しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

果物栽培の歴史

2022年08月01日 | 農業(農作物・家畜)

食べるもので、「日本人がスキヤキを食べ始めたのは明治何年からです」は、
大人の本にも、子どもの本にも載っている。
しかし管理人が牛のスキヤキを初めて食べたのは昭和30年代が終わる頃だった。

いっぽうで「日本人が果物を食べ始めたのは明治何年からです」は、
大人の本にも、小どもの本にも、ほとんど載っていない。

牛肉以上に人々の日々の食べ物として重要度が高いと思うが、なぜ書かれないのだろう?

 


・・・・

「物語・食の文化」 北岡正三郎 中公新書  2011年発行

果物

わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、
キイチゴ(木苺)などだけで、
弥生時代になって、
モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。
縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。

中世以降主食、副食以外の嗜好食品または間食用の食品として、
菓子と同様の位置にあり、江戸時代には水菓子と呼ばれた。

現代ではデザートとしての食事の一部分を占め、菓子とは違った役割をもっている。
古代ローマでは果物は嗜好品ではなく、食膳の重要な食品で、肉、魚、野菜などと同列の扱いであった。

20世紀には果汁の利用がアメリカで盛んになり、缶詰、瓶詰、紙パック詰が大量生産されている。
香水、石鹸、化粧品、芳香剤にアロマが利用される。

・・・・

 

「日本の農業4果物をそだてる」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

果樹の話


庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。

生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。

 

・・・・

 

「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

明治30年代岡山県は桃を中心として質においても、量においても、全国に冠絶した果物の生産地として自他ともに許した。
そのゆえんはとりもなおさず優秀な先駆者たちが全霊を捧げ、身命を賭した努力によって栽培術を研究し、後進を誘導し、切磋琢磨の結果、技術的に卓越していたことにほかならない。
今次第二次大戦は面積の半減、園の荒廃によって当業の基本を大きく動揺させた。


文久2年頃旧児島郡で栽培。
梨は明治30年頃に発生した赤星病で減退が著しく、防除法がなかった。
葡萄への更新が行われた。
防除法は大正以降に属する。
昭和13年に赤星病・黒星病の防除方法が確立し、やや安定した栽培が続けられた。

・・・・


文久2年児島郡で栽培。
岡山の果物の代表である桃は天津、上海両種の導入によって一大革命が起こった。
これらを枢軸として、明治30年頃新しい品種があいついで発見され、6月から9月まで随時成熟出荷を可能とし、経営上に一大進歩をもたらした。
全県で最高に達したのは大正4年の111万本。
終戦の昭和20年には果樹園整理、諸資材の不如意などによって12.700本に激減したが、
生産量は栽培方法の向上で極端な低下は免れた。
終戦後、全国的な増殖熱と肥資材の自由化、諸統制の廃止委によって急激な増産が行われた。

本県の発見された新品種
明治28年長尾円澄氏は『新山天津』と命名。
昭和2年大久保重五郎氏は『白桃』『大久保』を発見。

 

葡萄
明治10年頃児島郡東児で栽培。
明治20年前後、黒痘病などが蔓延、惨害を受けた。
防除法がないため廃園になった。
葡萄再興の動機は、
水田作への移行と、
キャンベルアーリーの導入であろう。

キャンベルアーリー
米国オハイオ州で明治24年交配して得たもので、本県へは明治30年前後の記録が残っている。
ネオマスカット
上道郡広田盛正氏が大正14年交配によって育成、昭和8年公表された新品種。


みかん
明治13年、小田郡広浜村渡辺淳一郎氏は萩から夏柑一本を初導入し、その後兵庫県から三百本購入栽培。
明治23年、宮内省から御用仰せ付けられ献上した。

無花果
明治30年、横井村蜂谷筆吉氏は呼松から購入栽培。
大正2年、小田郡城見村の生産12.000〆、内乾菓6.000〆供用せり。
初植は不明であるがかなり古くから栽培していたと思料される。

枇杷
明治41年、旧児島郡赤崎村中桐梅太郎氏は長崎県茂木村から茂木枇杷10本を購入栽培し逐次増殖した。

苹果(りんご)
明治42年、小田郡新山村、長尾円澄氏は紅魁、祝、国光三種を一反歩栽培。

 

・・・・

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松浦岩蔵氏の葡萄経営

2022年08月01日 | 農業(農作物・家畜)

