しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦(昭和20年9月2日)の頃

2023年09月02日 | 昭和20年(戦後)

1945年(昭和20年)9月2日。
東京湾、
アメリカ戦艦ミズーリの甲板。
日本の降伏文書が連合国との間で交わされた。

 

(Wikipedia)

 

・・・

 

(父)
終戦後、
すぐに茂平へ復員した父が驚いたのは
「百姓でありながら、米(の保存量)がほとんどなかった」こと。

(母)
母が怖かったのは、伝染病。
隣家から出て伝染。
曾祖父が亡くなった。

(家)
祖母の妹が神戸で焼け出され帰郷。
その母子3人が家に同居を始めた。
家は4世代、9人、が同居となった。

 

・・・


「勝央町史」 勝央町 山陽印刷  昭和59年発行

戦後の混乱

はじめて外国の占領下におかれ、やがて進駐してくる外国部隊についての恐怖感は相当なものであったようだ。
「男子はキンを抜かれ、娘は慰安婦に供出させられる」
などというデマが乱れ飛んで、娘たちを田舎に移住させた親もあった。

また「戦争に関係ある書類は焼却せよ」という上からの指令があって関係のない書類まで焼き捨てた役所や学校なども多く、これが戦時中の記録を亡くした大きな原因となった。

被服や食糧など持てるだけもらった内地の復員軍人が続々と帰郷して来て家族を喜ばせた。
「日本刀は全部出せ」という指令があり、祖先伝来の日本刀を差し出し、敗戦国民の悲哀を深く感じさせられた。
田舎に見なれないジープが飛び交った時代であった。


・・・

「美星町史」  美星町 昭和51年発行

敗戦の想い出

ある翼賛壮年団長は、家に隠れての生活を送っていた。
終戦の翌年、
元原田中将が黒忠小学校へ来て有志の集まりがあったが、
中将は涙を流しながら
「我々は職業軍人であるから降伏後は国賊もやむを得ないが、
銃後で食糧増産に励まれた方々が罪人扱いでは何とも申しようがない」
と語られた。
今はなき中将のせつせつたる言葉が胸によみがえって来る。

・・・

「美星町史」  美星町 昭和51年発行
戦犯追放

当町において公職追放者は堺村5人、美山村6人、宇戸村6人、日
里村4人で、
戦時中の村長、助役、在郷軍人分会長、翼賛壮年団長が該当している。
昭和25年10月から解除が始まり、昭和27年4月まで全員が解除された。

・・・

「戦争の中の子どもたち」 福山市引野学区まちづくり推進委員会 2015年発行

赤痢が猛威

空襲の4~5日後から下痢を訴えるものが続出し、
患者は谷知池の上手にあった隔離病舎に収容された。
戦災をこうむった家庭からも患者が出、被災者は二重の苦しみを受けることになった。
隔離病舎に収容された患者の看病は、
ほとんど家庭の者に任された。
十数名に一人ぐらいの割合しかいない看護人の数では手が回らず、
家族の中の健康な者が隔離病舎に寝泊まりして、
患者の食事から便の処理一切の世話にあたった。

当時は医薬品が極度に不足しており、あったとしても高価であった。
患者は牛馬に飲ませる下剤すら投薬されるありさまであった。

夏の暑さに加え、
戦災による疲労、さらに食糧難のための栄養不足も多くの命が失われる要因になった。
体力がない子どもや老人は、発病後二・三日で息絶えた。
毎日のように葬式が行われた。

・・・

岡山県「中央町誌民俗編」


戦後の食糧問題
どんぐりひろい

もはや開墾できる所はほとんどなく、
それまでは普通の食糧として利用されていなかった、
わらび、
ぜんまい、
山ふき、
よもぎ、
甘藷のつる、
里芋の茎、
大根葉、
葛根などを採取し、
乾燥させた物を供出する運動が始まった。
これらの作業は、
農業会、学校、婦人会などに求められ、小学生まで動員された。

昭和20年11月には、岡山県は米の代替え品として供出を促進した。
甘藷茎葉(乾燥品) 一貫 2~2円50銭
甘藷葉柄(乾燥品) 一貫 4円50銭
どんぐり(殻付き) 一斗 3円50銭
どんぐり(殻むき) 一斗 8円
大根葉(乾燥品) 一貫 3円50銭
桑残葉(乾燥品) 一貫 2円30銭

どんぐりひろいは、国民学校低学年の生徒の仕事であり、
袋に入れて、先生に渡したが、お金はもらわなかった。

さらに、昭和21年1月からは、
みかん皮、
葛根、
葛澱粉、
人参葉、
牛蒡葉、
里芋葉、
南瓜種子、
よもぎ、
茶殻
などの乾燥品が追加された。

実際問題として、栄養不足になるため統制違反の警察の目をくぐって、
半ば公然とヤミ買いに走るよりほかはなかった。

 

