭和30年ぐらいだったか、薄荷を経済的に安定していたタバコに変えた。
タバコは戦時中も奨励されたこともあり、矢掛の農協が管理するようになったということもある。
わしがやめたあと、化学薬品で薄荷のにおいが作れるようになった。
外国産の安い薄荷も出てきて、一気に売値が安くなってしもうた。


話し手△△さん(昭和17年生まれ・75歳 矢掛町山田)

刈り取った薄荷は束にして、縄に編んで軒下に吊るすんです。
そうやって乾燥させるんです。
その縄ごと蒸留窯に放り込むんです。
買いに来て蒸留する、大きな樽ですから、中へ入って踏み込んで、蓋してから蒸気で蒸すと、一斗缶に出てくるのが見えるんです。
その当時、50年前は
薄荷の後に葉タバコが出てきた。
葉タバコは薄荷を100としたら300から400の倍率で高収益をあげたんです。
そこで完全に薄荷が消滅してしまった。
一番苦労するのは、成長するにつれて、虫がすごく発生するんです。
青虫が葉っぱを食べる。



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薄荷

歯磨き、目薬り、湿布薬などの医薬品。
整髪用などの化粧品。
ガムや飴などの菓子類等々、多方面に使われている。
岡山県がかつて国内有数の薄荷産地であった。
薄荷は白い地下茎を伸ばして繁殖し、方形の茎は草丈20~50cmとなる。
8~9月ころ薄紫の花を開く。
茎葉を刈り取って乾燥させ、蒸溜すると精油が得られる。
排水のよい壌土、高温少雨で、特に収穫期に乾燥する地域がよい。
含有量が最高になるのは開花はじめで、この時期めがけて刈り取る。
岡山の薄荷の最盛期は大正15年~昭和10年頃であった。世界市場へかなり出回っていた。
小田郡内や笠岡市周辺で、12月~1月種茎を植え付け5月下旬、
7月下旬、10月下旬と年三回刈り取る。

ブラジルの日系人が大規模に栽培したこと、
安価な合成ハッカ脳が出現したこと、
高度経済成長が農業労働力を奪い農家が減少した。
昭和46年には輸入自由化で決定的打撃を受けた。

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行


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台湾沖航空戦⑥レイテ島~硫黄島~沖縄~終戦

2022年01月22日 | 昭和16年~19年
レイテ島


1944年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。
兵力の集中しているルソン島での決戦を求めた現地軍の反対を押し切り、
大本営陸軍部は、レイテ島での決戦に踏み切った。



(「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版)


これより前の10月9日~14日の台湾沖航空戦で空母11隻、戦艦2隻を撃沈と発表したことが頭にあり、ここで叩いて一勝を挙げたいと考えたのである。
実際の戦果は重巡洋艦2隻大破のみにすぎなかったが、海軍は自己の面子を守るため、この事実を国民はもちろん首相、陸軍にも教えなかった。

この海戦で連合艦隊はもはや海上戦力としての体をなさなくなった。
もはや通常の航空攻撃では戦果が挙がらないと判断した海軍は、飛行機に爆弾を積んでの体当たり、神風特別攻撃隊を出撃させた。



(「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版)

しかし逃げ回る敵艦戦に飛行機で体当たりするには高度な操縦技術が必要であるにもかかわらず、技量未熟者を多数特攻隊員としたため、命中率は必ずしも高くなかった。
よしんば命中したとしても、特攻機搭載の爆弾では十分な破壊力が得られなかった。
事実戦艦や正規空母などの大型艦はついに一隻も沈めることができなかった。
志願制を建前としていた特攻隊であったが、事実上強制されて出撃していった隊員も多く、彼らの士気は低下していった。
1944年内にレイテ島の組織的な抵抗は終息した。

翌1945年1月戦場はルソン島移り、山下奉文大将率いる陸軍部隊はマニラ市を撤退し山中にこもった。
海軍部隊2万は同市死守を叫んで米軍と市街戦を展開、多数の市民をまきこんで全滅した。
陸軍部隊は大損害を被りつつも、長期持久戦を守って日本降伏までゲリラ戦をつづけた。

1945年2月19日、米軍は硫黄島に上陸。3月25日までに日本軍全滅。

4月1日、米軍は沖縄に上陸。軍民あわせて17万近くの命を奪った。6月23日、牛島満司令官が自決して組織的な戦闘は終結した。

5月4日、ビルマのラングーンが英軍により陥落。
同月、ドイツが降伏。

8月9日、ソ連軍157万人が中立条約を無視して満州へ侵攻してきた。
事ここにいたってようやく日本政府は降伏を決意。

もはや厭戦気分はおおいがたく蔓延していたのである。
日中戦争から太平洋戦争にかけて日本人死者は、
軍人・軍属約230万人、民間人80万、計310万人にのぼった。
戦場となったアジア各国の死者は、役2.000万人との推計がある。


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行



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「大津野の歩み」

昭和20年7月14日 福山歩兵41連隊レイテ島にて玉砕

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・・・・台湾沖航空戦・終わり・・・・


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