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轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)
荒波洗ふ デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処(いづこ)、杉野は居ずや」
船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)
呼べど答へず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し
今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神廣瀬と その名残れど
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母は、このことを自分で見てきたように小学生であった管理人に語っていた。
杉野はいずこ、杉野はいずや。
母が小学4年生は昭和5年頃。
広瀬中佐は軍神第一号だったので、
その後雨後の竹の子のように生まれた軍神とは、認知度も知名度も全く異なる。
母が習って5年後、昭和10年。
軍神広瀬中佐は歌だけでなく、広瀬神社も出来た。
日本は軍事国家から神の国へと転換し、
昭和の戦前では楠木正成と並んだ英雄として、いよいよ祀り上げられた。
撮影日・2013年2月21日 大分県竹田市「広瀬神社」
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その昭和10年、軍神・広瀬中佐に関する座談会が文芸春秋社で決まった。
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「歴史好き」 池島信平 中公文庫 昭和58年発行
K兵曹
昭和十年は、日露戦争三十年というので、国内でいろいろの催しが行われた。
わくわくするような軍国調が心理的にも、聴覚的にも、日本中に高鳴って来た。
日露戦争生残りの将軍たちの思い出ばなしが、新聞紙上、あちこちに連載された。
それぞれに 面白く、いまはじめて聞くような逸話もあって、わたくしは愛読したが、「何かが足りない」と いう気持は読後もずっと尾を引いていた。
「新聞」が大将、中将なら、こちらは下士官、兵卒でゆこうと思って、企画を出したら、編集会 議でパスした。
そこで日本の農村や町から、一銭五厘の召集令状で集められ、まだ見たことのな 異国の戦野で戦った「名もなき民」たちの戦争回顧録を集めることになった。
海軍でいこうというので、座談会の出席者をあちこち捜して回った。
旅順の閉塞隊に加わって、軍神広瀬中佐が戦死する時、すぐその前でボートをこいでいた下士官の名前と住所が分ったので、出席依頼に早速出かけて行った。
捜してた家は、川崎へんの工場街にある小さな長屋の一軒であった。
年齢不詳のおかみさんが現れ、
「ああ、おじいちゃんなら、いま仕事中で、もうじき帰ってくるから上って、待ってなさい」 といって、上りばなの三畳の部屋に通された。
小さなはだか電球が一つぶらさがり、にぶいあかりがついていたから、夕刻といってよい。
「おじいちゃんだよ」
大分待たされたが、そのうちに、戸口が開いて人が帰ってきた。
と、いわれるまでもなく、わたくしはふり向いたが······驚いたことに、それはチンドン屋さんであった。
サムライ姿のその人は、わたくしの用向きを聞き、
「ちょっと待って下さい、顔の白粉、落してきますからね」
わたくしは、アレヨアレヨである。旅順決死隊の勇士とチンドン屋さん――これがとっさに
一つに結びつかないのであった。
Kさん(戦艦朝日乗組み)、下士官で唐辛子屋...... (水雷の形が唐辛子に似ているので、当時 水雷科員のアダ名) きちんとすわり直した初老のこの人は、
ご商売とはちがったマジメな感 じの人であった。
ぽつぽつと口がほころびて、戦争のはなしになった。
「広瀬少佐が戦死された時、わたしはボートの一番をこいでいました。
すぐ目の前ですよ、
少佐は元気で(みんなオレの顔見てげ)といって、沖へ沖へと舵をとっていましたが、
瞬間(ウーン)という声だか音だか分りませんが、
わたしが顔を上げると、少佐の首が見えず、真 赤な血が首元からふき上ると、胴体がコロリと海の中へ落ちこんだのを見てしまったのです。
はっと思って、オールをつかむと同時に、わたしは胸のあたりに生ぐさいものを浴びせかけられました。
これが広瀬少佐の血だったんです・・・・・・」
ショッキングな話を、実に淡々として話すのである。
「杉野上等兵曹は、色の黒い大男で、この人が艦に着任した時は、こんなオコゼみたいな顔の男
が、われわれの上官になったんじゃ、かなわないなと、みんな言ったもんです」
わたくしが座談会のことをもち出すと、
「座談会って、どんなものか知りませんが・・・・・・」
「戦争なんて、つまらんものですよ」
と、ポツンといった。
ここに醒めたひとがいる。
すっかり暗くなった裏町をたどりながら、わたくしは彼の最後の言葉のにがさと重みをかみしめていた。
旅順口閉塞隊勇士、K兵曹は、もうこの世にはいないであろう。
たった一回あっただけの人で ある。
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広瀬武夫
(Wikipedia)
兵学校卒業後、日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。
1897年(明治30年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。
撤退時に部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。
救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。
5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見された。
戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬した。
日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年(昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元数百名の手により広瀬神社が創建された。
また文部省唱歌の題材にもなる。
明治末期に、銅像が国内に3体建立された。
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