しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「田舎のバス」

2024年01月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

城見小学生の時、学校帰りにバスを見ると「田舎のバス」をみんなで歌った。
田舎のバスは、
ほんとに・・・オンボロぐるまだった。
ほんとに・・・タイヤはツギだらけだと思った。
ほんとに・・・窓は閉まらない。これは汽車もそう。
ほんとに・・・デコボコ道を
ほんとに・・・ガタゴト走っていた。

・・・

「田舎のバス」

田舎のバスはオンボロぐるま

タイヤはツギだらけ 窓は閉まらない

それでもお客さん我慢をしてるよ

それはわたしが美人だかあら


田舎のバスはオンボロぐるま

デコボコ道をガタゴト走る

 

「皆さま、毎度ご乗車くださいまして有難うございす。
早速ですが、只今から乗車券のお切らせを願います。
アンレマしょうがねー牛だなー
・・・」

 

田舎のバスはオンボロぐるま

デコボコ道をガタゴト走る


・・・


城見を走るバスは東西に、笠岡駅前⇔福山駅前、の路線だった。
用之江と大冝を走る。
茂平にバスはない。
だからオンボロバスでも、バスが通る用之江や大冝がうらやましかった。


・・・

 

小学生か中学生か高校生の時、家のラジオがかかっていると
「パパいってらっしゃい」というラジオドラマが学校に行く前の時間に放送されていた。
主題歌を歌うのは・・・中村メイコ
主役も・・・中村メイコ
子役も・・・中村メイコ
端役も・・・中村メイコ
無理をしながら役によって声を分けるのが、聴いていて面白かった。
”七色の声”と言われていた。

 

子どもの頃から知っていた「中村メイコさん」が昨日(2024.1.7)亡くなったと報道された。
亡くなる一週間前まで芸能の仕事をしていたそうだ。
89歳だった。

・・・

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尋常小学校唱歌・四学年「広瀬中佐の歌」

2023年12月02日 | 昭和の歌・映画・ドラマ


轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)
荒波洗ふ デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処(いづこ)、杉野は居ずや」

船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)
呼べど答へず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み、
敵弾いよいよあたりに繁し

今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨みぞ深き、
軍神廣瀬と その名残れど

・・・

母は、このことを自分で見てきたように小学生であった管理人に語っていた。
杉野はいずこ、杉野はいずや。
母が小学4年生は昭和5年頃。
広瀬中佐は軍神第一号だったので、
その後雨後の竹の子のように生まれた軍神とは、認知度も知名度も全く異なる。

母が習って5年後、昭和10年。
軍神広瀬中佐は歌だけでなく、広瀬神社も出来た。
日本は軍事国家から神の国へと転換し、
昭和の戦前では楠木正成と並んだ英雄として、いよいよ祀り上げられた。

 

撮影日・2013年2月21日 大分県竹田市「広瀬神社」

 

・・・
その昭和10年、軍神・広瀬中佐に関する座談会が文芸春秋社で決まった。
・・・・

 

   「歴史好き」  池島信平  中公文庫 昭和58年発行

K兵曹


昭和十年は、日露戦争三十年というので、国内でいろいろの催しが行われた。
わくわくするような軍国調が心理的にも、聴覚的にも、日本中に高鳴って来た。

日露戦争生残りの将軍たちの思い出ばなしが、新聞紙上、あちこちに連載された。
それぞれに 面白く、いまはじめて聞くような逸話もあって、わたくしは愛読したが、「何かが足りない」と いう気持は読後もずっと尾を引いていた。
「新聞」が大将、中将なら、こちらは下士官、兵卒でゆこうと思って、企画を出したら、編集会 議でパスした。
そこで日本の農村や町から、一銭五厘の召集令状で集められ、まだ見たことのな 異国の戦野で戦った「名もなき民」たちの戦争回顧録を集めることになった。

海軍でいこうというので、座談会の出席者をあちこち捜して回った。
旅順の閉塞隊に加わって、軍神広瀬中佐が戦死する時、すぐその前でボートをこいでいた下士官の名前と住所が分ったので、出席依頼に早速出かけて行った。
捜してた家は、川崎へんの工場街にある小さな長屋の一軒であった。

年齢不詳のおかみさんが現れ、
「ああ、おじいちゃんなら、いま仕事中で、もうじき帰ってくるから上って、待ってなさい」 といって、上りばなの三畳の部屋に通された。
小さなはだか電球が一つぶらさがり、にぶいあかりがついていたから、夕刻といってよい。