・・・


「福山市史下」 福山市 昭和58年発行

連合軍の進駐
昭和20年11月2日、
連合軍米第10軍41師団162連隊の歩兵大隊ノートン大尉以下約1.000人が、
大津野の旧海軍航空隊施設に平穏に進駐した。
福山市長は、
「各市民は自粛の上紛議を生ぜざるよう注意するは勿論、
各隣組等充分連絡の上、事故防止に努められ度」
いと通達を出した。

また松永警察署長はつぎのような心構えを通達している。
①家屋を開放せず、夜間は戸締りする
②婦人は胸を現わさず素足を見せずモンペを着用する
③外人に笑顔をみせたり、ハンカチを振ったりしない
④たとえ拳銃を向けられても手を挙げたりせず、物品を持ち出すものには代金を請求する
⑤女子の貞操には生命を賭して抵抗する

連合軍兵士が、
日本の婦女子に対して乱暴な行為に及ぶのではないかという心配は、
一般市民の間に流言飛語となって流れていた。
対策として、
連合軍相手の特殊慰安所を福山市でも突貫工事で設置した。
この施設は将兵には好評だったが、
昭和20年12月、連合軍当局より
「特殊慰安所への連合軍人の立入禁止」の命令が発せられ、
やがて人権尊重・民主化の一環として公娼制度の廃止が議論されるに及び
慰安所も閉鎖された。

・・・

 

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墨ぬり教科書の頃

2023年08月24日 | 昭和20年(戦後)

敗戦後の軍国主義一掃の学校現場は、
国民生活の衣食住、そのすべてが不足した中で行われていった。

・・・

「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行


墨ぬり教科書

昭和20年9月文部省は教科書の全部削除・一部削除・取り扱い注意を示した。
ただし、これは「国語」科のみだった。

20年12月GHQは、
修身・日本歴史・地理の即時停止と
教科書の全面回収という極めて厳しいものだった。

文部省はこれを受けて指令を通達した。
これが「墨ぬり教科書」であり、翌昭和22年に暫定教科書ができるまで使用された。


◎削除・修正の例
「海軍のにいさん」「菊の花」「神だな」「にいさんの入営」「金しくんしょう」
「病院のへいたいさん」「支那の子ども」
修正
「センチノニイサン」「オクニノタメニ」を
「兄さん、しっかり、元気ではたらけと」と修正するよう指示された。


・・・

「1億人の昭和史4」 毎日新聞社 1975・9月号 

 

・・・・


「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

戦後の教育
敗戦処理

戦災を受けなかった学校は、
通常の夏休みあけと同様に二学期を迎えたが、児童の転入出はどの学校も多かった。


教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、
全般的に教育そのものも活気を失ってきた。
これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足は教師生活を不安定にした。

このころ、国民学校では男女共学が基準となり、
学級の男女別編成ができなくなり、二人用の机に男女が並んで席についた。

学校につぎつぎとくるものは、
占領軍の指令と、
物資不足を補うため学童の大動員による未利用資源の採集依頼、要望で、
これは戦争末期よりもさらにきびしかった。

県は市町村長、学校長あて文書を出した(昭和21年6月11日)
集荷原料と品を概ね左の通りとす。

ワラビ、ゼンマイ、フキ、蓬、クローバー等の野草

南瓜種子、南瓜の葉、茶殻、蓬、ヨメ菜等の野草、里芋茎、彼岸花球根

団栗、蕨地下茎、果実皮、南瓜種子、南瓜葉

果実皮、葛根、茶殻、甘藷茎葉、大根葉、人参葉
集荷方法
学業の余暇及び実習の時間を以って集めるものとす。
家庭より生ずる残廃物は隣組等の協力を得て学童之を集めるものとす。
学校に於いて品種別に選別し乾燥を成す。

行進
団体行動は号令一下、軍隊式に行われたのであるが、
軍国主義を学校から一掃するとなると、号令をどのようにかけたらよいか、とまどう結果となった。
「気を付け」「休め」「右、左向け」「廻れ右」「番号」等は最小限に止め、
かつ愉快な気持ちを与えるようにするならばさしつかえない。
行進は音楽に合わして調子よく歩くことはさしつかえない。
要は
学校より軍事色を払拭することが目的であるから、その精神に従い責任をもって実施すると共に、許される範囲のものについては積極的に指導するのが肝要である。
体育で号令をかけるのは、軍国主義的だといので、教師の指示だけでできる球技が流行し、
ゴム製ドッジボールなどは意外に早く出回って子どもにも喜ばれた。
球技時代に入った。

 

・・・

「創立60周年記念誌・精研」 精研高校  平成7年発行

終戦の詔勅を受けて、
学徒動員、防空演習などが即刻廃止され、
銃器、連合軍を敵視したビラ、ポスターの撤去などが急いで進められ、
授業が再開される。

昭和20年9月15日、文部省の「新日本建設の教育方針」に基づき、
銃剣道や教練などの軍事教育の学科が廃止され、
昭和21年1月には修身、日本歴史および地理の教科書は回収され、
他の教科書も軍国主義的記述は墨で塗りつぶされた。
また御真影奉安殿は撤去され、
教育勅語の奉読も中止された。

 