父が若い頃、果物栽培の先生として、教えを請いに伺っていた”岩蔵先生”の記事があったので転記して残す。

・・・

「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

松浦岩蔵氏の葡萄経営

松浦岩蔵氏は明治2年城見村大冝に生まれ、
明治29年頃日清戦争除隊後全家を携えて転居。
氏は日清・北清・日露の三役に従軍したが、
名を辱めぬ体躯と精神力の持ち主で、
かねて新渡戸稲造博士を崇拝し、その著書中に
「人間は一生を通じて地球の表面に痕跡を遺すことに務めよ」
にいたく共鳴して開拓を決意したのであった。

 

 

在隊中深夜人知れず農書を携え、除隊後国繁に移籍。
細道さえない不毛の山麓から海岸に至る約二町歩を開墾。
葡萄栽培に特に熱意を傾け、大正天皇の御登極の際、
葡萄献納の光栄に浴した。
園の一側に枇杷を移植して、潮風害防ぐ。
労力節減のため葡萄棚を高めた。
明治28年海岸に荷揚げ場を構築して、果物の集荷はほとんど舟艇を駆使して、
帰路必ず福山・笠岡・金浦より塵埃、紡績屑を搬入利用することを園の生命成りとし、
選定屑、落ち葉、籾殻をもって燻炭製造技術を設け、加里給源として重用し、
当代すでに全面施肥、腐植の重要性を身をもって垂範していた。

床下を利用して貯蔵庫を作り、邸内空地は葡萄をもって埋め、小川の上に鶏舎を建てて塀を兼ね、除虫菊栽培の端緒を拓き勧説に務め、
犬をもって園番に任ぜしめ、用便に当たっては止め金を伸ばし寸暇を惜しむに至っては、
その透徹した経営構造と実行力に衆人等しく驚嘆するところである。

また氏は生前、
もしこの事業成功の暁は全財産を四分し、
一は学校、一は旦那寺へ、一は青年団等の団体に提供し、
残りの一をもって一家を支えるのだ、とさえもらしていたと伝えられる。

昭和11年、大隅義一氏は果物月刊誌上に
「私の見た園芸界の傑物故松浦岩蔵君」と題して、
「千軍万馬の中を馳駆した英傑も病魔の強敵に勝つあたわず、
悲風凄然、偉業を遺して巨星墜つ、大正十四年十月十四日、享年五十有七、
実に本県園芸界にとって取返しのつかぬ大損失である」と述べている。

・・・・

(父の話)

 

茂平・国繁「不老園」のこと

「不老園」が果物をつくりょうた。
あの頃は,みんな果物をつくりょうらなんだ。

梨をつくりょうた。

 

・・・・・・

個人が主作りょうた。
市場に出すのに名前が要った。

戦争まで続いた。戦後は番号みたいなのになった。

長いこと茂平では「不老園」が果物の代表じゃった。


「西渓園」が干しいちじくをはじめた。

農園は30なんぼあってもだしょうらん名前だけのもあった。

大正~昭和初期の頃


2001年7月14日

・・・・・・

「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行


隣保共同組織の結成

桃および梨を中核とする果樹栽培の意欲は年とともに高まり、
生産も逐年増大して地場消費、近郊消費での需要がこれに伴わず、
明治30年ごろから阪神など県外に市場を求めた。

本県果樹栽培の殆どが農家の副業で、僅々1~2反歩に充たぬ経営でも、
それぞれ園名を採用したことは奇異とさえ感じられるが、
当時としては一たび市場で商品を競う場合、何園、何印の呼称表示は取り扱いの便宜上からも必緊であった。

かく個人間の競争時代を経て、産地間の競争に移り、やがて生産府県の競争段階を迎えた。

 

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みかん輝く黄金の島、大長

2022年05月13日 | 農業(農作物・家畜)

戦後の農政は、土地改革という歴史的大仕事があったが、それは占領時代のこと。
独立後の日本農政は、豊富な予算をひたすら”稲作”と”農業土木”につぎ込んだだけ、という思いがする。

昭和30年代の初頭、西日本の沿岸部を中心にミカン栽培が推進され、先進地の大長(おうちょう)は誰もが名を知る島となった。


・・・・・・・・・・

 

 

みかん輝く黄金の島、大長

 