「おじいちゃんだよ」
大分待たされたが、そのうちに、戸口が開いて人が帰ってきた。
と、いわれるまでもなく、わたくしはふり向いたが······驚いたことに、それはチンドン屋さんであった。
サムライ姿のその人は、わたくしの用向きを聞き、
「ちょっと待って下さい、顔の白粉、落してきますからね」
わたくしは、アレヨアレヨである。旅順決死隊の勇士とチンドン屋さん――これがとっさに
一つに結びつかないのであった。


Kさん(戦艦朝日乗組み)、下士官で唐辛子屋...... (水雷の形が唐辛子に似ているので、当時 水雷科員のアダ名) きちんとすわり直した初老のこの人は、
ご商売とはちがったマジメな感 じの人であった。
ぽつぽつと口がほころびて、戦争のはなしになった。

「広瀬少佐が戦死された時、わたしはボートの一番をこいでいました。
すぐ目の前ですよ、 
少佐は元気で(みんなオレの顔見てげ)といって、沖へ沖へと舵をとっていましたが、
瞬間(ウーン)という声だか音だか分りませんが、
わたしが顔を上げると、少佐の首が見えず、真 赤な血が首元からふき上ると、胴体がコロリと海の中へ落ちこんだのを見てしまったのです。
はっと思って、オールをつかむと同時に、わたしは胸のあたりに生ぐさいものを浴びせかけられました。
これが広瀬少佐の血だったんです・・・・・・」

ショッキングな話を、実に淡々として話すのである。
「杉野上等兵曹は、色の黒い大男で、この人が艦に着任した時は、こんなオコゼみたいな顔の男
が、われわれの上官になったんじゃ、かなわないなと、みんな言ったもんです」

わたくしが座談会のことをもち出すと、
「座談会って、どんなものか知りませんが・・・・・・」
「戦争なんて、つまらんものですよ」
と、ポツンといった。
ここに醒めたひとがいる。
すっかり暗くなった裏町をたどりながら、わたくしは彼の最後の言葉のにがさと重みをかみしめていた。
旅順口閉塞隊勇士、K兵曹は、もうこの世にはいないであろう。
たった一回あっただけの人で ある。

・・・


広瀬武夫
(Wikipedia)
 

兵学校卒業後、日清戦争に従軍し、1895年(明治28年)には大尉に昇進。
1897年(明治30年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。
1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。
3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。
撤退時に部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。
救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。
5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見された。
戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬した。

日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935年(昭和10年)に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元数百名の手により広瀬神社が創建された。
また文部省唱歌の題材にもなる。
明治末期に、銅像が国内に3体建立された。

・・・

 

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親子舟歌

2023年06月22日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和30年ごろの日本の川は、
橋で渡る、船で渡る、徒歩で渡るの三方法だった。
島と島、島と本土、岬から岬も同じ。
日本中に多くの渡し船が存在していた。

その頃、潮来を歌った流行歌が多かった。
歌の舞台は潮来出島のように思えるが、
この歌を聴く人はみんな、
自分の近くにある”渡し船”を自由にイメージしていたと思う。

三橋美智也「女船頭歌」、美空ひばり「娘船頭さん」
すこし後に、橋幸夫「潮来笠」、三波春夫「船方さんよ」
その代表曲は、
なんといっても「親子舟歌」。

大歌手・田端義夫、
名子役・白鳥みづえ、
が親と子に扮して歌う「親子舟歌」が大ヒットした。

 

 


一里きこえて ギッチラコギッチラコ
三里ながれて ギッチラコギッチラコ
歌はどこまで 行くのやら

・・・

将来を嘱望されていた白鳥みづえは、
事件を起こし、その後、歌謡界に復帰したが
「親子舟歌」以上の曲には恵まれなかった。


合掌

・・・
ネットニュース

歌手・白鳥みづえさん 2年前に77歳で死去
2023.6.22

・・・

 

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感動と興奮の、映画史上最大のヒット作品「明治天皇と日露大戦争」

2023年06月19日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

 

娯楽=映画、という時代があった。
町に住む人も、田舎に住む人も、映画が最大の娯楽だった。
その映画の全盛期に、空前絶後の大ヒット映画が生まれた。
それが「明治天皇と日露大戦争」。

その頃は茂平の人が町へ遊びに行く=映画を見に行く、ことだった。
だが、町(茂平の場合、町とは福山または笠岡を意味する)に行くことは滅多にない。
そこで金浦座が月に2度ほど、茂平の集会場に出張して映画を上映していた。
「明治天皇と日露大戦争」は東京や大阪で上映されてから2年ほど経って、茂平に来た。