・・・

「笠岡高校70年史」  笠岡高校 昭和47年発行

「私の女学生生活」 


昭和20年 3年生
〇8月15日 終戦全員早退してラジ玉音をきく。
〇2学期より4年生水島動員より解除され、敷紡の友のとも一緒になり、授業始まる。
〇吉田山、西大戸の山と開墾作業とが半々。教科書もなくザラ紙の洋半紙に先生が印刷したものを使用す。英語の授業も再び始まる。

・・

沿革
昭和22年、岡山県立笠岡高等女学校・併設中学校を設ける
昭和23年、岡山県立笠岡第二高等学校
昭和24年、岡山県立笠岡高等学校千鳥校舎
昭和28年、岡山県立笠岡高等学校

・・・


「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

社会科

修身、公民、地理、歴史がなくなり、社会科が設けらた。
社会科は、従来の修身、公民、地理、歴史をまとめたものでなく、
社会生活についての良識を養うことを目的として、設けられたのである。


・・・

「創立八十周年記念誌」 笠岡商高・吸江舎 昭和56年発行

「教師時代の思い出」 元教諭 加藤六月


当時は旧制商工学校から新制高校に変わったばかりで、3年生の「社会」の教科書はありませんでした。
文部省の指導要綱を読みながら、毎晩、翌日教える内容を一生懸命勉強して整理し、それを教壇で読みながら生徒にノートして貰いましたが、
週5時間分を書き上げる努力は大変なものでした。
途中私自身、勉強の行き詰まりを感じ、翌日3年生の「社会」の教壇に立つのが恐くて眠れない夜もありました。

・・・・

 

 

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写真を隠す、銅像を隠す、忠魂碑を隠す、鳥居を隠す  

2023年08月22日 | 昭和20年(戦後)

終戦直後は食糧難に代表されるが、あわてふためく行為も多々あった。

家には、天皇皇后の写真を額に入れて飾っていた。
その額は、
「戦後の一時、取り外して押入れの一番奥に隠していた」
と祖母が話していた。
「これを見られたらアメリカに捕まる」
のが、その理由だった。

そんな理由で、戦争直後に、
いろんな物が焼かれたり、壊されたり、隠された。
廃却されたものは戻らないが、
隠されたものの多くは数年後に復活されたものが多い。

笠岡市内では学校の校庭の地中から石の鳥居がでたり、和気清麻呂像が民家に隠されたりしたが、
福山市の備後護国神社鳥居も興味深い。

 

(2021.9.29 福山市草戸町)

・・

「福山市多治米町誌」

新築中の護国神社は昭和20年8月8日の空襲で焼けた。
戦後「このままだと取り壊されるおそれがある」と市当局者は近くの地中に二基とも解体して埋蔵した。
神社跡は福山市民球場ができ、次いで昭和43年市立体育館が建設された。

その後、備後護国神社として昭和33年福山城背の阿部神社を改築し合祀された。
一基は昭和36年に発掘し現備後護国神社参道に再建された。
もう一基の方は埋めた場所が分からなくなり「幻の鳥居」と呼ばれていたが体育館駐車場下にあると分かり、昭和55年秋の大祭に間に合うよう再建された。

 

・・・

「美星町史」  美星町 昭和51年発行
進駐軍の命令といって忠魂碑がこわされ、
戦争に関係あった書類は次々に焼き払われた。
青年学校にあった教練銃銃剣術用木銃、防具や、女生徒用薙刀は知らぬ間に埋めたり、焼き捨てられた。

・・・

 

 

(学校から庄屋さんの庭に移動して隠し、その後学校に再建された和気清麻呂像=笠岡市立大島小学校)

 

・・・

「岡山県史」
終戦後、天皇の巡幸に関し
天皇の巡幸が小学校であれば、天皇到着以前に次の物を必ず撤去するよう通達が出た。
二宮金次郎像
和気清麻呂像
奉安殿
忠魂碑
御真影
原型をとどめないように撤去すること。

・・・

「岡山県教育史・続編」 岡山県教育委員会  昭和49年発行

戦後の教育・敗戦処理

昭和20年8月16日 学徒動員解除
昭和20年8月24日 学校教訓、防空関係の訓令が廃止
昭和20年8月25日 「対新時局緊急措置に関する件」が、岡山県発令
一 御真影、詔書類は奉安殿、奉安所に奉還すること
二 興亜室は之を撤去すること
三 校内一円に亘り、写真・ポスター・米英ソ支を敵視し、或いは戦意昴揚のための一切の資料は之を撤去すること
四 図書・雑誌や学徒の綴り方・図画・習字にして、右の類するものは適当なる措置をすること
五 戦利品・竹槍塔は改造する等適当に措置すること
六 米英ソ支を敵視する音楽は一切歌踊せしめざること
七 銃器類の措置は県教学課の指示を俟つこと
八 その他、簿冊並びに施設等右に類するものは早急に適当に措置すること
九 米英ソ支の軍隊進駐することあるときは、非礼不遜なる態度言動を慎ましめ、之を刺戟せざること。
十 殊に女子学徒に対しては、最も厳粛なる態度を堅持し、苟も米英ソ支軍民に寸分の間隙を見せざる様訓練すること
十一 保護者・家庭に対しても本通牒の趣旨を徹底せしめること
十二 九月一日以後之を遂行す