「島」 斎藤潤 みずわの出版 2010年発行

昭和30年代半ばに温州ミカン一箱が当時の金額で数千円した。
小さな島から大阪市場へ直行するミカン専用船があった。
王長は、黄金の島の異名をとった。

「柑橘類は、やはり島が中心です。
周囲が海で気温が下がりにくい、
傾斜地が多く水が少ない、
風が比較的当たりにくい、という条件が、栽培に適しているんです」
水分はぎりぎりまで絞り最低限の量だけをパイプで点滴してやる。

農船とは、大長のミカン栽培の象徴的な存在と言っていい5トン未満の木造船だ。
近くの島や対岸の本州、四国まで土地を求め、開墾してミカン畑を作った。
農作業に通う足であり、ミカンを運ぶ輸送船でもあった。

 

 

大長ミカンとは大長地区で収穫される柑橘全般をさし、品種名ではない。
代表するのは温州ミカンの青江早生だ。
種無しの温州ミカンは、子孫ができないと嫌われていた。
大分県の青江村から穂木を譲り受けて接木し青江早生と名づけ、
翌年から村内に穂木を配って広めた。
最盛期には全国の早生ミカンの8割を占めた。
皮が滑らかで薄く、房が柔らかでそのまま食べられた。

昭和30年代から40年代の初めまでが大長の黄金期で、
当時の金で、年収1億を超える農家が、何軒もあったという。

ミカン倉
天井に喚起口があり、上には越屋根が載っている。
湿度の管理が重要だったようだ。
10段ほど棚があり、昔はミカン一つ一つていねいに並べて保存したのだという。
「ミカンは寒さに弱いので、青くても年内にもいどって、ミカン倉に入れて保存する。
朝は4時や5時に冷気を入れてやりました。
ロウソクの光で毎日一つ一つ点検して、腐ったものは取り除いたものです」
ミカン倉の目的は、ミカンを長期保存しておいて、端境期になってから高い値段で出荷すること。
貯蔵ミカンをいかに座らせるかが大切だったらしい。
「うまく座ると色もきて、糖度も上がる。
座らせているうちに2割くらい目減りするが、それ以上にいい値がついたんです」

「力の弱い人は3箱くらいだったが、10箱背負える力自慢が5~6人はいました」
一箱約20kgだから、多い人は急峻な山道を1回に200kg担ぎ下したことになる。

 

 

 

除草剤を極力使わないようにしている。
ミカンの後口にちょっと渋みが残るし、糖度も上がらなくなるからだという。
一年中途切れることのない畑の手入れや剪定の苦労、相場の変動。

 

 

 

改めて家々を観察すると、立派な建築が多い。
瓦やら塀などに、さりげなく凝った家もたくさん見かけた。
ミカン山に登って大長の町並みを一望する。
農業集落でこれだけ家屋が密集している場所は、他にないのではないか。
大長ミカン黄金伝説とともに、この集落景観は長く保存されるべきだ。
御手洗に勝るとも劣らないのではないか、と思いつつ急坂を下った。

・・・・・・・・・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イチゴを作る(茂平の苺)  

2022年03月26日 | 農業(農作物・家畜)




茂平のイチゴ

(父の話)

茂平のいちごは甘くて評価が高かった、茂平のイチゴは昭和50年代が全盛期ではなかっただろうか ?

昔からいちごは植えていた。が路地ものであった。

ハウスで栽培してから金になりだした。
今でも茂平のイチゴ栽培は多いが一時ほどではない。

作るのに手間がかかりすぎる。
よそでも栽培が増えた。
茂平のが甘い、うまいといっても見た目が同じなら安い方を買う。
のが原因だろう。

2000年05月28日
・・・・・

それにしても茂平のイチゴは茂平でしか作れない味があった。
消費者の購入スタイルの変化に押されたように感じる。


いちごは、農協がすすめた。
パイプ、ビニール農協が金をはろうてくれる。

こんだぁ、毎年金が農協にはいる。農協が取り替えてそれで払おてくれた。
今は、一時に比べ半分くらいになった。(茂平のいちごは)
手間がかかる。骨が折れる。

昔ほどじゃあねぃが(良い農薬が出来たので)、ダニがくる、うどん粉がくる。病気がくる。
いちじくのほうがらくじゃ、ダニだけじゃけい。

ハウスでも、イチジクのハウスのほうがよい。。ボニにだす。

2000・12・17


・・・・・・


12月
からだして4月くれいまでだしょうた。


春がすんで、こんどは苗をつくるようになる。
根から芽がつるがでたのを、切って植える。

ええめから、ええめから苺をだしたほうがえかった。
古いのはうがしょうた。残ぇても実はなるけど。

秋に植えて、せいから正月に出すようにする。
ハウスにストーブや電気をつけえて。

温度調節
花をええようにして、花をまびぃてやる。

ハウスによって季節を分けょうた。みないっしょに手入れができんけぃのう。
早ぅ花をさかせるんと、遅うさかせるんとに分けて。思うように(実がなる時期を)しょうた。


2001・2・11
・・・・・・


いちご
「組合」、いちじく「組合」はなぜあるのか?