茂平の会場は超満員だった。
父は、
「やっぱし勝つ映画はええのう」
というような事を言っていた。
当時の日本は、戦争=敗戦の意識が強かった。

公開後2年も経った映画でも、観客ほぼ全員が面白さで興奮したような記憶がある。
上映中、フィルムが切れて中断が20回ぐらいあったのがご愛嬌だった。


・・・

文藝春秋社の池島信平氏は、
都会人として映画の論評を遺している。

・・・

「歴史好き」  池島信平 中公文庫  昭和58年発行

「国民皆泣き」

「明治天皇と日露大戦争」という映画を見た。
見ているうちに、涙が出て困った。
ハンケチが間に合わない。
まわりの人も、注意して見ていると、みんな泣いている。
「国民皆泣き」の映画である。
いい年をして、なんでこんなに涙が出て・・・と恥ずかしくなった。
涙腺がひろがりっぱなしである。
このへんで、
ひとつ泣かせてやろう、
という製作者の計略が、手にとるように分かるものであるが、
だらしなく涙が出てくるのである。
三笠艦上の東郷大将、
水師営の乃木大将、
そして、日本の奉天入城
----みんな子供の時に絵や写真で見た通りが、
天然色で出てくるので、見ていて、何か心が安心なのである。
その間に、御製の朗読や詩吟や、小学唱歌が出てくるのだから、
タマラない。

見終わって、すっかりくたびれてしまった。
しかし、いい気持であった。
そして、次に何かバカバカしい気持ちと、
一杯やられたような、ふしぎな気持ちがしてきた。
頭がよくて、商売のうまい人が、映画会にはいるものである!!
しかし、
こんなことは、一回でいい。
二度はご勘弁ねがいたい。
--そのことを強く申し上げておく。

・・・

 

新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」

明治天皇

 

出兵

 

 

「すぎの~ぉ! 杉野は何処!!」

 

 

激戦「203高地」

 

 

皇国の興廃この一戦にあり「日本海海戦」

 

♪庭に一本(ひともと) 棗の木 ・・「水師営の会見」

 


・・・

池島先生の「ご勘弁」は無視され、
新東宝は二匹目、三匹目のどじょうを狙った。
二作目は多少注目されたが、さすがに三作目はまったく無視され
まもなく新東宝映画は倒産していった。

 

・・・

 

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学校で見る映画④大学

2023年06月09日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

ゼミの先生は映画が好きだったのか、どうかは知らないが、
ゼミ生を二度映画館に連れていってくれた。
ゼミの先生は、よく自身の高校生活のことを話された。
先生は日比谷高校(旧制東京府立一中)の卒業生だった。
その事を少し自慢しているように感じた。

 

一度目は、
「赤ずきんちゃん気を付けて」という芥川賞作品の映画。
主演は岡田裕介(後の東映社長)と
森和代(後に森本レオと結婚)の二人。
先生がなぜ、この映画に連れていってくれたのか、といえば。たぶん。
映画の舞台が当時、東大進学者数が一番多い日比谷高校だったから。

映画に出る森和代は、
それは
それは
可愛かった。
週刊現代の表紙はいつも、森和代だった。
当時無名の俳優・森本レオと突如、結婚して引退した。同世代の男性に、悔しい思いの人は多いはず。


二度目は、
「橋の無い川」だった。
被差別部落を扱った作品だった。
水平社が出来る事がラストシーンだった。
映画館は、併映で加山雄三主演の「若大将」があった。
彼女役は酒井和歌子で、大スクリーンの顔が美しかった。

先生は映画を見る前も、見た後も、感想や思いを言うことを求めなかった。
先生が「橋の無い川」に期待する感想はあっただろうけれど、
学校は”自由”というを、自分が邪魔してはいけないという思いが支配していたのだろう。

 

 

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学校で見る映画③高校

2023年06月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

推薦映画

笠岡市内の4高校は、4校の”学校推薦”映画という制度があり、
”学校推薦”以外は見に行ってはいけなかった。
当時、映画館は大和座・セントラル劇場・中央劇場・金星劇場があった。
成人映画以外は、ほぼ”学校推薦”だった。

人気が高かったのは「中央劇場」。

土曜日の午後、館前の自転車置き場は高校生でいつも満車。
映画を見る前に、中央劇場の向かい側にある「斎藤」で中華そばを食べて入れば無上とも言える贅沢だったが、
自分は、その贅沢を経験してない。
その頃の人気映画にショーンコネリーの「007」があった。


管理人がよく行ったのは青春映画。

笠岡セントラル劇場と大和座が青春歌謡映画を上映していた。

 

 

非推薦映画

話題作で「黒い雪」という映画があった。ワイセツ映画で非推薦だったが、


見に行った同級生がいた。
「女王蜂」という洋画も非推薦だったが、普通に見に行く生徒がいた。
罰則なかったのと、福山市や浅口市の高校に通う生徒が多いので、
映画館の方も普通の観客として入場させたのだろう。