・・・

 

 

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塩飢饉

2023年08月19日 | 昭和20年(戦後)

茂平の苫無の松林の西側(内海=うちうみ)に沿って、塩田跡が残っていた。
「戦争が終わって2~3年ほど、ここで塩を作っていた」という話だった。

茂平の塩田は入浜式の塩田ではなくて、
「安寿と厨子王」の、安寿がしていた桶で汐汲みの”揚浜式”の製塩だった。
戦中から戦後の一時期は、原始時代に戻ったようなことを、
大真面目に、そして一途にして、その日の生活をやりくりしていた時代だった。

 

・・・

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

自家製塩の奨励

塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。
前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、
この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。
曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一日一キロの塩は取れると指導したが、燃料不足で不可能とわかった。
かん水をそのまま利用せよ、という指導に変わった。

さらに輸送不足も加わり、漬物用塩の特配が遅れ、山間部で深刻な問題となった。

 

・・・・
「瀬戸内の産業と交通」 横山昭市  瀬戸内海環境保全協会 昭和54年発行


塩飢饉
第二次大戦が激しくなると、
入浜式塩田も資材や労働力の不足で荒廃し、
塩の生産量も激減した。
戦時中から戦後にかけての塩飢饉の苦い経験から、政府も食塩の増産に本腰を入れた。
昭和25年頃にはほぼ戦前の生産量に復興した。

 

・・・・・


「福山市引野町誌」 引野町協議会  昭和61年発行


戦後の自給製塩


第二次大戦末期から終戦直後にかけての塩の需給
殊に民需関係は急迫状態に陥っていた。
味噌醤油の製造販売を期生したほどであったから、
始めから専売の塩は手にはいらない状況であった。
戦争、直後の思い出に、
海水を汲んできて煮詰めて塩を作ったとか、
蓆(むしろ)に海水をかけ、乾くのを待ってパッパとふるって塩を作ったなどという話がたくさん残っている。

・・・
「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

沙美まで行って樽に海水を汲んできて煮詰め、塩の代わりにしたこともある。

・・・

 

父の話 (2005.1.15)


小迫に塩田もあった、若いもんがしていた。

野々浜の塩田はあったが、作る仕事をしょうるのを見たことはない。広かった。

 

・・・

「岡山県史・現代Ⅰ」

昭和5年第二次塩業整備が行われた。
小田郡神島内村の神島浜や横島浜などが廃止された。
塩田で働く労働者を浜子、
塩田での作業のことを採鹹(さいかん)作業と言った。


入浜式塩田での採かん作業には長年の経験が必要であるうえ、
夏の炎天下の重労働でもある。
第二次世界大戦中には多くの浜子が徴兵され、労働力不足から塩田が荒廃し、
塩の生産量も著しく低下した。
いったん廃止されていたものが、
戦後の塩飢饉時代に自給製塩と言うことで復活した。

・・・


「戦争中の暮らしの記録」

海水のおかゆ

私の生家は、岡山県笠岡市の隣村で、旧制中学の先生をしていた父は、
ヤミ物資には絶対手を出さぬようにと、いつも母にいっておりました。
味付け用の塩が、配給だけではとても足りません。
困った挙句の果て、母は一里ほど先にある瀬戸内海の海水利用でした。
近所の人二人を誘って三人で、大八車に二斗樽を三つ積み込んで出かけて行きました。
帰りは一人が梶を持ち、二人が後押しです。
フタのない樽もあり、車が揺れるたびにポチャンと海水がはねます。
顔は汗とほこり、
モンペは、はねた海水と汗で白く、
こうして、
海水で味付けしたお粥が夕食なのです。

現在、私が主婦となり、あの頃の母の年齢に近くなってきますと、
あの苦しい暗い時代を、よくぞ病気もしないで、みんなをみんな守って来てくれたものと
つくづく思います。

・・・

 

 

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天声人語 【昭和20年】~以徳報怨(徳をもって恨みに報いる)演説~ほか

2023年08月19日 | 昭和20年(戦後)

図書館から文庫本「天声人語」を借りた。
その時代が、感じられて興味深い。

・・・


昭和20年の「天声人語」

 

昭和20(1945)年 9・12

お役所仕事


アメリカの進駐軍は、たった2日間で、横浜の桟橋から、厚木の飛行場まで、
ガソリン油送管をひいてしまった。
代々木練兵場の幕営にしても、一夜のうちに機械力を駆使して、街路ができ、キャンプが設営され、井戸が掘られ、浄水装置までつくられた。

司令部における士官たちの執務ぶりでも、手紙ひとつがきても、すぐ速記者に口述してタイプを打たせ、上官の署名を得てただちに発送されるなど、水の流れるように事務がさばかれてゆく。
また日米間の交渉的なことでも、こちらの言い分を正当と認めれば、遅滞なく命令に移されて、てきぱきと処理される。