茂平の果物の種類は多いが。何故いちご・いちじくには組合があるのか?

それはのう。
結局、干しイチジクをウチとかたやまに神戸のほうへ送りょうたんじゃ。
そういう状態で、他の果物はまとめて福山やこへ出しょうた。

イチジクはかたやまとウチに分かれて出しょうた。
普通の果物とは集荷の方法が違うとった。
イチジクは茂平がおいい、他所のほうはおまりない。

「組合」ではない、「部会」じゃ。
農協もいろいろなんもかんも出来んので「部会」をこしらえとるんじゃ。

「組合」は作者の勘違いだった。


談・2002・9・23


・・・・


イチゴ江戸末期、長崎に伝えられた。
「福羽」が明治32年生まれ以後、70年間作り続けられる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

・・・・・




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イチジクを作る 

2022年03月25日 | 農業(農作物・家畜)

茂平に平成の頃より、「イチジクの里・茂平」の絵看板が国道沿いに掲げられた。
土壌が適しているのと、明治以来の研究熱心な伝統栽培で、味覚への近隣地域の人気・評価は高い。

 

 


・・・

(父の話)
イチジク


これの寿命は長い。えださえ切ってやっとればいつまでも大丈夫だ。
茂平のイチジクは色も違う、味も違う。

新涯が主でちょっとだけ塩分を含んだ土地なんで、糖度がよそのより良い。
・・・
2000・5・14

栽培方法?何も今と変わっていない。
予防の薬が良うなった。
薬がかわっただけじゃ。
2000・9・10

・・・

いちじくはなんもせんでええ。ほっぽりなげじゃ。
冬の選定、(ありすぎる)葉っぱを落とす。予防する(桃などにくらべ回数がすくない)。あとはほっとく。
楽でゼニになる。
2001・2・11

・・・・・

イチジクの栽培

冬に剪定をして。
肥をして。
肥は昔神戸から人糞をもってきょうた。あれはえかったのう。
冬はよう「くそ船」がきょうた。
新涯の畑の肥壺へはねうつしょうた。その中へ潮水をちょぼっと入りょうた。潮水を入れるとカリがあってええ。
エエ肥になるんじゃ。

春は畑の草取り。
夏に予防して。
芽を間引いて。「めこぎ」。
(実が)成るようになったら水をやる。

秋に出荷。
金になる、相場がええ。

談・2002年6月23日

・・・・・




・・・・
(トウガキにはナイフで木を切っていたのを覚えているが ?)

ありゃあ、しょうたが薬をしだしたら来んようになった。
昔は虫のうんこやこで木が枯りょうた。
虫が来んようになればやめる。

談・2000・6・17


・・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

イチジク
笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。

・・・・・・




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂平名産「干しイチジク」を作る

2022年03月24日 | 農業(農作物・家畜)

干しイチジクは、まさに”珍菓”だった。
おいしい程でもない、が不味くもない。
お菓子がない時代の役割を、わずかではあるが果たしていたように、今思う。

・・・・

 

(実家にて)


(父の話)

始まりはカタヤマのおじいさんが始めたのが、明治の中ごろじゃろう。

干しイチジクは茂平では2軒、ウチとカタヤマにあつめそこから金浦にある神戸屋に出荷していた。
「こうべや」は、普段は八百屋をしとった。こうべやにはウチとカタヤマが契約しとった。
「こうべや」は言うとけば箱を持ってきてくれて、
取りに来て、持っていんで、そうやってまた来て。

農協はとおさず直接取引きであった。
おいしければよう売れとった。

相場のよい年もあった。昔から(自分の子供の時から)ホシイチジクはつずいていたが、硫黄のことで突然なくなってしまった。


無花果は捕ったその日に硫黄炉にいれて一晩蒸す。
硫黄炉にはいるだけのイチジクを取ってきていた。

それからは天火で干して一週間ほどしてから、手でもみ始める。

夏から採って始めていたが、珍しいといって大阪から大学の先生が見にきていた。
秋になると山陽新聞が記事の取材にきていた。
(毎年山陽新聞にはこの季節になると、コラム欄のような小さな記事で・・・今年も茂平ではホシイチジクが・・・と載っていた)


