しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

カストリ雑誌

2018年04月15日 | 昭和21年~25年
管理人が高校生の頃、映画は「邦画」「洋画」「エロ映画」と三分割されていた。
高校の卒業式が終わってすぐ、福山に友と二人で初めてエロ映画を見に行った。
エロ場面になると、白黒映画からカラー映画に変わり、音楽も微妙に変わった。
その映画を見ながら友は泣いていた。
エロ映画を見て泣くことにびっくりしたが、後に本を読むと、当時のエロ映画は脚本がしっかりして高いレベルだったそうだ。

戦後氾濫し時代を彩ったカストリ雑誌は、どのような人気を得たのだろうか?

毎日新聞社「冷戦・第三次世界大戦」1946-1956 より転記する。

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1947の調査によると、前戯なしの性行為が半数を占めていた。

いわゆるカストリ雑誌は,B5判の大きさで約50ページ、挿絵には女性の裸体。
1946年10月に創刊された月刊誌「猟奇」が草分けで、2万部発行された創刊号はわずか2時間で完売。つづく第二号が戦後初の発禁処分を受け、一躍有名になった。
問題になったのは小説「性愛告白譚・H大佐夫人」。約6万部刷ったうち回収できたのはわずか873部だったという。
46年から49年にかけて百数十誌が創刊されては消えた。
内容はエログロ・犯罪、実話、猟奇もの。
「接吻について」という論文を巻頭に載せたり、
「ズロース物語」女性の下着史があったりで、当時の世相をストレートに表していた。

日本人の貧弱なセックス・イメージを広げる役割を果たした。

やがて「夫婦生活」を機に小型本化し、さらに本格な性研究誌「人間探求」などが登場すると勢いを失った。

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金浦中学の発足

2018年04月15日 | 昭和21年~25年
戦前の学校制度は複雑なうえに、国民学校や青年学校が発足し、制度が軌道にのるまえに敗戦で「学制改革」となった。

以下は「文科省のホームページ」と「岡山県教育史・続編」より転記する。

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「文科省のホームページ」より

 新制中学校は昭和二十二年四月から発足したが、同年第一学年の生徒のみを義務就学とし、以後学年進行によって二十四年度に全学年の義務就学が完成した。
 発足当初の新制中学校は、予算や資材の不足から、校舎、設備、教材、教具のすべてにわたり、また教員組織についてもきわめて不満足な状態であった。教員の約半数は国民学校からの転任により、その他は青年学校や中等学校からの充足によってまかなわれたが、不足は深刻をきわめた。
関係者の非常な努力によって、二十三年度の就学率は九九・二七%を誇った。
なおこの間、戦後各学校に一般化したPTA(父母と先生の会)が資金面等できわめて大きな役割を果たしたが、このことがのちにPTA本来の性格と目的について新たな問題を引き起こすことにもなった。


「岡山県教育史・続編」より

中学校創設当時の苦心
毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一ヶ月、半数以上揃っていない各教科の教員を集めること、三カ所の小学校と青年学校に分散して学校を開設する計画であったのを二か所にまとめる交渉から仕事を始めた。
学校の位置指定は三ヶ町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず、分裂寸前まで追い込まれたこともあった。 

昭和22.4.1 現在
所在地 校長名 兼務 学級数 生徒数 
金浦中学校 小田郡金浦町 毛利章一 青 12 482
(大島中・西中・東中・金浦中・新吉中・小北中のうち、青年学校を兼務は大島中と金浦中)


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