わがお役所仕事は、お役所仕事の効率があがらないということであった。
一つの許可を受けるにしても、あちこち回って、たくさんの判を貰わねばならないし、数省に関連したものなどは、お百度参りをやらねばならない。

 

・・・・


昭和20年9月16日

学び得たこと  

敗北によって今次の戦争で、いろいろと喪うところが多かったのは、万やむを得ないことだ。が、
一方、この戦争によって、得るところ、学び得たことも、すくなくない。

学徒が、学業を中止して職場に赴いたことなどは、教育本来の形からいえば、やはり喪うところが多いことではあった。しかし、
男女の学徒がいろいろな職場に仕事を持ち、勤労の本体に触れ、世の中を見たその体験は、日本国民にプラスした。

今一つ、この戦争の収穫がある。
婦人の実社会への進出がそれである。

配給、防空等に関する仕事によって、日本の女性は、戦争と取り組み戦争経済の中に没入した。
そのことによって、婦人は、
日本政治経済の動きを見、それを通して、戦争政治を感じることができた。

約言すれば、日本女性は、社会人的要素を、この戦争によって獲得したという訳である。

 

・・・

10.22


愛林精神  

戦災者救済の簡易住宅も、冬が迫るのに一向進捗していない。
木は伐っても、輸送に隘路があるということだ。
日本は森林が国土の七割を占めて森林国といわれるが、蓄積が貧弱なために、大正10年以後は、年々数百万石を輸入する状態であった。 

支那事変が始まって輸入がとまった上に、大東亜戦争となってからは、
軍用材、木造船、坑木その他膨大なる戦時要請に応ずるために林力を消耗する増産が行われ、ついには
神社仏閣の名木や、由緒ある街道の並木まで伐られるにいたった。

こうしていたるところ森林の過伐、乱伐を招来したのである。

 

・・・


昭和20・11・10


隣邦融和

思うに8月15日の終戦の大詔が、日本人をして一糸乱れず聖断に帰一し奉る効果をもっていたのに対して、
中国にあっても、蒋主席の一段よく四億の兆民を心服せしめるに足りるものがあった事実は永久に忘れるべきではない。

「暴に報いるに直を以てし、讐に応えるに恩を以てす」とは、
実に終戦当時に同主席が中国駐屯の日本軍と、在住の日本人とに向かって放送したところであり、
寸言をもって中国人の痛憤を宥めると共に、増上慢の絶頂から麻のごとく乱れる失意のどん底に転落しつつあった日本人の心緒に深刻なる猛省を強いるに足りるものがあった。

まさに「恩讐の彼方」以上の寛仁大度というべきで、
遺憾ながら道徳上の大人と小児との距たりを見せつけられた観があった。

 

・・・・


昭和20・12.6

戦争犯罪容疑者 

戦争犯罪容疑者の数が次々に殖えて、二百十八名を算するに至った。
近年各界の表面に活躍して来た有力者が束にして、隔離されて行く結果、否応なしに政治経済文化の形態と内容とが急変していくに相違ない。

幣原首相は議会の答弁において、
大戦の責任は国民になく、
また天皇の統治上の行動については国務大臣が一切の責任を負うべきものといっている。

しからば、
その両者の中間に立って、統治と戦争とに関するすべての責任を分かつべき人々はもっと多数あるはずで、
連合国の指名を俟つまでもなく、自ら罪し、自らを葬る者が続出して然るべきではないか。
いち早く権力に阿附して、反対派を葬ることのみ夢中になって世の中を暗くし、政道を誤らせてきた卑怯な民間人を一掃する必要がある。

・・・

 

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日ソ戦・棄てられた居留民

2022年09月04日 | 昭和20年(戦後)

ソ連は一日も早く、参戦し、日本領の奥まで侵攻しようとした。
日本の政府・軍は、居留民のことは議題にもならず、ソ連軍侵攻即、”棄民”となった。

 

・・・

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

1945年7月5日「対露作戦計画」が決定された。
いよいよとなったら、新京を頂点とし鴨緑江を底辺とする三角形の地域に陣地を築き、長期持久戦に持ち込もうとするものだった。
満州から朝鮮北部に居住していた約180万の日本人にも、この計画は知らされなかった。
したがって、8月にソビエトが侵攻してきたときには
住民の期待を裏切り、軍隊の方が住民より先に移動していて、
「棄民」といわれるような事態が生じる結果となった。

 

 

・・・・

「日ソ戦争 1945年8月」 富田武 みすず書房 2020年発行

棄てられた兵士と居留民

1945年5月、ドイツの敗北で日本は同盟国を失い、
連合国が残る一国をいかに降伏させるかに全力集中できたという
絶対的に不利な情勢下で、
二面戦争は何としてでも避けねばならなかった。
しかるに日本は、
4月に日ソ中立条約不延長を通告されたにもかかわらず、
対米英戦争の仲介を依頼しようと絶望的な努力を続けた。
そして7月、
ポツダム宣言を受諾可能と表明すべきところ、抗戦派の圧力下で「黙殺」報道によって原爆投下を急がせ、ソ連の参戦口実を与えた。