砂糖がういてくるまでそうしとった。
雨がふってきたら、重ねて積んでほろをかぶせとった。


(茂平ではイチジクの事をトウガキと呼んで、食用は「赤トウガキ」。干し無花果になるのを「白トウガキ」と呼んでいた。
白トウガキは糖分が多くつまみ食いをするには、こっちのほうが美味しかった。が、白い汁がきつく秋になるとよく口が切れていた。)

白トウガキは何処の家もうえていたのではない。
赤トウガキに比べると土壌に向き、不向きがあった。
つくるのは赤トウガキよりいたしいくらいじゃ。
水もいるし、新涯みたいなとこでないと採れなんだ。
新涯のがいいのが出来ていた、ほかの(他の畑で作ったのは)は熟れるんがおそいんと、甘味がすくない。実がおおききなるばかりで、みょうたらわかる。

・・・・

お菓子が世に出回りした昭和40年過ぎ、茂平名産「干しイチジク」はひっそりと消えていった。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麦を作る③小麦粉

2022年03月24日 | 農業(農作物・家畜)

小麦

小麦は冬作物で、春に播いて秋に収穫するイネとは、作期上の競合はない。
麩(ふ)は精進料理の素材として重宝されてきた。
醤油は、水と小麦と大豆に発酵が加わってできた食品である。
製法は小麦と大豆を加熱し、さましたうえで麹菌をさようさせて発酵させたところに食塩水を加えてさらに発酵させ、寝かした後に搾って作る。
醤油が今のかたちになったのは室町時代以降のことといわれ、
それ以前は搾る前の醤(ひしお)が調味料として使われていたらしい。

小麦粉を水に溶いて作る食品は、
うどん、そうめん、ほうとうなど。
焼く、煮る、ゆでる、という方法があり
豚まん、あんまん、ワンタン、餃子、ドーナツ、揚げパン、お好み焼き、たこ焼き、もんじゃ焼き、などがある。

「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行


・・・・・

(父の話)

はったい粉(煎粉・いりこ)
どこにも精米所があった。大宣にも、伏越にも。大門にもあった。
麦は香りがええ。

(母の話)

昔は粉引き屋があった。
大宣にあった。

今大工をしょうる近くに。松浦。カシワにするにゃあぜっぴもっていきょうた。
そこへ持っていけば精米する機械があった。そこで挽いてくりょうた。
麦は漁師に頼みょうた。船で伏越に毎日行くので、それにたのみょうた。
よう、ことずきょうた。毎年ことずきょうた。
結構に挽いてくりょうた。

はったい粉は香りもええし、麦じゃけい身体に為もええ。

談・2001年10月7日
・・・・

(母の話)

金浦からは小麦を買いにきょうた。小麦を出せば、ちいとばあ「せんべい」をくれてんじゃ。
大事にしておやつにして食びょうた。

そのころはポン菓子が来ればようしょうた。
談・2002年10月14日

・・・・



・・・・・

「日本の食文化史」 石毛直道  岩波書店 

ウドンとソバ

ウドンやソバといった「切り麺」は、麺生地を麺棒で平にのばし、
何重にも折りたたんで、包丁で切ってつくる。
切り麺づくりには、たいした熟練を必要としないので
一般の台所でもつくることが可能である。
普及には、おおきな平面の板がたやすく得られる15世紀になってからである。
ウドンづくりの技術をソバ粉に応用して、16世紀から「ソバ切り」がつくられるようになった。
日本の二大麺類となったが、畑作地帯が比較的多い東日本ではソバ切りが好まれ、
気候が温暖で、水田にイネを収穫したあとの裏作としてコムギを作るのが可能な西日本の人々はウドンを好むようになった。


・・・・・

 

「日本の食はどう変わってきたか」  原田信夫  角川選書  平成25年発行

ソバとウドン

日本の食文化のなかで、もっとも粉食が発達したのは、近世という時代であった。
その背景としては、粉食に必要な臼と水車の普及があった。
粉食の展開
粒食が主流とされていたが、実は餅や菓子に多用されていた。
豆腐を含めれば、粉食そのものは日本の食文化に不可欠なものであった。