 

・・・

 

「1964東京オリンピック」

高校三年間で、唯一、全校生徒が見た映画があった。
それが、「東京オリンピック」。
国民が熱狂したオリンピックの翌年「東京オリンピック」という映画が完成した。

一年生・二年生・三年生は学校の校庭に集合したあと、
約900人の全校生徒は大和座へ歩いて向かった。

映画のポスターは今でもよく覚えているが、
映画の内容は印象にない。
テレビで何度も見たシーンの映画化だったから。


それから55年経った、2021年「東京オリンピック」が開催された。
だれを監督で、映画化するか?
そんなことを思う国民は、誰一人いなかった。
大会幹部の逮捕者続出、政治家と企業の利権だけが目立つオリンピックだった。
日本と日本人は、1964東京オリンピックと比べ、
進化でなく劣化してしているのではないか、
そんなことさえ思う2021東京オリンピックだった。

 

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学校で見る映画②中学校

2023年06月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

「太平洋ひとりぼっち」


当時も今も理由がよくわからないが、
あの映画は「文部省推薦」だったのだろうか?
そし、そうならなんでだろう?

金浦中学校で、たぶん一回あっただけと思うが、体育館で映画をした。
それが石原裕次郎主演の「太平洋ひうとりぼっち」。

ヨットに乗って日本からアメリカの西海岸まで単独で航行した堀江青年を映画化したもの。
当時、堀江青年は新聞・テレビ・ラジオ・雑誌に取りあげられ国民的ヒーローだった。
その話題の延長にのっかって映画化し、主演も石原裕ちゃんが演じた。

映画は、太平洋上でヨットの一人生活なので、面白さはあまりなかった。
太平洋で毎日、気が狂いそうな孤独な日々
荒れた海の、命懸けの戦いは十分感じたが
娯楽の要素が少なかった。
それで学校で上映されたのかな?
映画には、裕ちゃんと日活が得意なアクションも歌もなかった。

 

この時に、中学生を喜ばすことがあった。


それは話題作の”ゴジラ対キングコング”という映画を見せてくれた。
これにはみんな大喜び(特に男子は)した。
一本まるまるでなく、最後の決戦シーンの30分間程度のみを上映した。
しかし怪獣が東京を破壊しながらの決戦でなく、孤島での対決で物足りなさを感じた。
見る前に喜んだだけに、ストレスが少し残った。
学校で見る映画は、ええようには行かんなあと思った。
なお映画は金浦座の出張上映だった。

 

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学校で見る映画①小学校

2023年06月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

小学校の時は日本映画の全盛期だった。
それを反映しているのか、どうかは不明だが、学校でよく映画を見た。

場所は城見学校の講堂、真田(さなだ)講堂。
講堂に暗幕を張ってあり、全校生徒が入り、床にべべちゃんこをして座る。
暗幕は揺れて館内に光が入ることがよくあった。
映画館では2~3本立て上映で、さらに予告編とニュースがあったが、
講堂で見る映画は一本立ての上映だった。

学校で見る映画は苦痛だった。
勉強しなくて、座っているだけの授業(?)なので楽なはずだが、嫌いだった。
その理由はただ一つで、
”面白くない”映画だったから。
いわゆる”ためになる”映画。

覚えている映画は、
野口英世の少年時代
路傍の石


にあんちゃん
キクとイサム
白蛇伝(←まんが、今で言うアニメ、カラー映画だった)
そのうち、路傍の石は6年間で二度見たような気がする。違う映画だったが。
これでは全く面白くない。


が、しかし例外もあった。
それが、新諸国物語「オテナの塔」、これは嬉しかった。

(主演は後の坂田藤十郎)


もひとつ、学校でなく笠岡にバスで見に行ったことが一度ある。
総天然色映画だった。笠映だったような気がする。洋画だった。題名は記憶ないがスクリーンがきれいだった。

でも、
子供の頃は映画は大好きだったが、剣を振り回すチャンバラ映画以外はまったく興味がなかった。


・・・

 

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青春歌謡映画は楽しい「わが愛を星に祈りて」

2023年03月11日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和41年松竹「わが愛を星に祈りて」、

映画は福山市船町の映画館で見た。

 

上映開始と同時に、館内はうえーーーーんと泣き声の大合唱にはびっくりした。

あんな経験は、その一度しかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

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青春歌謡映画は楽しい「十七歳のこの胸に」

2023年03月08日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

昭和39年東映「十七歳のこの胸に」。

去年西郷輝彦さんが亡くなってすぐ、追悼の意を込めて作ったが、今でも淋しさを感じている。

 

 

 

 

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