ソ連は「ソ連参戦前の日本降伏」は権益確保が困難になるので、参戦を急いだ。
参戦日を繰り上げ「電撃戦」的勝利で満州、南樺太、千島を、それに北朝鮮まで制圧したのである。

およそ日本の政府・軍部には、国力を見極め、国際関係を見通して、
戦争をどのように進め、終わらせるか、
そのための外交的方策は何か
といった政・戦略がなく、ドイツ頼みの他力本願的な期待を持つにすぎなかった。


関東軍は惨めな敗北を喫したのだが、
出さずに済んだかもしれない大量の犠牲者を生み出した。
国境要塞地帯から作戦変更による、守備隊の見殺し。
対戦車特攻は「棄兵」そのものだった。
開拓団に無通告、
なおかつ都市部に避難してきた彼らの列車輸送の後回しは「棄民」に他ならない。

関東軍首脳の責任は免れないが、兵士も開拓民も、
長年の軍国主義教育の結果として「お国のために死ぬのは本望」
「敵の手にかかるよりは自決する」という建前と心情に囚われていたことを指摘せざるを得ない。

集団自決は終戦時には珍しくなかったが、生き残っても書き残す人はいない。
これが日ソ戦争の真実の一端である。

 

・・・・・・・
棄てられた「臣民」は、日ソ戦争だけではなかった。
終戦時、帝国臣民であった朝鮮人も台湾人も棄てられた。
・・・・・・・

 

「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

「民間人の切り捨て」指示

当時、満州国を含めた中国や東南アジアの占領地は大東亜省の管轄下であった。
日本軍の武装解除と復員については大本営の指令によって行われるが、
民間人は大東亜省の出先機関に委ねられていたのである。
広大な地域に300万を超す日本軍がいて、
300万を超す民間人も同じように各地域に散らばっていた。
とくに日本政府の保護が及ばなくなる民間人の取り扱いが大きな問題になることは明らかであった。
 
大東亜省は「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」とされた。
事実上の民間人の切り捨てを行ったのである。
また朝鮮人と台湾人について「追って何等の指示」を出さないま彼らに対する保護責任は連合国側へ丸投げされた。
「帝国臣民」であった朝鮮人や台湾人の生命財産の保護を日本政府が実質的に放擲したものとなった。
天皇が語り掛けた「帝国臣民」は、
「内鮮一如」「一視同仁」といったスローガンのもとに皇民化され
「帝国臣民」になっていた朝鮮人や台湾人やその他の少数民族は含まれていなかったのである。


・・・・

 

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9月3日  ロシアの「対日戦勝記念日」

2022年09月04日 | 昭和20年(戦後)

日本の書物では、
日ソ中立条約を突然破棄して攻め込んだ
終戦後も攻撃した
シベリアへ60万人抑留した
と書かれているが、
ロシアでは、”侵攻”でなく”解放”と書かれているようだ。


山陽新聞・記事(2022.9.4)

ロシアが太平洋戦争での対日戦勝記念日としている3日、
北方領土の択捉島や国後島、色丹島で記念行事が行われた。
ロシアは旧ソ連が日本統治下の満州や樺太南部、千島列島に侵攻したことを
「軍国主義からの解放」
と位置付けており、実効支配を誇示した。
ロシアは米戦艦ミズーリで降伏文書に調印した9月2日を大戦終結の日と定めたが、
2020年になって
9月3日を「対日戦勝記念日」に変更した。

 

(朝日新聞web 戦勝記念パレード 2022.9.4)

 

・・・


「大日本帝国崩壊」  加藤聖文 中公新書 2009年発行

樺太

昭和20年8月11日、ソ連軍は本格的な攻撃を開始した。
8月14日午後6時、ポツダム宣言受諾が伝えられた。
ソ連軍の攻撃は依然として激しく続き、16日夕になって古屯は占領された。
第八八師団は、停戦と戦闘という相反する命令によって現場で混乱が生じていた。
8月17日太平洋炭鉱病院の看護婦による集団自決が起きている。
8月20日未明、要港であった真岡に艦砲射撃を加えた後、上陸しその日のうちに制圧した。
真岡から豊原に進撃を続け、23日まで激戦が続いた。


北千島

8月18日未明、今度は北千島の占守島に上陸したとの報がもたらされた。
千島攻略にとりかかったのである。
占守島での戦闘は21日の停戦まで続いた。

 

北海道の占領要求

8月16日スターリンは、
日本の降伏地域に、千島列島全部を含めること、
釧路と留萌を結ぶ線以北の北海道を含めること
を要求した。
北海道占領を求める根拠は、
1918年から22年にわたった日本軍が行ったシベリア出兵の代償であると主張した。
トルーマンは、
全千島をソ連軍の担当とすることを認める一方、
北海道占領は拒絶する返信をした。
ヤルタ協定で千島列島をソ連に引き渡すことを取り決めている以上、拒絶することは困難であった。

 

在留日本人

ソ連は在留日本人の送還にはまったく興味を示さなかった。
反面、在留邦人に対して
ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与えた。
実生活の面では大きな違いはほとんどなかった。
学校も、神社も、日本人の習慣に対して寛容であった。
ロシア人の間では、日本人がソ連国民になると見ていたようで、
多民族国家であるソ連にとって、とくに日本人を外国人扱いして排除する必要性もなかった。
樺太は米を生産できなかったので、ソ連は満州や北朝鮮から、米や大豆を移入し日本人へ配給した。

 

「引揚」

米国は、占領地や植民地に在住する日本人を本国へ送還することにこだわっていたが、
ソ連は逆に日本人の送還に無関心であった。
しかし日本人は、日本への引揚を望み、日本政府もGHQに促進を働き掛けた。
1949年7月の第五次引揚までに292.550人が引揚げた。
共産主義国家ソ連の内実を実体験を通じてもっとも知っていたのは彼らだった。
しかし彼らの生活者の目線は、戦後日本社会で理解されることはなかった。
樺太には敗戦時に約23.500人にのぼる朝鮮人がいた。
ソ連は国交を結んでいる北朝鮮への帰国は認めていた。
しかし彼らの多くは南朝鮮出身者であり、韓国への帰国を希望した。
彼らの多くは帰国できず、
1990年の韓ソ国交樹立まで待たねばならなかった。

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「生ききる。」と「アーロン収容所」

2022年08月16日 | 昭和20年(戦後)

会田教授はアーロン収容所から復員中に、

日本に帰れば、すくなくとも将官だった人は全員、

逮捕されるか、自ら責任を取って死んでいるだろうと予想し、その予想がはずれていたことに驚いたことを記している。

 

戦争責任については、父も似たようなことを言っていた記憶が強い。

 

・・・・

 

「生ききる。」 瀬戸内寂聴・梅原猛 角川学芸出版 2011年発行


梅原
昭和20年4月、京大の入学式が終わって家に帰ると召集令状が来ていました。
もし、広島や長崎の原爆投下がなかったら、軍部は本土決戦を決行し、私自身も戦死していたと思う。
戦争が終わった時に、ないものと思っていた自分の命が助かったのですから、敗戦は決してショックではなかった。
むしろ未来が開けたという喜びの方が強かった。
私は、「鎮魂の森」のようなものを作るべきじゃないかな。国の施設として。
多くの人が死んだけど、大変な犠牲があったけど、もう二度とこんなひどい目には遭わせないという、そういうことを確認できる場所を作るべきじゃないかと思います。

瀬戸内
北京で終戦を迎えた時、私は「殺される」と思いました。
だってそれまで日本人は中国人に対して占領軍の立場で威張りくさってほんとにひどいことをしていたわけですから。
夫が現地召集で出征し、まだ生後一年経たない赤ん坊を残されました。
「もう殺される」と戸を閉めて閉じこもったんですけど、そうっと朝、
戸を開けてみると、壁に赤い紙がぺたぺた貼ってある。
それに「仇を報いるに恩をもってす」と書いてある。
時の中国軍は蒋介石がトップです。
ああ、こんな国と戦っても負けるの当たり前だと思ったんです。


・・・・

・・・・


「アーロン収容所」 会田雄次著  中公新書 昭和37年発行
戦後の犠牲

日本陸軍の主計部ほど奇妙な官僚主義にとらわれた組織も珍しい。
糧秣廠も、被服廠も「集積」するためにあるので、「支給」する場所ではなさそうだ。
支給してしまうといかにも係が能力がないように見え、司令部からしかられる。
そういう根性であろう。
私たちの靴がなくなろうが、衣類がボロボロになろうが、めったに支給してくれなかった。
そしてその集積品の多くの場合、敵の砲火で灰になってしまうのであった。

私の場合でいうと、二年間のビルマ戦線生活で、何かを配給されたのは、ごくはじめの昭和19年夏以前をのぞくと一切なかった。
食糧は全部徴発、つまり掠奪したり物々交換したりした。
シャツ、靴、飯盒、水筒、地下足袋、小銃、帯皮、天幕、背嚢、みなボロボロで使えなくなってしまった。
いま持っているものは、
すべて前線でひろったり、戦死者のものをみなで分けあったりしたものばかりである。
それが終戦の今となって支給するというのである。
靴などどうしていまごろ支給するのだろう。
すこしまえに分けてくれれば死なずにすんだ男もいたのだ。

初年兵の吉村は、和歌山の高商を出たという快活な青年で、一年ぶりに会った。
会ったとき「君に読ましたい本を持っているんだ。帰ったらたずねて行くよ。」
とうれしそうに言っていた。・・・・

吉村は無頓着にザブリと河のなかにふみこんだ。
やや無造作に、しかし確実に十歩ほど前進した吉村は急にうごかなくなった。
川はそのたりで急に深くなっているらしく、乳のところまで濁流がうずまいている。
吉村は必死に鋼線をにぎって水圧をこらえていたが、あっというまに足が浮いてあお向けになった。
そのとき私たちをじっと見た目はいまも忘れられない。
それは声にもならず、懸命に救いを求める絶望的な目であった。
次の瞬間、吉村の手がはなれ、水中に没してしまった。

二時間以上おくれ、やっと全員寺に着いたとき、先着のM班長は食事の準備もしていてくれたのである。
骨の髄まで冷えこんだ私たちには、腹にしみ入るほどのうまさである。
兵隊たちはもう衣類をかわかして元気にはしゃいでいる。
死んだ人間のことを思うより、今度もまた、自分は助かった、という喜びの方がはるかに強いのである。
もっとも親しい友を失った私でもおなじことである。

せめてここに一筆をしるして、おわびと思い出にしたい。

・・・・・


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ゼロの文学

2022年05月07日 | 昭和20年(戦後)
軍国主義におもねれば別だが、
作家にとって表現の自由を奪われたら、その時点で作家は成り立たない。
岡山に疎開していた永井荷風が、
終戦翌日の日記に記した”月佳なり”には新時代への期待や解放間がよく出ている。





ゼロの文学


新聞は戦争記事でうまった。
男は国民服とゲートルをつけ、
女性はモンペをはくことになった。
そんななかで作家たちだけが自由を主張することはできない。

徳田秋声の傑作『縮図』は、芸者に身を売った女の半生を軸とした小説であったが、
時局をわきまえぬものとして新聞に連載中、中絶、作者は昭和18年に死んだ。
谷崎潤一郎の『細雪』は中央公論に発表されたが、ただちに禁止された。
永井荷風の『踊り子』は、発表の可能性のないまま、ひそかに書きつづけられた。

・・・

昭和20年8月15日戦争は終わった。
文学の自由は復権した。
荷風・白鳥・潤一郎らの老大家がまず復活し
執筆不能の状態にあった中野重治・佐多稲子・宮本百合子ら旧プロレタリア文学の流れが動き始め、
野間宏・椎名鱗三・武田泰淳・三島由紀夫の戦後派、
坂口安吾・石川淳・太宰治・織田作之助などの新戯作家といわれる人たちが登場し、文学は何十年かぶりで、その自由をかくとくした。


太平洋戦争下の約5年、そこには「芸術の名においても」また「人間の名においても」文学と呼ばれるものはなかった。
それは「ゼロの文学」だったのである。
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行



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岡山市に疎開していた荷風の終戦翌日の日記は、これからの日々に自由や希望があふれ出ている。

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「荷風を追って」--1945夏・岡山の80日  三ツ木茂  山陽新聞社 2017年発行

この日、東久邇宮に大命は下った。
荷風は筆をとり、元中央公論社社長の嶋中雄作に手紙を書き、
岡山県勝山町の谷崎潤一郎にも礼状を認めた。
この夜の月がおそらく最も輝いていたであろう。


(昭和20年)
 八月十六日(木)
晴、郵書を奈良県生駒郡法隆寺村に避難せる嶋中雄作に寄す、
また礼状を勝山に送る。月佳なり。



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公文書焼却

2022年05月05日 | 昭和20年(戦後)

・・・・・・・

「遊行日記」  立松和平  勉誠出版  2010年発行


部隊が長い貨車で満州の荒野を移動中、敗戦を知った。
天皇が連合軍に敗戦を受けいれたことをラジオの玉音放送で全国民に告げたのだという。
新京駅構内は、行き先を失った軍事列車でいっぱいであった。
軍の機密書類をあわてて焼却する煙があっちからもこっちからも立ち、
兵たちが忙しそうに働いていた。
 
・・・・

小隊のこれまでの軍事行動を克明に記録し、
それをもとに軍隊手帳にガラスペンに墨汁をつけて転記した資料を、
大切に保管して守ってきたのだ。
だがこれを燃やせという命令が発せられた。
もしなくしたら軍法会議行と思って、命に換えて守り通してきたのである。
「副官殿、これを燃やしていいでありますか」
こう聞くと、すぐに命令が返ってきた。
「それは燃やせ」
火の中に、行李を開けて中の書類を放ち捨てると、火の勢いはいよいよ強くなった。
大切に守ってきた軍籍関係の書類は、あっけなく煙となって消えた。


・・・・・

海軍経理部にいた橋田壽賀子の終戦時の体験談。



空襲・終戦・いさぎよく死のう   橋田壽賀子

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行


とにかくアメリカ兵が進駐してくる前に、重要書類を焼却せよという命令で、
その日から、私たち下っ端職員は、総動員で書類を庭へ運び出し、
三日三晩ほとんど寝ずに燃した。
ギラギラと灼きつくような太陽の下を、重い書類を抱えて庭を往復し、
目は煙で真っ赤に腫れあがった。
頭の中は真空状態で、なにも考えられなかった。
ただ、アメリカ兵がやってきたときは、いさぎよく死のうと覚悟を決めていたから、
肉体的な苦しみにも耐えられたのではないかと思う。




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