粉食は、製粉という過程を経なければならず、非常な手間を要することになる。
その意味では、粒食が可能である米をわざわざ粉食とするのは、
いわばハレを演出するための工夫であった。
すなわち正月儀式や人生儀式などに、餅・菓子が供されるのは、
同じ米を用いながらも、節目にはケとは異なった味覚を楽しもうとする目的があったとすべきだろう。

基本的に穀類のうち、粟・稗・黍は混ぜ飯あるいは餅などとして、双方に利用された。

製粉に必要な道具は臼であり、これを水車という装置で利用することによって、
その効率を著しく高めることが可能となった。

臼は、
搗臼・挽臼・磨臼といった機能による分類。
堅臼・唐臼・てんがいと形態に分かれ、
木製・土製・石製の材料の酒類がある。

索麺は、小麦粉を食塩水で練って紐状としこれに綿実油を塗って細くのばして熟成させた後、天日で乾燥させたもので、長期保存が利くことから、
乾燥地帯では農家の冬の副業として広く生産されてきた。

・・・・・

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かぼちゃ(南瓜)を作る

2022年03月20日 | 農業(農作物・家畜)
戦後、砂糖がなかった。
甘い物に飢えていた。
ナンキンを食べると、ちょぼっとだけ甘く感じた。

・・・・

・・・・・

(父の話)

昔から作りょうた。
植えて、肥をすりゃあ出来きょうた。
ようけぃ出来りゃぁ出しょうた。
ぼっこう相場はようならん、じゃけいみんな、そう植えりゃえせん。
談・2002年8月5日

・・・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
カボチャ
南瓜とも唐茄子、サツマ、ボウブラともよばれている。
日本には16世紀に渡来した。
一般には味噌か醤油で煮て、おかずにして食べる。


・・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トマトを作る

2022年03月19日 | 農業(農作物・家畜)
小学校の2年生の頃、神島の親類に行ったとき、庭から野菜の匂いがした。
あれの匂いはトマトだ。トマトが熟れているのが見えた。
それが生のトマトを見た初めてだった。
田舎では昭和30年代前半までトマトは自給作物の外だった。作っていなかった。

新品種で匂いが弱くなり、甘みが増した。それで一挙に普及した。
今では家製菜園の王さま、生でガブリ食いもおいしい。


・・・・
(父の話)

トマト

作って箱へ詰めて出しょうた。
(何年か出荷したのか?加工用だろうか)

共同で市場へ出しとった。
下のみのるさん方の家、あそこで(家が建つ前に)共同で変わったものをつくりょうた。
池もあるし。

(トマトは)作ったものをみんなに配りょうたが,食ようらなんだ。
それで市場へ出しょうた。今はみんなトマトを食べるが。

(トマトの出荷は昭和10年前後の話と思える。
田舎では昭和30年代前半までトマトは自給としてもほとんど作っていなかった。
ミニトマトにいたっては見たこともなかった)

談・2002年8月16日


・・・・



・・・・・

トマト
明治時代に栽培されるようになり、
サラダで食べるようになったのは、戦後のことです。
小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行


・・・・・

トマト
明治に渡来し、昭和期になってから急速に普及した。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

・・・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スイカを作る

2022年03月18日 | 農業(農作物・家畜)
スイカ

中国では西域から来たことから「西瓜」と名づけられ、
わが国の呼称はこの漢名によるものである。
中国からわが国への渡来は南北朝時代と思われる。
スイカ栽培が普及するのは江戸時代の寛文年間(1670年頃)以降で、食用もこの頃から。
明治になると欧米から色々な品種が導入され、在来種との交配によって今日の栽培種のもとが生まれた。

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行






・・・・・

茂平もスイカ栽培は盛んだった。

ちょっとした衝撃で果実に割れが生じるので、収穫時では家族総出でリレーして荷車まで運んでいた。
運搬時も、ゆっくりと家に持って帰り、その後農協の園芸事務所まで持ち込みしていた。

後年、母はモグラの被害に悩まされた。
どの方法か忘れたがモグラを撃退に成功した。
ところが、次に
更なる難敵が空から現われた。
「今日は早いが、明日は熟れ頃」という時を見張ったようにカラスが食べに来る。
それも一つ丸ごと食べるのでなく、
どのスイカも嘴(くちばし)で、突いて一口食べて、大半のスイカを非商品化する悪さで、
これには母も心が折れて、スイカ作りは止めてしまった。

・・・・


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする